2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年12月1日に投稿した記事です。
2000年2月6日(日)の探訪レポート
私は小学生の終わり頃から歴史好きでしたが、お城に目覚めたのは1996年12月30日のことなのですでに24歳になっており、覚醒した場所は会津の鶴ヶ城でした。
その後、少しは城めぐりをしていたのですが、城に絞らずにもっとジャンルを広めた「歴史歩き」をしたのはさらに遅れて2000年2月6日のことで、27歳の時です。
歴史歩きをしようとしたきっかけは、その前年の4月10日に東京都世田谷区の世田谷城跡を訪れた時に世田谷区立郷土資料館を見学し、そこで一冊の本(厳密には2冊)と出会ったことによります。

世田谷区教育委員会が出している『世田谷の地名』で、郷土研究家の三田義春さんが編しており、中には手書きによる渾身書き下ろしの地図が大量に載っています。

元々地図が大好きな私は、この本を読んで道とか河道などに異様に興味を持ち、またこれ以降、国土地理院の地形図をコレクションするようになってしまったのです。
当時は三鷹市牟礼のアパートに住んでおり、後北条氏の旧臣である牟礼の高橋氏および隣の世田谷区烏山の高橋氏の調査を始めたところであり、その関係で世田谷区の郷土史に興味を抱きました。
そしてしばらく『世田谷の地名』に「首ったけ」かつ「ゾッコンLOVE」だったのですが、当時はプログラマーの仕事が面白く、また娘誕生の前後であったため、ようやく世田谷の歴史歩きを実施したのが上述したとおり2000年2月6日のことでした。
『世田谷の地名』では世田谷吉良氏が詳しく説明されており、区内にあった世田谷城を含めた城や砦の解説も豊富なことから、それらをめぐってみたくなりついに満を持して出掛けたわけです。
そのときに使っていたデジカメはこちら。

リコーのDC-4Uという機種で、生まれて初めて手にしたデジカメです。

大体この頃から、デジカメが一般に普及し始めました。
というわけで、本日はこのカメラを片手に世田谷の歴史歩きをしたときを思い出して、当時の写真を羅列してみようと思います。
私は1998年から「偏重頭脳発表会」というホームページを始めており、その中の1コーナーとして「奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)」があって、そこでは主に東北地方の城跡を訪れた時のルポルタージュを載せていたのですが、番外編で東京近辺の城跡も載せており、今日はその時の記事をほぼそのまま使いつつ、誤字の訂正を施したり若干の補遺をしつつ書いてみます。
なお、探訪箇所の一部は当時記事にしていなかった模様で、今となってはもう思い出せません。
さらに、写真の画質が今の水準からすると非常に悪いですが、17年前の普及型のデジカメの画質なので許してくださいね。
* * *
プログラマーという仕事柄、夜型人間になっており、休みの日は昼前まで寝てしまうことが多いです。
今日もゆっくり起床し、三鷹台駅から井の頭線に乗って渋谷方面へ向かいます。
現在の世田谷区一帯を領していた吉良氏は、本城・世田谷城防衛のため、その周辺にいくつかの砦を築きました。
そのなかで、まずは東方の守りのために築砦されたと思われる、三宿砦跡を訪ねてみます。
池ノ上駅で下車。
時刻はもう11時半。
池ノ上駅があるあたりは標高約40mの台地上であり、駅前通りを南に向かって歩いていくと、すぐ代沢2丁目6番地あたりから長い下り坂になっています。
この坂を下り終えたあたりには淡島通りが走っていて、このあたりはすでに駅のあった場所より15mほど低地になってます。
淡島通りを横断してもう少し南に歩いてみると、北沢川に出ました。

現在はもはや「川」とも呼べないほどの小さな流れになっていますが、往古は豊富な水量をたたえていたことでしょう。
この橋を渡った先の台地上が三宿砦のあった場所で、その台地は西に走り、世田谷城まで続いています。
私はこの橋を渡らずに、ここからすぐ東にある北沢川と烏山川が合流して名称が目黒川となる場所へ向かうことにしました。
途中、目の前に急峻な崖が現れました。
池上4丁目の崖地です。

