2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2021年8月21日に投稿した記事です。
2018年10月1日(月)の探訪レポート
⇒【gooブログから】備中国分寺跡|岡山県総社市 【備前・備中古代史探訪 ⑯】
途中、いろいろな史跡に引っ掛かりながら、ようやく作山古墳の近くまでやってきました。

さきほどの国分寺の塔と同じく、逆光になってしまった・・・
この場所からも国分寺の塔は望見できますよ。

時刻は17時半になろうかというところです。
今日は吉備に来ているので、東京よりも日の入りは遅いです。
そのため、まだギリギリ探訪できますね。
ただ、それよりか、今日は20時までに広島駅前でレンタカーを返却しないといけないので、むしろそのためにも急いで作山古墳を見ようと思います。
とりあえず、墳頂に登れればいいやというスタンスでいいかな。
作山古墳もちゃんと駐車場があり、トイレもあります。
もちろん説明板もあります。

全国で4番目に大きい造山古墳もこちらの作山古墳も、両者とも「つくりやま」と呼ばれているので、発音で区別する場合は、こちらは「さくざんこふん」と呼びます。
墳丘長282mの巨大古墳で、後円部の直径も前方部の幅も174mで揃えてあります。
5世紀中葉の築造と考えられていますが、古墳時代の全時代を通じても大きさでは10位にランクインしています。

古墳の西側の風景。

前方部に登り口が付いていますね。

登ってみましょう。

前方部墳頂に上がり、後円部を見ます。


後円部墳頂まで来ました。

前方部を見ます。

元来た道を戻ります。

墳丘を詳細に見て回る心の余裕がありません。



とりあえず、今日はこんな感じでいいでしょう。
なお、本日の車はこちらです。

史跡めぐりの際にはよくお世話になるトヨタのヴィッツです。
最初は軽自動車を借りようと思ったのですが、すでに残っておらずヴィッツになりました。
軽ではないものの小さいので史跡めぐりには適した車ですよ。
あ、猫ちん!

明らかに警戒されている!

逃げられた!

おっと、猫ちんと遊んでいる場合じゃありませんね。
これから広島へ向かいます。
全然土地勘がないので、ナヴィがないとどうにもなりませんね。
倉敷ICから乗り、生まれて初めて山陽道を運転します。
山陽道というと古代の場合は全国の道路の中で最も整備された道でした。
というのも、外国の使者が九州方面から都を目指すときに通るのが山陽道ですから、国家の威信をかけて立派な道路にしていたわけです。
でも今は片側2車線の普通の高速道路ですね。
むしろ、東北道の方が立派。
それはそれとして、私は東京のドライヴァーより、畿内のドライヴァーの方が運転が荒いと思っていますが、山陽道の場合は畿内に近いせいかトラックが結構エグイですね。
かなり危険な割り込みを平気でしてくるトラックがあまりにも多い。
しかもハザードを点滅させない。
まあ、私も他人のことは言えた口ではないかもしれませんが、もし割り込んじゃったかな、と思ったときはきちんと「済まん!」という意味でハザードを点滅させますよ。
しかし、倉敷から広島って結構ありますね。
結局、1時間半くらい高速を走り、19時半に無事に車を返却。
あー、お腹すいたー・・・
ということで、ホテルに荷物を置き、たまたま見かけたラーメン屋に入ってみます。

まずはビール。

ひゃー、美味い・・・
お、ラーメンも美味しそう。

スープは豚骨も鶏ガラもバランスよく入っていてコッテリしていますが、煮干しが一番強いかな。
私は煮干しが好きですから、とても美味いです。
さらに、八王子ラーメンと同じで刻み玉ねぎが入っているのがまた良いですね。
とても美味しいラーメンで一日を締めくくることができて、今日は朝から大変な目に会いましたが結果オーライでとても良い日でした。
⇒【gooブログから】安芸国総社跡|広島県府中町 【安芸・備後古代史探訪 ①】
2021年8月19日(木)の探訪レポート
3年前に来たときは、その日の探訪の一番最後が作山古墳で、レンタカー屋さんが閉店するまでに広島に行かなければいけないプレッシャーもあり、墳丘に急いで登ってすぐに降りてくる程度しか見ていません。
そのため今日は前回よりもちゃんと見てみようと思います。
見覚えのある駐車場に着きました。
この駐車場まで大型バスで来ることは不可能ですが、駐車場内はそれなりに広くてトイレもあります。
日本遺産になったため、3年前には無かった説明板がありますよ。

これは以前からある説明板。

面白いことに周溝がなく、「巨大な墳丘のわりには端整さを欠く面もある」という評価に関しては、確かにそうかもしれませんが、後述するようにこの古墳にしかない独特な要素も持っています。
墳丘に並んでいた円筒埴輪は、昨日訪れた総社市埋文学習の館にありました。

