甲斐の歴史

武田信虎について追記しました ⇒ こちら

最終更新日:2023年7月31日

  

古墳時代初頭の甲斐の様相

 山梨県は縄文遺跡の宝庫として著名ですが、甲府盆地では弥生時代前期から中期にかけての遺跡は少ないです。ところが、弥生時代も終わりに差し掛かった頃、静岡県の天竜川以東地域から相模湾西部地域に勢力を張っていた帯縄文土器群の集団が山を越えて曽根丘陵や峡西地域に進出してきました。その集団が築造したのが上の平周溝墓群です。

上の平周溝墓群

 甲斐には、上述の勢力以外にも他の地域からの人びとの流入がありました。例えば、上の平遺跡の方形周溝墓は大部分が隅の一か所に陸橋を残すタイプですが、すぐ近くの立石遺跡の第9号方形周溝墓の周溝は一辺のほぼ中央に陸橋を設け、狭間Ⅱ期からⅢ期への移行過程の垂下口縁壺(パレススタイル壷)が出土したこともあり、こちらは濃尾勢力でしょう(『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第110集 立石・宮の上遺跡』山梨県教育委員会/編)。

 また、甲府盆地北部の八ヶ岳山麓には信濃地方から櫛描文土器群を使用する人びとがやってきて一つの地域勢力を形成しました。彼らは朝鮮半島との交易ルートを持つ人々であることが墓の副葬品から分かります。

 このように、古墳時代幕開け時の甲斐は、さまざまな出自を持った勢力が入り乱れた様相を呈しており、まだ「甲斐」という一つの文化地域を形成するには至っていませんでした。

 

甲斐の古墳時代

 ここで甲斐の古墳編年を示します。

『帝京大学文化財研究所研究報告第19集』所収「山梨県笛吹市亀塚古墳の研究」(櫛原功一/著・2020年)より転載

 甲斐では、3世紀後半の前方後方墳・小平沢古墳の登場によって古墳時代の幕が上がったと考えるのが一般的です。

甲府市・小平沢古墳

 ところが、近年では上図で白抜きになっていて築造時期が確実に決まっていない亀甲塚古墳が注目されています。

笛吹市・亀甲塚古墳

 亀甲塚古墳は現状では円墳に見えますが、その名前が示しているとおり、元々は前方後円墳であった可能性が高いです。そしてその築造時期が上図の通りであったとしたら、甲府盆地には早くから中道地域以外にも、後の岡銚子塚古墳に繋がる勢力が発生していたことになります。

 上の表からも分かる通り、甲府盆地では4世紀後半まで方形周溝墓の築造も続いており、前期の支配者層は方形周溝墓を築造していたことが分かります。

山梨県立考古博物館にて撮影

 こちらは山梨県立考古博物館に展示してある甲府市千塚の榎田遺跡(甲府駅の北西約3.5㎞)出土のS字甕です。榎田遺跡では、陸橋が一辺の中央にあるタイプの方形周溝墓が見つかっており(1号墓)、このようなS字甕が出土しています。

 S字甕は東海勢力かもしくはその影響を受けた人びとが作った土器で、この形式はおそらく古墳時代前期前半のころのものです。S字甕は甲府盆地の遺跡からはよく見つかります。

 龍王・甲府周辺では、後期から終末期にかけて古墳の造営が盛んになります。

 

中世の甲斐

 新羅三郎義光の次男・義清は、常陸国勝田郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に入部して、地名を取って武田冠者と称しました。この義清の後裔に戦国大名・武田信玄が現れます。義清が武田冠者を名乗ったことにより、武田という苗字は、山梨県の地名から取ったのではなく、これがルーツとする説があります。

 大治5年(1130)、義清の子・清光は、「乱暴」を働いたために常陸国司によって朝廷に訴えられ、それにより父子ともども甲斐国市河荘(山梨県市川三郷町)に配流されました。国司に訴えられたということは相当酷い「乱暴」をしたのでしょう。

 ただしその後、父子は市河荘の荘官になっています。荘官というのは、荘園の現地管理者のことで、武力を持った武士にとっては最適な職業です。

 義清の跡は清光が継ぎました。清光は逸見荘に移住し、逸見冠者と称し、北杜市に谷戸城を築きました。

縄文晩期の金生遺跡から八ヶ岳を見たときの右手側の森が谷戸城跡
金生遺跡といえば縄文晩期のこの中空土偶(北杜市考古資料館にて撮影)

