2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年9月23日に投稿した記事です。
1996年12月30日(月)の探訪レポート
先日、江戸城を詳しく探訪したことにより、異様に近世城郭が楽しくなってきました。
ここ十数年はずっと中世城郭を追いかけており近世城郭にはあまり興味が無かったのですが、もともとお城が好きになったきっかけが会津の鶴ヶ城だったこともあり、江戸城探訪のお陰でそのときの「ときめき感」を思い出してしまったようです。
そのため、今日はもう21年も前に訪れた鶴ヶ城について復習してみようと思い、少し前にアップした鶴ヶ城の記事を改訂してみます。
* * *
1996年12月30日、岩手県北上市へ向かう途上、会津の鶴ヶ城を見学しました。

当時はまだデジカメが普及していなくて、携帯電話もカメラ機能などは無いPHSが主流だった時代です。
私はインスタントカメラを片手に城内を走り回りました。


※この案内図は北が下なのでご注意ください。
確かこの日は、タクシーで鶴ヶ城へ来たと思います。
上の案内図の「現在地」を見ると、北出丸に進入して、追手の桝形に入ろうとしているところのようです。
既述した通り、小学校6年生のころから戦国時代が好きだったので、そうなると自然に城へ興味が行きそうなものですが、たまたま実際のお城を訪れる機会がなかったためか、この時まで特に興味を抱いていませんでした。
でももしかすると、心の中にはずっと城への興味が知らないうちに潜伏し続けていて、それがこの時噴出したのかもしれませんね。
城壁の内側に左右に分かれて登る階段があって面白いなあと思ったのですが、これは大手門である太鼓門の渡櫓や帯曲輪の石垣の上に速やかに兵を展開するための工夫です。

城内をどんな順序で駆けずりまわたっかは今となってはもう分かりませんが、本丸に3つある隅櫓のうち、茶壷櫓の堀にせり出した部分から二の丸との間に架かる廊下橋を望んで喜んでいたようです。

これは横矢が効いていますね。
一応、こういうアングルの写真を収めているということは、知識は薄いながらも防衛の観点から見ていたのかなあと思います。
これは「荒城の月碑」が建つ月見櫓でしょう。

この郷愁ただよう写真が好きで、当時のホームページのタイトル画像に使っていました。

なお、このとき見た(登った)天守は昭和40年(1965)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物で、中は「若松城天守閣郷土博物館」になっており、白虎隊士の肖像画なども展示されています。

現在の天守は、平成23年(2011)に竣工したもので、瓦の色が赤だった本来の姿で復元され、このときとはだいぶ雰囲気が違っていますよ。
この探訪から3年後に生まれた娘は、城マニアではないのですが新選組を追い駆けていることもあり、数年前に会津に行き鶴ヶ城も見てきたようです。
とにかく、城壁に登ったり降りたりしながら走り回り、気が付くとだいぶ陽が傾いており、周りには観光客の姿がほとんど見えなくなっていました。
後で思えば、このとき走り回った鶴ヶ城は近世の城郭なので、その後ライフワークとなる中世城郭巡りの対象とは違うのですが、そういう理屈抜きに城は面白いですね。
今では中世城郭にこだわることなく、古代の山城から近世の城郭まで全時代の城に興味を持つに至っています。
ところで、「国会図書館デジタルライブラリー」では著作権の切れた本を読むことができるのですが、その中に「日本古城絵図」というものがあり、鶴ヶ城の絵図もありましたので、それを加工したものを転載します。
① 鶴ヶ城全体図その1

