最終更新日:2022年12月17日

古墳時代前期の王権の実態はほとんど分かっていない

 古墳時代が始まる頃から前期にかけて(3~4世紀)の同時代史料としては、いわゆる「魏志倭人伝」が有名ですが、同書は中国で書かれた極めて政治的な編纂物であり、取り扱いには厳重注意が必要ですし、記載されている時代については古墳時代というより、弥生時代末期といって良いです。一方、国内で書かれた文献史料を探すと皆無ですから、その時代を解明しようとすれば、必然的に考古学に頼ることになります。

 単純にその時代の古墳を見渡してみると、奈良県桜井市から天理市にかけてのオオヤマト古墳群の存在からも分かる通り、3世紀初めから4世紀の頃にはその地域に巨大な力を持った組織が存在したことは明白です。その組織のことを私は「ヤマト王権」と呼び、研究者によっては「ヤマト政権」と呼んだり、カタカナではなく漢字で「大和」と表記したり、表現方法は各種ありますが、ほとんどの研究者は桜井市・天理市周辺に他地域から抜きに出た大きな政治組織が存在したことを否定しません。

桜井市・纒向遺跡

 私の中にある古墳時代史の流れのイメージは、奈良県桜井市の纒向遺跡に君臨する大王(この時代はまだ天皇は存在せず、「大王」も存在しないと考えますが、列島各地の王と区別するため大王と表記)が、朝鮮半島との鉄をはじめとした文物の交易をコントロールし、朱や各種威信物の配布を通して列島各地の王たちに影響力を及ぼしていて、それが時代が下るにつれて直接支配する地域が拡大していき、やがて7世紀の終わり(古墳時代の終わり)には中央集権化が最終段階となり律令国家へ移り変わっていくという流れです。

 他の研究者も大体似たような考えの方が多いと思いますが、それをさらに掘り下げて具体的に明らかにしようとしても不明なことだらけです。つまりは、ヤマト王権の王(大王)という存在が、具体的にどのような権力を帯びた存在だったのか。大王とその周辺の人たちは、具体的にどのような人事システムでどのように税を徴収し、どのような政策を実行したのか。裁判や警察・軍隊の仕組みはどうだったのか。大王は、地方の王からはどのように見られる存在で、どのような契約を結んでいたのか。そして大王や各地の王たちは、どのような方法で後継者を決めていたのか。能力主義だったのか、世襲だったのか。世襲だったら直系や男系優先なのかそうでないのか。もう枚挙に暇がないほど分からないことだらけです。

 このように婚姻制度や後継者選定制度が不明なまま、8世紀に編纂された日本書紀に掲載された天皇の名前を持ち出して、古墳と対応させる作業は、とくに前期や中期に関しては不毛とまで言うのは酷ですが、かなり空想的な作業と言えるでしょう。科学ではなくファンタジーです。また、よく首長墓とか首長墓系列という言葉が出てきますが、首長とは何か。そして系列とは言うけれど、上述した通り王という存在が具体的にどのようなものか分かっておらず(地域のトップが複数名の可能性もある)、後宮制度や後継者の選び方すら分かっていない状況で、よくも首長墓系列とか言えるな、気は確かかと、冷静になってみるとそう思うわけです。

 上述したソフト的な面は文献史料がないと解明するのは難しい、というかほぼ無理なのですが、無謀にも私は純粋に古墳やその他の遺跡から出土したものを評価していき、それによって上述の難問の解明に取り組んでいこうと思います。今のところ、考古学の力を借りてヤマト王権のソフト面(とくに前期)をきれいに説明できた研究者は一人もいませんし、そもそも考古学でソフト面を明らかにすることは不可能に近いですから、ほとんど絶望的な作業に取り掛かることになります。

 

 

2世紀の吉備・出雲と3世紀の大和

 絶望のはるか先に光明を見出すべく、まずは墳丘の規模を見ます。私は、大きな古墳に葬られた人は大きな力を持っていたと単純に考えます。ただし、その権力を考える上では、前後の時代の古墳の被葬者と比較するのではなく、同じ時代の古墳の被葬者と比較する必要があります。というのは、地方によって違いがあるものの列島全体の流れとしては、前期から中期にかけて墳丘規模は拡大傾向にあり、後期には反対に縮小し、終末期には総じて墳丘規模は小さくなりますが、だからといって後期の大王が中期の大王よりも、そして終末期の大王が後期の大王よりも権力が縮小したとは言えないからです。

