【gooブログから】相模国府跡 ~相模国府はどこにあったのか?~【相模古代史紀行③】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2017年4月29日に投稿した記事です。


2017年4月29日(土)の探訪レポート

 ⇒ 【gooブログから】前鳥神社 ~相模国大住郡に鎮座まします式内社~【相模古代史紀行②】

 図らずも遭遇した前鳥神社に少し時間を使ってしまいましたが、相模国府の有力候補地に設置してある説明板を見つけに雷電號を巡航させます。

 その場所には地表面で確認できる遺構や復元された物などは一切なく、説明板だけが建っているようなので、その写真を撮ることができれば満足するでしょう。

 大体の場所は事前にWebで調べてあります。

 ただ、大きな通りなので説明板の前に路駐は無理ですね。

 目的地に近付いてきたので、近くに止めるところは無いかなあ?と留意しながら操縦していると、ちょうど良くヘブンがありました。

 ・・・そういえば昼ご飯食べていないなあ。

 ついでに昼を食べよう。

 昔は城跡探訪のために地方へ行くと昼飯もできる限りこだわって、例えば海沿いだったらウニ丼を食べたりしていましたが、今は今日みたいに一人で行動する場合はコンビニで全然構わなくなりました。

 ゆっくり食べている時間があるのなら一つでも多くの史跡を見たいですし、また豪勢なものを食べるお金がない!

 なので、今日みたいに歴史めぐりでちょっと遠くへ来ていても、いつも掃除の仕事で多摩地域を回っているときに食べているものと同じようなものを食べるわけです。

 それでも、コンビニには美味しいものが沢山ありますから、好きなものを食べられるだけで幸せですね。

 お腹一杯になった後は、徒歩で現地へ向かいます。

 説明板のあるのはこの先の交差点のはずだが・・・

 

 事前の調べでは、「高林寺入口」という交差点の近くに立っているようです。

 近接してみると、それらしいものが見えました。

 横断歩道を渡り確認すると、ありました!

 見たかったのはこれです!

 

 説明板が立っている場所はこんなロケーション。

 

 645年の乙巳の変(いっしのへん)から続く一連の政治改革のことを「大化改新(たいかのかいしん)」と呼ぶのですが、大化改新は日本の歴史の中でも明治維新と並ぶほどの極めて重要な画期と位置づけられます。

 とくに私たちの住む東国はこれ以降、かなり社会が変わりました。

 蘇我政権に代わって新しく発足した孝徳政権は、地方の統治を今までになく強めるように施策し、とくに今までほとんど野放しに近かった東国の支配を格段に推し進めようとしたのです。

 孝徳政権は中国の律令(りつりょう)という法律を元に日本流にアレンジしたものを基本として新たな国づくりを始めました。

 なので、これ以降の古代日本を「律令国家」と呼びます。

 律令国家は列島中を60余の「国(くに)」という行政区画に分けたのですが、その中心地、すわなち今で言う県庁所在地のことを国府(こくふ)と呼んでいます。

 私が今探訪している神奈川県の大部分(川崎市と横浜市の大部分を除く)は、相模国(さがみのくに)と呼ばれていたのですが、その国府がどこにあったのかは、まだ決定的な遺跡が見つかっていないので確定が難しいのです。

 国府擬定地に関しては、

 ・国分寺があった海老名市内
 ・総社があった大磯町
 ・上の説明板の通り、「国厨」の墨書土器が見つかった平塚市のここ

 という3箇所が有力とされており、最初は平塚市にあったのがその後大磯町に移ったという意見が多いような感触を持っていますが、私はまだ相模国府の研究は始めたばかりで知識は薄弱なものの、「海老名→平塚→大磯」の三遷説が魅力的に感じます。

 もちろん今後の研究によって手のひらを返すことがあるかもしれませんが、現状の浅い知識の上ではこのように考えています。

 

 そういえば以前は、「国厨」と書かれた土器が見つかったからここに国の厨(厨房)があった、というような考えはおかしいと思っていました。

 例えば、私が自分の部屋で「消防署」と食器に書いたとして、それが100年後見つかったとしてもここには消防署はありませんでしたよね。

 なんてふうに考えて、「信用ならない」と思ったこともあったのですが、日本各地の国府や郡衙(国の下の郡の役所)から発見される遺物をたくさん知った結果、上述のような考えは屁理屈だということが分かりました。

 もちろん土器は移動するので、「国厨」と書かれた土器が見つかったからと言って、そこに国府があったと単純に決めつけるのは危ないですが、それ以外に見つかる土器やその他の証拠を考えて、学者の方々がそう言っているのですから信じてもいいかなと思います。

 さて、次は平塚市博物館へ行きますよ!

 ⇒ 【gooブログから】平塚市博物館【相模古代史紀行④】

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です