2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年5月1日に投稿した記事です。
2020年5月1日(金)の探訪レポート
昨日は夏日となり、半袖で汗をかきながら掃除をしていました。
今日も同じく晴れて暑くなりそうだということで、それならお散歩にちょうど良いと思い、世田谷区から狛江市にかけての古墳探訪に出かけてきました。
今回のコースはいくつかの河川をまたぐのですが、河川を渡るたびに結構な高低差の段丘を登って、まあ、アップダウンの激しいコースでした。
初めて歩いた場所なので要領を得ていなかったということもありますね。
それでは、その様子を簡単にお伝えします。
* * *
最近は少し発想が変わってきて、毎回毎回ストイックな歴史めぐりをすることもないなあと思い始めました。
仕事で下見に行く場合は真剣度が増しますが、趣味でやる歴史めぐりの場合はかなり適当な気分になっています。
適当というのは、遺跡や地形などは真剣に観察しますが、行程や時間配分は臨機応変にやるということです。
というわけで、今日も余裕で8時を過ぎてから自宅を出ますよ。
平日ですので電車が混んでそうですが、高尾を出発する場合はこの時間はもうラッシュを過ぎています。
というか、それ以前にこの状況ですから、いつもより電車は空いていますよ。
電車を乗り継ぎやってきたのは、東急大井町線の二子玉川駅です。
今日はここから西へ向かいます。
西口を出て、最初は瀬田玉川神社にある古墳へ行ってみましょう。
二子玉川駅は多摩川の低地にあり、今日めぐる古墳たちは多摩川左岸にある今まで訪れた他の古墳たちと同様に、段丘の上の縁に近い場所にあります。
歩いていると前方に段丘が見えてきました。

治大夫橋で丸子川を渡ります。
上流方向。

荏原台古墳群のふもとに流れている用水路みたいな川とこの流れが繋がっているわけですね。
さて、玉川神社の入口を探さなければ。
このまま坂を登って境内の東側からアタックしようか、それとも段丘の下の等高線に沿った道を歩いて探りを入れようか・・・
よし、段丘の下から探してみよう。
等高線に沿った道を歩いて行くと右手は崖となっており、その上に神社があるはずですが、こちらの道路側から神社へは行けないようです。
失敗した・・・
仕方ないので境内西側の上り坂を登っていきます。
結構な勾配・・・
「東京都遺跡地図」によると、この坂のあたりには玉川病院下横穴墓群があり、6基の横穴墓が確認されています。
ようやく登り切りましたが、西側には入口はありませんでした。
では、今度は北側から・・・
あれれ、北側にも入口が無い。
結局東側か・・・
おや、お寺がありますよ。
立派な仁王門だ。

喜楽山慈眼寺(じげんじ)です。

慈眼寺は真言宗智山派の寺院で、鎌倉時代の徳治元年(1306)に創建されたお寺です。

あれ、でも古墳があるのはお寺ではなく神社のほうだったはず。
あ、隣に玉川神社がありました。

立派な拝殿だ。

狛犬さんがマスクをしていますよ。
扁額。

『東京都神社名鑑』によると、瀬田玉川神社の祭神は大己貴命、日本武尊命、少彦名命です。
創建当時からここにあったわけではなく、永禄2年(1559)に瀬田村字下屋敷に御嶽神社として勧請され、寛永3年(1791)に名主の長崎四郎左衛門嘉国が現在地に社殿を遷座し、江戸時代は慈眼寺が別当を勤めました。
明治41年に玉川神社に改称しましたが、もともとは御嶽神社だったため今でも地元の方々からは「おみたけさん」の通称で呼ばれています。
なお、『日本城郭大系』によると、現在地に社殿を遷した長崎四郎左衛門は戦国時代の瀬田城主・長崎伊予守重光の子孫で、長崎家は後北条氏が滅亡した後は帰農して名主を勤めていました。
名主というと「農民のなかでの偉い人」みたいなイメージがあると思いますが、もともと武士であった彼らは、見方によっては江戸時代になってもほとんど土豪と変わらない権力を持っており、その子孫の方々が現在でも各地で隠然たる力を持っているというのはよく聞く話です。
さて、社殿は古墳の上に造られたそうで、西側に回ると古墳の形跡が残っているそうなのです。
西側って行けるだろうか?
行けそうですね。
境内裏は崖になっており、先ほど登ってきた坂でも分かる通り、多摩川低地とは結構な高低差があります。
眺望。

墳丘の形跡はどこかな?
この部分が弧を描いており、墳丘の形跡に見えなくもないです。

もう一段下になると、古墳じゃないね。

さらに奥へ行ってみましょう。
あそこにも段差があるなあ。

ここが墳丘の法面でしょう。

だとすると、最初に見た弧を描いている部分がもし墳丘の一部であれば2段築成でしょうか。
でも、神社を造った際にかなり改変されていると思うので何とも言えないですね。
そして現在の墳頂はこんな感じ。

本殿と境内神社が乗っています。
見下ろします。

玉川神社古墳は「東京都遺跡地図」に掲載されている古墳ですが、詳細は不明です。
ブログ「古墳なう」さんが引く『都心部の遺跡』には、径32mの円墳ではないかと書かれているようですが、30m越えになるとこの地域では大きい方になります。
社殿の下になっている墳頂部分を発掘調査することはほぼ無理なので、墳丘の可能性のある部分の裾の部分を開けて周溝や遺物の確認ができれば、多摩川流域の古代史の解明も進みますね。
さて、神社へは脇から入ってきてしまったので、正規の参道から出ようと思います。
鳥居。

鳥居の辺りから東南側の眺望。

道路に出ました。

さきほど、治大夫橋を渡ったあと、そのまま素直にこの坂を上ってくればすんなり到達できたんですね。

まあ、寄り道も楽しいからいいでしょう。
※帰宅してから知りましたがこの道は大山道だったのです。
それでは、ここからはしばらく墳丘は見られないと思いますが、古墳跡の地形を楽しみにながら西へ向かいたいと思います。
