2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2020年6月21日に投稿した記事です。
2015年11月3日(火)の探訪レポート
鶴山古墳を地図上で確認すると、亀山古墳のすぐ近くにあります。
あれじゃないのか?

高い方が後円部で、西の方を向いています。
墳丘の周りは畑に囲まれていますが、到達できそうな道を探してみます。
あ、五輪塔だ。

道端にひっそりと五輪塔やそのパーツらしきものが集められています。

この地域の中世武士の供養塔かもしれません。
しかし、墳丘に到達できる道はないようですね。
しかたがないので、畑仕事をされている方に挨拶をして、あぜ道を慎重に歩いてお邪魔させていただくことにします。

後円部側に近づくと説明板も見えますよ。

説明板が立っている部分は、いわば鞍部の部分で、説明板が向いている方向の微妙な土の高まりは前方部になりますね。
つまり前方部は畑として利用されているわけです。

とてもではありませんが、後円部には登れませんね。
しかし墳丘はかなりペチャンコになっているように見えます。
説明板を読んでみましょう。

墳丘の高さは前方部が3.5mで、後円部が8mということで、これは現在の数値だと思うのですが、前方部の高さが後円部の半分というのは、前期古墳の特徴を示しています。
したがって、5世紀後半というのは新しすぎる気がして、4世紀の古墳に見えるのですが、出土したものからすると5世紀後半ということになるのでしょう。
現状ではかなり削られてしまっているようで、説明板の後ろの後円部は8mあったはずが全然そんな高さに見えないです。
さきほど「ペチャンコ」という印象を持ったとおりですね。
ただし現在は群馬県指定史跡ですから、これ以上破壊されることはないでしょう。
西の蛇川の方から見ます。

元々の墳丘長は102mということですが、現状では既述した通り小さくなっていました。
つづいて新田郡家跡の方へ行ってみましょう。
4.補足
「3.探訪レポート」で述べた通り、前方部と後円部との比高差を見ると前期の古墳のように思えますが、『群馬の古墳物語 上巻』によると、出土した3セットの甲冑のうち最も新しいものは鋲留式の短甲で、5世紀前半でも中ごろに近い時期のものということなので、自然と古墳の築造時期もそのころを上限と考えることになります。
また、同書では鉄製の鎹(かすがい)が出土したことを非常に珍しいこととし、5世紀中ごろとしては東日本で唯一の出土としています。
なお、この鉄製の鎹が見つかったため木棺があったと想定されるのです。
5.参考資料
・現地説明板
・『太田市の古墳』 太田市教育委員会/編 2010年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年