 弥生時代終末期の2世紀を見渡してみると、出雲と吉備に大きな勢力が存在したことは間違いないでしょう。出雲とその周辺には四隅突出型墳丘墓(よすみ)という独特な形状の墳丘墓が造られますが、出雲市の西谷墳墓群において最大規模のものが現れます。

西谷2号墓

 2世紀末に築造された最大のよすみである西谷9号墓は60mほどの大きさがあります。

西谷9号墓の四隅部分は藪化している

 また、吉備には双方中円形の墳丘墓が造られ、倉敷市の楯築墳丘墓がとくに有名で、70mほどの規模があり、これらの規模は全国的に見ても卓越しています。

楯築墳丘墓

 同じ時期の北部九州を見ると、例えば福岡県糸島市の平原王墓という長方形の墳丘墓が有名ですが、大きさは長辺14m×短辺12mしかありません。

平原王墓

 考古学的に見ると、魏志倭人伝に記された伊都国や奴国といった国々が隆盛を誇ったのは少し前の紀元前後のことです。魏志倭人伝のイメージとは裏腹に、弥生時代末期の北部九州には、吉備や出雲よりも大きな勢力がいたようには見えないのです。また、この時代の畿内にも吉備や出雲に匹敵する墳丘墓は存在しません。とくに出雲の勢力は大きく、その影響力は北陸地方にまで及んでいました。そのため、このまま時代が推移していけば、吉備や出雲が天下を取ってもおかしくないような状況だったのです。

 ところが、それが3世紀になると、出雲と吉備が急激に衰退します。実際の政治力や軍事力が衰退したかどうかは慎重に考察する必要がありますが、墳丘規模だけを見たら衰退しています。奈良県桜井市の纒向古墳群にてトップバッターの纒向石塚古墳が造営されるころには、出雲と吉備では大型の墳丘墓は造られなくなります(纒向石塚古墳の築造時期は、3世紀初頭という説と3世紀中葉という説がありますが、ここでは3世紀初頭説を採ります)。

『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)より加筆転載(赤文字の部分が稲用が加筆した部分)

 纒向石塚古墳は、墳丘長が96mもあり、それに続いて3世紀前半の内には115mの勝山古墳が築造されます。これらの古墳は前述した吉備や出雲の墳丘墓の規模をはるかに超えています。纒向石塚古墳の築造時期は確定していないものの、出雲・吉備が衰退してヤマトが急成長するというのは事実です。なお、3世紀前半の北部九州には相変わらず大型の墓は見られません。

 なお、「古墳」と「墳丘墓」の使い分けについては、箸墓古墳以降を「古墳」と呼ぶ研究者が多いですが、私は纒向石塚古墳が築造された3世紀初頭以降のものは「古墳」と呼んでいます。それ以前の西谷墳墓群や楯築墳丘墓、そして平原王墓などは、弥生墳丘墓として考えます。

 このように古墳時代の始まりの頃を単純に古墳の大きさから見ると、纒向古墳群周辺にて巨大な権力体が突如として発生したように見え、3世紀の時点でこのような権力体は列島全体を見渡してもここにしかありません。そのため、ちょうど時代的にも合致する(と見える)邪馬台国は纒向にあったという考えに行く着く気持ちも分かります。ただし、邪馬台国の所在地を考えるためには、そもそもが文献史学の問題ということもあり、考古学に頼らざるを得ないのは確かですが、考古学者がもしその問題に取り組むのであれば、魏志倭人伝のみならず三国志全体やその前後の中国の歴史書をよく読んで、中国の王朝というものがいったいどのような存在で、当時の中国の政治家たちがどのような思考回路を持つ人びとだったのかをよく理解し、中国の王朝が記す「正史」というものの性格・特質をきちんと分かった上で、考古学の力を活かしていただきたいものです。魏志倭人伝の原文を示して、一つひとつその政治的背景を説明したうえで、それに対応する考古学的事象を綺麗に説明することが必要です。本当か嘘かも分からない邪馬台国の幻想を追いかけて安易に発掘成果に結びつける前に、文献としての魏志倭人伝の評価をきちんとすべきです。

