最終更新日:2025年12月18日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
目次
伊勢国
伊賀国
志摩国
未探訪
伊賀市
121m
石山古墳
現地はフェンスで囲まれており墳丘へは立入ができないかもしれない(周囲をくまなく歩いたわけではないので不詳)。
展示解説は城之越学習館にある。また、見つかった埴輪は京都大学総合博物館に展示してある。
4C末(京都大学総合博物館の展示による)
三重県で大きさ3位
説明板・標柱なし
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城之越遺跡
古墳時代の4世紀後半から5世紀を盛期として「水辺の祭祀」が行われた形跡が分かった貴重な遺跡。入口近くには建物跡の柱列表示があり、奥には祭祀場の跡が復元されている。現在でも湧水が豊富な場所。
当時の支配者は、こういった湧水が豊富な場所などで水に対するお祀りをして、支配下の農民たちに水を配っていた。それを水分(みくまり)という。
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都美恵神社
つみえじんじゃ
倭姫の阿閉柘植宮跡の伝承地(元伊勢)。倭姫はここに滞在した後、伊勢方面へは向かわず、近江の甲賀方面へと山を越えた。
都美恵神社がある場所は、木津川支流の柘植川の最上流域で、近くには目立った古墳はないが、8kmほど下流へ行くと、東海地方最大の前方後円墳・御墓山古墳がある。
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比自岐神社
ひじきじんじゃ
由緒書きによると、比自岐神社の主祭神は、比自岐神で、比自岐神は、比自岐別(ひじきわけ)の祖神。
比自岐別の娘は、垂仁天皇の皇子・円目王(つぶらめおう)に嫁いだと伝承されている。
円目王は記紀には登場しませんが、『令集解』(りょうのしゅうげ)という9世紀に編纂された律令(養老令)の注釈書に記載がある。
20230721A
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積殖の山口
つみえのやまぐち
日本書紀によると、672年6月24日に吉野を出発した大海皇子一行は、夜になっても進軍を止めず、夜半に大和国から国境を越え、伊賀国の隠(なばり)駅家に到着。隠駅家の場所は不明。
つづいて、横川、伊賀駅家を経るが、これらの比定地も不明。伊賀の山中に至ったところ、郡司たちが兵を率いて加勢に現れ、ようやくにして大海皇子の一行は軍隊の体裁が整った。
その後も休む間もなく進み続け、明け方にタラノに着き、ここで吉野を出発以来、初めての食事を兼ねた休憩をした。つかの間の休息の後、再び進みだした一行は、積植(つむえ・現在の柘植)の山口で高市皇子率いる軍勢と合流。大海皇子には多くの男子がいましたが、幼い子が多く、唯一長男の高市皇子だけが一軍を率いる将として期待できる子だった。
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伊勢市

豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)
延暦23年(804)成立の「止由気宮儀式帳」によると、雄略天皇22年、天皇の夢のお告げによって、丹波国比治の真名井に祀られていた「ト由気太神」(トは、草冠に寺)を天照大神に食事を供する担当として招いたが、それが祭神の豊受大御神である。現・丹後一宮・籠神社の摂社・天真名井神社は、「ト由気太神」が元々祀られていた(つまり元伊勢)の候補の一つ。
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式年遷宮記念せんぐう館
伊勢市豊川町前野126-1(外宮域内)
9:00~16:30(16:00)
第 2・第4火曜休館
伊勢神宮の式年遷宮に関する匠の技を知ることができる。館内には通常は見ることのできない外宮正殿の東側面を忠実に再現した建物があり、日に何度か定期的に解説も行われており、神社に興味が無くても古い建築に興味がある方は必見。写真撮影NG。
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皇大神宮(伊勢神宮 内宮)
『続日本紀』文武天皇2年(698)12月乙卯(29日)条によると、この日、多気大神宮を渡会郡に遷して成立。
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【伊勢うどん】外苑
伊勢市本町16-5
