2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年1月11日に投稿した記事です。
2016年1月10日(日)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】小松城跡【東国を歩く会 第1回「歩く日」活動レポート③】
小松城からはそのまま金刀比羅神社の参道を歩き、県道48号線(鍛冶谷相模原線)を目指します。
歩いている途中、ヤマセミさんから電話があり、我々が県道に出たころに追いついてくれそうな感じでしたが、県道に出て次の目的地である下馬梅に向かって歩き始めたところ、後ろの方からヤマセミさんが手を振りつつ歩いてくるのが見えました。
ヤマセミさんの歩く速度は、宇宙空間で3倍の速度が出るシャア専用ザクのそれに酷似しています。
無事に合流し、下馬梅に到着。

このように梅の木が植えられ、説明板が立っているだけです。
そしてこの梅が一体何なのかについては、説明板をお読みください。

八王子城が落城したのが6月23日、津久井城が落城したのが同25日ですので、この話は怪しいなあ、とか言ってしまうと興醒めですが、伝承なので妙な突っ込みはしない方が無難ですね。
しかしこの道が旧道であることには間違いありません。

真ん中にフェンスが見えると思いますが、あれは境川沿いのフェンスで、境川の向こう側は武蔵国になります。
向こうに見えるマンションは都営武蔵岡アパートで、国境近くであっても武蔵であることには変わりないのです。
下見の時はこのまま旧道を直進して町田街道に出て、そこから大戸を目指しましたが、今日は少しでも近道をするためにさきほどの県道に戻ることにします。
県道を歩いていると、左手に物凄い煙が上がっており、近づくとどんど焼きをやっていました。

地域の人たちが結構集まっていて賑やかです。
さらに進み、境川を渡って武蔵国に入りました。
武蔵国に入ってすぐ、大戸観音堂があります。

ここで少し休憩。
大戸観音堂の横には「鎌倉街道山之道」というのが走っています。

鎌倉街道は、その名の通り鎌倉に武家政権があった鎌倉時代に鎌倉に向けて北関東各地から繋がっていた道で、「上道(かみつみち)」、「中道(なかつみち)」、「下道(しもつみち)」の3つが有名で、鎌倉幕府が滅びた後も中世の街道として使われました。
ところが第四の道として、さらにその西側に「山之道」というのがあり、秩父方面を経由して上州高崎と接続されています。
それが観音堂の横を走っているわけですね。
ここから鎌倉方面に向かう道は現在の町田街道に重なって、現在の相原十字路辺りでは北方の八王子方面から七国峠を越えてきた道と交わり、その先ではこれまた御殿峠を越えて来た道と交わります。
逆に秩父方面の道は、まさしくこれから我々が歩いて行く道なわけです。
ちなみに、大戸という地名ですが、鎌倉街道との関係で、中世の頃、武相国境のこの地に大木戸があったと伝わり、大木戸が縮まって「大戸」になったそうです。
元々はこの地には中世の頃に了心庵という草庵があって、後に八王子市山田の雲津院の末寺となり祐照庵と呼ばれました。
その祐照庵の境内に、慶長元年(1596)に観音堂が建立されたのが大戸観音堂始まりです(以上、現地説明板参照)。
続いて、謎の城郭遺構を見に行きましょう。
何の変哲もない山に入って行くと、山のふもとに空堀と土塁が現れました。

これは下見に来た時も驚きましたが、一体何なのか、まったく分からないのです。
参加者の皆さんは思い思いに感想を述べていますが、こうやって現物を目の前にしながらいろいろ想像を巡らせるのって楽しいですよね。
でもこれについては解説らしい解説はできません。
さて、以上で本日探訪する予定だった歴史スポットはすべて見ることができました。
あとはひたすら町田街道(鎌倉街道山之道)を歩いて高尾、いや、たかお食堂を目指しましょう。
あ、でもこのペースだと初沢城もチラッと見れそうですね。
下見の時はここから町田市の大地沢青年センターまで西進し、そこから山に入り草戸峠を越え、ひたすら尾根上を北上し、拓大の敷地沿いにあるフェンス横を歩き、高尾の紅葉台団地に抜けたわけです。
でも今日はもう山歩きはしません。
皆さんの体力も心配ですが、何しろ下見をやった私とヤマセミさん、それに生源寺さんが懲りているからです。
なので普通のアスファルトの歩道を北上します。
町田市と八王子市との境界の八王子側の坂が、「恋路坂」です。

なかなかロマンティックな名前ですが、恋路というのは元々は越路(こしじ)のことで、そう表記すると、「なーんだー」になりますね。
山を越える路なわけですね。
実は本日の最初に行った津久井城の本城曲輪にある説明板の図に、「こいじ(こしじ)」と書かれている場所がありました。
ですので、「恋路」というのは各地にありそうな地名なわけです。
その恋路坂を下って行くと前方に初沢城らしき山が見えました。

