2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年1月11日に投稿した記事です。
2016年1月10日(日)の探訪レポート
昨日はかねてよりお伝えしていました、「東国を歩く会」の第1回「歩く日」を決行しました。
テーマは「相州奥三保から武州多摩郡椚田村を目指す!」です。
嬉しいことに参加を表明していただけた方の参加率は100%で、かつ、たかお食堂での打上げ参加率も100%、さらに打上げではたかお食堂仲間のこばっちさんも駆けつけてくれて、とても充実した一日を過ごすことができました。
参加された皆さん、昨日はお疲れ様でした!
そして、積極的にこのイベントに関わっていただけて本当に感謝しております。
私はほとんどの方とは以前から遊んだり飲んだりしていましたが、参加者同士では当然初対面という状況も多かったものの、皆さんがまるで昔からの友達みたいに楽しく話しているのを見て、私自身すごく幸せなことだなあと思いました。
さて、それでは昨日の探訪を写真とともに振り返ってみます。
* * *
8時半に橋本駅北口1番バス乗り場の前に集結、予定よりも1本早いバスに乗り込み、20分ほど乗車して津久井湖観光センター前で下車しました。

観光センターの裏にあるお庭で本日の説明や自己紹介などをしたあと、早速津久井城に登ります。
この山に登るよ!

※本記事の写真の中には、以前探訪した時の写真も混ぜてありますので、その点はご了承ください。
津久井城の全体図は現地の案内図で確認できます。

津久井城は、標高375mの本城曲輪のほかに太鼓曲輪と飯綱曲輪という3つのピークからなる山城で、比高は200m以上あります。
3つのピーク以外にも東側には現在鷹射場(たかうちば)と呼ばれているピークもあり、本城曲輪から鷹射場まででも東西の長さは600m近い本格的な山城で、天正18年(1590)6月25日に徳川勢の本多忠勝や平岩親吉らに攻め落とされた(あるいは開城させられた)時の最終形態を見ることができます。
まずは鷹射場からの景色を眺めたいので、宝ヶ池のすぐ下まで登り、そこから尾根伝いに鷹射場を目指します。
津久井湖観光センターからの登り道は、城が機能していた頃の道ではなく後世に整備された道で、本来のメインの登城ルートは南西側の城主の屋敷から登る道です。
ただ、そちら方面はバスの便が悪いので、津久井城に公共交通機関で行く場合には津久井湖観光センター行く方が便利で、そうするとどうしても北側のハイキングコースから登らなければなりません。
ただし、登っている途中にも大きな竪堀がいくつか見られるので、そういうところを注意しながら登ると良いでしょう。
なお、城の周辺を含めた全体図に地名が乗っかっている絵が本城曲輪にありますので、さきにそれを提示します。

さきほどは3つのピーク+鷹射場で東西600mと言いましたが、上図のとおり小倉口の曲輪群まで含めるとさらに巨大となり、さらに城下町を入れると相当大きな城になりますね。
さて、息を切らせながらひたすら登ります。

山登りって歩きだした最初は結構きついんですよね。
40分ほどかけてひとまず宝ヶ池の東側の尾根まで到達しました。
ここには堀切が切ってあり、この堀切が津久井城の絶対防衛ラインで、ここより西側がメインの城域になります。
我々はその堀切を越えて東側に進み、東方の平野が一望できる鷹射場にやってきました。
今日も晴天に恵まれ、風もほとんどなく、歩くには最適な日ですが、残念ながら遠くの方は少し霞んでおり、スカイツリーが薄く見えるくらいでした。
昨年の12月5日に来た時はもう少しくっきり見えましたので写真を載せます。

1月2日の下見の時は、三が日ということもあり都心の空気がもっとも綺麗になる日だったので東京湾がキラキラ光り、房総半島まで見えましたが、その時はなぜか写真を撮るのを忘れました。
鷹射場は東側の相模平野上に南北に走る街道を監視できるので、もしその方面から敵が近づいてくればその姿は丸見えで、敵が攻めかかるまでには防衛体制を整えることができます。
先ほどお見せした図にもある通り、ここから麓に向かう下の方には曲輪がいくつも段々になっている、いわゆる馬蹄段があるようで、東側は往時も「小倉口」と呼ばれる登城口の一つだったようです。
もし、鷹射場が危なくなった時は、守備兵は尾根伝いに逃れ、西方にある飯綱曲輪に撤退します。
その間の尾根は細尾根で、攻め手は一列になって進まなければならず、飯綱曲輪の前衛になっている小さな曲輪から鉄砲で一人ずつ撃ち倒されるわけです。
しばし絶景を堪能した後は、我々も飯綱曲輪へ向かいましょう。
飯綱曲輪の直下には宝ヶ池と呼ばれる湧水があります。

