2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年3月18日に投稿した記事です。
2015年2月1日()の探訪レポート
高坂館を目指して歩いていると、さきほどの古墳があったあたりの森が気になります。

こっち側から回れそうだなあ・・・
でも今日は時間がない。
あとで、『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』を読んだところ、やはりこの森の中に諏訪山古墳群で最大の古墳である諏訪山古墳があることがわかりました。
機会があれば再訪したいです。
先を急いでいると、あれ?何か怪しい地形がありましたよ。

これって、明らかに廃線跡じゃない?
南側は、高坂駅の方へ向かっています。

お、富士山がチラリ。

私はとくに廃線跡に関する資料は持っていないので、後日Webで調べてみると、「なるサイト」内「鉄道探検隊」の「線路を歩こう。」コーナーに詳細な探訪レポートが掲載されていました。
それによると、昭和30年に秩父鉱業株式会社が東松山市葛袋から産出するセメント原料を輸送するため開通させた路線で、昭和59年8月1日に廃線となったそうです。
廃線跡には鉄橋も残っていて、一部は藪こぎをしないと進めない場所もあるらしく、藪こぎって山城めぐり以外でも行う場面があるんだなあと面白味を感じました。
怪しい直線に後ろ髪をひかれながらも、高坂館に向けて歩を進めます。
* * *
住宅街の中をテクテク歩いていると、前方にお寺の本堂の屋根が見え、その前面に土塁が横たわっているのが見えました。

おー、思ってたより立派な土塁!

土塁の外側には空堀も残っていますね。

高濟寺の山門。

高濟寺の全面を東西に走る道の東側を見ると、先が一段低くなっていますね。

高濟寺の場所は微高地になっていて、東側には小さな流れがあります。
境内に入ると、左手に城山稲荷があります。

城山という名前がついているということは、この館跡を城山と呼んでいるのでしょうか?
本堂。

なお、高濟寺には説明板は無く、予備知識がなく来た私は来歴等がまったく分かりません。
『新編武蔵風土記稿』「巻之百九十 比企郡之五 高坂村」によると、曹洞宗高濟寺は大渓山と号し、野本村無量壽寺の末で、開山の大渓和尚は文禄2年(1593)9月29日に寂しているので、戦国末の開山であることが分かります。
高濟寺は中世の頃にこの辺りを治めていた高坂氏の館跡と伝承され、しかも古代には先ほどから見ている諏訪山古墳群の範囲内で、ここにも高済寺古墳という古墳があるのです。
そしてその古墳は中世に土塁として使われていたわけです。
これがそうですね。

そしてここでいつものごとく、「余湖くんのホームページ」から余湖図を引用させていただきます。

余湖図の左上の部分に高済寺古墳があるわけですが、古墳の墳頂は、江戸期にここに陣屋を構えた加賀爪氏塁代の墓地となっており、立派な宝篋印塔も建っています。

古墳の先(北側)にも土塁が繋がっており、折りがついていて横矢が効いています。

南側の土塁を見ます。

上から眺める空堀も素敵。

『日本城郭大系 5 埼玉・東京』によると、城主と伝わる高坂刑部大輔は、秩父平氏一族で江戸氏の流れを汲む古くからの在地豪族で、戦国期には後北条氏に仕えたといいます。
遺構は上述のように高濟寺の西側にある土塁と空堀しか残っていませんが、南側の現在住宅地になっている辺りが発掘調査されており、それによると屏風折りに構築された堀跡が見つかっています。
『埼玉の古城址』では、『城郭大系』の図にある南側の空堀のさらに南側にもう一本空堀があるとしており、現在見られる高坂館の遺構は近世に加賀爪氏が構築したものではないかとしていますが、『城郭資料集成 中世北武蔵の城』では現存する遺構は戦国期の物で、正法寺文書に永禄5年(1562)に北条氏康が松山城を攻めた時に「高坂に陣を取り」とあることから、この段階に整備されたものとしています。
現存する土塁と空堀を見るだけでも充分に見る価値がありますよ。
それでは、時間が無いので高坂駅へ向かいましょう。
うーん、なんかこれも古墳っぽい・・・

高坂駅東口に着きました。

朝飯にセブンで買った「THE チーズバーガー」を食べます。

では、電車に乗って武蔵嵐山駅へ向かいましょう。
* * *
高坂館と高済寺古墳を見た後は、東武東上線で武蔵嵐山駅へ急行します。
埼玉県立嵐山史跡の博物館の隣にある国立女性教育会館で開催される博物館主催のシンポジウム「戦国時代は関東から始まった」は、9時半開場です。
時刻は9時を回っており、道を急ぎたいところですが、途中にある稲荷塚古墳をチラッと見て行きましょう。
2004年2月28日に青森県八戸市の友人と菅谷館を探訪した時は、まだ古墳に興味が無く、確かあの時も稲荷塚古墳の横を通過したような気がするのですが、記憶が定かではありません。
今はバリバリの古墳マニアになっていますので、今日はぜひとも稲荷塚古墳を確認したいです。
武蔵嵐山駅に下車して歩きだすと、埼玉県信用金庫がありました。

