2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2021年2月15日に投稿した記事です。
年月日()の探訪レポート
雷電山古墳の次は、比企地方最大の前方後円墳である野本将軍塚古墳へ向かいます。
ここは古墳の前にある市の施設に広大な駐車場があるため、車はそこに停めて安心して探訪することができます。
まずは説明板を見に行きましょう。

野本将軍塚には何度も来ているのですが、野本館跡の探訪はしたことがないので、今回はせっかくなのでそちらの方にも行ってみます。
古墳の北側にある無量寿寺が館跡です。

本堂の裏手に土塁や空堀の跡があるそうですよ。
山門。

山号は利仁山。

利仁というのは、さきほどの説明板には一言も出てきていませんが、藤原北家房前の五男・魚名(うおな)の後裔です。
魚名は奈良時代の後半に活躍した貴族で、光仁天皇の篤い信頼を得て大幅に出世し、つぎの桓武天皇の時にはついに左大臣となり太政官のトップに立ったのですが、なぜかそのあと大宰府へ左遷となります。
いまちょうど、私はクラツーで『続日本紀』講座をやっているのですが、いずれ魚名も登場することでしょう。
その魚名の長男に鷹取がいて、鷹取から4代後(つまり玄孫)に利仁がいます。
このように血筋の良い利仁ですが、本人は地方官を歴任し、坂東ではその武勇で群盗退治に活躍しました。
時代は10世紀の初めで、平将門の乱が勃発する少し前ですから、藤原秀郷と同じように軍事貴族として活躍した人物と言え、いわば武士のルーツのような人ですね。
その利仁がこの場所に館を構えたとの伝承があることから、無量寿寺の山号にもなっており、またこれから見に行く将軍塚古墳とも絡みがあるのです。
ちなみに、利仁の後裔氏族として伝わる中でとくに有名な一族として美濃斎藤氏を挙げることができます。
そして埼玉県内には美濃斎藤氏が滅んだ後に、その家臣が移住してきたという話もあるため、いろいろな世代が絡み合って面白い伝承を積み上げているのかもしれません。
本堂。


さ、裏へ。
これが土塁かな?

土塁の一部が残存しているようにも見えますね。
高さもちょうどよいですが、登ってみると土のしまりがかなり緩い。

最初は古墳を土塁の一部に使用したのかなとも思いましたが、そうではなさそうです。
土塁の外側には浅い掘り込みがあって、おそらくそれが空堀の跡だと思います。

ただ、さらにその外側にも僅かながらの土の高まりがあり、それも土塁の跡に見えなくもないです。
ということは、説明板に書いてあった二重堀というのがこれでしょうか。
うーん、微妙ですね。
では、古墳へ行ってみましょう。
さきほどの説明板があったのは後円部の麓なのですが、お寺の方に後円部が向いています。

いつ見ても急角度だ。
クラツーの私の古墳ツアーでは、以前は埼玉古墳群のツアーの際に、この古墳と川越の山王塚古墳をくっつけていました。
その行程でやる予定は今後はありません。
まずは前方部へ行きます。
前方部のエッヂ部分。

前方部の斜面もかなり角度があります。
くびれ部分から後円部を見上げます。

後円部の墳頂には利仁神社があります。

利仁神社は、延長元年(923)の創建と伝わり、もともとは無量寿寺の境内に社があったそうですが、明治の神仏分離の際に墳丘に遷されたそうです。
将軍塚という名前は、無量寿寺が利仁の館であったという伝承があったため、それに因んでいつの時代にか誰かがそう呼び始めたのでしょう。
もしかすると、利仁がここに葬れていると思った人もいたかもしれませんね。
後円部から見下ろしても、やはりかなりの角度。