 話が逸れました。話を戻しましょう。

 

ヤマト王権とは何か

 「大和」王権というように漢字で書いていも良いのですが、「やまと」という地名を「大和」と記すようになったのは、奈良時代の和銅6年(713)に、畿内七道諸国・郡・郷の名前を「好い字2文字」にするように定められてからです。そのため、「大和」と記すと何だか新しい時代の雰囲気がしてしまうのです。

 古墳時代の「やまと」は、5世紀に記された中国の宋書から類推して、もし漢字を使って表記したとしたら、「倭」と書いた可能性が高いです。そのため、「倭王権」と書いてもいいのですが、その場合は「わおうけん」と発音されることが多いと考えられます。中国は日本のことを「倭国」と呼んでいたため、「倭王権」でもいいと思いますが、王権の本拠地がヤマトにあったことも鑑み、私は「ヤマト王権」という表記を使います。

 そのヤマト王権の具体的な本拠地はどこかというと、古墳時代が始まった時点では、奈良県桜井市の纒向遺跡で間違いないと考えます。

 

 


纒向遺跡

 纒向遺跡は、実年代で表すと、180年頃に突如として現れて、350年頃に突然消滅した遺跡で、後述する通り特殊な内容の遺跡です。

 JR巻向駅を中心として、現在は南北約1.5㎞、東西約2㎞という広大な範囲ですが、下図の通り、年を経るにつれて範囲が拡大してきた経緯があります。

桜井市立埋蔵文化財センターにて撮影

 北側は現在の天理市内にまで食い込んでおり、南側には箸墓古墳があります。東側の丘陵部分も結構奥の方まで範囲に含まれていることが分かります。

 昭和46年以降、桜井市教育委員会と橿原考古学研究所によって少しずつ発掘が行われていますが、掘ることができた面積はまだ全体の2%ということです。桜井市には2016年以降よく行っているのですが、担当者の方は会うたびに毎回「2%」と言います。それだけ調査が丁寧に行われているということだと思います。ただし、それだけしか調査できていないのにもかかわらず、興味深い発見が相次いでいます。私は邪馬台国が奈良にあったかどうかについては、慎重に考えていますが、現状の考古学的成果では納得できないものの、将来的には多くの人たちを納得させる遺物や遺構が出るかもしれませんね。纒向遺跡は、この先大発見があるかもしれない非常に夢のある遺跡です。

 出土遺物の特徴としては、農耕具がほとんど出ないかわりに、土木作業用の工具が大量に出ることから一般的な農村とは違う特殊な遺跡だったと想定できます。都市であると考える研究者もおり、私も同様に考えていて、現状からは当時列島最大の都市だったと想定できます。

 独特な遺構としては、辻地区では後述する大型居館跡が見つかっていますし、遺跡出現時に構築された運河の可能性がある大溝、それに鍛冶工房跡も見つかっています。また、遺跡の範囲内にたくさんの古墳が築造されたことも特徴の一つで、広大な遺跡の中には意図的に墓域が形成されていました。

 遺構として最も注目を浴びているのは、JR巻向駅の北側に展開する辻地区で見つかった建物群です。邪馬台国奈良説の人は「卑弥呼の館」と言ったりしますが、それはそれとして、これらの建物が建っていたのは3世紀前半で、これがその時期の王権の中心的な政庁であった可能性が高いです。

桜井市立埋蔵文化財センターに展示してある大型居館跡の模型(職員の方の手作りです)

 左側(西側)から建物B、C、Dと呼び、発見当初はこの左で見つかった建物Aも一連のものだと思われましたが、のちにAは時代が異なるということで除外されました。また、Dの右側(東側)には、建物Eが見つかっていますが、ちょうど線路の下になっていて全貌は不明です。建物B、C、Dについては、現地の説明板を読んでいただくのが良いと思います。

現地説明板を撮影

 建物Cは、のちの神社建築でも採用される棟持柱が使われていたようで、巫女のような人物が住んでいたのかな?とか、想像してしまいます。

現地説明板を撮影

 建物群で最大の床面積を誇るのは建物Dです。

現地説明板を撮影

 床面積は約238㎡あり、この時代では最大規模です。また、この時代はまだ版築工法は日本では見られないのですが、大型建物を建てるために基礎作りから行ったようです。

 この建物群の特徴は、建物の長軸をほぼ南北方向(西に4~5度振れていますが)に定めて、それを綺麗に東西方向に建て並べていることです。このように南北方向や東西方向の方位に合わせて建物を建てるのは、列島各地ではもっとあとの7世紀から普及しますから、先進的な建て方です。

