2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2013年9月9日に投稿した記事です。
2013年9月9日(月)の探訪レポート
⇒ 【gooブログから】熊野神社 ~南北朝時代に大江一族毛利師親の創建と伝わる高尾の古い神社~【高尾の歴史散歩①】
熊野神社を後にして、次は廿里(とどり)の古戦場と砦の跡を目指します。
実は熊野神社の前の甲州街道(国道20号線)は、イチョウ並木で有名なんです。
ちょっと歩道橋の上に登って見てみましょう。

写真1 甲州街道のイチョウ並木を歩道橋の上から見る(日本橋方面)
これが晩秋になると、黄色いイチョウがズーッと奥まで続いてすごく綺麗なんですよ!
毎年「八王子いちょう祭り」が実施されます。
歩道橋を降りて、今度は旧甲州街道に入って行きます。

写真2 旧甲州街道
ここが近世(江戸時代)の甲州街道ですね。
当時の街道らしく、結構道幅が広いです。
道沿いには黒板塀で囲まれた旧家など、古い歴史を持った家がところどころにあります。
江戸時代の八王子には江戸城の甲斐(山梨)方面を防衛する「千人同心」という人たちがいたのですが、この旧街道沿いには千人同心の末裔の方の屋敷があります。
特に石川家は享保5年(1720)からずっと日記を書きつづり、それは『石川日記』という近世・近代の貴重な歴史史料となっています。
現在は一般の民家なので写真を撮ることは控えましたが、ぜひ現地で実際に歴史ある家の佇まいをご覧くださればと思います。
旧街道を少し歩くと今度は中世の頃の鎌倉街道と交差します。

写真3 旧甲州街道から旧鎌倉街道を見る(北側)

写真4 旧甲州街道から旧鎌倉街道を見る(南側)
鎌倉街道とは鎌倉を中心として各地に伸びた道で、それら複数の道が「鎌倉街道」と呼ばれています。
写真3の路地を歩いて行くと、浅川の支流・南浅川に出ます。
その路地とは少しずれていますが、南浅川には「古道橋」という小さな橋が架かっています。

写真5 古道橋
昔は橋があったかどうかは分かりませんが、おそらく橋は無く、南浅川の渡河地点であったのだと思います。
南浅川から上流を見ると高尾山が見えますね。

写真6 古道橋から上流を見る

写真7 古道橋から下流を見る
南浅川を下っていくと浅川に合流しますが、浅川はそれなりに大きな河川です。
そして浅川はさらに大河である多摩川にそそいでいます。
ただ京王線の聖蹟桜ヶ丘駅と中河原駅の間の多摩川を見ると、現在ではとても水量が少なくなっていることが分かります。
どの地方に行っても必ず聞く話が、その地元の川を指して「昔はこの川はもっと水が豊富だった」という話です。
南浅川も現在では上の写真のようになっていますが、往時はもっと水量が豊富だったのでしょうね。
そうすると、やっぱり鎌倉街道の橋が架かっていたのかな?なんて思ったりもします。
なお、古道橋を渡ってすぐ右手から東側が綾南公園という公園になっており、近隣の人びとの憩いの場となっており、私の母も毎日の散歩コースにしています。
古道橋を渡った後は、北側の段丘上に登ります。

写真8 南浅川北側から対岸を見る
段丘上に上がって、廿里の砦の方向に向かって路地を歩いていると、猫が前を横切って左手の家の駐車場に入って行きました。
駐車場を覗き込むとこちらを向いて座っています。

写真9 警戒している!
結構、身体の大きい猫ですね。
もう少し近寄ろうとしたら、逃げられました!
街角の猫を撮るって意外と難しいんですよ。
さて、この道は写真では紹介していませんが面白い建物が建っていたりして、散歩コースには最適だなあと思いました。
歩いていると、右手前方に小山が見えてきました。

写真10 廿里砦跡遠望
さきほど鎌倉街道をご紹介しましたが、この土地は鎌倉にも十里、秩父にも十里であって、それで廿(二十の意味)里と名付けられたという説があります。
また、関和彦氏の説では、高尾から京王線で20分くらいの聖蹟桜ヶ丘駅近くの落川遺跡(日野市と多摩市にまたがる)から「和銅七年(714)十一月二日 鳥取部直六手縄」と刻まれた紡錘車が出土したことから、この地には鳥取部の人たちが居住していたのではないかと考えられるそうで、もしかすると廿里という地名も鳥取部から来ているかも知れません。
なお、鳥取部(とりとりべ)というは、鳥を捕まえたり飼育したりすることを役目とする朝廷の職のことであり、またその職に就いている人たちのことです。
7世紀以前にあった職なのでそういう昔からこの土地は天皇家と関わりがあったのでしょうか。
ロマンを感じますね。
そういえば、天皇家といえば、今回は探訪していませんが、この地の近くに、
・大正天皇の「多摩陵」
・貞明皇后の「多摩東陵」
・昭和天皇の「武蔵野稜」
・香淳皇后の「武蔵野東陵」
があり、日本史上初めて天皇が関東地方に埋葬されています。
それらを総称して「多摩御陵(たまごりょう)」と呼んでいるのですが、多摩御陵もいずれご紹介したいと思います。
さて、少し長くなってしまったので、廿里古戦場が近づいたところで今回の記事は終わりにします。
続きはまた次回!
参考文献:
『八王子探訪シリーズ1 武蔵陵とその周辺』 地域生活文化研究所
⇒ 【gooブログから】廿里古戦場跡・廿里砦跡 ~戦国時代の高尾で戦われた後北条vs武田の合戦場の跡~【高尾の歴史散歩③】