外宮の駐車場(といっても広いが)近くにある。伊勢うどんと手ごね寿司(漬け丼)のセットを頼んだが両方ともとても美味しかった。値段もリーズナブル。また食べたい。



亀山市
90m
能褒野王塚古墳
のぼのおうつかこふん
宮内庁が管理している日本武尊の3つある古墳の内の一つ。
江戸時代には丁子塚(ちょうじづか)と呼ばれていたが、白鳥塚古墳の項で述べた通り、明治12年に内務省が「景行天皇皇子 日本武尊 能褒野墓」としてヤマトタケルの墓として治定した。
墳丘長90mの南東向きの前方後円墳。大きさは三重県では7位タイ、伊勢国では3位。ただし、墳丘長は、昭和4年に帝室林野局が作成した陵墓図によるもので、それ以来測量調査はされておらず、実際にはもっと大きいと考える研究者がいる。段築の有無を含めて古墳の本当の姿は分からない。墳丘周辺に周溝や外堤が見られるが、それらは明治13年に増設されたもの。
遺物は表採された埴輪片があるのみ。それらの資料から4世紀末の築造と考えられている。
主体部は不明だが、昔の話として、古墳に大きな穴が開いていて、そこを村人が賭博場としていたといい、それが横穴式石室だとすると、埴輪が焼かれた時期とは大きく齟齬をきたす。
周辺には、能褒野古墳群と呼ばれている16基の円墳があり、それらの調査も進んでいるわけではないが、得られた資料からは後期から終末期に築造された古墳が多いと推測されており、能褒野王塚古墳の近くにあるからと言って安易に陪冢と決めつけるわけにはいかない。
4C末頃(説)
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忍山神社
おしやまじんじゃ
主祭神は、猿田彦命と天照大神。由緒によると、崇神天皇7年に伊
香我色雄命(いかがしこおのみこと=伊香色雄)に猿田彦命を祀らせたのがはじまり。
景行天皇の御代、日本武尊が東征のおり立ち寄り、神主忍山宿禰の長女・弟橘媛を妃とした。元々は、1㎞ほど北東の愛宕山にあり、この地には白髭神社があったという。また、倭姫の河曲鈴鹿小山宮跡の伝承地でもある。
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鈴鹿市
92m
白鳥塚古墳
しらとりづかこふん
加佐登神社が守る古墳。5世紀前半に築造された帆立貝式古墳。葺石を備え、円筒埴輪や形象埴輪が出土。白鳥塚古墳群を構成する7基のうちの1基で、本墳は1号墳。
本居宣長は『古事記伝』で、本墳を能褒野墓の第一候補とし、平田篤胤もまた本墳をヤマトタケルの墓とした。明治9年、当時の教部省(翌年廃止)は本墳をヤマトタケルの墓に治定したが、内務省は3年後の明治12年10月に丁子塚(ちょうじづか=現在の能褒野王塚古墳)を治定して今に至る。
径78mの後円部の東側に長さ16.4m、幅27mの前方部が付く。鈴鹿市のHPでは、本墳の大きさは、帆立貝式古墳にもかかわらず前方部の長さを含めずに78mとしている。ところが、現地説明会の資料では、墳長を80mとして、基壇を含めた全長を92mとしている。基壇を墳丘の長さに含めるかどうかは研究者によって考え方が異なるが、私は「含める派」な
ので、そうすると92mとなる。92mであれば、大きさは三重県では6位、伊勢国では2位。
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伊勢国分寺跡
鈴鹿市国分町
令和2年4月に「史跡伊勢国分寺跡歴史公園」としてオープンし、伽藍配置全体がヴィジュアル的に分かるようになった。
南から南門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並び、中門と金堂は回廊がめぐっており、この特徴から東大寺式伽藍配置といえるが、その場合は、回廊の左右外側にそれぞれ塔が建てられる。ところが、伊勢国分寺跡では、寺域全体で塔跡と思われる形跡が検出されておらず、他の寺院跡の例から見て、回廊東側の小院とされている箇所で見つかった地盤工事が行われていない四角い建物跡が塔跡と考えられている。ただし、その場合は他の国分寺で建てられたような高さ60mを超える七重塔ではなかったのではないか。
国分寺と言うと七重塔であると思い込みがちだが、諸国の国分寺すべてに七重塔が建てられたわけではないようだ。もし伊勢国分寺に変態的な塔が建てられたとすると、国分寺の造営は各国で拠出したため、豊かな伊勢国であっても財政状況や政治的な理由で他とは違う塔を造営したのかもしれない。塔は寺院にとって最も大切な建物であるので、建てなかったということはないと思われ、個人的にはまだ釈然としない。
それ以外に他の国分寺と違うところとしては、経蔵と鐘楼の跡が見つかっていない。
