【gooブログから】【2014年11月15・22日】北武蔵で最大規模の城郭・鉢形城探訪【埼玉県寄居町】

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2020年3月18日に投稿した記事です。


年月日()の探訪レポート

 過去の探訪記録を見てみると、2014年頃は城跡を集中的に訪れています。

 今回は2014年11月に探訪してきた鉢形城跡の記事で当時アップしたものを再アップします。

 内容はほとんど当時のままですので、ちょっと古い情報も含まれているかもしれませんが、ご了承ください。

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 少し前に、埼玉県寄居町にある鉢形城歴史館で、「戦国時代の鉢形城Ⅱ ~北条氏邦とその文書」という歴史講座が開催されるのを知って、受講できるのは抽選ということでしたが、往復ハガキで応募してみました。

 そうしたら見事に当選し、無事に受講できることになりました。

 帰ってきたハガキを見ると、何と整理番号が「1番」です。

 ですので、それを受講しに、2014年11月8・15・22日の各土曜日に出かけてきたのですが、第1回は浦和にある埼玉県立文書館での開催で、第2・3回が鉢形城歴史館だったので、そのついでに鉢形城跡を見てきました。

 いや、「ついでに」とか言ったらまったく失礼で、鉢形城跡へは今まで行ったことがなかったものの凄く良いお城だと聞いていたので、鉢形城跡を見るのもとても楽しみにして行ってきました。

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 ★素晴らしく見応えのある城にウキウキ <2014年11月15日>

 6時に自宅を出て、コンビニで朝ご飯を買って、高尾駅から中央線に乗り、 八王子駅で6時32分発の八高線に乗り換えます。

 お、今日は209系3100番台ですね。

 八高線はその名の通り、八王子駅と群馬県の高崎駅を結んでいるのですが、途中の高麗川駅から北は非電化区間で、そんなこともあって高崎まで直通で行く電車はありません。

 なので、高麗川ではディーゼルカーのキハ110系に乗り換えです。

 ディーゼルカーはたまにしか乗る機会がありませんが、モーターが回って動き出したときに車体に伝わる振動や音が凄く好きです。

 それにしても、高麗川より北は日中は1時間に1本しかなくて、しかも単線なので、すれ違いのために駅に長く停車したりします。

 しかしそれにもかかわらず、高麗川での乗り換え時間は異常に短い時があって、しかもホームが違うので、乗客はみんなダッシュします。

 あまりにもアンバランスなダイヤですね。

 お年寄りとかが急いで乗り換えようとして階段で転んだりしたら大変なので、JR東日本さんには次のダイヤ改正の時に改善してくださるようにお願いします。

 八高線に乗り換えてしばらく経った後、乗客が少し減ったタイミングを見計らっておにぎりを食べます。

 ロングシートに座っているので、混んでいると食べにくいですよね。

 さて、鉢形城は寄居駅が最寄り駅なのですが、今日はわざとその1駅前の折原駅で下車して、徒歩で城跡に近接してみようと思います。

 8時4分に折原駅に到着、無人駅です。

 発車する初めて見る塗装のキハ110系を見送ります。

 さて、まずはトイレに行くか。

 ・・・え、あれ、トイレが無い!

 110系の中で行っておけばよかった・・・ 

 コンビニもないし、我慢するか。

 まあ最悪、日本国家の法律を破って、人目のないところでできるでしょう。

 歩き出すとすぐに左手(西側)に標高227mの車山が見えます。

 鉢形城の攻囲軍が大砲を山頂に上げて、城に向かって撃ったといわれている山ですね。

 中田正光先生の『秩父路の古城址』によれば、とても重たい大砲を上げられるような道はなくて、しかも城までの距離は城域の最南端ですら1kmあり、弾は届かないようです。

 最初の踏切を渡って、線路沿いに北へ延びる道を歩いてみます。

 ちなみに上の写真の線路沿いの道に入らず、広い道をまっすぐ行くと、鉢形城の外曲輪のメインストリートにつながっていますが、ここから280mほど行ったところにある深沢川上流部の三品川と五の坪川の合流点付近に架かる落合橋の近辺には、鉢形城を守るための防御拠点である「西之入小屋」があったと梅沢太久夫氏は推測しています(「北条氏邦の鉢形城入城をめぐって」<『さいたま川の博物館 紀要6号』・『論集 戦国大名と国衆2 北条氏邦と武蔵藤田氏』・『戦国の境目』所収>)。