 纒向遺跡の遺物を見ると、土器に関しては15%が外来土器で、さらにその半分は東海地方西部の土器です。

桜井市立埋蔵文化財センターにて撮影

 単純に考えると、この外来土器の範囲がヤマト王権の勢力範囲と考えられます。邪馬台国奈良説の人にとって分が悪いのは、北部九州の土器がほとんど見つかっていないことで、ここが邪馬台国であるのなら、当然ながら伊都国や奴国の土器が見つかるはずなのです。この点が、私が邪馬台国奈良説に対して慎重な態度を取る理由の一つです。

桜井市立埋蔵文化財センターにて撮影

 上のグラフを見ると、九州がありませんね。出典は1976年に刊行された『纒向』ですので、かなり古いのですが、現在でもこの比率はさほど変わっていないはずです。

 さて、この纒向遺跡を本拠地とした初期ヤマト王権ですが、その勢力範囲は前述した通り、外来土器の分布範囲と重なります。前方後方墳の分布範囲の調査から、関東や南東北に関しては、濃尾勢力がヤマト王権のいわば「東日本事業部」のような形で、独立採算のように活動していた形跡が見られますので、ヤマト王権の最も影響が及ぶ範囲は、畿内から吉備・讃岐にかけてです。これを私は「本州西部広域連合」と呼ぶことがあります。

 次項では、列島各地の初期古墳を見てみたいと思います。

 

初期の前方後円墳と前方後方墳

 古墳の主役は、前方後円墳です。全国に6000基ほどあると言われています。また、それに負けないくらい重要なものとして前方後方墳があり、こちらは全国で600基ほどあると思われ、前方後方墳の場合は東日本に偏って存在します。

 古墳にも土器などの考古遺物と同様に編年というものがあります。列島各地の前方後円墳や前方後方墳の築造年代に関しては、前方後円墳集成編年というものがあり、3世紀後半から6世紀末までを10期に分けて考えるのが一般的で、1~4期が前期、5~7期が中期、8~10期が後期と考えます。

 これは畿内の古墳を中心とした考えで、地方には地方の編年が存在することもありますが、その場合も、前方後円墳集成編年に対応させて考えることによって列島全体の古墳の編年化が図られています。

 前方後円墳集成編年は少し古い研究成果のため、現在の学問の水準とは乖離している場合もあるのですが、自分がまだあまり詳しくない地域の古墳を探るときは、まずはそれに沿って考えると便利ですし、たまに研究書を読んでいると普通に「○期の古墳」と出てきますから知っておくといいでしょう。

『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)より転載
『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)より転載

 10期に分けた場合の1期の古墳がヤマト王権発足時の古墳ということになりますが、それら初期の古墳を説明する前に、これよりも前に築造された纒向古墳群の古墳たちから見てみます。

 纒向古墳群のうち、墳丘が残っている古墳の中で確実に前期の古墳とされているのは、纒向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳、東田大塚古墳、それに箸墓古墳の6基です。これらのうち、箸墓古墳およびそれと同時期に築造された東田大塚古墳以外の4基は、「弥生墳丘墓」と呼ばれることもある古墳です。それらの中で最古と考えられる纒向石塚古墳と、発掘調査によって詳細が分かっているホケノ山古墳について詳しく見てみましょう。

 

96
纒向石塚古墳

 纒向石塚古墳については、こちらのページに記述してあります(読み終えたらまたこのページに戻ってきてくださいね)。

 

 

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ホケノ山古墳

 墳丘長80mの前方後円墳で、後円部の径が60mあり、前方部は未発達です(最近設置された説明板<下図>には後円部径が55mとありますが、墳丘図を見る限りでは60mの方が正しいように思えます)。

 

 1999年から翌年にかけて橿原考古学研究所ほかによって発掘調査が行われ、3世紀中葉の築造とされました。

 以下、本項は『ホケノ山古墳 調査概報』(橿原考古学研究所/編)を元に述べます。

 形状は航空写真で見ると分かりやすいのですが、現地で見るときは注意して見てください。前方部を道路が分断しており、下の説明板がある駐車場側にまで前方部が伸びており、バチ形に開いていたと考えられます。