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鈴鹿市考古博物館
鈴鹿市国分町224
059-374-1994
9:00~17:00(16:30)
月・第3火休館
鈴鹿市内の遺跡から出土した遺物を展示。縄文時代の遺物は中期や後期の土器の展示があり、弥生土器の展示は豊富。寺谷17号墳出土の2体の巫女形埴輪は、当館の「寺谷みこ」というマスコットキャラクターのモデルになっている。同墳出土の可愛らしい馬形埴輪も展示しているが、顔は完全に創作だ。双円墳である保子里1号墳から出土した豪華な遺物も展示(ただし複製)。
博物館が建つ場所は河曲(かわわ)郡衙跡であり、伊勢国分寺跡や伊勢国庁跡とともにジオラマを交えて解説している。
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【洋食】レストラン スオー
鈴鹿市自由ヶ丘1-10-2
059-374-0327
最高に美味い洋食屋さん。近所にあったら通いたい。
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多気町
坂倉遺跡
縄文時代早期の遺跡。住居跡と思われる窪みや炉跡を19ヶ所を検出。炉跡はU字形で天井部をもつ特殊な形で全国的に珍しい。押型文土器の出土は三重県では初の物だった。現地は「坂倉遺跡公園」ということらしいが・・・。立地も独特で不思議。
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玉城町
田丸城跡
延元元年(1336)、後醍醐天皇に忠誠を誓う「戦う貴族」の北畠親房が築城。それからしばらく後の
天正3(1575)、北畠氏の名跡を継いだ織田信雄(信長次男)が入部し、三層の天守を築いた。
現状見られる姿はこじんまりとした近世城郭で、奇麗に整備されており、石垣が素敵だ。車で本丸下まで行けて、歩くのも大変ではないので多くの方々にお勧めしたい。
コンディションがよければ富士山が見える。ここから富士山の山頂まで約215㎞。
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村山龍平記念館(玉城町郷土資料館)
玉城町田丸114-1
通常は縄文時代の原始・古代関係の遺物の展示はなく、田丸城跡関連と村山龍平の遺品などを展示。田丸城跡の続日本100名城スタンプを設置。
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津市
60m
明合古墳
あけあいこふん
5世紀に築造された方墳。両辺に造出が付いており、それを含めた長さは81mとなる。方墳には造出が付くことが少なく、しかも明合古墳は両辺についているため非常に独自性が高い。
周囲には陪冢と思われる古墳が5基あるが、それらもすべて方墳であるという。そもそも、伊勢では方墳自体が珍しい。いろいろ珍しずくめの古墳。
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津城跡
別名安濃津(あのつ)城。永禄年間(1558~69)に長野氏一族の細野藤光が築城し、その後、伊勢を
手中にした織田信長が弟の信包を入部させた。信包は近世城郭として拡張し、慶長13年(1608)以降は藤堂高虎とその子孫によって幕末まで続いた。
江戸期には、伊勢神宮参詣のアクセスポイントとして発展し、「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」の言葉は有名。
天守は復元されていないが、石垣は残っており、模擬の隅櫓が建っている。
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三重県総合博物館
津市一身田上津部田3060
059-228-2283
9:00~17:00(16:30)
月曜休館
その名の通り、三重県の総合博物館で、旧石器~古墳時代の展示は基本的に無い。
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【食事】みやた
津市白山町中ノ村120-7
059-262-0777
洋食も和食も種類が豊富で迷う。多分、何を食べても外れなしだと思う。
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名張市
100m
女良塚古墳
じょろうづかこふん
美旗古墳群
帆立貝形なのに100mもある古墳で、おそらく帆立貝形としては、全国で4位になるんじゃないかと思います。ただし、墳丘はフェンスで囲まれており入れません。5C前半頃の築造。三重県で大きさ5位。