 500メートルばかり歩いて第一立原踏切の手前に来ると、地図に書いてある北へ向かう道が途切れています。

 それじゃあ、とりあえず川の方向に行くか。

 東へ向かうと、「折原歴史かるた」と書かれた立札があり、「(ぬ)主なくて 永昌寺跡 井戸一つ」と書かれています。

 手元に資料がないのでまったく分かりませんが、ここにかつて永昌寺というお寺があったようです。

 井戸の跡というのも良く分かりません。

 ※帰宅後、『新編武蔵風土記稿』を見てみたところ、同書の「巻之二百二十三 男衾郡之二 立原村」の項によれば、永昌寺は、真義真言宗に属し、榛沢郡大谷村(現・深谷市大谷)の寶積寺の末で、萬念山北條院と号したそうで、『風土記稿』が書かれた江戸末期にはまだ存続していたことから、その後廃寺となったことが分かります。

 こっちからは行けなさそうだな。

 第一立原踏切まで戻ります。

 踏切を渡って西進し北へ折れると、深沢川の支流の谷があり、その向こうの段丘の上に折原小学校の校舎が見えます。

 折原小学校と道路を挟んで東側には、長光山實聞寺(じつもんじ)という日蓮宗のお寺がありました。

 おっと、ここにも「折原歴史かるた」があります。

 「(ま)万灯に 法華の太鼓 實聞寺」

 境内には、奉納された「たわし」が沢山釣り下がっている「たわし地蔵」がありました。

 「(け)現在も 信仰集める たわし地蔵」

 しかし、説明板などはないので、ここも詳しいことは分かりません。

 『新編武蔵風土記稿 巻之二百二十三 男衾郡之二』の「立原村」の項によれば、實聞寺は圓妙院と号し、開山は摩訶一院日印で、開基は鉢形の臣・塀和信濃守景春ということです。

 また、『鉢形城指南』によると、このあたりは「寺町」と呼ばれ、往時は實聞寺のほか、全部で6つの寺院があり、この地域は城域よりも標高が高いため、いざというときに寺を砦として城を守ることを想定していたようです。

 さらに東の方へテクテク歩いていくと、今度は第三立原踏切の先に曹洞宗の吉定寺が見えました。

 八高線が南北に走る線路の位置は、さきほどの實聞寺がある段丘より1段低いです。

 光善院吉定寺は、山号を龍源山と称し、説明板によると、鉢形城が落城し、徳川の統治下になったときに代官としてやってきた日下部吉定が開基したお寺です。

 銅鐘は県指定文化財で、文禄2年(1593)の銘があり、かなり古いものですね。

 「(つ)吊鐘に 残る銘文 吉定寺」

 『新編武蔵風土記稿 巻之二百二十三 男衾郡之二』の「立原村」の項によれば、吉定寺は、遠江国周知郡山名村の大洞院の末で、開山の大雄玄序は慶長7年(1602)5月4日に化しています。

 お、踏切が鳴ってる!

 急いで境内から出ると、ちょうど八高線が通過して行きました。

 さて、ここまで歩いてくると鉢形城跡はもうすぐです。

 鉢形城跡は北側の荒川の河岸とは急崖によって30mほどの比高差があるものの、南側から見るとほとんど平城と変わらない城なので、こちらの方向からは遠くに目立つ城ではありませんが、北の方に何となく城跡を伺わせるような森が見えてきました。

 近づいていくと、第四立原踏切の近くに、大きめの空堀が姿を現しました。

 はい、鉢形城跡に到着です!