ひょっとすると、中世の野本氏はこの古墳を砦として使用するために、人工的に急角度に造成したのかなとも思い、後述する平成29年の調査の際に作成された詳細な墳丘図を見てみると、3段になっている後円部のうち、3段目に比べて1段目と2段目の法面の等高線が非常に密です。
元々こういう急角度の設計だったのかなあ?
ちなみに野本将軍塚の墳丘はほとんどが盛土だと考えられるそうです。
ところで、野本将軍塚は以前よりその築造年代を決めることができないでいました。
周辺の遺跡の発掘結果などを含めて検討すると、前期の古墳という説が有力となってきて、ついに平成29年3月に東松山市教育委員会と早稲田大学文学部考古学コースが共同で非破壊調査を行いました(『3D技術でせまる将軍塚の謎』より)。
結果的には、3次元計測により後円部が3段、前方部が2段であったことが確実となり、地中レーダー探査により、後円部墳頂に主体部が発見されました。
主体部は地表から175㎝ほど下に川原石で構築された南北8m、東西3.5mの空間があり、おそらくこれは槨でしょう。
そしてその中央は凹んでおり、舟形を呈していることから、割竹型木棺を設置したのかもしれません。
舟形の礫槨といえば、埼玉古墳群の稲荷山古墳もそうですが、稲荷山古墳の場合は舳先を富士山の方向に向け、被葬者は頭を艫の方へ向けています。
野本将軍塚古墳の墳丘はほぼ南北の軸で、それと方向を合わせて槨を造り、棺を安置したことが分かり、もしかしたらこちらの被葬者も稲荷山の被葬者と同様に富士山方向に船で送られていく想定だったのかもしれません。
上述書ではこのような埋葬主体の特徴も古墳時代前期の終わりころ(前方後円墳集成編年の4期)の築造と考えられる根拠の一つとしていますが、前方部と後円部の高低差が大きく、さらに前方部の底辺も今見られるように往時から広がっていなかったことが判明していますから、そういった形状からすると明らかに前期の古墳といえますね。
ところで、早稲田大学は以前から非破壊調査を推し進めており、2012年には千葉県横芝光町の殿塚・姫塚を調査しており、他にもいくつかの古墳や古代寺院を調査しています。

※殿塚古墳
今後は非破壊調査の技術の発達とともに、古墳の謎がどんどん解き明かされていくでしょう。
楽しみだ。

ところで、野本将軍塚古墳の被葬者像についてですが、この古墳は都幾川左岸にあり、北條芳隆さんなどは川の津の司を葬ったという説を述べています(『考古学リーダー26 三角縁神獣鏡と3~4世紀の東松山』)。

「津の司」説は、従来の単純な「支配者」という表現をより具体的に表していて、津の近くには市があり、そこが地域の経済的拠点となることから、「支配者」としての条件の一つとしてそういった湊や市場の管理というのは十分に考えられると思います。
ただ、野本将軍塚古墳の墳丘の軸は既述した通りほぼ南北方向で、都幾川方面から墳丘側面が見えるというわけではありません。
でも、同じ「見せる」という効果でも、一般的にいわれる側面を見せることだけが行われていたわけではないと考えてもいいでしょう。
上述書では、南北方向、つまり北辰を重視する信仰があったと推測していますが、周辺の遺跡を見ると、北に1.5㎞の場所に五領遺跡、南に1.5㎞の場所に反町遺跡があり、これらは南北に並んでいます。
北辰は遊牧民もそうですが、航海をする人々も移動する際に目標とした星です。
この地にやってきた東海人が北辰信仰を持っていたのか、興味ある問題ですね。
古墳時代の大規模な集落跡である五領遺跡は、上述書所収の「集落遺跡が語る東松山の3~4世紀の社会」(坂本和俊/著)では、「古墳時代前期に野本将軍塚古墳の被葬者が居住した居館の周囲に形成された集落遺跡だと推定」し、居館跡は見つかっていませんが、この説は当たっているのではないかと考えます。
そういったことから、この古墳の前方部の延長線上の都幾川河畔に津があった可能性があるでしょう。
また、上述の「集落遺跡が語る東松山の3~4世紀の社会」では、野本将軍塚古墳は奈良県の宝来山古墳(垂仁天皇陵)の2分の1の相似形墳としています。

※垂仁天皇陵
さらに、山梨県甲府市の天神山古墳も垂仁陵と形状が似ているとし、反町遺跡の玉製品工房からは山梨県産の水晶が発見されているのも興味深いです。
ただし、垂仁陵の2分の1説には早稲田大学の城倉教授の的確な反論がありますので、詳しく知りたい方は奈良文化財研究所のHP「全国遺跡報告総覧」内にアップされている、『野本将軍塚古墳と東国の前期古墳』(城倉正祥/編)を読んでみてください。
※城倉正祥(じょうくらまさよし)教授はまだお若いですが、デジタル技術を武器とした気鋭の研究者として活躍されており、これからの研究の成果も非常に楽しみな方です(偉そうにすみません)。
さて、そろそろお昼の時間ですね。
ここでいったんランチをしてから午後の探訪をしましょう。
2017年5月4日(木)古墳ドライヴ①
この日の探訪箇所
8時に高尾駅集合。
事前に皆さんにメールで「高尾駅集合」と伝えたところ、その段階では北口とも南口とも明記していなかったのですが、岸本さんからの返事で「南口ですね」と書いてあったので、たかお食堂がある南口をデフォルトとしてあるところが流石だなあと思いました。
予定通り全員集まり出発です。
高尾山ICから圏央道へ入ると、いきなり固着した渋滞となっていて驚きましたが、渋滞は八王子Jct方面から中央道へ向かうレーンだけだったの安心しました。
皆さん、山梨方面に遊びに行くのでしょう。
圏央道はあまり渋滞するイメージがないのですが、今日も順調に雷電號は巡航します。
やがて鶴ヶ島Jctに近づくと、関越道へ入るほうが動いていません。
ついに来たか。
本当は関越に入って東松山で降りたかったのですが、全然進まないので引き続き圏央道を走り、坂戸ICで下に降ります。
あ、ちなみに最初に向かっているのは東松山市にある野本将軍塚古墳ですよ。
途中、コンビニでトイレ休憩をして、軽い渋滞に巻き込まれながらも10時にようやく野本将軍塚古墳に到着です。

