2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2018年7月3日に投稿した記事です。
2017年6月18日(日)の探訪レポート
小郡官衙遺跡を見た後は、一連の御原郡衙のなかで最初に造られた役所の跡である上岩田遺跡へ向かいます。
この公園が怪しいなあ。
公園名が書かれた標柱があります。

「ふれあい磐戸公園」か・・・
違うかなあ。
でも遠くに基壇のようなものが見えますよ。
あ、電車!

しかも1両編成!
それはそうと、これは基壇だよなあ。

やっぱりここだ。

説明板発見!

しかし、やっぱり電車が気になります。

電車じゃないですね、気動車ですね。

いいねえ、ローカル線のホーム。

甘木鉄道の松崎駅です。
古代史に戻りましょう。
下高橋官衙遺跡でもお話しした通り、古代御原郡の最初の役所がここ上岩田遺跡でした。

昔から瓦が出土することが知られており、古代寺院跡だと思われていたのですが、発掘の結果、寺院の機能を備えた役所であることが分かり、時代的には大化改新(645)の少し後なので、郡がまだ評と呼ばれていた時代に当たり、正確には郡衙とか郡家などとは言わず、「評衙」とか「評家」などと呼ばれ、全国的に見ても珍しい遺跡です。
しかも、寺院としても評の役場としても北部九州では最古級のものなのです。
遺跡はⅠ期(7世紀後半~8世紀前半)、Ⅱ期(8世紀中ごろ)、Ⅲ期(8世紀後半)、Ⅳ期(9世紀前半)というように変遷し、Ⅰ期は天武7年(678)の筑紫国地震を境にⅠa期とⅠb期に分かれます。
基壇の上に登ってみます。

この基壇はⅠa期のもので、東西18.2m、南北15.3m、高さ1.3mを測り、基壇上には金堂(仏堂)が建っていたと推定されています。
見つかった無数の地割れ痕は、筑紫国地震の被害を物語っており、この地震で金堂は倒壊したという説が有力です。
筑紫国地震のあと、役場の機能は小郡官衙遺跡へ移りましたが、寺院としての機能はどうなったのでしょうか。
小郡市内井上に井上廃寺跡という遺跡があるのですが、倒壊した建物に使っていた瓦は、井上廃寺を建立するために使われたと考えられています。
なお、現在見ることのできる基壇は公園の整備のために綺麗に復元されたもので、発掘調査の結果からは基壇の周辺に建物跡がいくつも見つかっています。
既述した通り、上岩田遺跡は9世紀前半まで存続していますが、役場や寺院の機能が移転した後も、役場の「支所」的な施設として存続したようです。
※今年(2018年)3月22日に小郡市埋蔵文化財センターを見学し、上岩田遺跡から出土した遺物を見ました。そのときのルポルタージュは、こちらをご覧ください。
お、大砲ラーメンがありますよ。

食べたいなあ。
でも時刻はまだ7時22分です。
早朝から稼働したので、この時間までにもう3か所も遺跡を見てしまいましたよ。
今日はまだまだ見まくるぞ!