こんな標高の高いところに水が湧き出てくるのは不思議ですが、水が確保できないと山城を築くことはできません。
説明板によると、津久井城の城山は非常に水に恵まれているそうです。
それでは、津久井城の3つのピークの1つである飯綱曲輪に登ってみましょう。
飯綱曲輪には東西の二つの入口がありますが、東側の虎口(入口)は土塁が喰い違いになっています。
通常、虎口は防御力を高めるためにまっすぐにはせず、わざと道を屈曲させることが多いです。
飯綱曲輪という名称は狭義には飯綱権現が祀ってある平場だと思いますが、尾根上には他にいくつか平場あり、それらを総称して呼ぶ場合もあるようです。
南側の曲輪にはベンチが置いてあり、南方の眺望が優れています。
ここからは三増峠方面も丸見えで、永禄12年(1569)に、甲斐の武田信玄は小田原攻めの大遠征をおこなった後、退却時に三増峠を越えて逃げるルートを選択し、峠付近で北条側の追撃隊と合戦になりました。
有名な「三増峠の戦い」ですが、このとき戦場に一番近い城である津久井城には北条側の内藤氏がいました。
ところが、そのとき内藤氏が出撃した記録は無いのです。
もしその時内藤氏が出撃していれば、信玄は挟撃されることになりもしかしたら命は無かったかもしれません。
一応は、信玄の家臣が内藤氏が出られないように麓を押さえたようですが、どうも津久井城の内藤氏はそもそもが半独立勢力ですので、おそらく信玄側があらかじめ調略しておいて出撃しないことになっていた気がします。
そして、信玄が富士山のふもとを回って甲府に帰る道を選ばすに、三増峠を選択した理由の一つとして、三増峠周辺を治めていた津久井城主とは別の内藤氏が、それ以前から武田と北条に両属する勢力であったことが『北条氏所領役帳』で明らかなので、信玄にとっては三増峠越えが安全性の高い退却路だった可能性があります。
さて、そのような説明をした後は、飯綱曲輪の頂部に登りましょう。
飯綱曲輪の頂部には曲輪の名前の元となった飯綱権現が祀ってあります。

