旧石器時代の歴史② 中期旧石器時代

最終更新日:2025年9月11日

旧石器時代の歴史① 前期旧石器時代

中期旧石器

 日本の中期旧石器を紹介する前に、海外の遺跡から出土した中期の旧石器をいくつかご紹介します。前期旧石器と同様、稀に各地の博物館に展示してあることがあります。

 例えば、宮城県多賀城市の東北歴史博物館には、韓国の佳月里遺跡で出土した8万年前のハンドアックス(握り斧)のレプリカを展示しています。左側の物は私の手では握れないと思われるくらいに大きいです。

韓国の佳月里遺跡出土レプリカ(東北歴史博物館にて撮影)

 

 実年代は分かりませんが、明大博物館にも中期旧石器である韓国の石壮里遺跡出土の石器の展示があります。

韓国の石壮里遺跡出土レプリカ(明大博物館にて撮影)

 

 こういった石器と日本列島から出土した中期旧石器とを比べてみましょう。

 

日本の中期旧石器時代遺跡の分布

 前期旧石器時代のページでも述べた通り、ホモサピエンス以前の日本人の足跡について一般向けに書かれた書籍としては、竹岡俊樹氏が著した『旧石器時代人の歴史』(講談社選書メチエ・2011年)があります。以降では、該書を要約した形で述べますが、正確な内容を知りたい場合は、同書をご自身でお読みいただくことをお勧めします。

 列島各地では数は少ないですが、ホモサピエンスではない人びとが作ったと考えられる石器がいくつか見つかっており、竹岡氏はそれらやホモサピエンスが作った石器をそれぞれ石器群として、A、B、Cの3種類に分類しています。

 まず、グループAですが、ホモサピエンスではない人びとが作った大型の石器群です。グループAの遺跡の多くは絶対年代が明確ではありませんが、前期旧石器時代文化とその伝統下にある文化の石器群であると竹岡氏は考えています。

 説明の都合上、グループBの前にCについて述べますが、Cは4万年前に大陸からやってきたホモサピエンスが作った石器群で、これを使った人びとは、私たちが旧石器時代の遺跡として馴染み深い環状ブロック群を形成します。

 グループCが日本列島にやってきたとき、すでにグループAの人びとがいたわけですが、Aの人びとはCの人びととの接触によって石器文化を変容させ消滅。AとCの両者の要素を合わせ持っているのがグループBです。

 これらの遺跡について、該書掲載の図を以下に示します。分かりやすいように、グループAは赤、Bは緑、Cは青で色付けしてみました。

『旧石器時代人の歴史』(竹岡俊樹/著・2011)より加筆転載

 これを見るとホモサピエンスではない人びとの遺跡が意外と多いことが分かります。また、AがCの影響によって変容したBの遺跡は、東京周辺に多いことも分かります。

 グループAの遺跡の中で前期旧石器時代にまでさかのぼる可能性がある遺跡は、旧石器時代の歴史① 前期旧石器時代で述べた通り、大分県の丹生遺跡のみです。

 

列島各地の中期旧石器遺跡

 それでは、列島各地の中期旧石器遺跡を見ていきますが、ここでは稲用が実際に訪れたことのある7か所の遺跡について紹介します。訪れたことのある、と言っても中には近くまで行っただけの遺跡もあります。

 


富山遺跡|山形県寒河江市

 東北最古の人類の足跡の可能性がある遺跡としては、山形県寒河江市の富山(とやま)遺跡があり、MIS5の間氷期(13万年前~11万年前)に形成された赤色土の中からチョッパーやチョッピングツールなどが見つかり、石器群全体の様相はアフリカから西ユーラシアに広く見られるアシュール文化とおよそ同じですが、あまり注目されていないようです。

遺跡近く

 

 私たちが訪れた時は、もろに現地に到達することはできませんでしたが、現地近くには説明板も何もありません。

 本遺跡は、竹岡俊樹氏や捏造事件の藤村新一が関連しており、詳細はこちらに記しておきましたのでご一読ください。

 


上屋地B遺跡|山形県飯豊町

 竹岡氏の図に「上屋地遺跡」と記されている遺跡で、富山遺跡と同じく山形県にある遺跡です。

 山形県立うきたむ考古資料館や国宝土偶「縄文の女神」がある山形県立博物館には、「中期旧石器時代」とキャプションされた上屋地B遺跡出土の遺物が展示されています。山形県立博物館に展示されている3点の石器は、石核という石器を作ったときの原石と両刃石器およびハンドアックスです。