 ここまで折原駅を出てから45分くらいプラプラしました。

 さて、ではここで、いつものごとく余湖さんの「余湖図」にご登場願いましょう(「余湖くんのホームページ」から転載)。

 余湖図では左下が北なので注意してください。

 後日、中田先生に会った時に、『秩父路の古城址』の縄張図をホームページに転載して良いか聞いたところ、「そんな古い図は恥ずかしいからやめてくれよ~」と言われてしまいました。

 『秩父路の古城址』に掲載されている縄張図は、最終的に昭和51年にアップデートされたもので、先生によると本を出した後にたくさんの読者から手紙が来て、本に掲載した各城跡の縄張図について、「竪堀が1本多い」とか、逆に「少ない」など、かなり細かいところまで指摘されたそうです。

 どうやら先生にとっては、『秩父路の古城址』の出版は、あまり良い思い出になっていないようです。

 なお、読者からの手紙は往復はがきで来ていたので、返事をしないと失礼だということで、ちゃんと返事を書いていたそうです。

 私は余湖図の右上から城域に進入してきたわけですが、「逸見曲輪」と書かれた右に水堀があり、そこは「諏訪池」と呼ばれ、現在も水を湛えています。

 水堀とその南側の空堀との間は切れていて、食い違いになっており、ここも虎口のように見えますが、大手口は後で述べる別の場所にあります。

 その食い違いから大光寺曲輪へ入ると、若干複雑な造成になっています。

 おや、竜胆(りんどう)でしょうか?

 単体で咲いています。

 それでは大手口へ行ってみましょう。

 余湖図で「馬出1」と書かれている場所で、そこには諏訪神社が祀られており、空堀で囲まれ、南側には土塁があります。

 説明板によると、諏訪神社は元々は日尾城主の諏訪部遠江守が鉢形城の家老として出仕したときに、氏神として信濃の諏訪神社を分祀したもので、鉢形城が落城した後、地元の立原の人たちが守護神としてこの場所に祀ったそうです。

 裏側の空堀は10mくらいの深さがあります。

 馬出から三の曲輪へ入る虎口は高さ5mくらいの土塁で防御されています。

 城の大手門ですから、厳重に構築されているわけです。

 あ、ここにも「折原歴史かるた」があります。

 「(ろ)論よりも 確かなあかし 遺跡掘る」

 中へ入ると、西側が少しだけ1段高くなっており、そこに門が復元されています。

 もちろんこれは、発掘の結果から想定された門ですが、門があったのは確かであり、さっき入ってきた土塁の切れ間にも門があった可能性が高いそうです。

 ただ、そちらは柱穴が確認されなかったため、礎石の上に建てられた門であった可能性があるそうです。

 一旦、門から少し引いたところから見てみます。

 それでは門をくぐって、秩父曲輪に入りましょう。

 石積みも復元されていますね。

 三の曲輪には井戸跡があります。

 三の曲輪の北東隅は空堀が大きく折れており、防御力が高めてあります。

 上の写真の左側が二の曲輪です。

 さて、次は三の曲輪から二の曲輪に入りますが、その入口部分(虎口)が、中田先生いわく、「鉢形城で一番面白い場所」です。

 ここは余湖図で「馬出2」と書かれている、空堀で囲まれた島状の部分に一旦木橋を使って渡るようになっています。

 上の写真の木橋を渡って島状の郭(馬出)へ渡るわけですが、写真右手の暗くなっている部分には実は櫓台があって(現在稲荷神社)、もちろん木橋は敵が攻めてきた際には破壊して渡れないようにするのがセオリーですが、わざと橋を掛けっ放しにするという作戦もあります。

 そうした場合、攻撃側は橋に殺到して、1列になって渡ろうとするわけですが、側面を上の写真の稲荷神社の場所にさらしてしまうので、そこから狙い撃ちにされてしまうわけです。

 また、橋は当然ながら手すりとかは付いていないはずなので、ごった返した橋から落ちる兵もいるわけで、空堀に落ちたら這い上がるのはほぼ無理です。

 馬出から三の曲輪を見ます。

 二の曲輪に入って、さきほどの稲荷神社の櫓台を見ます。

 二の曲輪から三の曲輪を見ると、むしろ三の曲輪の方が少し標高が高いので、これに関しては防御し辛さそうです。

 二の曲輪の三の曲輪側の空堀脇には高さ1~1.5m、幅10mくらいの広い土塁があって、そこに登って東隅まで行って三の曲輪方面を見てみます。

 この土塁によって標高差が緩和されています。

 三の曲輪側の空堀沿いには土塁がありませんが、もしそこに土塁を作ってしまうと、三の曲輪が敵に占拠された場合に、その土塁によって防御されてしまうので、わざと作っていないのだと思います。