ここで参加者から「飯綱権現はお城があった頃から祀られていたのですか?」という質問を受けました。
私もヤマセミさんも確実なことは言えませんが、飯綱信仰は戦国の頃にはすでにあり、高尾山はそれで有名なので、城が作られる前からこの山に祀られていた可能性は高いと思います。
神様は大概、山の一番高いところに祀りますので、もしかしたら当初は本城曲輪の方にいたかもしれません。
それを城を作った時に現在の場所に遷した可能性もあると思います。
ところで今回は、参加者の方々が積極的に質問をしてくださるので会話が弾んで楽しいですね。
次に真ん中のピークである太鼓曲輪に向かうため飯綱曲輪の西側虎口へ向かいます。
そこには現在はまっすぐな道が付いていますが、こちらも往時は喰い違いになっており、その道も残っています。
そして飯綱曲輪から見て左側には長い縦方向の土塁が築かれているのも面白いです。
太鼓曲輪は3つのピークの中で一番面積が狭いのですが、その名の通り太鼓が設置してあったと思われます。
八王子城にも太鼓曲輪がありますね。
太鼓の音はご存知のように非常に大きな音なので、太鼓によって周辺に情報を伝えることができます。
叩き方によって何を示しているのかあらかじめ決めておけば、音を聴いただけで城内や城下での第一次対応ができるわけですね。
太鼓曲輪は城域の真ん中なので、太鼓を設置するのに適していると思います。
参加者からは「太鼓のような形をしているから太鼓曲輪なんですか?」と聴かれましたが、これも面白い発想ですね。
太鼓曲輪の名前の由来については上述した通り太鼓が設置してあったからというのが一般的ですが、こうやって違う可能性を考えるのも楽しいです。
峰岸純夫さんは、「発見する歴史学」というのを提唱されていますが、こうやって歩きながら考え、そして何かを発見するというのは歴史歩きの醍醐味であると思います。
太鼓曲輪から本城曲輪を目指します。
途中大きめの堀切がありますが、昨年の12月5日に西股総生先生に案内していただいたときの話によると、津久井城の特徴の一つは、堀切をあまり使わずに虎口を喰い違いなどにして厳重にする方式を採用している点が挙げられるそうです。
そう言われるて改めて縄張図を見ると、尾根上に作られた城なのに堀切が少ないですね。
なお、この辺の話は西股先生たちが書いた『神奈川中世城郭図鑑』にも書かれているので興味のある方はお読みください。
さて、本城曲輪の下にある土蔵曲輪にやってきました。
ここはその名の通り土蔵があったことが発掘調査でも分かっており、今も直線に並ぶ礎石が残っています。
そしてこの山の最頂部は本城曲輪の西から南にめぐっている土塁の上で、現在碑が建っている場所は少し土塁の幅が膨らんでおり、おそらく櫓が建っていたと思われます。
ちなみに津久井城は曲輪に土塁を構築している箇所が多いのですが、虎口を除いては城外から見える方位に限られています。
これはもちろん防御力を高める効果もありますが、見栄えを良くする(威圧的にする)効果もありますね。
時刻は10時40分、そろそろ下山する予定時刻になりますが、津久井城の特徴の一つである畝状竪堀群を見てみましょう。
津久井城は非常に沢山の竪堀を掘っているのですが、本城曲輪の北西側斜面には竪堀を何本も並べた特異な遺構があるのです。
西股先生は関東では4例しか思い浮かばないと仰っており、その貴重な遺構を皆さんに見ていただきましょう。
少し頑張って曲輪を降りて行きます。
「これが畝状竪堀群です!」と説明しましたが、皆さん反応が微妙です。
竪堀の下の方に回って見るとそのディテールがよく分かるのですが、そこに行くのはかなりの探検ごっこになるので、上の方から見ていただいたわけです。
でもやっぱりあまりピンとこないようですね。
ですので、「何を見たのか良く分からなくても、関東に数例しかない貴重な遺構を見たという事実だけは記憶しておいてください」と皆さんに伝えました。
抽象的すぎるかな・・・
では、本城曲輪に戻りましょう。

なお、現在は土に埋もれていますが、本城曲輪の通路部分には発掘調査の結果、石敷きが見つかっています。
川原石を敷き詰めた通路なわけですが、おそらく八王子城や滝山城もそうなっていたのではないかなあと、我々城仲間は話しています。
では、ここからは下山になります。
本城曲輪から北側に連なっている曲輪を藪こぎして直に降りて行くと近道なんですが、まさかそんなことを皆さんに強要することはできませんので、元来た道を戻り、太鼓曲輪の東側からハイキングコースをたどって下山します。
少し歩いていると、左手上部に曲輪の段々が見えてきて、やがて本城曲輪の北側に段々になっているいくつもの曲輪の一つに到達しました。
ここからは、今回の探訪で唯一の「探検ごっこ」をしようと考えています。
一段下の曲輪の西側土塁にはかなり見ごたえのある石積みが残っているのでそれを見ていただきたいのですが、急角度な斜面を降りる必要があります。
ですので、希望者のみ付いてきてくださいとお伝えしたところ、皆さん付いてきてくれました。

そしてこれをご覧いただいたわけです。

西日本の立派な石垣を見慣れている方からすると、「へー」みたいな感じだと思いますが、これだけの石積みでも関東の中世城郭ファンからするととても面白いのです。
技術的な問題やそもそも石が取りづらいこともあって、関東地方の山城ではほとんど石積みは使わないので、これだけでも感動ものなのです。
ちなみに私が見た関東の山城のなかで最も石積みが凄かったのは群馬県太田市の金山城です。
もちろん復元した箇所も多いのですが、金山城くらいになるともう立派な「石垣」ですね。
あとは、八王子城でも「殿の道」を登って山頂を目指せば、凄い石積みを見ることができますよ。