埴輪は、想定では5000本以上は並んでいたとされています。

墳丘図。

前方部、後円部ともに3段で、北側のみに造出があり、後円部先端には1段目よりも低い平場がありますが、それは「作山段」と呼ばれており、この古墳の独特な構造です。
また、造出に並ぶようにその西側に方形突出部があり、それもこの古墳独自のもの。
もともとの独立丘を利用した地山造り出しの古墳ですが、余ってしまった前方部外側部分の山を潰さずにそのまま残しているというのも面白いです。
でも、その残した山は三角形をしており、何かの使用目的があってわざと残したのではないでしょうか。
残した部分の丘は道路の右側部分。

昨日探訪した総社埋文学習の館に展示してあった模型を見てみるともっと分かりやすいでしょう。

結構墳丘法面の傾斜が急に見えます。

付近の案内図。

では行きますよ。
前方部コーナーのもっとも傾斜の緩い部分に自然に道ができているのが分かります。

でも傾斜がきつくて足場が悪い場所もあるので、降りるときはとくに注意してください。
1段上がり、テラス部分に来ました。

前方部底辺側のテラスを見るとかなり広いのが分かります。

先ほど確認した模型を見てみると分かりやすいです。
後期の古墳になると、例えば栃木県内では「下野型」と呼ばれるテラスの広い古墳が造られますし、福岡県北部最大の八女市の岩戸山古墳もテラスが広いです。
一説には土の量を減らしつつ、横から見た大きさを強調する工夫ともいわれていますが、作山古墳はまだ中期半ば(5世紀半ば)の古墳ですし、そもそも作山古墳は地山造り出しの古墳ですから、土量は気にする必要はないですね。
後円部方向を見ると、あまりもの巨大さのため、くびれ部分や後円部がかなり遠くに見えます。

さらにもう1段上がりました。

そして前方部墳頂に来ましたよ。

この先にはまだダラダラと丘が続いています。

そういえば、3年前に来たときは、何を勘違いしたのか、ここを後円部だと思って、この奥のダラダラ続く丘は見ているのにも関わらず奥まで行かず引き上げていました。
既述した通り、早く広島に行かなければというプレッシャーからか、とんだ勘違いをしていましたよ。
前方部を登るときに、後円部がだいぶ先のほうにあることを前回も見たと思いますし、そもそも282mもの巨大古墳ですからここで終わりなわけがないですね。
ダラダラ続く丘は墳丘の続きであることに今日気づきました。
さらに奥まで歩いていくと土の高まりが現れました。
こちらが後円部ですね。

ちゃんと説明板もあるじゃん!

自分の誤りに気づいてよかった・・・

説明板はかなり滅亡に瀕しており読みにくくなっています。


登れる古墳としたら国内で3番目の大きさですが、2番目の墳丘長330mの五条野丸山古墳(全国6位)は後円部が宮内庁管理となっており前方部しか登れないため、後円部墳頂まで登れる古墳としたら、作山古墳は日本で2番目です。
もしゃもしゃですが。

主体部は調査していませんが竪穴系のはずです。
そしてなんと、盗掘の形跡がないらしいのです。
いつか、非破壊検査技術が向上したら確認できる日が来るでしょう。
後円部から麓の集落を見下ろすとかなりの高さがあることが分かります。

後円部墳頂から前方部側を見ます。

後円部を降りて後円部を振り返る。

墳丘長が282mもあるということは、当然ながら横幅も凄いですから、全幅を目視確認することも困難です。

冬に来ればもっとちゃんと見えるかもしれませんが、まあとにかく大きな古墳ですね。
テラスが広いためもしゃもしゃでも段築は確認できます。

これだけ大きいと美容院に行くのも大変です。
前方部の端まで戻ってきて後円部側を見ます。

前方部を降りますが、既述した通り下りはとくに気を付けましょう。

いやー、でかい古墳でしたね。
ところで、編年上は作山古墳の一代前は造山古墳となり、造山は墳丘長350mという超巨大古墳ですから、それと比べると作山古墳は規模が縮小され、吉備勢力凋落の兆しを示していると言われることが多いです。
ただ、日本書紀の記述と照らし合わせると、雄略天皇によって吉備勢力の勢力削減が図られるのは5世紀後半で、この作山の被葬者よりも後の人物となります。
282mというのは事実として超巨大で、同じ時代の古墳としては依然として日本で2番目の大きさですから単純に大きさだけで判断するのはいかがなものでしょうか。
もちろん時代の流れ的にはヤマトの王とは相対的に権力の差が出てくるのは仕方がないですが、日本で2番目ですよ!
この事実を忘れてはいけません。
前方部の削り残しも、既述した通り、被葬者の権力不足(経済低下)によるものではないでしょう。
あれくらいの山を削るのは吉備の王の権力からすればチョロいはずです。
あの山はきっと意味があって残したものと考えています。
さて、次は時代を弥生末期まで遡り、宮山墳墓群へ行ってみましょう。
