【gooブログから】宝来山古墳(現・垂仁天皇陵)/田道間守と橘の木|奈良県奈良市 ~規模的には天皇陵として相応しいが果たして被葬者は誰か~

 2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。

 当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。

 基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。

 ※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。

 ※本記事は、2020年8月1日に投稿した記事です。


2019年1月3日(木)の探訪レポート

 テクテクと歩き、近鉄の尼ヶ辻駅前まできました。

 お、電車が来ますね。

 道標があります。

 この辺は菅原という土地なのですが、日本書紀を読む限りでは、菅原には垂仁天皇陵と安康天皇陵がありました。

 ただ、現状では天皇陵としてよいような規模の古墳はこれから訪れる宝来山古墳しかないんですよね。

 お、森が現れた!

 あれに違いない。

 水濠に囲まれていますね。

 関東の古墳では見られない風景で美しい。

 現在地は後円部側です。

 古墳の周りは一周できそうなので、反時計回り、つまり西側から歩いてみましょう。

 しかしでかい・・・

 一般的には宝来山古墳と呼ばれており、宮内庁が菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)と呼ぶこの古墳は、4世紀後半に築造された墳丘長227メートルの前方後円墳です。

 ただし墳丘長に関しては、墳丘の裾部分が水濠に没しており、白石太一郎さんは『古墳からみた倭国の形成と展開』にて、240mはあったのではないかと述べています。

古墳からみた倭国の形成と展開 (日本歴史私の最新講義)白石 太一郎敬文舎

 なお、垂仁天皇陵とこの後訪れる佐紀古墳群の位置はこのようになっています。

※稲用章作成(⑦ウワナベ古墳を205mとしていますが、255mに訂正します)

 前方部側へやってきました。

 南側の眺望。

 前方部のエッヂ部分。

 今見ることのできる墳丘の裾の石積みはもちろん古代のものではないですよ。

 呪力ズーム!

 あ、電車が来た。

 前方部のエッヂ部分から底辺のストレートに入ります。

 いいねえ。

 この船を使えば・・・

 南側にある古墳のようなものは、陪塚の「飛び地は号」です。

 「飛地〇号」という呼び名は陵墓で使われる独特な言い方ですね。

 水濠の外側の犬走のような道を歩いてきましたが・・・

 おっと!

 道が終わってる!

 堤からは無理くり降りなければなりませんが、現在は右膝のじん帯を痛めているため実はちょっと足が不自由なのです。

 でも仕方がない。

 よっこらしょ。

 なんとか降りました。

 この程度の高低差で難儀するとは情けない・・・

 このまま古墳の周りを一周して帰ってもいいのですが、偶然地図上で田道間守(たじまもり)と橘に関連する何かがあることをみつけてしまったので確かめに行ってみます。

 垂仁陵にはまたあとで来ますよ。

 飛び地は号は遠めに見て変な形に見えますが、基本は陪塚によくある方墳で、造出が付属しているのかな?

 古墳の横には近鉄の線路があって、結構電車が来ます。

 周辺の地図が載っている。

 お、ここですね。

 小さな公園になっています。

 田道間守ファンには堪りませんね。

 田道間守は垂仁天皇の命によって常世の国に橘(ミカン)を取りに行きます。

 苦節9年にして田道間守はようやくミカンを携えてヤマトに戻ってくるのですが、そのときすでに垂仁は亡くなっており、田道間守は無念のあまり自害して果てました。

 そういえば、さきほど訪れた漢國神社の境内社の林神社は田道間守を祀っていましたね。

 公園内のベンチに座ろうかと思ったら木が湿っていて座れません。

 ここでも休憩はできませんね。

 では戻りますよ。

 再度、垂仁天皇陵。

 電車が来ると撮らざるを得ないじゃないの。

 宮内庁の制札。

 拝所。

 うわ、また来た!

 そしてまた拝所。

 「朕と電車、どちらを取るのじゃ?」と垂仁天皇に言われそう。

 ちなみに私は垂仁天皇は実在したと考えていますが、宝来山古墳が垂仁の陵であったかどうかについては、否定的な研究者が多いようです。

 ただ、私は日本書紀に記された各天皇の陵の名前(名前には地名が含まれている)や、即位の干支(太歳)が気になって仕方がなく、垂仁は壬辰ですから、そうすると272年か332年となり、272年だと宝莱山古墳は時期が合わないのですが、菅原には他にその時代の妥当な古墳は無いのです。

 一方、332年であれば宝莱山古墳は妥当で、垂仁皇后(日葉酢媛)陵といわれている佐紀陵山古墳(今日このあと訪れる予定)も合うのです。

 この問題に関してはもっと考察を深めようと思います。

 前方部エッヂ部分。

 水濠に浮かぶ「中島」のようなものが気になりますね。

 鳥さんがいる。

 あれは何でしょうね。

 5世紀に築造された群馬県高崎市の保渡田古墳群には周溝のなかに4つの中島があり、それも独特なものですが、こちらは1つだけですね。

 ※戻ってから調べると、水濠はもともとは墳丘の相似形だったのが後世拡張されて、そのときに外堤の一部が島として残った可能性があり、田道間守の墓と伝承されています。

 それでは、尼ヶ辻駅へ戻りましょう。

 踏切から駅を望見。

 お、これは陪塚でしょうか。

 飛地ほ号だ。

 ※垂仁天皇陵の陪塚は、湟内陪冢としてさきほどの田道間守の墓があるほか、「い号」から「へ号」までの6基が宮内庁によって定められています。

 ほ号の実態は不明なようで、古墳ではないかもしれません。

 さて、次はいよいよ本日のメインである佐紀古墳群へ向かおうと思いますが、ちょっとショートカットして近鉄に乗りますよ。

 なお、垂仁天皇陵も佐紀古墳群に含まれていますが、古墳の配置図を見ても分かる通り少し離れていますね。

 

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