ホケノ山古墳の説明板

 段築は後世の改変により判然としませんが、少なくとも2段築成で、葺石が施されていました。埴輪はなく、吉備にルーツを持つ特殊器台も見つかっていません。周囲には周溝もありました。

 

 現地説明板では、はっきりと周溝とは言わず、「周濠状遺構」と呼んでいますが、前方部先端部側は周溝の跡が明瞭でないため、弥生時代の周溝墓からまだ飛躍していないような、前方部前先端側は意識しない古いタイプの周溝のようです。また、水を張る意図はなかったようです。

現地説明板を撮影

 埋葬主体は3か所ありますが、初葬者は後円部中央の石囲い木槨という特殊な主体部に埋葬されていました。上図の右側写真のように墓壙の壁面を分厚く礫で囲み、その内側には木で槨を作るという二重構造の槨で、その内部に刳抜式の舟形木棺を安置していたと推定されています。橿原考古学研究所附属博物館に模型の展示があります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 この模型の通り、木槨の蓋の上には壺形土器が並べられていましたが、計11個体見つかった壺形土器は個体差が激しいのが特徴で、これが埋葬儀礼の時に持ち込まれたものだとすると、複数の勢力の代表者が葬儀に参列したと考えられます。しかもこれらの壺は東海系のものであることにも注意を要します。ただし、東海勢力のみが参列したとは考えられないことから、参列者が東海出身の職人に壺を発注したと考えることもできます。

 古墳を造った当時は、埋葬儀礼のあとに礫と土を被せて古墳を完成させます。発掘時は、墳頂から50㎝ほど掘った時点で墓壙が検出されていますが、後世に造られた横穴式石室(後述)の天井の高さから考えて、築造時の墳頂はさらに2mは高かったと考えられることから、この主体部は墳頂から2.5mも下に上部があったことになり、一般的な古墳よりも深めの位置に造られていたことが分かります。

 2つ目の埋葬主体は古墳造営から少し経った3世紀後半に前方部に造られたもので、出来上がっている古墳の葺石などを除去して墓壙を掘った後、組合式の木棺を安置しています。現地には復元展示があります。

 

 木棺の左手に見えるのは岩ではなく、大型複合口縁壺で、デザイン的には瀬戸内地方のものですが、胎土分析の結果からは纒向遺跡内で作られたものであることが分かっています。何のために添えられた壺かは分かりませんが、製作者は瀬戸内出身の人物です。

 後円部主体部の異様なほどの石の量へのこだわりや、土器製作者が瀬戸内地方の出身者という点を併せると、被葬者は讃岐出身の人物ではないかと想像してしまいます。私は瀬戸内海を抑える必要上、ヤマト王権発足時のメンバーには讃岐出身の有力者も含まれていたと考えています。ただし、この被葬者は、上述した後円部主体部の壺を見ても東海勢力とも縁が深い人物であったと考えられます。

現地説明板を撮影

 纒向遺跡からは列島各地の土器が出土するため(ただし九州の土器は極端に少ない)、そこは各地の王や王から派遣されてきた人びとが交わる場所だったようです。そのため、江戸期の江戸の町にやってきた大名たちのように、各地域の有力者同士が婚姻することもあったでしょう。

 なお、墳丘後円部は纒向古墳群の他の古墳たちと同様盛土で構築していますが、前方部に関しては珍しくほとんどが盛土ではなく、地山削り出しです。

 ユニークなのは、6世紀末に後円部に横穴式石室を増設してしまったことです。

横穴式石室の平面プラン

 初葬者を葬ってから300年以上経ってから構築されていますが、うまい具合に初葬の主体部を傷つけていませんでした。

 玄室に安置してあった組合式家形石棺は橿原考古学研究所附属博物館の建物外の廊下に置かれています。

ホケノ山古墳の石棺(橿原考古学研究所附属博物館にて撮影)

 さすが奈良ですね。こんなすごいものが無造作に置かれています。長辺には突起が3つあって格式が高いので、6世紀末に敢えてホケノ山古墳に埋葬された被葬者の正体が気になります。