段々陽も落ちて来て、山も良い色に染まりつつありますね。
途中、拓大の正門方面に続く旧道に入り、紅葉台団地に近くなると、これまたとても良い感じの道になって行きます。
貴重な寛政年間(江戸後期)の馬頭観音が路傍にひっそりと佇んでいます。

良く見ると人の姿が刻されていますが、これは観音様の姿で、頭の上にあるのはお馬さんの顔なんです。
私は馬頭観音と言うと「馬頭観音」と非常に自己主張を感じさせる文字で刻されたものしか印象に無いのですが、ヤマセミさんによるとこういったものも結構あるそうで、馬頭観音があるということは、すなわちそこは古道であることが分かるそうです。
私も古道好きですが、ヤマセミさんは私の何十倍のキャリアがあり、実際凄い量の歩きをこなしているので、一緒に歩いていると私も沢山知識が吸収できて楽しいです。
参加者の方々もヤマセミさんの説明を真剣に聴いています。
そういえばさっきから私はほとんど説明してないなあ・・・
その代わり、「高尾駅から拓大への通学路には幽霊が出るんですよ・・・」とか言って、歴史と関係ない話を繰り出して参加者を戦慄させています。
疲れてきたのかな?
でももう少しで冷えたビールが飲めるので頑張ろう!
それにしても良い景色です。

道も良い感じ。

ヤマセミさんはこの道が気に入っていると言っていましたが、私を含めて皆さんも気に入ったようです。
そして紅葉台団地に入り進んで行くと、前方にみころも霊堂の先っぽが見えました。

あの山が初沢城です。
結局、初沢城も見れちゃいますね。
当初は初沢城もコースに入れていたのですが、下見の結果、難しいかなと思い今日はコースから外しておいたのです。
でも思いのほかスムーズにここまで来れたので、ちょろっとですが、ビールを飲む前に見てみることにしましょう。
斜面を登るのもあと少しなので頑張りましょう。
私は初沢城には数えきれないほど行っていますが(何しろ自宅から歩いて10分ちょっとなので)、実は我が家から反対側の紅葉台団地側には行ったことがないのです。
今日歩く前に、ヤマセミさんから中田先生が書いた初沢城の縄張図を見せられ、そこには私も見たことのない遺構が書かれていたので、今日はせっかくだからそれを見てみたいと思います。
じゃーん、これです。

解説するヤマセミさん。

これは『東京都の中世城館』(東京都教育委員会/編)の縄張図にも載っていない遺構で、高尾やすらぎ霊園の南側にあります。
中田先生、よくぞ見つけてくれました!
ここには尾根の東側に曲輪が2段連なっているのです。
上の写真は上の段から下の段を見たところです。
詳しくは、中田先生が書いた『よみがえる滝山城 戦国の風雲をかけぬけた天下の名城』をご覧ください。
というか私もこの本を持っているくせに、中田先生の縄張図に未知の遺構が書かれていることに気づかなかった!
弟子として不覚。
さて、日没も間近に迫ってきました。

正面には本日の開始地点である津久井城も見えます。
本当に良い色の夕景ですね。
ロマンティックな気分に浸るおじちゃんたち。
おっと、女の子も一人いましたね!
あゆみちゃん、ゴメンナサイ。
そして初沢山から下山すると、麓にはたかお食堂が。

凄い、17時から打上げ開始の予定が、16時55分にたかお食堂に着いてしまった!
これだけスムーズにいくのも珍しいのではないでしょうか。
そしてここで、たかお食堂仲間のこばっちさんも参加し、たかお食堂の秘密の部屋で打上げ開始です。
うわー、このヴォリュームは凄い!

皆さん、「これ絶対赤字だよね」と心配しています。
おそらくそうなのではないかと思いますが、マスターには申し訳ない気持ちがあるものの、やはりとてもありがたいです。
ヒラさんが手配してこばっちさんが持ってきてくれた「相模灘」の一升瓶。

今日は津久井から歩き始めましたが、その津久井の銘酒です。
ヒラさんは「日本酒」も趣味なのですが、今日の歩きにふさわしい酒ですね。
「にほんしゅ」には、「日本史(にほんし)」もインクルードされているので、実は日本酒が好きなその陰には日本史好きが潜んでいると私は確信しています。
そしてヤマセミさんも一旦自宅に戻って日本酒を2本持ってきてくれました。
そのうちの一本。

