2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2016年2月21日に投稿した記事です。
2017年3月30日(木)の探訪レポート
以前このブログで江戸期の甲州街道から分岐する稲毛道の話をしました。
その稲毛道は私が勤めているお店の近くを通っており、お店を出た後に甲州街道へ行く時の抜け道として利用することも多いです。
最近はバス代を節約するために、お店から豊田駅か八王子駅まで歩くようにしているのですが、今日は八王子駅へ稲毛道を歩いて向かう途中、以前から気になっているハケを1段下りていく道を降りてみることにしました。

ここを左へ降りて行くほっそーい道です。

お、この道は東国を歩く会のみんなが喜びそうな道だぞー。
そう思いつつウキウキしながら降りると、すぐ右手に鳥居が現れ、洞窟のような祠が現れました。

横に建っている石碑を見ると、「武田信玄家臣供養塔」と刻してあります。

そういえば以前、東国を歩く会の高橋さんからこの辺り(大和田町)に武田家に関する遺跡があると聞いていたので、これがそのことかと思い、しげしげと周囲を観察していました。
すると、ふいに背後から「神様を調べている方ですか?」と声を掛けられてしまったのです。
私に声をかけたのはこの社を管理する方のようです。
なので、これ幸いと、この社についていろいろとお話を伺ってしまいました。
その方は昭和9年生まれのお姉さんで、Nさんと言います。
まず、この社は洞窟のようになっていますが、ここは戦国時代の末期、甲斐武田家が滅びた時に武田四郎勝頼に近しい親族もしくは家臣がここまで逃れてきて切腹した場所だそうです。

祭壇の後ろには、以前は骨壷があったということですが、現在はこの通り。

Nさんによるとこの周囲には昔から洞窟がたくさんあったそうなので、これは古墳時代後期の横穴墓の跡に間違いありません。
実際、東京都の遺跡地図を見ても、この辺りまで大和田の横穴墓群があったとマーキングされています。
その横穴墓の跡で勝頼所縁の武士たちが切腹したというわけです。
それを地元の人がずっと祀っていたのですが、大正14年に東京都が現在の形にきちんと整備してくれたそうです。
ところがそのとき、「税金を使ってそんなことをする必要はない」と言っていた都の偉い人が病気になってしまい、当然のことながら、それは「祟りのせい」ということにされてしまいました。
また、通常であれば洞窟は収穫した農作物を保存するのに適しているのですが、そういった用途に使うと野菜が腐ってしまったり、はたまたここに保存しておいた桑の葉で蚕を飼っても上手くいかないので、これらもまた「祟り」ということにされています。
その後、太平洋戦争のときには防空壕に使われたそうです。
ところで、私が稲毛道だと思っていた道ですが、実はNさん曰く「新しい道」ということでした。
江戸期の稲毛道は今私が立っているこの社の前の道だったのですね。

左側のさっき私が降りてきた道は、昔はリアカーも通ったそうです。
この馬頭観音が昔からこの道沿いにあったのだとしたらここが稲城道だということの蓋然性も高くなりますね。

上の新しい道からは、ある日トラックが転落してき鳥居を少し破壊してしまったそうですが、幸いなことに運転手は無傷だったので、普通であれば鳥居を破壊してバチが当たるところなのですが、この場合は「神のご加護」とされています。
さて、私はこの社に気を取られていて気が付かなかったのですが、背後には社殿がありました。

額には「雷法圓四郎大善神」と書かれ、この社の祭神だということです。

中に入ってみますか?ということなのでお言葉に甘えます。

ここではかつて、霊能力を持ったNさんのお祖父さんが霊を降ろしてそのお告げによって来訪者の悩みを解決していたそうで、その当時、悩みが解決した方々は幟や提灯を奉納したそうです。


Nさんのお祖父さんは相当な力を持っていたらしく、山形県などの遠方からも救いを求めてきた方もいたということでした。
ただ、そういった能力を持っていたのはお祖父さんだけだったため今ではだいぶ衰退してしまい、ご高齢のNさんが何とか管理をしている状況で、時折息子さんも清掃などを協力してくれるそうです。
昔は講の組織もきちんとしていて寄付もあったそうですが、今後この社を維持していくのは難しいそうで、後継者問題が社会のいろいろなところで発生していることを寂しく思いました。
ところで、こちらの祭神の「雷法圓四郎大善神」の四郎とは、武田四郎勝頼のことだそうです。
なぜ、ここに勝頼が祀られているのか?
この謎が、歴史マニアにとっては一番興味の惹かれるところではないでしょうか?
これは歴史および民俗のテーマとして非常に興味深いですね。
あ、この辺はまだハケの土が露出している。

あー、お腹が空いてきた。
早くお家へ帰ろう。

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