2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年12月11日に投稿した記事です。
2015年11月4日(水)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】太田八幡山古墳|群馬県太田市 ~渡良瀬川流域の前期の前方後円墳~ 【足利・太田歴史探訪 ④】
金山城跡を出てガイダンス施設を見学し、途中お昼ご飯を食べに食堂に寄ったりしたため、太田天神山古墳の森が見えたときには時刻は14時45分となっていました。

でかいですねえ。
前方部のエッヂ部分に出てきました。

後円部方向、つまり長辺を眺めます。

エッヂ部分。

前方部底辺の周堀を見ます。

さて、この大きな古墳はどうやって見ればいいのでしょうか?
ひとまず後円部側へ行ってみましょう。
後円部側の県道2号線にやってきました。

後円部側の周堀。

先ほどいた前方部方面を見ますが、広いですねえ。

後円部墳丘の裾に来ました。

向こうには女体山古墳が見えます。

では、墳丘に取り付きます。
葺石だ。

太田天神山古墳は後円部も前方部も3段築成で、今でも段築の跡は明瞭に残っています。

県道を見下ろします。

後円部の先端部分は県道によって少し削られていますが、道路を造るときに墳丘の破壊が最小限に食い止められて良かったです。
後円部墳頂。

結構えぐられていて、盗掘された形跡なのでしょう。
墳丘は思っていたよりボコボコです。
後円部から前方部を見ると、左側に神社の社殿が見えて、神社を造ったときだと思いますが、かなりえぐられています。

前方部が細尾根のような形になっていますが、削り残された部分が往時のくびれ部分から前方部にかけての墳頂部分です。
しかし前方部の幅もかなり広がっておりダイナミックですよ。

鞍部あたりから後円部側を見ます。

さらに前方部側へ向かい、前方部側から後円部側を見ます。

前方部も損傷が激しく、まるで塚のようなものがあったり、神社へ向かうための道の形跡のようなものもあります。


参道の階段を降りて外へ向かいます。

説明板はここにあるんですね。

つづいてA陪塚へ向かいます。
再び後円部に来ましたが、後円部側の周堀の跡は、道路の形で分かります。

現在道路となっているラインは中堤があったラインじゃないかと思います。
おそらく中堤の跡に造られたと思われる道路から後円部を見ます。

2017年4月2日(日)の探訪レポート
女体山古墳とA陪塚を見て天神山古墳へやってきました。
太田天神山古墳は女体山古墳と同じ方向を向いており、女体山古墳側から歩いて行くと、後円部側から近接することになります。
後円部側の周溝跡は、今も往時の周溝に沿ってきちんと道路が丸くなっていることでよく分かります。


現在の周溝跡を見ると一重ですが、往時は中堤を挟んで二重になっていたのです。

周溝を含めるとその長さはなんと364mになり、その大きさには驚きを禁じ得ません。
周溝跡をぶった切っている道路を渡り、後円部麓にある標柱の前に来ました。

私はここから直登してしまいますが、左手に巻いて行くと階段でラクラク登ることができますよ。
登る途中には葺石が残っています。

後円部から前方部を見ます。

太田天神山古墳は墳丘長210mを誇る、東日本で最も大きな古墳ですので、前方部が遠くの方に見えます。

後円部墳頂に来ました。

小さな祠があります。

太田天神山古墳は5世紀前半の築造ですが、この巨大な古墳にはいったい誰が葬られているのでしょうか。
東日本で一番大きな古墳ですから、5世紀前半に東日本、もしくは関東地方全体を治めていた強大な権力を持った王が葬られていたと考えることもできますが、考古学的に見ると、上毛野は古墳時代を通じて群雄割拠状態で、ましてや関東地方全体を治めることができる権力体が存在した可能性は低いです。
ただ、上毛野各地の王たちから共立された連合のリーダーのような存在が葬られた可能性はあると思います。
しかし私は、『古代上毛野の地勢と信仰』で関口功一氏が述べる説が非常に魅力的に思えます。

関口氏の説では、古代、毛野という国があったのが、ヤマトの政策によって上と下に分割されて、その分割政策を担ったヤマトから派遣されてきた将軍が葬られているというのです。
太田天神山古墳の位置は、確かに上毛野でも東寄りで、下毛野を合わせると真中くらいになりますね。
そして、その将軍が具体的に誰かと言うと、この系図を見てください。

※『東国の古代氏族』(関口功一著)所収の系図を合成
『日本書紀』を参照して、東国に派遣された皇族を見てみると、その嚆矢は第10代崇神天皇の子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。
ただ、トヨキイリヒコに関してはそれ以上分からず、果たして東国へ赴いたのかどうかは不明です。
つぎに、トヨキイリヒコの孫、彦狭島命(ひこさしまのみこと)も東国へ派遣されたのですが、赴任する途中で亡くなってしまって、東国へは行っていないことになっています。
そのため、ヒコサシマの子の御諸別命(みもろわけのみこと)が実際に東国へ行って上述した毛野の分割を実施したのではないでしょうか。
もし太田天神山古墳の被葬者が毛野を分割したとしたら、築造時期から考えて、その人物は西暦400年ころにその事業を為したと考えられます。
そうすると、世代的にミモロワケがちょうどいいのです。
実際のところはこの説を完璧に証明することはできないと思いますが、このように考えてみることは、まさしく古代史のロマンではないでしょうか。

「目塚 天満宮」とありますね。

太田天神山古墳の名前の元になっている天神様ですね。

私は「目塚」というのが気になります。
本当は「女塚」じゃないでしょうか。
そうすると、さきほどの話をさらに発展させることができます。
ミモロワケは毛野へやってきたら当然地元の有力者の娘を嫁にしますよね。
そのため、実は「女塚」と呼ばれた太田天神山古墳の被葬者は地元有力者の娘で、婿であるミモロワケの方が女体山古墳に葬られているのではないかと考えてみたのです。
そうすれば、フェミニストの方々の支持を得ることができるかもしれません。

古墳一つを見てもこのようなストーリーを考えることができてとても楽しいですね。
前方部は前回来た時に歩いたので今日はいいでしょう。

でかすぎて、結構引いても全体が収まらない・・・

お、東武線!

やっと全身が入った。

南側の周溝の境は良く分からないですね。

それでは、同じ太田市内にある円福寺茶臼山古墳へ行きますよ。
2017年4月8日(土) CT 1回目「日本列島旧石器時代発見の地・岩宿遺跡と東日本最大の前方後円墳・太田天神山古墳 日帰り」にて探訪
2016年4月にクラツーと契約した後、自分で企画したツアーを何本か出したのですがなかなか催行が決定せず、座学を始めたりしていろいろやっているうちに、契約から1年後のこのツアーはいきなり満席となりました。
これ以降、ようやくクラツーの仕事が軌道に乗りましたし、バスを使った日帰りの古墳ツアーとしては初めての催行したツアーということもあり個人的にも思い入れ深い古墳です。
※註:2025年9月現在、いまだにこのツアーがクラツーにてロングランを続けているようで、コースを造った人間としてとても嬉しく思います。
2017年5月4日(木)東国を歩く会にて探訪
写真のみ掲載します。