上屋地B遺跡出土中期旧石器(山形県立博物館にて撮影)

 

 平成30年の調査報告書によると、上屋地B遺跡は、昭和43~44年に調査がされて、展示されている石器はそのとき見つかったもののようで、当時は芹沢長介さんも太鼓判を押して、かなり話題になったようです。

 でも、本当に中期なのかは懐疑的な研究者もいるようで、再調査して確かめようとしたのが平成30年の調査です。

 結果的には、昭和の発掘調査でこれらの石器が見つかった第6層からは人工物がみつからず、新たな中期旧石器の発見はありませんでした。その上の層から見つかったものは、後期です。昭和と現代では化学分析の技術が全然違うので、当時の資料があればそれを分析してはっきりするのですが、当時の資料はもうないようです。なお、藤村新一は、上屋地B遺跡には関わっていません。

 現地は、米沢駅から西へ50分ほど車を走らせた場所にあって、途中峠越えもあって、旧石器時代の遺跡にありがちな山深い自然豊かな場所です。下の写真の正面の森が平成の発掘調査現場で、説明板の姿が見えるのですが、周囲はすべて急崖で、そこにたどり着くことはできません。

 

 遺跡前の風景もとても美しい場所です。

 

 


砂原遺跡|島根県出雲市

 島根県出雲市にある遺跡で、12万年前の遺跡として紹介されることがありますが、上に掲載した竹岡氏の図には名前すらありません。竹岡氏は、後述する入口遺跡の礫器とともに、当遺跡から出土した礫器は明確な偽石器としています。

 ただし、松藤和人氏は本物とし、その著書『日本列島人類史の起源』の中で詳細に説明しています。

 なお、現地は「道の駅 キララ多伎」のはす向かいにありますが、説明板すらありません。

 


金取遺跡|岩手県遠野市

 金取(かねどり)遺跡は、岩手県遠野市にある遺跡で、9~8万年前の人類の足跡があるとして、東北における最古の遺跡として紹介されることがあります(でも実際は、上述の富山遺跡のほうが古いですね)。

この道路の向かって左側が遺跡

 

 遠野市の史跡に指定されおり、現地には説明板もあり、出土遺物は「遠野まちなか・ドキ・土器館」に展示されています。そのため、遠野市やる!といった好印象を受けます。

 

 地表下、0.1~1.5mに旧石器時代の文化層が3枚あり、上からⅡ、Ⅲ、Ⅳと命名されており、第Ⅳ文化層の包含層準付近で「Aso-4」の火山ガラスが検出されています。「Aso-4」は、約9万~8万5000年前の阿蘇の噴火で噴出されましたが、その層から、ホルンフェルス製のチョッピングツール、チャート製の剥片など計9点が多量の炭化物とともに検出されたのです。

第Ⅳ文化層出土のチョッピングツール(遠野まちなか・ドキ・土器館にて撮影)

 

 阿蘇は27万年前から9万年前まで大規模な火砕流を伴うカルデラ噴火を4回発生させ、「Aso-1」から「Aso-4」までナンバリングされています。

阿蘇の噴火(熊本博物館にて撮影)

 

 とくに、Aso-4の際の火砕流の噴出は凄まじく、約170㎞離れた山口市北東部の徳地町からもそれが見つかっており、火砕流の到達距離としては国内最長ということです。余談ですが、筑紫君磐井が造らせた墓である福岡県八女市の岩戸山古墳やその周辺の古墳に立てられていた石製表飾(石人石馬)は、Aso-4で生成された阿蘇溶結凝灰岩で造られており、この凝灰岩は九州の古墳時代について調べているとよくお目にかかります。

鶴見山古墳出土の石人(岩戸山歴史文化交流館にて撮影)

 

 話を金取遺跡に戻して、第Ⅳ文化層の直上の焼石岳村崎野軽石は資料として使えなかったのですが、その一つ上の層の焼石岳山形軽石をフィッション・トラック法で測定したところ8万2000年前と出ましたので、このクロスチェックにより、第Ⅳ文化層は、8万2000年前よりは古い層であることが確実です。

