2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年6月28日に投稿した記事です。
2019年8月18日(日)の探訪レポート
県内でも有数の古墳存在自治体である前橋市や高崎市の陰に隠れてしまっている感がありますが、両市の隣の玉村町にも興味深い古墳があるのです。
つづいてその玉村町の古墳めぐりをしましょう。
町内で最初に訪れたのは軍配山古墳です。
田んぼの中にポツンと墳丘がありますよ。

では、行ってみましょう。

説明板。

あれ、円墳と書いてありますが、外見は前方後円墳っぽい形をしていますよ。
後世に削られて今の形になってしまったのでしょうか。
戦国武将の絵が描かれた説明板もあります。

ここに書かれている通り、天正10年(1582)6月に本能寺で信長が殺害された直後の織田政権軍と後北条氏との神流川(かんながわ)の戦いの際に、織田政権軍の総大将・滝川一益がこの古墳に本陣を構えたといわれています。
古墳を本陣にするとか砦や山城にするというケースはとくに西日本で多いです。
関東での有名どころとしては、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳を石田三成が本陣にしたという話が有名ですね。
ところで、滝川一益は信長の家臣の中ではエース級の人物で人気が高いのですが、関東に来たら全然人気がないように思えます。
その辺は甲斐に入った川尻秀隆と似たところがありますが、勇猛で知られた滝川一益が後北条氏にやられちゃったというのは何とも情けないです。
※註:この探訪の翌年、甲府市の川尻塚を訪れましたが、何とも寂しい状況でした。
本能寺の変によって秀吉のようにそれをチャンスと考えた武将もいますが、一益は関東に居たため、禍を転じて福と為そうとしても不利な状況でしたね。
なお、軍記物の類によると一益は関東管領に就任したとされていますが、室町幕府が滅んでいる状態で幕府の役職が残っているというのは不自然です。
でももしかしたら、当時の人たちのなかでは関東の支配者の代名詞として「関東管領」という呼び名が記憶として残っており、通称のような形でまだ通用した可能性もあったのではないでしょうか。
私的には一益が関東管領と称した事実があった方が中世と近世が入り混じったマージナルな感じがして嬉しい。
あ、今日は古代でした。
墳丘に登りましょう。
墳丘はなんとなく富士塚チックですよ。
墳頂。

墳頂からの眺望。




こんな景色の中に築造された古墳ですから目立ちますよね。
景色を堪能したので、下に降りてもう一度横っ腹を確認します。

本来は40mという大き目の円墳でした。
ついでに雷電號も。

ではつづいて、梨ノ木山古墳へ行ってみようと思います。
遠くから見る軍配山古墳、いいですね。


梨ノ木山古墳はすぐ近くにあるはずです。
(つづく)
4.補足
神流川の合戦 2020年6月28日
「3.探訪レポート」でも出てきた神流川の戦いの前後に関しては、平山優氏の『天正壬午の乱 増補改訂版』に詳しいため、それを要約して以下に紹介します。
まず、本能寺の変は6月2日に発生しました。
一益の事跡に関しては軍記物に記されたことが後世に伝わっていますが、史実としては一益が信長横死を知ったのは6月9日のことで、一益は上野国衆たちに対してそれを隠します。
一益にとってはこの緊急事態に一刻の猶予もならず、早く上洛しなければならないと焦ったはずですが、まずは後北条氏に対してしっかりと手を打たないとなりません。
一方、小田原城の北条氏政らは11日には本能寺の件を知ります。
氏政は間髪入れず、その日のうちに一益宛てに「逆心人を討つために私たちで協力できることがあれば何なりと相談ください」という趣旨の手紙を送り、一益を油断させておきながら、翌12日には領国に動員令を出し、上野国奪取に動きます。
一益は家康に救援を乞いましたが家康はそれに応じてくれませんでした。
18日になると、数日前に「何なりと相談してください」という手紙をよこした北条氏政の弟・氏邦の軍勢が一益を屠るべく上野に向けて進軍してきました。
一益と氏邦は金窪原で激突します。
しかしこのときの一益軍は強かった。
氏邦勢は300人あるいは600人ともいわれる戦死者を出して退却します。
ところが、翌19日には北条家の当主氏直自ら率いる大軍が攻め寄せ、神流川で合戦に及びます。
このとき一益が率いた軍勢は2800名でした。
前日の戦いで一益の下で戦った上野の国衆たちも、関東最強の有力者・北条氏直が目の前に現れたことに浮足立ち、どう考えても北条側に付いた方が安全であると計算し、ほとんど戦意を見せることはなかったようです。
そのため、勇猛な一益は僅かな旗本衆だけを率い氏直の首級を奪うべく戦いを挑みます。
しかしいくら勇猛とはいえあまりにも多勢に無勢。
58歳の一益率いる軍勢は木っ端みじんに撃破されてしまいました。
辛くも死地を脱し、箕輪城まで逃れてきた一益は敗軍を率い、かつ上野国衆から取っていた人質を伴ったまま本貫地の伊勢へ向けて逃亡します。
なお、人質たちは逃走の過程で適宜解放されていったようです。
5.参考資料
・現地説明板
・『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
・『天正壬午の乱 増補改訂版』平山優/著 2015年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
