【gooブログから】熊野神社 ~南北朝時代に大江一族毛利師親の創建と伝わる高尾の古い神社~【高尾の歴史散歩①】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2013年9月9日に投稿した記事です。


2013年9月9日(月)の探訪レポート

 高尾と言ったら、高尾山が有名です。

 どこでどう間違ってそうなったのか分かりませんが、高尾山は世界で一番登山客が多い山だそうです。

 何と、その数年間260万人!

 しかし今日は高尾山は紹介しません。

 もっとマイナーな、高尾駅から徒歩圏内の史跡をいくつかご紹介します。

 まずは高尾駅北口の駅舎、これ自体が歴史的建造物なんですよね。


写真1 高尾駅北口

 
 あれ、全然マイナーじゃない?

 どうもすみません。

 高尾駅は明治34年(1901)、甲武鉄道の「浅川駅」として開業しました。

 この辺は当時は浅川村と言いました。

 浅川村は昭和2年(1927年)に浅川町となり、昭和34年(1959)年、八王子市に編入されました。

 そしてその2年後に浅川駅も「高尾駅」に改称されました。

 現在の駅舎は「関東の駅100選」にも選ばれているのですが、昭和2年(1927)の大正天皇の大葬時に造られた新宿御苑仮停車場の建材を利用して建てられた総檜造りの建物です。

 現在高尾駅は大規模な改修の計画が進んでいるので、もしかすると何年かの間に現在の駅舎はなくなってしまうかもしれません。(ただこの計画はあまりスムーズには進んでいないようです。)

 改修後も現在の駅舎をうまく再利用できないか考えているみたいですが、高尾にお越しの際には今のうちにじっくりと見ておいてください。

 さて、駅を出て直進すると甲州街道の交差点に出ます。

 その角にひっそりと小さな神社があります。

 山王社です。


写真2 山王社

 
 由来書きによると、この神社は江戸時代の寛政年間(1789~1801)頃からあるそうで、もともとは助七という村人が山に薪を取りに行ったときに猿の死骸を拾ってきてそれを祭ったのが始まりです。

 それ以来4月の初申の日を祭日と定め、現在でも毎年祭りが行われています。

 このあたりは高尾下宿町会というのですが、我が家のある隣の町会であるにも関わらず、まだその祭りに関しては私は何も知りません。

 人知れず200年以上も続いている祭りはこれからも続けて欲しいですね。

 次に甲州街道を日本橋方面に向かい、熊野神社を訪れてみましょう。

 熊野神社の西側には南浅川の支流の初沢川が流れていますが、現在は暗渠となっています。


写真3 熊野神社西側の初沢川(暗渠)

 
 熊野神社の社地は、街道よりも一段高くなっています。


写真4 熊野神社

 
 祭神は素邪那岐命(いざなみのみこと。表記は由来書きの通り)。

 由来書きによると、熊野神社の創建の由来には二つの説があります。

 一つ目は、時代は分からないのですが、諸国行脚の老夫婦がこの地に紀州熊野本宮大社を奉斎したというものです。

 二つ目は、片倉城主毛利備中守師親が応安年間(1368~75)に創建したというものです。

 そして天正元年(1573)には、北条陸奥守氏照が再建しています。

 さて、ここで毛利師親の名前が出てきました。

 古代末期頃、横山荘(八王子市)は、武蔵七党の横山党の横山氏が領主だったのですが、横山氏は建暦3年(1213)の和田義盛の乱で和田氏に加担し滅亡し、その年のうちに、横山荘は鎌倉幕府の政所(まんどころ)別当(長官)を務めた大江広元のものとなりました。

 一方、広元の四男の季光は、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を所領し、毛利を氏としました。

 季光は、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の地頭職にもなり、子孫がその地に土着して師親に至るのですが、師親は南北朝時代に中国・九州地方で活躍しているのにもかかわらず、なぜか八王子市内に伝承が多く残っているのです。

 中国・九州地方を転戦していた師親が果たして八王子にやってきたということはあるのでしょうか?

 実はこの件に関してはまだ研究中であり、はっきりとした答えは出せないのですが、当時の武将は意外と日本全国を飛び回ったりしていたので、師親の八王子来住ももしかしたらあったのかもしれないと考えています。

 でもまだはっきりとは言えないです。

 なお、中国地方の大大名になった毛利元就は師親の子孫です。


写真5 熊野神社社殿

 
 さて、熊野神社境内には境内神社として他にもいくつかの神様が祀られています。


写真6 神様6柱

 
 写真6の神様は、右から

 ・天満宮
 ・山王様
 ・上の稲荷宮
 ・抱蒼神
 ・八阪宮
 ・お杓文字様

 です。

 民俗マニアには、抱蒼神(疱瘡神)やお杓文字様(おしゃもじさま)は堪らないのではないでしょうか。

 なので、現地の由来書きをそのままお見せします。


写真7 お杓文字様の由来

 
 こういう地元密着の面白い話が書いてある神社って好感が持てますね。

 境内神社は他に二つあります。

 一つ目が神武天皇を祭る神社です。


写真8 神武天皇を祭る神社

 
 そして二つ目が、「下の稲荷宮」です。
 (前述の上の稲荷宮と対応していますが、上と下の意味は分かりません。)


写真9 下の稲荷宮

 
 熊野神社境内には、縁結びの木があります。


写真10 縁結びの木
 

 根元がカシとケヤキの相生の木で、かなり立派な木です。

 由来書きによると、この木にまつわる次のようなラブストーリーがあるのです。

 16世紀の終わりごろ、八王子領主北条氏照の家臣篠村左近之助に安寧姫という美しい姫がいて、
 氏照も安寧姫のことを大変可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつも側に置いていた。

 宴ではよく獅子舞が演じられ、そのなかに一際上手に笛を吹く狭間の郷士の息子という若者がいた。

 氏照も笛の名手であったので、その若者をよく宴に呼んで笛を楽しんでいた。

 安寧姫も宴に侍っていたから、必然的に安寧姫とその若者とは顔を合わせることが多くなり、
 いつしか二人は恋仲になってしまった。

 そしてこの木の下で密かに逢瀬を重ねていたという。

 その後二人がどうなったのかは、誰も知らない。

 お話は以上なのですが、名将の氏照のことなので、きっとこの二人を夫婦にしたのではないかと
 私なんかは勝手に想像してしまいます。

 現在、この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を二つ置くと
 願いが叶うそうです。

 ところで、熊野神社のすぐ東側には中世のころは鎌倉街道が走っており(この後探訪します)、
 南浅川の渡河地点でもあるので、熊野神社は戦略上少し気になる位置にあります。

 さて次は、永禄12年(1569)の武田氏と後北条氏の合戦のあった
 廿里(とどり)砦および廿里古戦場を訪ねてみましょう。

 参考文献:
 『八王子探訪シリーズ1 武蔵陵とその周辺』 地域生活文化研究所

 ⇒ 【gooブログから】旧甲州街道・旧鎌倉街道~高尾には旧甲州街道と旧鎌倉街道が残り昔から交通の要衝だった~【高尾の歴史散歩②】

 

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