2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年1月16日に投稿した記事です。
2016年1月16日(土)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】西股総生先生&いなもとかおりさんによる中城跡ツアー|埼玉県比企郡小川町
小川町駅前にバスがやってきました。
我々が乗り込むとバスは貸し切り状態です。
移動時間中、隣に座った方と話していると、クラブツーリズムの話になりました。
クラブツーリズムは名前は聞いたことがあるのですが、実はどのようなものか知らなかったので内容を聴いてみたのです。
そしてその内容を聴いて驚愕しました。
簡単に言うと、バスや新幹線を使った日帰りや泊まりがけで行く観光ツアーなのですが、回る場所が歴史スポット中心でガイド役にその道の専門家の方が付きます。
まあ、これだけだったら特に驚かないのですが、例えば「真田氏ゆかりの「上田城跡」「松代城跡」2日間」というツアーは、当該城跡以外にいくつか城跡などを見る一泊二日の旅で、これの参加費が約5万円なわけです。
これのどこが驚愕ポイントなのかというと、行きたい場所には自分で行けばいいじゃん、という私の非常に固い考えが脳内にあったため、5万円も出すのか!!!!ということに驚いたわけです。
5万円って凄い金額ですよね。
でも最近、薄々感づいていたのですが、自分で歴史について勉強しつつプランを立てて行くということがあまり得意ではなく、できるなら誰かが全てやってくれて、なおかつ専門家の人から教えてもらいたいと思う方は意外と多くいらっしゃるのですね。
だからこそ、クラブツーリズムのような観光ツアーが成り立つ訳であり、それのスモール版が私とヤマセミさんで始めた「東国を歩く会」なわけです。
これは、歴史観光旅行に大金をつぎ込む人がいるという事実を知らなかった私にとってはまさに目から鱗だったわけです。
ですから、この事実を知っただけでも私は今日の参加費はペイできたと思いました。
さて、驚きを隠せないまま、バスは「パトリアおがわ」に到着しました。
料金は210円ですが、当地のローカルバスであるイーグルバスは、交通系ICカードに対応していないのです。
久しぶりに現金で210円払いました。
バスを降りると、腰越城はすぐそこに見えます。

ちなみに「パトリアおがわ」というのは、食事処やお風呂・プールなどがある小川町の公共施設のようです。
バスは1時間に1本ペースであるので、これだけあればこのバスの「時刻表」はみうらじゅんさんの言うところの「地獄表」には当てはまらないですね。
では、早速山に登りましょう。

私は腰越城に来るのは初めてですが、事前に梅沢太久夫さんの『城郭資料集成 中世北武蔵の城』を読んだところ、大きな山城ではないものの、意外と面白い仕掛けが沢山ありそうなのでとても楽しみです。
私は最後尾からテクテクとついて行きます。
腰越城は標高が216m、比高は100mほどの山城なのですが、少し山に入るとその後は階段が続いています。
階段は斜面を登るよりずっと大変ですが、斜面が急な部分が多いので、階段にせざるを得なかったのでしょうね。
でもこの道は往時の登城口ではないなあと、登りつつ思います。
上の写真の入口部分にある説明板によると、現在の登城口近辺は「榎木戸」という地名で、ここが大手だったとの伝承があるようですが、説明板も素直に「定かではない」と言っています。
※後で西股先生から、「さきほど登って来た道は当時の道ではありません」と告白されました。
息を切らせながらようやく登り詰めたのは、城の北側にあるに2本の堀切に挟まれた郭です。
ではここでまたいつものごとく、余湖図にご登場願いましょう。

※「余湖くんのホームページ」から転載させていただきました。
余湖図の「堀切1」に登ってきて、2本の堀切に挟まれた郭にたどり着いたわけです。
ここから北側は細尾根が続いており、ずっと先まで行っても遺構はないそうで、この堀切が城の外と内を仕切る境界となります。
この南側はかなり高くなっていますね。

後で分かったのですが、この高まりは2段に築成されており(余湖図には裏側になっていて描かれていません)、頂部が主郭です。
西股先生は一旦城外に出て、北側の細尾根から主郭方面を眺めてみるように我々に促しました。