広島のお酒ですね。
ヤマセミさんの持ってきたお酒は2本とも4合瓶でしょうか。
つまり開始の時点で少なくとも1.8升の日本酒があったので、私はまずはたらふくビールを飲んでから日本酒に行こうと考えていたところ、日本酒の減りが異様に速い。
しかし無くなる前に気付いたので、私も日本酒を楽しむことができました。
歩きに参加していただいた方は全員飲みにも参加していただけて、初対面の人たちも歩いている時点でかなり打ち解けていましたが、飲みの段階になったら皆さんもう昔からの友達のようになっています。
私はこの光景を眺めながら、つくづく幸せな人間だなあと思いつつ、美味しい料理とお酒を楽しみます。
後半はこばっちさんの自虐を含めた下ネタが全開となり、私も笑いすぎて治りかけていた咳が止まらなくなる始末です。
結局ほとんど歴史の話は出ませんでしたね。
でもこれで良いと思います。
何しろ5時間も飲んだのに、全然中弛みが無かったからです。
そして22時となってお開きなりましたが、ちなみに今日は2万6千歩くらい歩いています。
もしかしたらちょっと歩き過ぎかもしれませんが、これに懲りずに次回もぜひ参加してくださいね。
次はバレンタインデーにやりますよ!
補足説明(2016年1月15日追記)
「東国を歩く会」主催、第1回「歩く日」で最後に少し時間があったので初沢城(椚田城)に行きました。
日没前の山並はとても綺麗でしたね。
でもその場では初沢城の歴史背景についてほとんど解説をしなかったので、ちょろっとまとめてみました。
まず、城主は長井氏で、長井氏は鎌倉幕府で源頼朝の側近だった政所別当大江広元の子孫です。
そして古文書に「椚田要害」と記されているのが初沢城のことなのですが、一方で椚田要害は片倉城のことだという説も昔からあるようです。
しかし地名からして椚田は初沢城近辺で、片倉城の場所を椚田と呼ぶのはどうも不自然な感じを受けます。
したがいまして、ここでは椚田要害は初沢城のことだという前提でお話をします。
ちなみに当時は文書にはあまり「○×城」という書き方はせず、文書に書かれる時は「○×要害」と書かれることが多いです。
さて、15世紀後半、椚田城に住み現在の八王子市近辺を支配していたのは長井広房です。広房の妻は扇谷上杉当主・持朝の女だったため、広房は扇谷家に忠実だったはずですが、子の広直の代になると、さきの「長尾景春の乱」のときの縁で山内家に従うようになったようです。そのため、扇谷山内両家が抗争を開始すると(長享の乱)、椚田要害は山内勢力の最南端に位置する重要拠点となり、相模方面に勢力を張っている扇谷家と直接対峙することになりました。
そしてここに、あのスーパースターが登場します。
スーパースターとは、北条早雲のことです。
もっとも、北条早雲というのは彼が生きているときの名前ではなく、リアルタイムでは伊勢宗瑞と名乗っていました。
永正元年(1504)9月、扇谷上杉朝良の要請を受けた駿河の大名今川氏親は、叔父伊勢宗瑞を出陣させ、宗瑞は15日には武蔵国稲毛郷に着陣、5日後には氏親も合流、27日には立河原(立川市内の多摩川の河原)で山内上杉顕定と合戦となり、顕定は敗走しました。椚田要害に拠る長井広直はその直後、今度は扇谷家のメンバーとして名前を連ねていることから扇谷家配下に出戻りしたと考えてよいでしょう。
しかし山内家は素早く反攻を開始します。そしてその最初のターゲットとされたのが離反した広直の籠る椚田要害でした。裏切り者は捨て置けないのです。山内家の猛攻により11月には椚田要害は落城し、城主広直以下20余名は自刃して果てました。ここに大江広元を祖に持つ名家長井氏は滅亡してしまったのです。
その後、椚田には山内上杉顕定の宿老(重臣)大石道俊が入ります。このとき大石氏は一気に溝郷(相模原市上溝)まで版図を拡げたため、領域のバランスを考えたためか椚田に本拠地を移したものと考えられます。ということは裏を返せば上溝あたりまでは元々長井氏の版図であったのでしょうか。
『多摩のあゆみ 143号』所収「鎌倉・室町期の長井氏と横山荘」によると、溝郷よりも先の座間郷にある常福寺の開基は大鏡寺殿大海道光居士で、道光はすなわち長井道広なわけで、14世紀末には長井氏は座間郷まで領していたことが分かります。なお、上溝にある秀珍山寳光寺の寺伝では天文年間に道俊が開基したとされていますが、以上の政治情勢を考えると永正年間のことかもしれません。
永正6年(1509)8月、宗瑞は初めて今川家の命ではない独自の軍事行動を起こし扇谷家を攻撃、ついに戦国大名へ向けてのいわば「独立宣言」をします。今川家から見ると叛乱で、黒田基樹先生もそう表現しています。宗瑞は翌永正7年(1510)5月頃には椚田要害を落とし、城を追われた大石道俊は由井城(浄福寺城といわれる)に本拠を移しました。
それと同じ頃、宗瑞に味方した吉里一族が津久井山に籠っています。この津久井山が津久井城かどうかは分かりませんが可能性は高いでしょう。吉里一族については「長尾景春の乱」で景春に味方した吉里宮内左衛門尉の一族と思われ、現在の新潟県魚沼市に地名が残っています。のちに津久井城主として有名となる内藤氏はまだ史料に現れません。
さて、以上が初沢城の歴史のあらまし、というか歴史の表舞台に登場した一瞬のときを記した内容です。