階段があるので登ってみましょう。
崖上には戦没者慰霊塔が建っています。
ここは非常に見晴らしが良いねえ。
この崖地は、池ノ上駅方面から続く台地の突端部で、標高を三宿砦のあった場所とほぼ同じくし、北沢川を谷間に三宿砦と対峙できる場所です。
西方向を見ると三宿砦や、世田谷城方面を遠く望むことができます。

つづいて南西方向。

そして南方向です。

ここに敵が向い城を築いて居座った場合、三宿砦側からすると非常に気持ちの悪いこととなるでしょう。
さて、崖地から降りて、北沢川の合流地点へ向かいます。
合流地点についてみると、ここでは完全に水の姿は見えなくなっていました。
失望。

東京って、川にフタするんだね!
写真中央の青い建物の手前から左が烏山川で右が北沢川に分かれていますよ。
つづいて、気を取り直して砦のあった台地の麓を南側から回って、台地上に上がってみることにします。
川もないのに「多聞寺橋」という交差点名が付いていますね。

昔はここに烏山川が流れていたんですよ。
今でも暗渠として地下を流れています。
本日の最初の目的地である三宿砦は別名を多聞寺城ともいわれており、昔このあたりに世田谷勝国寺の末寺の多聞寺があったと伝えられています。
多聞寺は江戸時代に廃寺になったといわれ、現在は墓地のみが残り、あとは小学校や幼稚園に「多聞」という言葉が残っているだけです。
さて、坂を上ると、最高所のあたりに多聞小学校がありますが、おそらくこの辺りから後述する三宿神社のあたりまでが城地であったと思われます。
現在は完全に宅地化されており遺構はありませんが、『世田谷の中世城塞』によると、明治42年の地図に土塁の跡が認められるということです。
また、『日本城郭大系 5』にも、つい最近(左著出版は1979年)まで空堀の跡が残っていたと書かれています。
さらにここから西の三宿神社を訪ねてみることにします。

こんな看板もありますよ。

境内にはボーイスカウトの少年や親子連れの人たちなどが沢山訪れており、かなり賑やかです。

神社に隣接する墓地が昔の多聞寺の墓地でしょうか。
少し大きめの墓石には宇田川家や石塚家と彫ってあります。
地元の有力者の墓でしょう。
三宿砦の名はほとんど資料に出てこないし、この砦で戦闘があったという記録もありませんが、 いざというときは本城から騎馬隊が台地上を一気に駆け参じて、守備にあたっていたことでしょう。
ただ、吉良氏が北条氏に取り込まれた以後は、廃砦となった可能性もあります。
今となっては、それらを明らかにすることはできませんね。
以上、三宿砦の跡は見終えたので、更に西に向かって歩いてみることにします。
三宿神社から北西方向に10分ほど歩いて、北沢八幡神社にたどり着きました。

お、後醍醐天皇!

野郎ども、千早ぶろうぜ!

更にもう少し歩くと森巖寺という寺の前に出ました。

実は私は寺にはあまり興味が無いのですが(註:これはこの記事を最初に書いた2000年の段階のことであり、現在ではまったくそんなことはありません)、なんとなく吸い込まれるように門をくぐりました。

すると何というめぐり合わせか、この寺は結城秀康の位牌所として建てられたということです。

何の予備知識も持ち合わせることなく、偶然こういう「出会い」があると、非常に嬉しいですよね。

結城秀康は徳川家康の次男で、結城家を継いだ人物です。
兄信康に似て豪の者でしたが、惜しいことにその能力を充分に発揮する機会のないまま、34歳の若さで病のためこの世に別れを告げました。
戦国好きな人の間では、家康の子供のなかで信康と人気を二分しているようです(贔屓かつ主観的な推測)。
森巖寺を出ます。
代田2丁目から南を見ると結構な下り坂になっており、谷底には北沢川が流れています。

同じく代田2丁目から世田谷城跡のある南西方向を望みます。

代田八幡神社に来ました。

ついで、20分ほどテクテク歩き、世田谷八幡宮に到着。



今度は幕末の大老・井伊直弼が眠る豪徳寺です。





14時過ぎ、世田谷城の南側を守る烏山川(烏山川緑道)に来ました。

(註:もうとっくにお昼を過ぎていますが、この日はどこでお昼を食べたのか覚えていません。)
ついで、世田谷城の南側を守る弦巻砦に行ってみます。
弦巻砦は代田砦と同様、実際に砦があったという証拠は無く、地理的な条件から『世田谷の中世城塞』の著者である三田義春氏が仮定した砦です。
その場所には、現在弦巻神社が鎮座しています。