 二の曲輪の北東側へ行くと、稲荷神社の参道があり、良い感じの鳥居がありました。

 では、主郭に行く前に、一旦深沢川を見てみましょう。

 二の曲輪と一の曲輪の間の車道が二股に分かれるところから東へ降りて行くと、単体ででかい土塁があって、その向こう側には民家がありました。

 城域を南北に流れる深沢川は、深いところで水面と20mくらい比高差があります。

 深沢川の西側が城の本体で、東側は家臣の屋敷があった外曲輪となります。

 外曲輪の方は、あとで鉢形城歴史館に行く際に見ることにして、次に「古城」と呼ばれる最もコアな部分を見てみましょう。

 「古城」部分は、今まで見てきた他の曲輪と違って、ここだけ比高差があります。

 「古城」は、鉢形城が長尾景春によって最初に築城されたときに造られた部分と考えられ、私の推測ではその後の山内上杉顕定の時代に現在見ることができる、三の曲輪までの本体部分の原型が築城され、氏邦の時代に深沢川以東の外郭を作るとともに、山内上杉氏時代に造られた部分の改修を行ったのではないかと考えます。

 少し前までは、山内上杉氏が築いた城はしょぼくて、北条氏によってそれらの城が格段にヴァージョンアップされたというイメージが普通でしたが、現在では山内上杉氏時代にもかなり技巧的に優れた城を造っていたことが分かっています。

 さて、「古城」の西側は、荒川の崖なので、そちらから攻められる可能性はまずありませんが、なぜか崖に沿って低い土塁が築かれています。

 中田先生は風除けと考えているみたいですが、なるほど、「古城」部分に上がると、かなり風が強く、さきほどまでの日向の下の穏やかな空気感とは違います。

 「古城」部分には櫓台があります。

 「古城」部分を北へ歩いて行き、とりあえず大体は見れたということで、次は一旦、寄居駅の方へ歩いてみましょう。

 ★寄居の町をプラプラ

 荒川に架かる正喜橋から北側の下流方向を眺めてみます。

 お、何かカヌーをやっていますね。

 橋の上でカメラを構えていると、交通誘導のおじさんが、「良いのが撮れましたか?」と聞いてきました。

 鉢形城跡がある南側は残念ながら逆光になってしまい、まともな写真は撮れないので、「うーん、微妙です」と、私は煮え切らない態度を示しました。

 橋を渡って行けば寄居の町なのですが、何となく逆方向へ行きたくなったので、渡りかけた橋を引き返すと、お蕎麦屋さんの前に白猫が寝ているのを発見しました。

 近づいていくと・・・

 気付かれた!

 白猫は慌てて逃げ去って行きました。

 お昼寝のところを申し訳ない。

 さらに少し東へ進むと、「鉢形城三鱗会」の看板がありました。

 矢印の方へ行ってみると、「鉢形城三鱗会」の屯所がありました。

 櫓もあって凄いですね。

 滝山城の会もいずれは屯所を作りたいなあ。

 さきほどの看板のところに戻ってくると、どうやらそこには鉢形城で戦死した人たちの慰霊ゾーンになっています。

 かなり立派な慰霊碑ですね。

 それでは再度、橋を渡って寄居駅へ向かいます。

 路地を歩いていると、なかなか良いデザインの建物がありました。

 病院のような感じですが、よく分かりません。

 お、また猫だ!

 猫は塀から飛び降りると、素早く道路を横断して走り去りました。

 街道に出ると、商店街になっています。

 お、模型屋さん!

 看板に大きくガンダムが書かれているのが良いねえ。

 タミヤのマークも懐かしいです。

 子供にとっては天国のような店でしょうね。

 再び路地へ入り込むと、木の上にまたまた猫ちんが!

 近寄って行くと、どうやら逃げたいようだけど逃げれない感じです。

 それにしても、寄居は猫が多いですね。

 またまた素敵なデザインの建物があります。

 ロゴが気になりますが、何でしょうか?

