【gooブログから】多摩川流域の古代史【下布田遺跡・下布田古墳群・古天神遺跡】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2018年1月2日に投稿した記事です。


年月日()の探訪レポート

 今日も昨日に引き続き、武州は正月らしい穏やかな日和でした。

 みなさん、明けましておめでとうございます。

 東京オリンピック・パラリンピックはいよいよ再来年となりましたが、それはそれとして、2020年は『日本書紀』リリース1300周年ですので、歴史マニアはむしろこちらの方でフィーバーしましょう。

 というわけで、昨年末から今日まで、飲み食いをずっと連続的に行っており、短期間にまたまた腹部が肥大化しました。

 角界も人材不足ですので、あわよくばという想念も浮かびます。

 さて、本日は『日本書紀』や相撲と接続させるには困難な話ですが、東京都調布市の歴史についてチョロッとお話ししたいと思います。

 気がつけばかなり時間が経っていましたが、2014年11月に調布市郷土博物館を訪れました。

 まずは調布市郷土博物館の探訪レポートを簡単にします。

*     *     * 

 住宅街の狭い道を走り、やっとこさ辿りつきました。

 私はたくさんの博物館や資料館を訪れていますが、調布市郷土博物館の「秘境度」はかなり高いです。

 ここでいう「秘境」というのは、人跡未踏とかそういう意味ではなく、ただ単に辿りつくのが困難という意味です。

 まずは縄文時代の展示。

 こういった「顔」がある土器には非常に惹かれるんですよね。

 野川の左岸にある原山遺跡から出ました。

 縄文土器は見ていて飽きないです。

 このデザインも素晴らしい。

 いったい何を表現しているんでしょうね?

 調布市内の縄文遺跡で最も有名なのは、下布田遺跡でしょう。

 他の時代で珍しいものとしては、上石原(かみいしわら)遺跡から出土した平安時代の奈良二彩多口瓶(ならにさいたこうへい)は、東国の集落跡から出土した唯一の例です。

 右のが出土したもので左のが復元品です。

 奈良三彩ではなく奈良二彩と呼ばれていますが、二色でも四色でも「奈良三彩」と呼ぶそうです。

 平成19年3月15日に東京都指定文化財に指定されました。

 たまにお掃除でお伺いする染地地内からは戦国時代の陶器が出ています。

 染地には戦国期に土豪の屋敷でもあったのでしょうか。

 江戸時代にはキリスト教は「邪教」扱いです。

 民俗関係(?)では足踏みオルガンも展示してあります。

 そして調布と言えば、新選組局長の近藤勇の出身地ですね。

 ということで、バーン!と、局長の生家のジオラマが展示してあります。

 主屋の間取りはこんな感じ。

 ちなみに現地はこんな感じになっています。

 昨年2月12日に、東国を歩く会の「第8回 歩く日」で探訪しました。

 館内には局長の坐像もありますよ。

 西光寺の坐像はこちらです。

 西光寺はクラツーの甲州道中歩きでご案内したことがあります。

 調布市内の遺跡地図。

 多摩川左岸の段丘縁はすべて遺跡ですね。

 赤い丸が古墳の位置です。

 私は歴史めぐりで初めて訪れる場所の場合は、まずはその地の歴史系の博物館や資料館へ行くことをお勧めしていますが、つぎに実際の遺跡をいくつかご紹介します。

 昨年(2017年)3月には調布市内の遺跡を少し見てきました。

 まず最初に訪れたのは、国指定史跡になっている下布田遺跡です。

 下布田遺跡は下の説明板に書かれている通り、縄文時代の終わりのころの遺跡で、現在は目で見ることのできる「何か」はありません。

 説明板近辺は単なる野っぱらになっているので、直接的な刺激を受けることはありませんね。

 下布田遺跡の遺構で個人的に惹かれるのは、縄文時代晩期の墓である「方形配石遺構」です。

 私は墓の歴史を追いかけているのですが、縄文時代晩期に方形に石を並べて、その中心には土壙が掘られ、石刀が副葬品として納められていたことはとても興味深いです。

 石刀は形状が刀に似ているだけで実際に刀として使用されたかどうかは分からず、一般的には祭祀の道具と考えられているようです。

 縄文時代はまだ身分格差は生じていなかったといわれていますが、晩期になるとこのように特別な配慮の元で葬られた人物が現れており、ムラのリーダー的立場の人物の力が一般の人たちよりも大きくなっていることが分かります。

 また、石で作られた飛行機鏃と呼ばれるヤジリの出土量が異常で、狩に使うだけとは考えられないほどに大量なことから、もしかしたらこの頃にはすでにムラとムラが戦闘を行う事態が生じていたのかもしれません。

 つぎにやってきたのは、下布田古墳群のなかの狐塚と呼ばれている6号墳です。

 古墳といっても、墳丘らしきものはもうありません。

 狐塚古墳は、説明板に書かれている通り、周溝の内径が44mもあり、この規模の古墳は全国を見渡しても7世紀前半では最大級のものです。

 単純に大きさだけを見れば、同じ頃に多摩川中流域を支配していた有力者の墓である北大谷古墳(39mの方墳もしくは円墳)や武蔵府中熊野神社古墳(一辺が32mの上円下方墳)と同等です。

 この時代には、他に多摩市の稲荷塚古墳や三鷹市の天文台構内古墳も盟主墳として申し分ないので、大化改新前夜、多摩川流域には同じくらいの実力を持った有力者が最低5名も並び立っていたことになります。

 前回の記事でも触れましたが、私は武蔵国府が現在の東京都府中市に誘致された理由を探究していますが、もしかすると北武蔵の有力者に対抗する形で、多摩川流域の上述の各有力者たちが「多摩川同盟」のようなものを結成し、集団でヤマトに対して国府誘致を働きかけたのではないかと思い付いたりしました。

 そう、思い付いちゃっただけなので、まだまだ考察不足です。

 府中市内に国府が来れば、河川交通で繋がっている多摩川沿いの各有力者たちにも旨味があるのではないでしょうか。

 では最後に、古天神遺跡です。

 古天神遺跡は現在、古天神公園となっています。

 説明板に書かれている通り、ここには布田(多)天神が現在地に移る前にあったといわれており、原始時代から墓域として利用されていました。

 調布駅近くの甲州道中沿いにある布多天神は、「第8回 歩く日」やクラツーの甲州道中歩きで訪れています。

 古天神遺跡で特に注目すべきは5世紀の円形周溝墓です。

 古墳とは書いてありませんが、周溝の幅が4~5mというのはかなり大きい、というか特殊なのではないでしょうか(私が知らないだけで珍しいものではなかったらゴメンナサイ)。

 この周辺に広がっている下布田古墳群との関係を含め、非常に興味深い遺構です。

 この公園の南側の地形は多摩川に向かって落ちています。

 しかし子供たちがたくさん遊んでいて写真が撮りづらい・・・

 不審者だと思われる可能性があるので、早々に退散します。

 以上、本日は調布市内の史跡をいくつかご紹介しました。

 多摩川流域の古代史についても興味が尽きないです。

 

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