高尾から2時間もかかってしまいました。
やはりGWはお出かけには不向きですね。
でも今日しか時間が取れなかったので仕方がないです。
ちなみに、道が空いていれば我が家から群馬県太田市の太田天神山古墳までは1時間半で行っちゃいますよ。
さて、野本将軍塚古墳は初訪問となります。
西側の鳥居から古墳に入りましょう。

野本将軍塚古墳は前方後円墳ですが、木々に覆われており、また墳丘もいろいろとデコられており、墳丘のフォルムを楽しむのには向いていませんね。

まずは前方部に登ります。

前方部墳頂には日露戦争の忠魂碑などが建っています。

ところで、もともとずっと山歩きをしていて、たかお食堂で私と知り合ってしまったがために東国を歩く会に参加することになってしまったヒラさんは、第1回目の「歩く日」で津久井城を歩いて、山城も意外と面白いと感じたようです。
そして今日はついに初めて前方後円墳に来たということで、これからも私たち歴史マニアと共感できるポイントが多くなってくれれば嬉しいなあと思います。
前方部から後円部を見ると後円部が2段になっているのが分かりますが、神社へ登るための石段のある方角しか段になっておらず、後述する明治34年の工事の際の削平ではないでしょうか。

後円部の2段目には社があります。

前方部を見ます。

中世の頃、野本将軍塚古墳の北側にある無量寿寺の境内は野本氏の館であり、『日本城郭大系』によれば、古墳を城跡として利用して、前方部と後円部との間を堀切り、後円部を郭と利用したと考えている方がいます。
その説では、腰曲輪も設けていたとあるようで、そうすると後円部の前方部側が2段になっているのは明治34年に造ったものではなく、戦国期に造った腰曲輪なのでしょうか。
後円部墳頂に登り前方部を見ます。

100m級の古墳の割には高さがありますよ。
墳頂には利仁神社が鎮座しています。

利仁というのは藤原利仁という実在の人物で、平将門の乱(939~940)より少し前の、10世紀初めのころに上野・上総・武蔵・下総の国司を歴任した人物です。

当時の坂東では群盗が跳梁跋扈していたのですが、大変武勇に優れていた利仁は彼らの討伐にも功がありました。
利仁は『今昔物語集』では伝説上のエミシである悪路王との絡みも記されていて、半ば伝説化された人物となっています。
中世初期にこの地を治めた野本氏は利仁の後裔と称していたため、野本氏が利仁を祀った可能性もありますが、『新編武蔵風土記稿』に記述があることから、遅くとも江戸時代後期には祀られていたことが分かります。
それと、『埼玉の古墳 比企・秩父』によれば、明治34年に利仁神社境内を整地した際、建久7年(1196)の経筒、和鏡、合子などが発掘されており、建久年間というと野本基員がこの地を治めていた頃なので、基員が埋めたのかもしれません。
ところで、説明板が見当たらないですね。
墳丘から降りて北側にある無量寿寺(利仁が武蔵守のときの館跡との伝承もある)の方へ回ってみると、小さな説明板が建っていました。

この説明の通り、墳丘長は115mで、おそらく埼玉県内では3番目に大きい古墳だと思います。
外から見ても後円部の法面がかなり急角度になっており、直登が困難なくらいに見えますが、このサイズにしては後円部の高さが15mというのは高いですね。
私の感覚では、12mくらいでも良いのではないかと思いますが、より高く仕上げるようにこの古墳を設計した人にはどのような狙いがあったのでしょうか。
それと、この古墳の面白い点は主軸がほぼ正確な南北のラインであることで、なぜ真北へ向けて築造したのかが気になるところです。
それでは、また雷電號に乗り込み、次は群馬県太田市にある太田天神山古墳を目指しましょう。