 こちらも良く分かりません。

 ★今井屋で名物ソースかつ丼を食す

 さて、そんな感じで寄居駅南口まで来ました。

 時刻は11時ちょっと前。

 ちょっと早いけど、お昼ご飯が食べられる店はないかなあ・・・

 駅前には唯一、蕎麦屋がありますが、まだ開店していません。

 少しフラフラすると、食堂らしき建物の前に数人の行列ができているのを見つけました。

 ちょうどお店の人が出てきて、のれんを掛けてオープンしたので、私も行列にくっついて行って中に入ります。

 テーブル席が4つあり、私が入って満席となりました。

 メニューを見ると、かつ丼とその他数品。

 一目でかつ丼が看板メニューであることが分かります。

 すると、面白いことに、お店のおばちゃんは、みんなに向かって「みなさん、かつ丼で良いですか?」と聞きました。

 お、否応なしにかつ丼か!!

 いやいや、望むところだ!!

 さて、出てきたかつ丼を見ると、想像とは違いました。

 ご飯の上に天丼のたれのような味のついたカツが乗っかっているだけです。

 卵&玉ねぎでとじているわけでもありません。

 なんか不思議なかつ丼です。

 味噌汁もついていなくて、これは作るのは超簡単ですね。

 そして値段は意外と高くて850円します。

 後で知ったのですが、これは寄居で密かな名物となっている「ソースかつ丼」で、3件ほどの店で出していているそうです。

 ただ、「ソース」と冠していいのかは疑問です。

 さらにその後、ソースかつ丼は群馬でも散見し、福島の会津でも流行っていることを知りました。

 カツもご飯も結構ボリュームがあるので、隣のおじさんは「多いわー」と言って、食べるのに四苦八苦していました。

 お店にはどんどんお客さんが入ってきて、奥の座敷も一杯になり、60歳くらいの夫婦が私と相席になったのですが、緊張しているのか私を警戒しているのか、夫婦間での会話もまったくなく静かに座っています。

 いつもであれば、こういう地元の人に話を聴いたりしますが、何しろお客さんがどんどん来て、待っている人もいるので、私も早く食べて出なきゃ悪いと思い、その夫婦に話しかけることをしませんでした。

 お持ち帰りを注文する電話もひっきりなしに掛かってきて、このお店はかなり繁盛しています。

 他に近所に食べるところがなくてライバルがいないのも勝因かもしれませんね。

 明治時代から続く老舗のようですが、こういった地方の食堂には今後も頑張ってもらいたいです。

 ★鉢形城歴史館で石塚三夫館長の講義を受講

 それでは、元来た道を戻り、鉢形城歴史館へ向かいましょう。

 お、また猫!

 今日は猫、4匹目です。

 今度は外曲輪の東側にある往時の城下町のメインストリートを歩きます。

 殿原小路を南下すると、食い違いがありました!

 食い違いは全国の城下町の道で見られるもので、道をわざと屈曲させることによって、進撃してくる敵の攻撃力を弱めることができます。

 現在では片側1車線の道としては写真の通りカーブになっていますが、往時の90度にカクカクと曲がる道も残っています。

 食い違いの場所から西へ向かう路地へ入って行くと、今度は長い土塁を発見しました。

 この土塁は200mくらい続いています。

 こういう「長城」みたいなの好き。

 さて、そんなわけで鉢形城歴史館へやってきました。

 鉢形城歴史館では現在、「関東三国志 越相同盟と北条氏邦」という企画展をやっています。

 今日は冒頭で述べた通り、「戦国時代の鉢形城Ⅱ ~北条氏邦とその文書」という講座の第2回を聴きに来たわけです。

 開講までまだ少し時間があるので、館内を見学します。

 なお、館内は写真撮影NGなので、写真は無いです。

 受付を済ませ階段を降りて行くと、城門の原寸大の復元があり、それをくぐると展示コーナーです。

 なかでも鉢形城とその周辺の模型はかなりの完成度で、今までいろいろなところでこういった物を見てきましたが、これはかなり凄いです。

 私もこういうのは大好きなので、いつまでも眺めていたいですが、次に企画展の方を見学します。

 古文書や鎧などが展示されており、北条氏康が実際に手に持っていたであろう軍配や、武田氏重代の家宝である「楯無」鎧のレプリカもあります。

 つい先月、山梨県の雲峰寺で「楯無」と対になる「御旗」を見てきたばかりなので、個人的にはタイムリーです。

 さて、時間になったので講義会場へ行きます。

 今日の講師は石塚三夫館長です。

 お題は「越相同盟と北条氏邦」。

 私にとっては氏邦は今までほとんどノーマークでしたので、この日の話は初めて聞くことだらけで、とても面白かったです。

 駿河の今川義元と甲斐の武田信玄、それに相模の北条氏康は、俗に言う「三国同盟」を結んで、それは上手く機能していたのですが、義元が信長によって討たれた後、嫡男氏真が継いで弱体化した今川氏を見た信玄は、今川氏との同盟を破って駿河に攻め込みます。