これで津久井城の全メニューは終了となります。
ハイキングコースを降りて津久井湖観光センターに戻りましょう。

お腹空いた。
⇒ 【gooブログから】春林横穴墓群・川尻八幡宮・川尻八幡神社古墳【東国を歩く会 第1回「歩く日」活動レポート②】
津久井城主内藤氏の系譜 ~津久井内藤氏は3系統あった~(2016年1月4日記)
1.はじめに
津久井内藤氏(以下、単に内藤氏と称す)についての研究のうち、一番良くまとまっているのは『城山町史 5 通史編 原始・古代・中世』(以下「通史編」と称す)で、「第4章 内藤氏の津久井領支配」では内藤氏について出自からその後の展開まで細かに考察されている。この章の執筆者は、後北条氏の研究で著名な下山治久氏であるが、該書が出版されたのは1995年であるので、述べられている内容は最新の後北条氏研究から見ると訂正が必要な部分もあるものの、内藤氏を知る上では必読の文章であることには変わりない。
該書では内藤氏に関係する古文書を一覧し、それらが誰が発給した文書なのかを分類して解説しているが、従来通説となっている直線的な系譜関係から自由に離れて考察するには至っていない感がある。そこで、本論では現在知られている内藤氏関係の文書を読みなおし、内藤氏の系譜についての再検討を試みる。
なお、史料は『津久井町史 1 資料編 考古・古代・中世』(以降「資料編」と称す)に掲載されたものを参照し、本文で数字が振っているものは該書の史料番号を示す。
2.内藤氏の初見文書
内藤氏についての初見文書は、大永4年(1524)12月9日付「内藤大和入道寄進状」である(34)。青山之村(津久井町青山)の光明寺に土地を寄進する旨が記載された文書であるが、土地を寺社に寄進しているということは、当然ながらこの時点で内藤氏は津久井に勢力を有していた。後述する通り、功雲寺の寺伝では天正18年(1590)に津久井城が落城した時の当主は大和守景豊であるので、大和入道は景豊の先祖にあたる人物と考えられ、この大和守の系統がいわば津久井においての本家筋にあたるものと考えられる。
次に内藤氏が現れる文書は、6年後の享禄3年(1530)2月18日の日付のある「熊野堂棟札銘写」で、祥泉庵(津久井町中野)にある熊野堂に収められた棟札の写しである(37)。これには「地頭藤原朝臣朝行」とあり、内藤とは一言も書いていない。したがってこの「朝行」という人物が果たして内藤氏かどうか考察する必要があるが、朝行は年不詳12月16日付けで井上雅楽助宛てに雅楽助任官の書状も発給しており(88)、『資料編』では、任官は守護の職にあるものしかできないことから朝行は相模守護の扇谷上杉朝行としている。しかし、扇谷上杉氏の系図に朝行は現れず、後述する康行の名前が出てくる棟札から考え、朝行は康行の父で、「朝」は扇谷上杉朝興からの偏諱だと考えた方が素直だろう。ただし、朝行が井上氏を雅楽助に任官する権力の源泉は分からない。なお、井上雅楽助の所領は現在の清川村役場付近である。
当時の政治状況を見ると、大永4年(1524)正月に北条氏綱は扇谷上杉朝興から江戸城を奪っているが、朝興はその後反攻に転じ、大永6年(1526)9月には小沢城(川崎市多摩区・東京都稲城市)を攻略し、その後氏綱が一度取り戻したようだが享禄3年(1530)正月には再度朝興は世田谷城とともに攻略している。朝行が熊野堂の造営に関わった時期はちょうどこの時期であり、朝行が扇谷家の元で力を発揮していたのは間違いないだろう。なお氏綱は江戸城を落とした後は朝興に押されていることが多く、江戸城こそ奪回されなかったものの、本拠地の小田原城の眼と鼻の先まで蹂躙されるありさまで、劣勢は天文6年(1537)6月の朝興の死まで続く。棟札には代官大野氏の名前が見え、その後の熊野堂の棟札に現れる代官は必ず大野氏である。
3.左近将監景定と九郎五郎康行
「快元僧都記」には、氏綱が天文元年(1532)から鶴岡八幡宮の再建を開始し、その費用を各地の豪族に募ったことが記載されており、それを見ると内藤左近将監にも呼び掛けている。氏綱が呼びかけた相手はすべて独立勢力であるので、内藤左近将監はこの時点では北条氏の家臣ではなく、独立した領主であった。この左近将監とは誰か。
