2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年1月11日に投稿した記事です。
2016年1月10日(日)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】津久井城跡【東国を歩く会 第1回「歩く日」活動レポート①】
津久井城の探訪を終えて、11時40分、津久井湖観光センターに戻ってきました。
津久井湖畔の陽の当たるベンチに座って、お昼ご飯を食べます。
たかお食堂仲間のヒラさんは山登りが趣味なのですが、山でよく作って食べているというカレーうどんを作って皆さんに振る舞ってくれました。
一人ずつ、紙コップに入れていただいたのですが、こういった冬の屋外で飲む温かいカレースープはとても美味いですね。
しかも紙コップの良いところは、箸が無くても麺をすすることができるところです。
皆で談笑しながらランチを食べた後、ちょろっと津久井湖観光センターに寄り、12時23分のバスに乗車しようとしたところ、参加者の一名が山に落とし物をしたことに気づき、手袋を片方失くしていたヤマセミさんが、自分の手袋を探すとともにその落とし物を探すためもう一度登ってくると言いました。
ですので、ここからはしばらく私一人でガイドをします。
実はここからの区間はヤマセミんさんが詳しいのでちょっと心細くなりましたが、一緒に下見をした生源寺さんもいるので大丈夫だと思い、津久井湖観光センターから10分弱バスで移動し、城山総合事務所入口で下車しました。
次に見るのは春林(しゅんりん)横穴墓群です。
横穴墓は、「よこあなぼ」と発音する人と「おうけつぼ」と発音する人がいて、専門家は「よこあなぼ」と呼ぶことが多いような気がします。
そしてそれがいったい何なのかというと、横穴墓は古墳の一種です。
古墳というと土で盛ったものを想像すると思いますが、そういうものは正確には高塚古墳と言います。
まあでも、現状古墳と言ったら暗黙的に高塚古墳のことを差すことが多いので、あまり気にする必要はないかもしれません。
古墳時代は3世紀半ばくらいから始まるのですが、最初古墳は地域の権力者の墓でした。
一般人は作れなかったのです。
それが関東地方では7世紀くらいから崖の急斜面に横穴を掘って埋葬するのが流行り出し、一般人もその墓に入れるようになったのです。
埼玉県吉見町の吉見百穴(よしみひゃくあな)をご存知の方もおられると思いますが、あれなんかは有名な横穴墓の一つですね。
そういうものがここ旧城山町にあるわけです。
住宅街を歩き、川尻小学校の裏道を進み、墓地を横目に山に近づいて行くと、春林横穴墓群の説明板があります。

概要はこれを読んでいただくのが早いとして、戦時中は防空壕として利用されたそうです。
また、横穴墓の中に住み続けた夫婦もいたそうで、あるとき骨が見つかって供養したという話も残っています。
昭和の頃までは子供たちの遊び場だったそうですが、現在は説明板に書かれている通り、崩落の危険性があるので近寄らない方がいいです。
なので、今回我々はこの説明板を読んだだけで、次の川尻八幡宮を目指すわけですが、実は下見の時は横穴墓を見てきました。

こういった藪に覆われた斜面にあるわけですが、ヤマセミさんが以前穴を見たことがあるそうで藪を漕ぎながら探ったところ、一つ見つかったのです。
早速私も斜面を登ってヤマセミさんのところに向かいましたが、かなり急です。
この急斜面をどうやって重い遺体を運んだのでしょうか。
骨になってから埋葬したんじゃないかなあなんて思うくらいの急斜面です。
そしてこれが横穴墓です。

入口はかなり狭いですが、中は2mくらいの高さがあるそうで、人が住むのも不可能ではないでしょう。
さて、話を元に戻して、春林横穴墓群の説明板を見た後は、川尻八幡宮に向かいます。
畑や野原の広がるのどかな道を歩き、川尻八幡宮の境内に入りました。
1月2日に来た時は初詣客で賑わっていましたが、今日は静かな感じです。

今日は本殿を覆う覆屋の格子扉が閉まっていて本殿ははっきり見えませんが、1月2日のときは解放されていました。

この本殿は相模原市登録有形文化財で、宝暦10年(1760)の建立、この辺りでは最も古い木造建築物です。
川尻八幡宮自体の歴史としては、説明板によると創建は大永5年(1525)とされ、北条氏綱が江戸城を奪取したのがその前年ですので、時期的には北条氏の勢力がこのあたりにおよび始めたころになりますね。
北条氏が奥三保での影響力を高めるにはなお時間が掛かるものの、北条氏が支配者としてこの地域に進出してきたときに地域の人心を得るために建立したのではないでしょうか。
しかし私の予感では、川尻八幡宮の前身となる神社がかなり古くからあったような気がします。
というのも川尻八幡宮近辺はこの地域における信仰の中心地だからです。
そう思う理由をいくつか挙げますと、まず約1kmもつづく川尻八幡宮の参道のラインが面白い。

毎年、二十四節季の雨水の日と霜降の日は鳥居の正面から旭が登るそうで、ちなみに雨水の日は太陽が雨となって大地に恵みをもたらす日です。
そして参道の直線を山側にたどっていくとその線上には金刀比羅神社があり、その近くには雄龍籠山(おたつごやま)と雌龍籠山(めたつごやま)という山があり、それぞれが境川と相模川という二つの異なる水系の分水嶺となっています。
このように計画的に各神社が配置されていたり、雨や水に関する信仰に関連するものが多かったり、かつ相模国内での重要河川の境川と相模川の水源地帯だったりすることからヤマセミさんは雄龍籠山と雌龍籠山を仰ぎ見る農耕信仰が相当昔からあったのではないかと考えています。
ちなみに、1月2日に下見した時にはこのあと「雨降」という土地を歩いたのですが、大山阿夫利神社の「あふり」とは「あめふり」のことだそうです。
雨に対する信仰は、農耕が生業となった弥生時代以降に発生したと私も思うので、そうすると川尻八幡宮の土地は弥生時代から何かしら祭祀場があったと考えても良いのではないでしょうか。
しかも上記の話をヤマセミさんから聴く前に私も事前調査をしていて、川尻八幡宮の参道の延長線上には町田市の箭幹八幡宮の社殿があることを知りました。
いよいよ何かあるような気がしてきました。
そして面白いことに、境内には古墳があるのです。

川尻八幡神社古墳と呼ばれているこの古墳は、現在では盛土がなく石室が露出していますが、往時は直径10mほどの円墳で、古墳横の説明板には奈良時代の物とありますが、境内入口の説明板に書かれている7世紀前半という方が正しいと思います。
この地域で現在古墳とはっきり分かるのはこれだけなのですが、かつては古墳のような塚もいくつかあったとされ、古墳時代後期から終末期の群集墳の一つだった可能性があります。
そしてこの古墳の特徴は多摩川水系の古墳と相模川水系の古墳の両方の特徴が見出されるようです。
というわけで、現在も神社があるこの場所は、弥生時代以降、農耕信仰の祭祀場であった可能性もあり、また古墳時代は墓域であったことは間違いないです。

このようにいろいろと考える材料が沢山あるわけですが、ちょっと説明がマニアック過ぎたかもしれませんね。
次はまた戦国時代に戻り、小松城を探訪しましょう。
⇒ 【gooブログから】小松城跡【東国を歩く会 第1回「歩く日」活動レポート③】
