最終更新日:2025年7月18日
今年(2025年)10月末には久しぶりに現地講座で吉野ヶ里遺跡に行ってきます。私的には今度行くと19回目になりますが、最後に行ったのは2021年3月ですから、久しぶりのこともあって非常に楽しみです。かつて顔馴染みだったガイドの方々にもまた会えるかもしれません。
さて、個人的には古代史初心者の方に行って欲しい三大遺跡として、縄文時代なら青森市の三内丸山遺跡、古墳時代なら埼玉県行田市の稲荷山古墳群、そして弥生時代なら吉野ヶ里遺跡をお勧めしています。すべて国指定特別史跡。この3か所に行けば、脱古代史初心者、とは言うつもりはありませんが、時間とお金に余裕があればぜひ行ってみてください。畿内の遺跡がありませんが、別に悪気はないです。
もちろん、初心者に行って欲しいと言っても、その人の知識の成熟度合いによっていつ行っても楽しいし勉強になる遺跡であることは言うまでもありません。
そんな吉野ヶ里遺跡に関しては、語り出すと非常に長くなりますので、今回は北墳丘墓について説明します。
全体図
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の幕開けと同時に集落が発生し、弥生前期のうちには環濠が形成され、中期には北墳丘墓が造られ、後期には最大規模となります。ちなみに、環濠集落終焉後の古墳時代にはなんと前方後方墳が4基も築造されました。
現在の吉野ヶ里遺跡は、国営の吉野ヶ里歴史公園になっており、後期の最盛期のころをイメージして整備されています。まずは全体図をご覧ください(写真はすべて拡大できます)。

車で行った場合、通常は上図左下の「入口ゾーン」と書かれている大規模な駐車場(東口駐車場)にとめて探訪を開始すると思います。大型バスもたくさん停まれる本当に大きな駐車場です。
なお、上図は右側が北ですので気を付けてください。
入場ゲートをくぐる前に歴史公園センターという建物があって、入口に向かって左側にはお土産屋さんとレストランがあり、展示室もあってたまに何かの展示をやっていたりします。右側には常設の展示室があります。トイレと自販機もあります。
レストランも美味しいので、ここでランチを食べることを前提に歩くプランを立てるといいですよ。私がクラツーで案内していた時は、9時の公園オープンと同時に歩き始めて、3時間半ほどかけて遺跡を案内して、12時半くらいにここのレストランで食事をするという行程でいつもやっていました。途中、休憩をはさみますが、意外と歩くのでビックリされたお客様もいらっしゃいました。
さて、入場ゲートをくぐると「天の浮橋」で田手川を渡ります。
吉野ヶ里遺跡は既述した通り環濠集落で、北側の背振山地から南に伸びた南北に長い丘陵上に構築されています。その東側を田手川が流れており、自然の水堀の役割を果たしています。
その後の私の案内ルートを上図に則って大雑把に説明すると、展示室で遺物などの展示を見たり図録を買ったりした後、南内郭に入り、櫓に上って眺望を楽しみます。雲仙普賢岳が見えることもありますし、往時は有明海も見えたはずです。
ついで、中のムラ、北内郭を見学し、北墳丘墓に至ります。北墳丘墓に関しては後述します。
そして、いったん環濠の外に出て少し歩き、倉と市に至り、南のムラ、祭壇を見学してスタート地点に戻りました。
弥生くらし館ではたまにイヴェントをやっていますが、クラツーで行ったときは寄っていません。
こんな感じで、歴史公園の一部分を歩くのに過ぎないのですが、3時間半くらいはかかってしまうわけです(さらにじっくり見学したり雰囲気を楽しみたい場合は1日必要です)。
なお、真夏は避けた方が無難です。
北墳丘墓
北墳丘墓は、弥生時代中期に築造された墳丘墓で、形状は隅丸長方形、大きさは南北40m×東西27m、高さは4.5mもあって土を盛って構築されています。

14基の甕棺が発見された墳丘内部は見学できるようになっています。

このように遺構が見られるようになっており、遺構面と甕棺は本物で、置かれている副葬品はレプリカです。

全体の配置はこの通り。

中期前半に築造された後、最初は中央の1006号甕棺が埋置されました。その後、約100年間に13名がおおよそ反時計回りに埋葬されていきましたが、正確な埋葬順は不明です。

北墳丘墓に埋葬された甕棺は、その他大勢の甕棺よりも一回り大きく、外側を黒色の顔料で塗った特別仕様です。

14基のうち後半に埋葬された1002号甕棺からは、国内で4例しかない有柄細形銅剣と79個のガラス管玉が見つかりました。


この北墳丘墓は、弥生時代後期には埋葬が行われなくなりましたが、後期にも祖霊を祭る対象として重要視されていたようです。
例えば、北墳丘墓は主軸を南北にとって構築されていますが、後期に構築された北内郭の主祭殿の主軸は、北墳丘墓の主軸の南側延長線上に合っています。そして、その間には祠堂と呼ばれている建築物や1本柱も建てられています(下図の「南北の聖なる軸線」参照)。

以上が北墳丘墓のあらましです。
北墳丘墓の面白さ
前項を読んで、古墳や墳丘墓に詳しい方は色々な興味深い点が浮かんできたと思います。
何よりも驚くべきこととして、弥生時代中期前半という早い時期に、40mもの長さの墳丘を築いていることで、しかも4.5mも土を盛っていることです。盛土の断面は、北墳丘墓内で見ることができます。

同じ弥生時代の墳丘を持つ墓としては方形周溝墓があり、畿内では弥生時代前期にはすでに登場しています。ただ、方形周溝墓にはそれほど盛土を高くする意図は見られません。
盛土を高くするのは後世の古墳です。古墳は山の尾根などに地山削り出しで造る際も、基本的には墳頂に盛土をして、そこを掘って主体部を造ります。弥生中期前半の開始時期を国立歴史民俗博物館の編年によって実年代で表すと紀元前4世紀後半に当たります。土を高く盛って墓を造るという発想が古墳築造よりも550年くらい前からあったのです。
列島各地の主な墳丘墓を示します。

左上が北墳丘墓ですが、弥生Ⅲ期からⅣ期の列に書かれており、これらの中では最古です。パッと見の大きさも他と比べて大きいことが分かると思います。
被葬者は、吉野ヶ里のクニの王たちでしょう。ただ、埋葬された14人が親族であるかどうかは分かりません。埋葬期間は約100年間ですから、全員が王であったとも考えられませんが、王は同時に複数人だったかもしれず、その場合は全員王かもしれません。
そのような政治システム(ソフト面)は考古遺物では分からないので想像の域を出ることはできませんが、吉野ヶ里遺跡とその周辺を版図としたこの地の支配者が眠る墓であることには間違いありません。
弥生時代後期になると吉野ヶ里遺跡の環濠集落はさらなる発展を示し、ちょうど卑弥呼の時代に最大となります。邪馬台国が吉野ヶ里遺跡である可能性もゼロではないのです。邪馬台国の所在地に関しては、私は色々な場所の可能性を考えてみるのが古代史の楽しみ方の一つだと考えています。
北墳丘墓のあとの弥生時代後期の王たちは、吉野ヶ里遺跡の外にある墳丘墓に葬られたと考えられ、その候補とされる墳丘墓はいくつかありますが、見学ができるようにはなっていないようです。
※2017年6月に初めて訪れた時の探訪レポートは、こちらにあります。