 氏康は娘を氏真に嫁がせており、その娘は信玄の攻撃にあって逃げる際に、輿にも乗れず、歩いて逃げる羽目になってしまい、氏康は「この屈辱は雪ぎ難し」と激怒します。

 信玄的には氏康を敵にはしたくはなかったと思いますが、北条からしてみると、やはり武田より今川の方が親しいので、北条も武田と敵対することに決めます。

 そして、そうなった以上は、武田の最大のライバルである上杉と結ぶ方向に行くのが自然の流れです。

 それが今回のテーマである「越相同盟」です。

 「越相同盟」を締結するに当たっては、氏邦が責任者となったわけですが、実はその陰で、氏邦のお兄さんである氏照も別ルートから交渉を進めており、上杉側からは「一本化して欲しい」と言われていたみたいです。

 この次の週の浅倉直美先生のお話しを鑑みると、どうやら氏照・氏邦の兄弟は、従来からのイメージである「仲良し兄弟」と言い切ることはできず、実は蔭ではいろいろあったようです。

 まあ、氏邦だって氏照だって、一個の人間なので仕方がないですかね。

 さて、楽しい講義の後は、企画展の展示室へ皆で移動し、石塚館長から説明を受けました。

 先ほども気になった、「楯無」のレプリカに関しては、福島県白河市の鹿嶋神社所蔵の鎧で、松平定信が寛政7年(1795)に明珍宗政・宗妙に模造製作を命じたものです。

 今回の企画展にあたり、石塚館長はどうしても「楯無」の展示をしたくて全国を探してようやく見つけたそうです。

 なお、こういう優れたものは、全国の博物館から引っ張り凧になるので、なかなか借り受けて展示するのが大変だということでした。

 さて、鉢形城歴史館の見学を終え、家へ帰るとします。

 途中、酒屋さんで「氏邦」という日本酒(純米酒)を購入。

 今日初めて知ったのですが、寄居には藤崎摠兵衛商店という酒蔵があって、「氏邦」は氏邦400回忌で特別に醸造されたお酒だそうです。

 寄居駅から八高線に乗って帰り、高尾につくと「たかお食堂」で夕飯を食べ帰宅しました。

*     *     *

 ★浅倉直美先生の講義を受講 <11月22日>

 さて、先週に引き続き、今日も鉢形城歴史館へ行きます。

 「戦国時代の鉢形城Ⅱ ~北条氏邦とその文書」の第3回(最終回)を受講しに行くのですが、当初は午前中に花園城跡という山城を見たいと思っていました。

 でも、最近はかなり疲労が溜まってきているので、無理しないほうが良いと判断し、朝はゆっくり起きて、8時45分に家を出ました。

 そんなわけで、今日も八高線に乗って寄居駅へやってきました。

 寄居駅までは我が家から2時間くらいで行けて、駅から鉢形城跡までは15分くらいなので、そんなに遠くありません。

 その昔、2時間かけて都心に通勤していたことを考えると、寄居町くらいだったら今後も気軽に来れそうです。

 今日はまずは北口に降ります。

 北口の駅前には寄居町役場があります。

 そして、町立図書館もすぐ近くにあります。

 お目当てはもちろん郷土史のコーナー。

 さて、郷土史コーナーにある気になる本はザッと見たので、途中お昼を食べつつ、鉢形城歴史館へ向かいましょう。

 ところが、事前に調べていた店は休みで、第二候補もどういうわけかお店自体がなくて(もしかしたら自分の地図の確認違い?)、結局正喜橋のそばにあるセブンでお昼を買います。