この図では内郭(本丸・二の丸・三の丸)の描写に主眼があって、外郭はかなり大ざっぱですね。
② 鶴ヶ城全体図その2

こちらの図はきちんと外郭まで描かれていますね。
地形的には東側が台地続きなので、そちらには二の丸と三の丸を梯郭式に構築して備えを厳重にしています。
鶴ヶ城を最初に築いたのは蘆名直盛で、蘆名氏は鎌倉幕府で重きをなした相州三浦氏一族佐原氏の流れです。
『日本城郭大系』によると、文治5年(1189)の源頼朝による藤原泰衡討伐の功により佐原十郎左衛門尉は会津の地を恩賞として拝領しました。
3代目の光盛のとき、相州三浦郡蘆名の地名を取って蘆名氏を称し、康暦元年(1379)には7代目の若狭守直盛が会津に下向します。
当初は鶴ヶ城の西方3kmにある幕内に3年、ついで鶴ヶ城の西方2kmの古館(通融寺町城安寺)に2年間滞在し、至徳元年、会津郡門田荘黒川の丘陵上に築城して移り住み東黒川館と称しました。
東黒川館は天文7年(1538)に焼失してしまい、同12年には大々的に修築し規模が拡張したため、その後は黒川城あるいは小高木(小田垣)城などと呼ばれるようになります。
この蘆名氏が居城としていた時代は、現在見られる内郭(本丸・二の丸・三の丸)のみの規模で出丸も造られておらず、大手は東側にありました。
そして戦国末期、ごく短期間の伊達政宗の所有を経て、天正18年(1590)には蒲生氏郷が入部してきて、上の説明板の写真でも分かる通り、2年後の文禄元年(1592)には外郭部分を造り、地名も若松と改め、城の名も鶴ヶ城と呼ぶようになったのです。
氏郷は秀吉の命により対政宗の布石として91万石(当初は42万石だったが改めて検地し加増もあり91万石となる)の大大名として会津に移ってきたのですが、中央から遠ざけられてしまったことにより出世の道(うがった見方をすれば天下を取る夢)が断たれたと落胆したそうです。
ところが、氏郷は翌年没してしまい、子の秀行は慶長3年(1598)には宇都宮に転封になり、代わって上杉景勝が入部したものの、これまた慶長5年(1600)の関ヶ原合戦が終わった後、再度蒲生秀行が60万石の城主として返り咲きます。
秀行の妻は家康の三女振姫なので、家康からしたら婿は優遇したいのでしょう。
しかし、秀行の跡を継いだ子の忠郷は寛永4年(1627)に痘瘡で亡くなってしまい嗣子がおらず断絶、秀吉子飼いの数少ない生き残りである加藤嘉明(賤ヶ岳七本槍の一人)が43万石で伊予松山から移ってきました。
嘉明は永禄6年(1563)生まれなので、このときはもう65歳です。
老齢になってからの転封は堪えたのでしょうか、嘉明は4年後の寛永8年(1631)に没してしまい、子の明成が継ぎました。
③ 上図の本丸部分拡大図

城郭は防衛の観点から城門は少ない方が良いです。
本丸には3つの出入口があり、東側は二の丸方面に開口した門(氏郷入部以前の追手門)で、北と西にも出入口を設けており、そちらは両者とも出丸が構築されていますね。
出丸というのは馬出(うまだし)とも言い、城門の外側に設けた小さな曲輪(ときとして巨大な場合もあります)のことで、城内の兵が城から打って出る際に軍勢が一時的に待機する場所で攻撃的な構えの空間なのですが、北出丸・西出丸ともに門の内側は桝形になっており、攻撃的でありながら合わせて防御力も高めています。
両出丸ともに寛永16年(1639)の加藤明成による構築ですが、平和な江戸時代に攻撃的な構えを新たに造ったというのは面白いですね。
出丸が造られてからは北出丸が大手口となり、大手門(太鼓門)へ至るメインのルートは北出丸の東側の門を通っています。
『日本城郭大系』によると、鶴ヶ城の桝形のほとんどは追手門を含めて一の門(外側から入る一つ目の門)がなく、追手門は裸雁木石土居となっており、西門の二の門は本来の渡櫓門ではなく棟門になっていました。
明成の代に現在見ることのできる鶴ヶ城の形が完成したわけですが、明成は寛永20年(1643)に改易となり、ついで保科正之が出羽山形から23万石で入部します。
正之は徳川秀忠の庶子で、名君の誉れ高い人物です。
蘆名氏が滅亡して以降、寛永20年の正之の入部までは、今まで見てきたように数年ごとに大名が変わるという非常に落ち着かない状況が続き、こういう状況だと町の発展にも影響が出て現代にまでそれを引きずることがあるのですが、正之以降は幕末まで安定しました。
正之から数えて3代目の正容(正之の六男)は、元禄9年(1696)に松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され徳川一門に列し、9代目の容保(かたもり)の代に幕末の動乱に遭遇します。
慶応4年(1868)5月、天下統一を目論む薩長を中心とした西国大名の東進に対して、東北と新潟の34の藩は奥羽越列藩同盟を結成しますが、団結力も軍事力も弱く、会津軍は8月21日に会津領の石筵口(母成峠)の戦いで敗れ、翌々日には鶴ヶ城での籠城戦が開始されました。
籠城戦は約1ヶ月続いたのですが、このときに白虎隊の悲劇や薩長に凌辱されることを拒んだ婦女子の集団自決などがあり、9月22日には会津藩は降伏して鶴ヶ城は開城となりました。
なお、このときの籠城戦の最中、鶴ヶ城を攻めた大山巌は東南にある小田山の頂上から当時最新式であった4ポンド砲を天守に何発もぶち込みましたが、天守は焼失・崩壊を免れています。
相当丈夫だったんですね。
⇒ 【gooブログから】米沢城 ~政宗は自らの居城にはあまり興味が無いのか?~【歴史活動・初期の記録②】
_1280px.png)