2004年に来た時には、ここに「大衆食堂嵐山亭」という食堂があり、私は地方の定食屋が大好きですので、そこでお昼ご飯を食べたのですが、なくなってしまい残念です。
シニア層の群れが同じ方向に向かって黙々と歩いて行きますが、おそらく目的地は私と同じでしょう。

10分ちょっと歩くと中学校の横に円墳がありました。

墳頂に上がると中学校のテニスコートが見え、ここでカメラを構えていると不審者と勘違いされる恐れがありますね。
それでも、菅谷館方面を撮影。

そういえば、私が中学生の時、中学校のすぐ隣には高校があったのですが、私のクラスメイトで、その高校の女子テニス部の練習を見るのを楽しみにしている人間がいました。
私も一回一緒に行ったのですが、ミニスカートから瑞々しい太ももが露出されたお姉さんたちの群れは、中学生にとっては刺激充分でした。
他にもフェンスにかじりついて見ている男子がいましたが、私はさすがに恥ずかしくて凝視できなかった憶えがあります。
ていうか、今思えば、その場にいる時点ですでにそういう人だと思われているのだから、四の五の言わず堪能すれば良かったのにと思いますね。
というのは、おっさん的発想でしょうか。
さて、稲荷塚古墳は横穴式石室が開口していますが、柵があって中には入れなくなっています。

説明板によると、かつてこの周辺には他にも古墳があり、古墳群を形成していました。
石室をのぞいた感じでは、2室構造かなと思いましたが、説明板によると、羨道は平成元年の調査の時にはすでに破壊されていたそうです。
石室のスペックは上の表に記した通りなのですが、都幾川左岸の菅谷台地に狭い分布を示す地域的な特徴のある石室です。
時間もないので先を急ごうとすると、おそらく私と目的地が同じであろう人が、「何だろう?」という感じで説明板を読んでいます。

私は「雑食系歴史マニア」で日本史は原始から近代まで全てに興味があるのですが、大概の歴史好きは特定の時代が好きみたいですね。
ですから、城は好きでも古墳は興味ないとか、近世城郭には興味があっても中世城郭には興味が無いとか、そういうのが普通なわけです。
今日、シンポジウムを聴きに行く人は戦国ファンばかりなので、おそらく古墳に興味がある人は少ないでしょう。
でも好奇心を強く持って他の時代も貪欲に学んでいると、そうしなかった場合と比べて10年後にはかなり違った自分になっていると思いますよ。
11年前にも見た気がするのですが、どうも印象が違うなあと思ったら、『埼玉の古墳 比企・秩父』の写真では墳丘に木が生えています。
近年に伐採したんでしょうね。
なお、該書によると、昭和4年時点で石室に人が住んでいたそうです。
* * *
さて、会場の国立女性教育会館に到着です。

楽しみですな!

中に入ると、何とロビーでは私が好きな岩田書院や戎光祥出版などの出版社が一堂に会してブースを出し、歴史本の即売会をやっているじゃないですか!
しかも2割引きで売っているブースもあります。
ひえー。
私が読むようなマニアックな本は平気で1万円とかするのですが、そういう本がたくさん並んでいます。
あまりにも凄まじい光景で直視できません。
それでもどうしても欲しい本があったので(多摩地域のどこの図書館にも置いていない)、「宵越しの銭は持たない」をポリシーにしている私は、後先考えずに1冊買ってしまいました。
私は「一人出版社」の岩田書院を心から応援している人間ですので、岩田社長にご挨拶ができたのがとても嬉しかったです。
さて、本日のシンポジウムのメニューは、
・基調講演 「享徳の乱と太田道灌」 山田邦明氏
・報告1 「15世紀後半の下野大名と国衆」 江田郁夫氏
・報告2 「戦国時代の河越城とその周辺 ~「かわらけ」から考える戦国時代へ~」 田中信氏
・報告3 「戦国時代の岩付城とその周辺」 青木文彦氏
・討論 パネリストは上記の4名 コーディネーターは長塚孝氏と渡政知氏
です。
中世史好きなら分かる通り、豪華メンバーですね。
講演は10時から16時までやったのですが、途中昼休みには、前回嵐山に来た時からずっと食べたかった、嵐山のB級グルメ「辛もつやきそば」を食べに小走りでここに来る途中にあった「五月」に急行しました。

そして入店するなり、血相を変えて「辛もつやきそば」を注文します。
おー、来た来た!

いいねえ。
写真ではあまり写っていませんが、麺の中にはもつがゴロゴロ入っていますよ。
辛もつだけの単品メニューもあったので、ビールに最高でしょうね。
さて、会場に戻り午後の部を聞き、最後は会場にいらっしゃった峰岸純夫さんが〆の言葉を述べられました。
本日のテーマに含まれている「享徳の乱」という言葉は峰岸さんが名付け親です。
峰岸さんは83歳ですが、今日の講演を聴いてかなり刺激を受けたので新作の執筆のモチベーションがアップした旨のことをおっしゃっていました。
今日は600人くらい聴衆が集まったのですが、会場では「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の高橋さんや、先日の八王子城跡めぐりに参加していただいたKさん(講演会の情報などを教えていただけるのでありがたいです)、それに後北条氏研究で著名なA先生(鉢形城の講演のときに一度お話しさせていただいています)などとお会いでき、なんか2時間かけてやってきた土地で、知っている方々とお会いできて嬉しかったです。
今日も充実した一日でした。