 そして、正喜橋の上で、立ちながら食事。

 荒川の綺麗な景色を眺めながら、最近お気に入りのセブンの「チーズバーガー」を食べ、今度は城域に入り、笹曲輪にある東屋でおにぎりを食べます。

 そして、講義の前に前回行きそこなった場所へ行ってみます。

 それは、三の曲輪の外側にある弁天社です。

 ここは往時、池であって、池の真ん中には島があり、そこに弁天様が祀られています。

 現在でも湿地になっていて、島には近づけませんが、これと同じような場所が八王子の滝山城跡でも発見されています。

 滝山城跡の方は、比較的最近になって「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」による下草刈りによって発見されました。

 滝山城跡の方は、鉢形城跡から類推して、そうではないかと言われている段階で、まだ確実に弁天島だったかどうかは分かりません。

 さて、時間になったので鉢形城歴史館へ向かいます。

 今日の講師は、浅倉直美先生で、お題は「北条氏邦とその文書」です。

 タイトル通り、氏邦の文書についての話が中心で、古文書の種類には主として竪紙(たてがみ)・折紙・切紙・小切紙の4種類があって、氏邦文書は折紙形式が多いそうです。

 折紙の大きさは、A3より一回り大きいくらいで、切紙はその半分、小切紙はさらにその半分です。

 秀吉との対決が迫った、天正年間の終わりころには、発給する文書も小切紙が多くなったそうです。

 というのも紙もそれなりに貴重なものですから、発給する文書が大量になって、費用を抑えるため、もしくは紙不足を解消するためにそうなったようです。

 あとは、最近では氏邦の母が今川氏ではないということも分かって来たそうです。

 今までは、氏政・氏照・氏邦・氏規は、全員同じ母で、仲良し兄弟というイメージがありましたが、氏邦はどうやら側室の子(浅倉先生は重臣の三山氏の女と推定している)だったようです。

 実際、現存する文書を見ても、氏邦の扱いは他の兄弟よりも軽いのです。

 さらに浅倉先生は、氏邦の生年も新たに天文13年(1544)生まれを提唱しています。

 これに関しても何点か根拠を示されましたが、この辺の詳細は浅倉先生が一般向けに書籍を出していただくことを期待して、ここでは詳細を省きます。

 実は浅倉先生のお名前はごく最近知って、黒田基樹先生と共著(正確には共編)である『論集 戦国大名と国衆2 北条氏邦と武蔵藤田氏』を今週手に入れて予習して行きました。

 そしてまた大変失礼なことに、浅倉先生は男性とばかり思っていたところ、女性でした。

 休憩時間に先生と少しお話をさせていただいたのですが、正直にその件を伝えると、「良く言われます。文章も男っぽいと言われますよ」と仰っていました。

 歴史の研究家は男性が大多数なので、完全な思い込みですね。

 さて、そんな感じで非常に勉強になった一日で、2時間以上かけて行った甲斐がありました。

 講義を終えて、深沢川を渡り、本城に入り、駅へ向かっていくと、途中土塁が切れている場所があります。

 これなんかは、道を造るために分断した例ですね。

 正喜橋を渡って、荒川の下流を見ます。

 写真の鉄橋の上にちょうど良く東武東上線が走ると嬉しかったですが、そんなに都合よく電車は来ません。

 寄居駅の近くまで来ると、たいやきが売っていました。

 おやつにちょうど良いです。

 寄居駅では、まだ汽車が来る時刻まで時間があるので、少し駅構内の撮影をしてみましょう。

 秩父鉄道の機関車。

 東武東上線。

 秩父鉄道6000系。

 こちらも秩父鉄道、7000系。

 実は秩父鉄道は一度も乗ったことが無いのですが、他の会社から移籍してきたいろいろな車両が走っていて楽しいです。

 小学生当時、鉄道マニアだった頃は、現在の秩父鉄道のような、塗装を含めて車両の統一が取れていない状況は非常に気に食わなかったのですが、今ではそれが逆に楽しいと思えるようになりました。

 私が子供の頃に走っていて、元々の会社においてはとっくに引退した懐かしい車両がたくさん走っているので、今度は電車に乗るのも兼ねて秩父方面の城めぐりをしてみたいです。

 さて、以上で2日間に渡った鉢形城跡探訪のレポートを終わります。

 

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