2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2018年9月24日に投稿した記事です。
年月日()の探訪レポート
念願の見瀬丸山古墳の探訪を終え、時刻はすでに6時45分です。
当初は朝食が始まる6時半までにホテルに戻ろうと思っていましたが、全然間に合わなかったですね。
ホテルの朝食は美味しいですが、歴史の旅で来ていますから、最悪朝食は食べられなくてもいいかなと思います。
焦らずに、最後の探訪地へ向かいましょう。
近鉄の岡寺駅の前まで来ると道標を見つけました。


「欽明天皇御陵 南六丁」というのは、明日香村にある墳丘長140mの前方後円墳である梅山古墳のことです。
「天武天皇持統天皇御陵 東十丁」は、同じく明日香村にある八角墳の野口大墓のことです。
マンションの前には石柱があります。

「式内大社牟佐坐(むさにます)神社」とありますね。
ここはもう神社の参道になっていて、近鉄の踏切を渡り境内へ向かいます。

踏切のたもとにも道標を見つけてしまいました。
孝元天皇の宮殿のあった軽境原宮(かるのさかいはらのみや)を指し示しています。

ちゃんと「伝説地」と書いてあるところが素晴らしい。

これを建てた大正時代でも、きちんと伝説地という認識があったんですね。
つまりは、軽境原宮の伝説地が牟佐坐神社なわけです。
いいねえ、こういうホームと線路。

単線ですよ、どうかしましたか。


天神大橋で川を渡ります。


境内社がありますが、何の神様か分かりませんでした。

石段を上がり拝殿へ。

由緒書きを読んでみましょう。

※字が薄いので加工

江戸時代初期まで榊原境原天神と呼ばれていたので、先ほどの橋は天神大橋という名前だったのですね。
古代はどうだったかというと、現在は小さな神社ですが、古代においては大変権威のある神社だったのです。
ちょうど邪馬台国の卑弥呼の時代、中国では後漢王朝が滅びました。
その後、後漢の皇帝一族の阿知使主が日本に逃れてきて、大和国高市郡の身狭(牟佐)に居住し、それがのちに東漢氏(やまとのあやうじ)として倭の朝廷内で活躍します。
その子孫、身狭村主青(むさのすぐりあお)は、第21代雄略大王のもとで活躍したといわれています。
『日本書紀』によると、672年の壬申の乱の際、高市郡大領高市県主許梅に高市社の事代主神と身狭社(牟佐坐神社)の生霊神が憑依し、大海人皇子(後の天武天皇)を守ると神託したため、即位した天武は、身狭坐生霊神に史上初となる神位を授けました。
神階というのはその名の通り神に授ける階級のことで、人間に授けるのと同様に神にも授け、それにより神に加護してもらったり、神の怒りを鎮めて天災から逃れようとしたのです。
なお、時代は下りますが、平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の坂上氏は東漢氏に属します。
以上が神社の歴史なわけですが、この神社の境内に孝元天皇の宮殿があったというのは伝承の領域に属します。
というわけで、文字通り「朝飯前」の歴史探訪はこれにて終了です。
橿原神宮前駅の一つ隣の岡寺駅の近くまで来ているので、帰りは電車に乗って帰ろうと思います。
でも本数が少ないんですよね。
時刻は今7時ちょっと過ぎですが、次の電車は7時23分で、20分ほど時間があります。
まあ、たまにはのんびりするか。
ホームからは見瀬丸山古墳の「古墳チラリズム」。

お、通過電車が来る!

2両編成、可愛い!

反対側も来ましたよ。


待っていた電車が来たので乗車。
車窓から見瀬丸山古墳を激写します。

どこまでもしつこい人ね。
橿原神宮前駅に到着、改札へ向かうまでに最後の一葉。

近鉄、いいねえ。

結局、7時半過ぎにホテルに帰着しました。
今日は8時半出発なので、朝ご飯を食べる時間はありますね。
急いで食べます。

急いでいても、ご飯は2膳、デザートも食べます。

ああ、美味しかった!
それでは、本日のツアーも頑張ってきますよ!