津久井城の北麓にある功雲寺は、寺伝によると元々は応永15年(1408)に宝ケ峰西麗に建立された耕雲庵で、これを津久井城主内藤左近将監景定が開基となって現在地に移し、同時に功雲寺と改めたという。寺によると景定は天文6年(1537)に没しているので、氏綱が奉加を呼び掛けた内藤左近将監はこの景定であると考えられる。
一方でその頃、内藤康行という人物が存在する。天文10年(1541)11月27日、愛川町の八菅山大権現の棟札に「大檀那遠山甲斐守藤原朝臣綱景」とともに「当地頭内藤九郎五郎藤原朝臣康行」が見える(41)。綱景は江戸城代で北条氏家臣の中でも大身の存在である。つまりこの頃、津久井城に居城し、北条氏からは別勢力として認められている内藤左近将監景定という人物以外にも、江戸城代遠山氏の支配下で八菅山大権現のある愛川町八菅山近辺の地頭を務める内藤九郎五郎康行という人物がいたことになる。しかも康行は左近将監景定と違い、九郎五郎を称し官途を名乗っていないことから単純に両者を比べると景定の方が地位が高い。
ここで両者が領域的に棲み分けていればまだ分かりやすいのだが、不可解なのは天文5年(1536)8月5日付で康行が青山の光明寺に寺家の安堵をしており、天文17年と22年には中野の熊野堂の棟札に名前を連ねていることだ。青山も中野も津久井城から歩いてもすぐ行けるような近接した地域であり、康行は景定の居城である津久井城のすぐそばまで宗教的に介入している。
光明寺は、さきに見た通り内藤大和入道が寺領を寄進しており、大和守の系統は津久井城に居城し、北条氏からは独立勢力として認められていた。そのすぐ近くまで江戸城代遠山氏の権力を背後に持った別系統の康行が支配の手を伸ばしてきているのである。
この康行の系統を図化すると以下のようになる(あまり適切な表現ではないかもしれないが仮に「遠山与力系」と呼ぶ)。
朝行 ――― 康行 ――― 定行
天文5年には甲斐の武田信虎が甲斐から国境を越えて相模国青根(津久井町青根)に侵攻してきており、足弱を100人ばかり拉致しているので、これを考えると、このときおそらく光明寺の住職は北条氏側の内藤康行に対して寺領の保全を請願したものと考えられる。本来であれば光明寺は大和守系内藤景定の保護下にあるものだが、津久井城の景定にはその力がないと判断した可能性がある。翌年景定は没していることから考えようによってはこの時の合戦の傷が元で亡くなった可能性もあるのではないだろうか。
4.大和守系
ここで時間を一気に進める。天正18年(1590)6月24日に津久井城が落城した時の城主は、内藤綱秀であったことが古文書によって明らかである。また綱秀は受領名を大和守としたことは、古文書によって確実だ。そして功雲寺の寺伝によると、景定の子大和守景豊のときに、津久井城が落城したという。そうすると綱秀と景豊は同一人物なのだろうか。あまり確実性はないが年齢の考察をしてみると、景豊の父景定は天文3(1534)年に没しているので仮に1470年頃の生まれとし、景豊は1500年頃の生まれとすると、景豊は天正18年時点では高齢すぎる。景定は大永4年(1524)時点ですでに入道していることから、上記の仮定より若いとは思われず、さらに景豊は天正18年1月に功雲寺に文章を発給しているので当時はまだ現役であるのが分かる。そうすると、大和守の系統(津久井城主)は、景定-○-景豊(別名綱秀)、あるいは景定-○-綱秀-景豊と考えることができる。綱秀の綱は北条氏綱からの一字拝領であろう。両系図のどちらを取るにせよ、功雲寺の寺伝にあるように「景定の子景豊」というのは誤りとなるが、親子関係が後世に正確に伝わらないケースは多い。ここでは両系図のうち後者を取り、当主綱秀は小田原城に籠り、その子で跡継ぎだった景豊が津久井城に籠り落城したと考えたい。さらに、『資料編』では天正7年(1578)に法讃という出家が見えるが、もしかすると彼が景定の子で景豊の父かもしれない。天正7年の時点で出家であれば年代的に整合する。
以上までで、大和守系として遅くとも大永4年(1524)以降津久井城に居城した系統として以下の大和守系の仮説系図を記しておく。
