2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年6月26日に投稿した記事です。
2019年1月23日(水)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】古海前原1号墳|群馬県大泉町 ~主体部が4層になっている珍しい古墳~ 【太日川・利根川流域古代史探訪 ⑦】
今日は早朝から板倉町、館林市、千代田町、大泉町の古墳を見ています。
つづいて太田市に来ました。
今まで太田市内の古墳もいくつか見ているのですが、今日はまだ見ていない古墳の中で可及的速やかに見ておかなければならないと勝手に思っている古墳を見ます。
まずは朝子塚古墳です。
横腹を見ます。

左(北西側)が後円部になります。
邪魔にならない場所に雷電號を停め、墳丘へ向かいます。
前方部側に来て、いつもの好きなアングルを確認。

それでは墳丘に取り付きます。
途中に段差があって2段築成に見えます。
前方部墳頂から後円部方向。

前方部は底辺があまり広がらないスレンダーな形状で、後円部径が65mなのに対し、前方部幅は48mで後円部径に比べて73.8%になっています。
面白いのは同じ「ちょうしづか」という名前が付けられている山梨県を代表する甲斐銚子塚古墳と形状が似ているところで、甲斐銚子塚古墳は墳丘長169mで後円部径は92m、前方部幅は68mとなり比率は73.9%です。

※甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市)
つまり両古墳は共通の設計思想によって造られた古墳の可能性が高く、甲斐朝子塚古墳が4世紀半ばの築造であるので、こちらの朝子塚古墳も同じころの築造と考えていいのではないでしょうか。
両者とも同じヤマトの王につながる地方の王ということになり、ヤマトの宮殿での行事の際に一緒に飲んだ仲かもしれませんよ。
北側の眺望。

前方部エッヂ部分。

くびれ部分から後円部方向を見ます。

鞍部は近所の人たちの道となっているようで、掘割状の通路になっています。

前方部を振り返ります。

鞍部。

つづいて後円部に行こうと思いますが、前方部と後円部の比高差が結構ありますよ。

前期古墳らしい比高差ですね。
結構急な斜面を登り後円部に来ました。
前方部方向を見ます。

あ、被葬者だ!

朝子塚古墳の被葬者はアフロでした。
北側の道路方面を見下ろします。

後円部墳頂には雷電神社がありました。

この辺は完全なる平野部ですから、雷様は昔から怖かったんですね。
関東平野ではたまに見られますが、古墳の墳頂は雷神様を祀るにはうってつけの場所です。
『群馬の古墳物語 上巻』によると、朝子塚古墳は昭和31年に群馬大学によって発掘調査がされており、後円部墳丘裾部分には裾を全周していたと思われる埴輪列の一部が見つかり、後円部墳頂の辺縁部分にも埴輪列が見つかりました。
さらに墳頂の南寄りの部分に9m×3.5mほどの長方形をかたちづくった埴輪列があったことが分かっています。
同書では長方形の埴輪列の大きさから想定してその直下に割竹形木棺を用いた主体部があり、さらに同様な主体部が北側にもあったとしており、その可能性は高いのではないでしょうか。
残念ながら昭和31年の調査以来、発掘調査がされていないようです。
雷電神社の参道が麓へ続いています。

下に降りてみましょう。
こちらに説明板がありましたね。


説明板では築造時期を4世紀末から5世紀初頭としていますが、既述した通り私は4世紀半ばだと考えています。
円筒埴輪が大量に出ているので、それを見れば時期を絞れると思うのですが。
また、円筒埴輪などの普通の埴輪以外にも底部穿孔壺が出ていますから古い古墳であることは間違いないです。

そういえば、いみじくも今私は「古い古墳」と言いましたが、古墳はただでさえ古いのに、「古い古墳」とか「新しい古墳」という言い回しをするのは面白いです。
6世紀末の前方後円墳をツアーで案内するときなどは、「これが最新型の前方後円墳です!」と紹介することがありますが、お客様が不思議そうな顔をしていることがあります。
前方部側に戻ってきました。

では引き続き、太田市内の気になる古墳をめぐって見ますよ。
⇒ 【gooブログから】塚廻り4号墳|群馬県太田市 ~墳丘の埴輪樹立の様子がほぼ完ぺきに再現された帆立貝形古墳~ 【太日川・利根川流域古代史探訪 ⑨】