 清光の跡は信義が継ぎました。信義が惣領であったころは平家の全盛期でしたが、清盛死後、打倒平家を目論む以仁王の令旨が東国へもたらされました。源頼朝はこれがトリガーとなって挙兵しますが、信義ら甲斐源氏もそれに遅れじと行動を開始します。信義は当初は頼朝とは別勢力として始動したのですが、結局頼朝の配下に加わることになり、良いように使われた末、疑われて冷遇されます。信義の居城と伝わるのが韮崎市の白山城跡です。

白山城跡

 ただし、現在見られる遺構は戦国期の最終形態のものと思われ、普通は平安時代末にはこのような山城は造りません。

白山城跡の現地説明板

 信義が亡くなった年は不明ですが、吾妻鑑に最後に登場するのは建久5年(1194)11月です。墓は、韮崎市の願成寺境内にあります。

武田義信の墓

 武田家の系図については手元に良いものがないので、ちゃんと用意できるまで、とりあえず新府城跡の説明板を掲載しておきます。

新府城跡の現地説明板

 宝徳2年(1450)、穴山伊豆守が小石和の武田信重の館を攻める事件が発生しました。

 穴山家というと、武田信玄に仕えて、のちに信長に降り、本能寺の変後の混乱で殺害された梅雪信君が有名ですが、信君に至る系譜は以下のようになります。

 義武 = 満春 = 信介 - 信懸 - 信風 - 信友 - 信君

 一方、武田家の系譜は上図の通りですが、信春の子・満春は、穴山家に養子に入り家督を継ぎました。

 満春の次はこれまた武田信重の子である信介が養子として入り穴山家を継ぎました。

 事件を巻き起こした穴山伊豆守(実名不詳)は、穴山満春の実子だったと言われており、自分を無視して養子の信介が穴山家を継いだことに腹を立てて、信介の実父である武田信重を攻撃して敗死させたといわれています。この穴山伊豆守の居城だったと言われているのが、笛吹市の小山城です。

小山城跡

 現状見る限りでは、丘の上に立地する100m四方程度の単郭の城で、四角い郭の周囲を土塁と空堀がめぐっているだけの極めて単純な構造です。土塁はかなり高さがあるのですが、これは近世の改修で、穴山氏が在城していた頃は、城というよりは館といった様相だったと考えられます。

 この小山城はその後、16世紀の初めころには伊豆守信永が居城しており、大永3年(1523)に南部下野守が鳥坂峠を越えて進軍してきた際に、花鳥山で合戦に及んでいます(縄文時代の花鳥山遺跡のすぐ近く)。そこで打ち負けた信永は、この小山城に籠城しましたが、ここも支えきれず、二ノ宮常楽寺へ走り、そこで自害して果てました。

 なお、小山城はその後、南部下野守が保持し、天文17年(1548)に武田晴信(信玄)によって廃城の憂き目にあいました。ちなみに甲斐の南部氏というのは、江戸時代に盛岡を首府にして20万石を誇った南部藩の本家なのですが、身延町や南部町周辺が本貫地で、南部実長は自領に日蓮を招いて身延山久遠寺の開基となっています。

身延山久遠寺

 南部氏は戦国時代まで武田氏と争っていたわけですが、川中島の戦いの際の武田勢の布陣図を見ると、「南部下野守」とあるので、その頃には武田軍団を構成する一方の将として活躍しています。

 ところで、話はかなり脱線しますが、先に信春という人物が出てきました。彼の娘は、甲斐武田家氏の分流である安芸武田氏の第3代・信繁に嫁いでおり、その子・信賢(のぶかた)は、若狭国守護として若狭国小浜に入部しています。北海道の歴史のページにて、長禄元年(1457)5月に勃発した「コシャマインの戦い」について述べていますが、コシャマインらを鎮圧した武田信広は、自称「信賢の子で若狭守護の跡取り」です。

武田信広が築城した勝山館(北海道上ノ国町)

 信広の出自はあくまでも自称ですから、本当のことは分かりませんが、甲斐武田氏に繋がる人物が北海道でアイヌと戦って道南の支配者となったのが事実としたら、これはこれで面白い話だと思います。

 

 

武田信虎

 武田信虎は、その子信玄に追い出されて、信玄の方が人気があるために暴君として喧伝されています。妊婦の腹を裂いて赤子を見たりとか、そういう類の所業を行ったとされています。実際のところは分かりません。ただし、甲斐を統一したのは信虎ですし、傑物であったことは間違いないでしょう。