写真だと分かりづらいですが、この細尾根にいると、主郭から矢や鉄砲の集中砲火を受けるのです。
攻め手がもし北側の尾根から攻めてきた場合、攻め手は一列になりますが、守り手は郭の上に並列するので、圧倒的に守り手の方が有利です。
これは近代史が好きな方であれば、日露戦争のときの日本海大海戦を思い浮かべて見れば分かると思います。
いわゆる「T字作戦」ですね。
ロシアのバルチック艦隊は一列で進んできたので数の多い大砲を生かすことができず(Tの字の縦棒)、反対に連合艦隊は船を横に並べたことにより(Tの字の横棒)、大砲のほとんどをロシア艦隊に向けて発射できたわけです。
あ、でもこのとき「T字作戦」が行われたかどうかは実際のところは確実とは言えないようですね。
だったら説明するなよ!
と怒られつつ、話を城に戻しましょう。
郭の上には、さきほどの中城で師匠であるマッド・西股の殺害を目論んで失敗したいなもとさんがまたもや現れ、我々に向けて小枝や小石を投げて攻撃を仕掛けてきした。
我々はその攻撃をかいくぐりつつ、主郭の西側下を歩いて、竪堀が2本並んでいる場所に来ました。

ここには、「ここから降りないでください」と書かれた標柱が建っており、おそらく縄張図を書くためにこの竪堀を降りるナワバリストが跡を絶たないことに業を煮やした地元の住民が、これ以上自分たちの城の機密が漏れぬように設置した標柱だと思われます。

我々はフツーの人たちなので言われなくても降りないので大丈夫です。
ついで階段を上り、余湖図の「3」郭に来ました。
虎口は枡形になっています。

ここが本来、山の麓から上がって到達する地点だと思います。
主郭を見上げます。

じゃあ、その主郭に登ってみましょう。

標柱や石碑、そして説明板などがたくさん立っていてウェルカムな様子が伺えます。
ただ、説明板の文字と図はかなり薄くなっていて消えかかっているのが残念ですね。

うわー、素晴らしい景色!

東側の眼下には小川の町場が見え、その先右手には青山城が見えます。
西股先生が「向こうから敵が攻めよせて来たら動きは一目瞭然だね」と仰いました。
小川という場所は、中世の頃は鎌倉街道上道と秩父への道が合流する場所で、交通の要衝だったのです。
その遺風か、中城のページでも書いたとおり、この近辺の郡部の町の中では賑やかな方でしょう。
ついで反対方向の西側を見ます。

中央の近い山は安戸城です。
こちらからは秩父方面への道が繋がっており、西股先生が言うには、領主である上田氏が、南から忍びよる後北条氏によって本拠地である松山城を落とされた場合、この城にこもって抵抗し松山城の奪回を目論み、さらに最悪の場合、ここから秩父方面に逃げることを想定したのではないかとしています。
こういうのを「後背地戦略」といいます。
ついでに先ほどの中城のページでもお見せしましたが、説明板から腰越城近辺の城マップをお見せします。

さて、時刻は12時45分、ここで昼休憩です。
ここまで歩いて、汗だくの参加者もいます。
皆さん、敷物を敷いたりして、思い思いにお弁当を食べ始めました。
食事中は格好の雑談タイムですね。
西股先生を巻き込んで城の話などをしつつ食事をします。
そして食事の後は、先生がオリジナルグッズである腰越城の縄張図が印刷されたクリアファイルの販売を開始ました。
1枚350円。

クリアファイル好きの私はもちろん購入しました。
他にも「クリアファイルなら何でも買っちゃう」と言っている方もいるので、実はクリアファイルコレクターは潜在的には多いのではないでしょうか。
主郭には石が並んでいる場所があり、後で先生に伺ったところ、この城にも石積みは見られるそうです(縄張図には石積みが残っている箇所が描かれています)。

それでは午後の部の開始です。
主郭から南側に降り、余湖図の「4」の文字のあたりにはこのような切り込みがあります。

そこから少し下がり、「3」の方面を見ます。

「4」郭の西側虎口(「5」の部分)から降りようとすると、郭の隅に誰かがしゃがみこんでいるのが見えました。

見なかったことにしましょう。
ついで、竪堀「3」の上にやってきました。

余湖図では竪堀は8本描かれていますが、西股先生の縄張図には11本の竪堀と、竪堀かもしれないものが3本描かれています。
つづいて、余湖図の「6」、一般的には「西の郭」と呼ばれている場所に来ました。