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松阪市
天白遺跡
縄文時代後期中葉から晩期初頭にかけての配石遺構が30基も見つかった。ストーンサークルマニアにはぜひ訪れてもらいたい遺跡だ。
平成18年現在、三重県内では109点の土偶が見つかっているが、天白遺跡からは66点も見つかっている(その後の調査で73点に増加)。その他、辰砂原石も見つかっており、マジカルな遺物が多いのが特徴。
天白遺跡では住居跡は見つかっておらず、出土遺物から考えると祭祀場や墓域であったと考えられる。中村川を2㎞ほどさかのぼった下沖遺跡では住居跡が見つかっているため、そういった集落の共同祭祀場であったと考えられている。ちなみに、下沖遺跡からは平成18年現在、16点の土偶が見つかっている。
松阪市嬉野考古館に出土遺物の展示とともに詳しい解説があるのでぜひ訪れよう。
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111m
宝塚1号墳
三重県の郷土史家・鈴木敏雄が昭和4年に『飯南郡花岡村考古誌考』を著し、世に知られることになり、昭和7年に国史跡に指定された。
5世紀初頭に築造された墳丘長111mの東向きの前方後円墳。大きさは三重県で4番目、伊勢国では最大。前方部・後円部ともに3段築成で葺石あり。ただし、1段目が墳丘を全周していないため、1段目は基壇として、2段築成と考える研究者もいる。その場合も墳丘長は変わらない。主体部の発掘調査は行われていない。コンディションが良ければ墳丘から伊勢湾を望むことができる。
底部穿孔二重口縁壺や国宝の船形埴輪を始めとした列島屈指の多彩な形象埴輪が出土し、それらの一部は松阪市文化財センターに展示している。
造出は北側にのみ造成されており、18×16mの規模。国宝船形埴輪(船形埴輪1号船)は造出の溝部分から出土し、現地の造出はレプリカの埴輪が配列され、往時の様子が分かるようになっている。
造出は、中段に接続する形で造成されているが、通有の造出と異なるのは、ブリッジによって繋がっていることだ。そのため、出島状遺構とも呼ばれる。
奈良の巣山古墳にも出島状遺構がある。また、ブリッジで接続されていない島状遺構が造られている古墳としては、愛知県西尾市の正法寺古墳や神戸市の五色塚古墳などがある。
造出では、水辺の祭祀が行われていたと推測されている。興味深いのは、船形埴輪1号船のすぐ近くからは埴輪棺が出土していることだ。国宝船形埴輪を制作した職人の墓か?
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89m
宝塚2号墳
5世紀前半に築造された墳丘長89mの帆立貝式古墳。帆立貝式古墳としては有数の規模を誇る。長軸の中心ラインは、宝塚1号墳側の造出に向けて造られており、1号墳との密接な関係が伺える。造出の一部分は、現在は道路のため破壊されている。後円部は3段築成、前方部は2段築成。墳丘全体を葺石が覆っていた。築造時期から考えると、宝塚1号墳の次代の王の墓である可能性がある。
平成13年から15年にかけて発掘調査が行われ、墳頂では、5.2m×7.5mほどの小石が散布された方形区画が見つかったが、その下は掘っていない。
なお、宝塚1号墳と2号墳を合わせて「宝塚古墳」の名称で国史跡に指定されているが、両墳は宝塚古墳群に属し、『飯南郡花岡村考古誌考』によると、過去には88基が存在した。現在残るのは1号墳、2号墳、それと4号墳のみ。
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松阪市嬉野考古館
松阪市嬉野権現前町423-88
0598-42-7000
9:00~17:00(16:30)
月曜休館
松阪市嬉野地域の遺跡から出土した遺物を展示。天白遺跡は一室を設けて詳しく展示・解説をしている。
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松阪市文化財センター はにわ館
松阪市外五曲町1
0598-26-7330
9:00~17:00(16:30)
月曜休館
国史跡・宝塚古墳について詳しく解説した施設で、国宝・船形埴輪(船形埴輪1号船)のほか埴輪の展示が豊富で、各種形象埴輪の学習に最適。
国宝船形埴輪は長さが140㎝もあり、平成17年現在、全国で見つかっている43個の船形埴輪のなかで最大を誇り、唯一の装飾を備えた船形埴輪。2024年に国宝に指定された。他の船形埴輪と違うのは、船の上に設置された刀、儀仗2本、そして王の場所を示す傘などが見つかったことで、当時の船の様相がよく分かり大変貴重。