景定 ――― 法讃 ――― 綱秀 ――― 景豊
大和入道
5.内藤家の矜持
天正14年(1586)12月26日付けの光明寺宛ての判物には左近将監直行の名が見えるが、この左近将監は津久井城主の受領名である大和守と同様、代々の官途であったと考えられる。天正14年時点で「直」を名乗っていることから、これは北条家当主氏直からの偏諱と考えられ、なおかつ左近将監を称しているため、直行は津久井城主内藤家の後継者であったことは間違いない。これを上述の仮説系図に繋げると、直行は景豊と同じく綱秀の子である可能性が高い。そうなると、直行と景豊は同一人物ではないかと考えられる。当初は北条氏直から偏諱を受け左近将監を称していた直行は、内藤家は本来であれば独立勢力であるので、北条家の将来が閉じてしまったことを悟った綱秀は、息子を津久井城に置いて小田原城に入る際に直行の諱を元の景を通字とする景豊に改名させ、大和守も襲名させた上で小田原に入ったのではないだろうか。ただし、綱秀は小田原に入った後も自身の発給する文書には大和守と記していることから、小田原城内では北条家に気取られないように行動していたと思われる。
6.田代内藤家
今まで仮に提示した2系統の内藤氏のほかに、もう一つ「田代内藤家」あるいは「三郎兵衛系」と呼べる内藤家があった。こちらは愛川町の田代城および半原の細野城を中心に中津川両岸を支配した勢力で、『役帳』の津久井衆に入っておらず、半役被仰付衆という北条と武田の両勢力に属する勢力として分類されている。
『新編相模風土記稿』には、下野守秀勝、その子三郎兵衛秀行と記され、秀行発給の文書は2通残っており、角田村の日月神社と愛川町田代の永宝寺に関連する文書であり両社寺は位置的にも近く、永宝寺は秀行開基と伝わる。『日本城郭大系 6 千葉・神奈川』「細野城」の項では、秀行の子は定行とするが、その根拠については記しておらず、定行は中野(津久井町中野)の清雲庵に文書を出しているので遠山与力系ではないだろうか。
永禄12年(1569)に、小田原に遠征した武田信玄が撤退時に三増峠越えのルートを選択したのも、まさしくそのルートはこの三郎兵衛系内藤家の勢力範囲であり、彼らが北条・武田に両属している関係上、他のルートよりも安全性が高いと考えた結果ではないだろうか。
7.おわりに
以上、内藤氏には『通史編』がいうところの2系統ではなく、3系統あることを考察し、それぞれの系譜を仮定してみた。それをまとめると以下の通りとなる。
①大和守系(『役帳』の津久井衆筆頭内藤左近将監の系統)
景定 ― 法讃 ― 綱秀 ― 直行(景豊)
大和入道
※代々津久井城に居城し最後まで独立勢力としての矜持を失わなかった
②遠山与力系
朝行 ― 康行 ― 定行
※江戸城代遠山氏の配下として力を振るった
③三郎兵衛系(『役帳』の半役被仰付衆に記載されている内藤三郎兵衛の系統)
秀勝 ― 秀行
※独立性がもっとも高く信玄の三増峠越え撤退ルート上で静観
こう改めて見てみると、どの系統も諱に「行」の字が使われている。このことから内藤氏の通字は「行」であったことが分かる。そしてまだ解決できていない問題は、現存する史料上で大永4年(1524)に初めて登場する内藤氏が一体どこの出身で、どのような経緯で北条氏、そして奥三保と関わりを持ったかである。
『吾妻鏡』文治2年(1186)3月27日の条によると、北条時政が治安維持のために京都に残していった御家人の中に内藤四郎が見えるが、『通史編』では内藤四郎の家人である権藤親家が建長4年(1252)に6代将軍宗尊親王に従って鎌倉に下向し、雪之下に屋敷を与えられており、この権藤親家が内藤氏の先祖ではないかと推測している。権藤がなぜ内藤を称するようになったかなど問題点は多いが、可能性の一つとして考えても良いと思う。内藤氏は元々鎌倉にあった光明寺が津久井に移った後、その外護者となっており、内藤氏と鎌倉には何らかの関係があったようだ。内藤氏は戦国初頭は扇谷家の武将として活動し、北条氏が相模に侵攻し、鎌倉を押さえた頃に北条家に鞍替えしたのだろう。
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