 石器造りに適した質の良い緻密なホルンフェルスは、第Ⅳ文化層には自然に含まれることはなく、また、チャートが存在する場所は最も近い場所でも30㎞も離れているため、人の手を介して運ばれたものと考えられるとして、松藤氏は人工品として疑問をさしはさむ余地はないとしていますが、竹岡氏は認めていません。

 ただし、第Ⅲ文化層から見つかった31点の石器については、ホモサピエンスが作るような刃部磨製石斧や台形石器は含まれず、その地層は6万年前と推定され、これに関しては竹岡氏も認めており、金取遺跡がホモサピエンス以前の遺跡であることに変わりはありません。

 


辻田遺跡|福岡県北九州市八幡西区

 北九州市の辻田遺跡からもAso-4の火砕流が堆積してできた鳥栖ローム層から石器が出土しています。

 旧石器時代の遺跡は辺鄙な山間部にあることも多いですが、辻田遺跡の場合は完全に住宅地として開発されており、見通しが悪くて当時の地形の様子も想像しづらい遺跡としては最も面白くないタイプです。

 弥生時代の遺跡でもあるので、弥生風な住宅が1軒立っています。

 

 出土した石器は、「北九州市立自然史・歴史博物館 いのちのたび博物館」に展示してあり鑑賞することができます。

北九州市立自然史・歴史博物館 いのちのたび博物館にて撮影

 


入口遺跡|長崎県平戸市

 入口(いりぐち)遺跡は、長崎県の平戸島に渡って車で少し走った場所(平戸市中山町)にあります。既述した早水台遺跡や丹生遺跡の発見は1960年代ですが、入口遺跡は1999年から発掘調査が始まった「新しい」遺跡です。そのため、まだ評価が固まっていないような印象を受けます。

 

 『日本列島人類史の起源』(松藤和人/著)によると、入口遺跡の基本層序は5層になっており、ATが第2層上位から検出されているため、そこより下は3万年前より昔です。第3層から瑪瑙製の礫器が出ました。

 第3層と第4層には瑪瑙の円礫が含まれますが、瑪瑙製の礫器が出土したのは第3層といってもその下部と第4層最上位で、その層には瑪瑙の円礫(自然石)は含まれていないため、礫器と見られるものは、自然の礫ではなく人工物です。土壌中の鉱物を用いた赤外光ルミネッサンス法年代では、第3層下部が9万年前、第4層が10万3000年前と測定され、遺物が見つかった第3層の黄色粘土は、ステージ4の氷期に形成された可能性が高く、その年代は7万1000年前から5万7000年前です。

 ということで、入口遺跡はホモサピエンスではない人びとが滞在した遺跡と言っていいはずですが、竹岡俊樹氏は前述書の中で、入口遺跡の礫器は明確な偽石器と述べており、したがって上図にもありません。いつものごとく、研究者間で意見が一致することは難しいようです。

 


沈目遺跡|熊本県熊本市

 熊本市にも竹岡氏がグループAとする遺跡があります。沈目(しずめ)遺跡です。

沈目遺跡はこの台地の上にある

 

 沈目遺跡に関しては、熊本市塚原歴史民俗資料館に遺物が展示してあります。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 

 そこに掲示してある「熊本日日新聞」の切り抜き(木崎康弘/著)を元に述べますと、沈目遺跡出土の石器の中でとくに注目すべきものが2種類あります。一つは「類ナイフ状石器」で、後期旧石器時代にはナイフ形石器と呼ばれるものが普及するのですが、それの原型とも呼べる石器であり、その後の後期旧石器時代への文化的な繋がりが見られます。

 もう一つは、縁辺部を鋸歯状に加工した削器(スクレイパー)で、削器という石器自体は後期旧石器時代や縄文時代にも作られるのですが、縁辺部を鋸歯状に加工するのは中期の特徴です。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 

 つまり、沈目遺跡から出土した石器を見ると、約4万年前くらいの中期から後期への移行期に存在した遺跡であることが分かるのです。『九州地方における洞穴遺跡の研究』によると、沈目遺跡の第6層から出土したこれらの石器群の特徴や組成、そして二次加工をする技術が、福井洞窟第15層の石器群と共通するといいます。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 

 福井洞窟第15層出土の石器は、現状では正確な年代は分からないものの間違いなく後期旧石器時代の開始期より新しいことは無く、それ以前の中期旧石器時代の可能性が高いとされており、それを合わせて考えてみても、沈目遺跡はホモサピエンスではない人びとの遺跡である可能性が高いと考えられます。

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