地理的には、西から東に伸びる半島状の微高地で、北・東・南は川ないし湿地で守られています。
北側を流れる蛇崩川は、地表面で見る限りではご覧の通り極めて細流となっています。


このあたりには「釜屋畑」と呼ばれている区域があり、昔砦に詰めていた武士が炊爨したのでそう呼ばれたといいます。
もし、この地に砦があったとしても、吉良氏が北条氏に取込まれてからは、南方の脅威がなくなったため、 廃砦となった可能性が高いですね。
恐らく、こういった類の砦については、今後もその存在を証拠付けるのは至難のことでしょう。
さらに20分ほど歩いて駒留八幡神社に到着。



ところで、戦国時代、吉良氏の治める世田谷と北武蔵方面とを結ぶ道のひとつに「堀の内道」がありました。
堀の内道は代田あたりでは現在の環七通りと重なっています。
その堀の内道を伝って北から世田谷城が乗る台地への進入を試みる敵を防ぐためには、現在の斎田記念館の北側を流れる北沢川が防衛ラインとして適していますね。
そこでまた砦の登場です。
代田砦という名称は伝わっていませんが、斎田氏の屋敷跡について『世田谷の中世城塞』には「砦としたほうが適当なのではないかと」という記述があるため、ここでは勝手に代田砦と呼びます。
なお、『世田谷の中世城塞』では、「筆者が勝手に考えているのみで何等の言伝えもあるわけではない」とも書かれているのでそれをご承知置きください。
しかし、地理的な観点から、斎田氏の屋敷が砦としての機能を持っていた可能性を考えたいです。
その斎田氏の屋敷跡へ行ってみましょう。
上馬方面から環七通りを北へ向かって歩きます。
東急世田谷線の若林駅のすぐ北側には烏山川が流れています。
このあたりから北に向かってずっと上り坂です。
烏山川から10分くらい歩くと、右手にファミレス「ガスト」がありました。
このあたりが最高所ですね。
そこからすぐ北にあるファミレス「フォルクス」の脇に歩道橋があります。
歩道橋のすぐ北西にある齋田記念館が斎田氏の屋敷跡、すなわち代田砦のあった場所でしょう。
しかし、ここの歩道橋がまったくもって都合がよく、砦に物見櫓があった場合のちょうど櫓の上から眺めた風景をイメージすることができます。
歩道橋から南を見ます。

今度は北を見ます。

左手に見える白い建物が斎田記念館です。
ところでこの歩道橋は柵が低くて、しかもかなり揺れるので結構怖いぞ・・・
世田谷城の乗っかる台地へ登るべく、北方から敵が進軍してきた場合、このような眺めで敵勢を見下して迎撃をするわけですね。
それでは北方から侵攻された場合を想定して考察してみます。
砦から北側は下り坂になっていて、すぐ先に北沢川が流れています。
往時はこの川の両岸は水田であり、この川ないし水田が北側の水濠の役目を負っていました。
齋田記念館の北側まで降りて行って振り返ります。
北から迫った敵はちょうどこんな感じで砦を眺めることになります(真中の木々が砦の位置です)。

この川ないし水田を渡って砦に攻めかかる敵兵は、田に足をとられて思うように歩けないでしょう。
もたもたしているうちに、砦から降り注ぐ弓矢によってやられてしまいますね。
ちょうど、砦と水田の距離は100メートルほどで、攻め手は水田を何とか進んだとしても高地から低地へ向かって射られる矢によって殲滅されます。
では、水田が乾いている季節なら容易に攻めかかれるのではないかと考えられますが、『世田谷の中世城塞』によると、 世田谷周辺の大部分の土は二毛作のできない黒土で、常に乾くことがなかったといいます。
つまり、どう考えても攻める側は不利ですね。
さて、代田砦は存在自体が確証できていないので、実戦で使われた記録などはもちろんありません。
本城の世田谷城ですら、攻められたという記録は一度しかなく、天正18年(1590)の豊臣政権による北条攻めの際の世田谷城無血開城時に、もし代田砦が存在したとしたら豊臣方に明渡されたことでしょう。
そもそも、戦国時代末期となると動員兵力が数千から数万となり、このような小さな砦では、用をなし得なくなっていたかもしれませんね。
おっと時刻はもう16時20分・・・
そろそろ暗くなりますね。
最後に赤堤砦を見てみましょう。
吉良氏の世田谷城周辺の城砦群のなかで、北方守備のために築かれたのが赤堤砦です。
比定地は、善性寺説と六所神社と説とがあり、まずは善性寺に来てみました。