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【ランチ】つる鶴
松阪市嬉野須賀町1332-5
松阪市嬉野考古館から歩いて行ける距離。ヴォリューム満点で、うどんも店名の通り、つるつるとしいて、コシがあって美味い。


【ホテル】ビジネスホテル マルヤマ
松阪市京町1区27-1
0598-52-0333
安さで選ぶならこのホテル。昭和レトロな感じで、旅慣れた人向き。松阪駅からも近い。私は3回泊っている。


明和町
坂本古墳群
坂本古墳群は、「坂本百八塚」と言われており、戦前には150基以上の古墳があったが、ほとんどが隠滅してしまった。公園に1~3号墳が整備され、4~6号墳がナチュラルな状態で残っており、8号墳は周溝跡の表示がある。



38m
坂本1号墳
坂本古墳群を構成する1基で、後期に築造された墳丘長38mの前方後方墳。列島各地を見渡しても、後~終末期に前方後方墳を築造した地域は下総や出雲くらいしか思い出せない。それくらい珍しい古墳。主体部は木棺直葬で、金銅装頭椎大刀が出土。
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塚山古墳群



斎宮跡
斎王とは、天皇が即位した際に、伊勢に派遣されて伊勢神宮に仕える皇族の女性のことをいう。斎王は伊勢神宮に住むわけではなく、普段は斎宮という御所に住して勤めを果たす。斎宮の周辺は、都
市と言ってもよい空間が形成されていた。斎宮と外宮とは10㎞離れている。
その歴史を伝説をのぞいて史実として見ると、天武天皇の673年に皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)が就任したのが始め。斎宮に任じられた場合、原則としてはその天皇の在位中は任を解かれることはなかった。斎宮制度は、それ以降、南北朝時代の混乱で制度維持ができなくなるまで続いた。
斎宮創設直後の有名な話として、大津皇子(おおつのみこ)の話がある。大津皇子は、大来皇女の同母弟。文武両道で人望も厚かったが、大津皇子が4歳頃に母の大田皇女(おおたのひめみこ)が亡くなっており、政治的な後ろ盾に乏しかった。大津皇子は、天武天皇の有力な後継者候補であったが、そういう状況であったため、異母兄の草壁皇子(持統天皇の子)が天武天皇の皇太子となった。
686年9月に天武天皇が崩御すると、その翌月、大津皇子は親友であるはずの川島皇子の密告により謀反の疑いで逮捕され、翌月自害した。24歳だった。普通に考えたら、我が子可愛さの持統天皇による陰謀と考えられる。
この大津皇子が、生前に姉である大来皇女に会いに斎宮へ赴いたという説がある。これは万葉集に収められた歌のみが根拠で、日本書紀などには記されていないので疑う向きもある。ただ、もし大津皇子が斎王に会いに行ったとしたら法を犯したことになる。もし法を犯してまで会いに行ったとしたら、なぜそのような危険を冒したのだろうか。
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三重県立斎宮歴史博物館
明和町竹川503
0596-52-3800
9:30~17:00(16:30)
月曜休館
斎宮について詳しく説明した博物館で、遺物の展示も豊富だが、パネル展示やジオラマ展示によって立体的に斎宮について分かるようになっている。映像展示室で見られる映像も良い。
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四日市市

久留倍官衙遺跡
朝明(あさけ)郡衙跡。久留倍官衙遺跡公園として整備されている。
遺跡は3期に分かれる。Ⅰ期は、7世紀第3四半期~8世紀前半頃で、郡衙政庁が東向きに建てられた。Ⅱ期は、8世紀中頃から後半で、全国的にもまれな長大な建物を中心とした建物群を建造。Ⅲ期は、8世紀末から平安時代前期までで、正倉院が形成された。
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くるべ古代歴史館
久留倍官衙遺跡について説明した施設。壬申の乱や聖武天皇の行幸についても説明している。
四日市市大矢知町2323-1
059-365-2277
9:00~17:00(16:30)
月・火休館
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宝塚1号墳出土・船形埴輪































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