ここには小祠があり、この郭の南側から先は石灰の採掘によって大きく削り取られています。
ですので、西股先生は「この先は崖になっています」と説明して、皆を引き連れて東側の腰郭の方へ向かったのですが、私ともう1名の方で、「せっかくここまで来たのだから崖の部分まで見てこないとね」と言って、石灰が削り取られた崖の先端まで行ってみました。
お、やっぱりここは危ない。
下を見下ろして納得すると、急いで隊列に戻りました。
今日の参加者の山歩きのスキルには結構バラつきがあって、崖の先端を一緒に見た方はかなり慣れている感じがしました。
私も「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で滝山城の下草刈りなどをやらせていただいているお陰で、以前と比べてだいぶ歩くのは慣れましたが、滝山の会の皆さんと比べたらまだまだ危なっかしいと思っています。
おっと、またもや「4」の郭に戻ってきましたよ。
先生は我々をどこに連れて行こうと思っているのでしょうか?

後で分かったのですが、ここ腰越城は、侵入してきた攻め手を惑わす「迷路」のような仕組みが施されており、先生はわざとグルグルと歩かせて、攻め手と同様に迷路の仕組みを味あわせようとしたのでした(推測)。
おっと、左手頭上から誰かがこちらを睥睨していますよ。
またもや、いなもとさんだ!

この追い払っても追い払っても我々の行く手に姿を現すさまは、まさしく主家山内上杉家に対し叛乱を起こし、ライバル太田道灌が没した後も伊勢宗瑞と手を組むなど、神出鬼没にゲリラ戦を展開し天寿を全うした長尾景春のそれに酷似しています。
我々は今回も何とか大将の命を守り切り、ようやくにして東の帯郭にやってきました。

東側にはこの城には珍しく、横堀が掘られています。

埋没した小祠。

これも縄張図にはきちんと明記されていますよ。
さて、ここで暫く、西股先生から腰越城の歴史背景について説明がありました。
そしてその後の質疑応答で、面白い質問が投げかけられました。
「この縄張図は、だいたいどれくらいの時間で描いたのですか?」
「腰越城の場合は1日ですね」
おー、凄い!
私は縄張図が描けない人間なので、縄張図が描けること自体が凄いと思うのですが、腰越城くらいだと1日で描けるんですね。
ちなみに、滝山城の場合は、東京都教育委員会が編した『東京都の中世城館』に掲載している縄張図を描くのに2週間かかったことを前回お会いした時に聞いています。
そしてそのついでに私は、縄張図を描いた後に地形図に乗っけたのか、地形図をベースマップとして描いて行ったのかたずねたところ前者だそうです。
描いた縄張図がそのまま地形図の上に乗っかるというのは、これまた驚きです。
さてそんなわけで、楽しい講義の後はしばらく自由時間となり、14時40分には下山を開始しました。
麓まで戻ってきて道路の端を見ると、来た時には気付かなかった腰越城のジオラマを発見!

雨ざらしになっているのがちょっと心配でしたが、こういった立体模型があるととても分かりやすいですね。
あ、いや、待てよ。
この模型だと石灰の採掘によって失われた南側が表現されていますよ。
これは面白いです。
そしてまたバスに乗り小川町駅に着き、最後に主催者が挨拶をして解散となりました。
今日はとても楽しかったです。
多分、今日の参加者の方々とは来月の新府城でもお会いすると思いますので、そのときはまた宜しくお願いします。
この会は「懇親会」は設定されていないということでしたので、それじゃあ帰ろうと思うと、ちょうどよく、15時35分の八高線が来ました。
そして乗車すると、良い場所を見つけてしまったのです。

2両編成のつなぎ目側の乗務員室です。
キハ110系には何度も乗っていますが、これは初めて気付きました。
なので私は喜びつつ怪しみながらこの席に座ってとてもご満悦だったのです。