善性寺は、世田谷4丁目の勝国寺の末寺で赤堤山と号する真言宗豊山派の寺院です。
本尊としている不動明王像は、奈良東大寺開山の良弁僧正が関東に下った際にこの地で彫刻したものと伝わっているので、それが事実かどうかは別としても創建は相当古いと思われます。
つづいて六所神社に来ました。

もうすっかり真っ暗・・・


『世田谷の中世城塞』では、地形的な理由と、善性寺のある土地が地元では「砦山」と呼ばれていることから、善性寺説を採っています。
現在善性寺のあたりを歩いてみると、六所神社の周辺よりもこちらの方が高低差があり、また、善性寺の場合は当時は南・東・北を北沢川とその支流および水田で守られおり、その半島状の西側のくびれた部分を掘り切れば防御力が増大するところから、やはり善性寺のある土地の方が砦跡にふさわしいのではないかと思います。
豪徳寺駅から善性寺に行く途中、今は暗渠となった北沢川を渡りますが、それが往時の砦南側の水堀の役目を担っていたのでしょう。
『赤堤地誌』にも、善性寺のある場所から西側の地域を「赤土手の小山」といい、その高台に砦があったという伝承が書かれています (奈良時代の砦だという言い伝えもあるといいますが、それは俄かには信じがたいとも書かれています。ただし、良弁僧正の伝説とともに興味深い話ですね)。
そして現在では鉄道工事などによって地形が改変され、小山の様相は薄れたとも書かれています。
ちなみに、同書によれば、赤堤とは赤土の露出する土手の意味だといい、地元では「あかつつみ」と濁らないで発音するらしいです。
世田谷の本城との距離は、現在の世田谷公園の中央までは直線で約1.1Kmあります。
では、反対に何故六所神社の場所が砦跡といわれるようになったのか、そちらの方も興味が湧きますね。
私が所蔵している各書の中で一番メジャーと思われる『日本城郭大系』には六所神社のあったところと書いてあるので、それを読んだ多くの人はそう思っていることでしょう。
なお、赤堤砦について私が知りえた最も古い記述は、『世田谷城名残常盤記』記載の、石井正義氏の説(昭和4年11月)で、赤堤砦は世田谷城の搦手側の外郭にあたり、 赤堤村(当時)にその遺唱の存在を伝うとあります。
さて、赤堤砦が常用のものであったか、臨時用のものであったかについてですが、一般的に考えると、通常は管理人程度のメンバーが常駐しており、 有事の際には、必要に応じて兵が詰めるという形であったのでしょう。
そして、その主担当者は、『新編武蔵風土記稿』や『世田谷城名残常盤記』に書かれている、松原佐渡守ではなかったかと思います。
しかし、現在のところ史料でこれを立証することはできません。
近世以降の話としては、天正19年(1591)、服部左兵衛貞信が徳川家康より160石を知行され、陣屋が「砦山」に築かれたといいます。
また同時に六所神社も創建されたということです。
なお、『寛政重修諸家譜』によると服部貞信は伊賀の人で、もと呉服明神の神職でしたが、故あって山城国宇治田原に移ったといいます。
天正10年(1582)の、徳川家康の生涯最大のピンチといわれる伊賀越えの際には、同族の服部半蔵らとともに家康の東行に尽力し、 遠江浜松に160石を知行されました。
その後、家康の関東への国替えに伴い世田谷に転封さて、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦にも参加しています。
貞信の子貞富は、西福寺(赤堤3丁目。新義真言宗豊山派)を開基し、代々の墓所としましたが、その後子孫は駿河に転封となり、『赤堤地誌』によると、現在子孫は世田谷には存在しないということです(なお、西福寺開基については、『世田谷の地名』では、天正12年(1584)の西福寺文書を掲載し、服部氏開基説は誤りとしています)。
さて、時刻は17時を過ぎすっかり暗くなってしまいましたね。
2月の寒い中半日歩いて身体が冷えたので、そろそろ家に帰って温まるとします。