 甲府駅南口には信玄の像があって甲府駅のシンボルとなっていますが、反対側の北口には比較的最近、信虎の銅像が建立されました。

甲府駅北口の信虎像

 私的には信虎をもっと評価すべきだと思っており、初めて銅像を見た時は感動したものです。

甲府駅北口の信虎像
甲府駅南口の信玄像

 信虎の墓は、甲府市内の大泉寺にあります。

武田信虎の墓
武田信虎の墓の説明板

 説明板にも記されている通り、駿河に追い出された後、各地を流浪し、一時は将軍の近くにもいました。信玄は、元亀4年(1573)4月12日に53歳で没しましたが、信虎はその翌年の天正2年(1574)3月5日に亡くなっています。享年81ですから長寿を全うしたと言ってよいでしょうが、生年に関しては異説もあります。

大泉寺
大泉寺説明板

 説明板には、信虎の肖像画のことが記されていますが、あの有名な肖像画です(ググればでてきます)。上の銅像の元になったと思われるちょっと怖い風貌の肖像画ですね。描いたのは息子の信廉(のぶかど)で、信玄の三弟です。信廉は兄たちと違ってあんまり戦いは得意じゃなかったようですが、絵の才能があっていくつか作品を残しています。

 武田氏は代々、甲斐国守護に任じられてきました。室町幕府から任命された守護は守護所において一国の政治を司ります。律令時代で言えば甲斐守、現代で言えば山梨県知事ですね。

 信虎が信縄から家督を継いだ時点では、甲斐国の守護所は石和館(甲府市川田町・笛吹市石和町)でしたが、『高白斎記』によれば、信虎は、永正16年(1519)8月15日に躑躅ヶ崎(つづじがさき)館の築造着手の鍬立式を行いました(この日、伊勢宗瑞死去)。12月20日は、大井夫人が新館へ移り、家臣も集住し、城下町が整備されました。躑躅ヶ崎館は武田神社がある場所で、遺跡としては、武田氏館跡と呼ばれています。

武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

 甲府というのは、甲斐国の府(行政的拠点)という意味ですが、呼び名のルーツは律令時代の甲斐国府です。律令時代からかなり時間が経過した戦国時代でも、あいかわらず律令時代と同様な呼び名が生きていたわけですが、甲府市内に甲斐国府が置かれた史実はなく、甲府は信虎によって新たに行政府が開かれた町です。

 武田氏館跡の東側にある山の突端部分が「躑躅ヶ崎」と呼ばれており、それが館のニックネームの由来です。

 現在武田氏館跡にある武田神社は、山梨県民(とくに甲府市民)の心の拠り所的な存在になっています。大正時代に信玄を祭神として、地元民たちの信玄への篤い信仰心の元建立された神社です。

武田神社

 武田氏館跡で現在見ることのできる遺構は、近世になって改修された最終形態ですから、それをそのまま武田氏時代のものと見てはいけません。

 躑躅ヶ崎館は防御力が低かったため、その北東側約2㎞の場所にある要害山に詰の城を築き、いざというときはそちらに籠って戦う仕組みになっていました。そちらは要害山城や要害城と呼ばれています。

要害山城跡

 正面から登っていくとそんなに面白い山城ではなく、ところどころ見える石積みのほとんどは新しいものです。ただし、搦め手の遺構は結構エグく、そちらで戦国期の石積みを確認することができますので、本丸まで行って万歳して引き返すのではなく、もう少し頑張って奥まで行ってみましょう。ただし、クマに注意です。

 なお、戦国時代は、城のことを要害と呼ぶことも多いです。要害山とは城山のことですね。ですから、要害山に敢えて「城」を付けて呼ぶのは元来おかしいのです。古墳時代の塚に「古墳」を付けて呼ぶのも私は実は好きじゃない。

 大永元年(1521)、信虎は甲斐国統一のために各地で戦っており、要害山城にて嫡男・晴信(のちの信玄)が産まれました。城の麓にある積翠寺(せきすいじ)では、晴信は積翠寺で誕生したと言われています。

積翠寺

 晴信誕生時、信虎はまだ18歳です。若いお父さんですね。妻の大井夫人は一つの上の19歳。でも大井夫人は17歳の時にすでに長女の定恵院(じょうけいいん)を生んでいます。定恵院は今川義元に嫁いで氏真を生みましたので、信玄にとって氏真は甥にあたるのです。

 

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