2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年5月23日に投稿した記事です。
2019年1月20日(日)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】御鷲山古墳|栃木県下野市 ~墳丘でまさかの生物と遭遇~ 【下野型古墳再訪 ⑦】
さっきは墳丘で想像だにしていなかった生物との出会いに驚きましたが、何が起きるか分からないのが人生です。
失脚してこちらに左遷させられた道鏡は、おそらく自分の境遇を呪うことなく、むしろ清々しい気持ちと切ない気持ちが入り混じった思いに満たされて下向してきたのではないかと私は思います。
なぜかというと、国家の最高権力者から愛され続け、その女性は死ぬまで道鏡を裏切らなかったからです。
その道鏡がやってきた下野薬師寺跡に私もやってきました。
正確には、下野薬師寺歴史館の駐車場に来ましたので、まずは歴史館の見学から行きたいと思います。

下野薬師寺についての事前知識はほとんどないので余計に楽しみです。

まずは下野薬師寺の概要ですね。

最初は下毛野氏一族の氏寺として建立された寺がなぜ国営の寺になったのでしょうか?
しかも戒壇が設けられるほどの寺ですから、地方豪族の寺がそうなるにはよっぽどの事情があったものと考えられます。
伽藍の変遷図は上の写真だと分かりづらいのでこちらに別に示します。

国の寺になったときには金堂と中門が回廊で結ばれて、その中に塔があったのが、Ⅲ期で塔を再建した時は回廊の外に出してしまいました。
みんな大好きジオラマ。

パネル展示の伽藍配置と違いますが、どうやら発掘調査が進んで新たな事実が分かったため、展示によって内容に違いが出てしまっているようです。
決定的な違いは、回廊と接続されていた大型建物は昔は講堂だと思われていたものが、その後の調査で金堂だと分かったことでしょうか。
金堂と講堂は発掘の時に間違えられるケースがあります。
航空写真との合成。

下野薬師寺は、Ⅱ期の天平宝字5年(761)に戒壇が設けられました。
奈良の東大寺と太宰府にある観世音寺とここ下野薬師寺で、国内を3つのエリアに分けてそれぞれ担当していたんですね。

戒壇のジオラマがありますが、下野薬師寺では戒壇跡は見つかっていません。


下野薬師寺に関連する遺跡マップ。

さきほど訪れた上神主・茂原官衙遺跡についてのパネル展示もありますよ。


上神主・茂原官衙遺跡から出土した瓦。


基壇の内部構造の図。

というわけで、つづいて実際の遺跡へ行ってみましょう。
遺跡は歴史館の隣にあります。

バーン!

説明が豊富ですね。

古代寺院も官衙遺跡も長きにわたって存続した場合は、どの時期のものをこういった史跡公園として整備するか決めないとなりませんが、下野薬師寺は奈良時代前半のときの様子を再現しているわけですね。
下野薬師寺の伽藍配置とその周辺の地形。


伽藍の外側の北方には前方後円墳がありますが、さきほど訪れた山羊さんのいる御鷲山古墳でしょう。

御鷲山古墳の説明があります。

こちらには墳丘長は82mとありますね。

こういうふうに見るかかなり立派だ。
回廊。

回廊は全周復元しているわけでなく、復元は一部で、ここのストレートラインは柱の位置が分かるようになっています。
倒壊した回廊についての説明。

倒壊時期は10世紀から11世紀のころということですが、普通考えたら老朽化していたところに大きな地震が襲ったとか、そういったことを想像できるものの、原因は不明ということです。
10世紀なら平将門の乱がありましたから兵乱のせいかなと思いましたが、その場合は同時に火災の跡がないとダメです。
説明には主要建物は焼失しているとあるので、戦いに巻き込まれたこともあったのでしょう。


一部復元されている回廊はこちら。


復元回廊から東側は何も復元されておらず、回廊に接続されていたと考えられていた講堂の説明があります。

ところがこれがややこしいのですが、既述した通り、ここの建物は講堂ではなく金堂だということがのちの調査で分かっています。



戒壇はこの六角堂の場所にあったと伝わっているようですが、考古学的には証明されていないようです。



あの土塁のようなものは何だ?

なんでしょうねえ。

しかしこうやって整備した後に、実際の伽藍配置と違ったことが分かっても、説明板などを作り直すのは結構な費用が掛かりますね。
このままだと見学に来た人たちが誤解するか、もしくは混乱してしまうと思いますが、野外の展示に簡易なものでも訂正を掲載していないということは、もしかしたら正確な伽藍配置については決定的なことが言えない段階なのでしょうか。
外部の人間としたら勝手に推測するしかありませんので、もし詳しい方がいらっしゃったら教えてください。
もし野外の説明板や歴史館の展示を大きく変更する必要が生じたら、古麻呂さんに匹敵するくらい中央政権で活躍する地元出身の議員さんの登場を待つしかないかもしれません。
そうすれば何とか予算が付くかも。

その下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)ですが、地方出身者でありながら中央で破格の出世をした人物として知られます。
『続日本紀』で古麻呂の経歴を追いかけていくと、生年は不詳ですが、大宝元年(701)にリリースされた大宝律令の編纂に参加しています。
律令の編纂に加わっているということは相当な知識人なわけですが、地方出身者でそれだけの学識があるということは、古麻呂がまだ故郷に居た折には、地元にいた相当すごい渡来系の人物から教育を受けたと想像できます。
大宝2年(702年) 5月21日には参議となり朝政に参画するようになり、元明天皇が即位した翌年(慶雲5年<708>)3月の人事では、従四位上の古麻呂は式部卿に叙せられます。
なお、この時点での台閣のトップは、正二位・左大臣の石上麻呂(69歳)で、ナンバーツーは同じく正二位で右大臣の藤原不比等(51歳)でした。
『公卿補任(くぎょうぶにん)』によると、和銅元年(708)7月10日に、正四位下大将軍に叙せられ、この「大将軍」という職も興味深く、もしかしたら元明天皇は古麻呂を蝦夷征討の責任者に任じるつもりだったのかもしれません。
ところが、古麻呂は和銅2年(709) 12月20日に卒去してしまいます。
この年の3月5日には、蝦夷征討軍が出陣していますが、古麻呂はそれに参加しておらず、もしかしたらこの頃からすでに体調が悪かったのかなと思ったりします。
古麻呂と下野薬師寺との結びつきを史料で証明することはできないのですが、のちに戒壇が設けられるほどの重要な寺となった下地には、古麻呂の中央政界での活躍があったことは想像に難くありません。

では、雷電號に戻って今度はしもつけ風土記の丘資料館へ行きますよ。
なんだこれは?

使われなくなった説明板が打ち捨てられているのでしょうか。



全部、安国寺関連じゃないですか。
何があったんでしょう・・・
それでは次に行きますよ。
⇒ 【gooブログから】しもつけ風土記の丘資料館|栃木県下野市 ~古墳についての展示がとくに充実~ 【下野型古墳再訪 ⑨】
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