幕末・維新の事件の整理

最終更新日:2023年6月30日

大航海時代

 遥かな海を越えた先で入手してきた物が高く売れて、大金持ちに成れることは理屈として分かっていても、高度な造船技術や航海技術が必要だし、国家としてそれに取り組むためには、国内の政治情勢が安定している必要もある。

 技術は時を経るにつれて進歩していき、あるとき、やりたかったことが可能になる。15世紀初頭のポルトガルでは、世界に飛び出していく条件が満たされ、大航海時代が始まった。それにやや遅れたスペインも積極的に世界に繰り出していき、彼らは単なる交易だけではなく、世界各地で植民地の建設を進め、1494年には両国の間でトルデシリャス条約が結ばれ、ヨーロッパ以外の新たに獲得する場所の境界線が決められた。世界地図の上に1本の縦線を引いて、そこから東がポルトガル、西がスペインという具合だ。

 ところがその後、地球が丸いのであれば、縦線1本だけでは分割が無理だということが理解され、1529年にはサラゴサ条約が結ばれ、もう1本の線が引かれた。これで一件落着だ。この頃の日本は戦国時代真っただ中であったが、この条約によればポルトガル領である。まったく余計なお世話としか言いようがないが、例外もあって、アメリカ大陸全域はスペイン領になるはずのところ、ブラジルはポルトガル領になったし、フィリピンはポルトガル領になるところがスペイン領になった。

 ともかく、当時の二大強国がこれを前提にして世界中に進出していったわけだが、日本ではポルトガルの支配下になるかもしれない危ないタイミングで豊臣秀吉が列島を統一し、ついで徳川家康が江戸幕府を開いたこともあり、ポルトガルの植民地になることは回避できた。

 両国に続いて、フランスやイギリス、そしてスペインからの独立を志すオランダ(ネーデルラント連邦共和国)も世界の海に漕ぎ出していき、植民地を建設した。

 

日本の開国

 ところで、鎖国していた日本にペリーが来航したのは1853年、そしてペリーの再来航によって開国したのは1854年であるが、それに至る約250余の間、よくも日本はヨーロッパの国ぐにに侵されなかったと感心する。この間、アジアの国ぐには軒並みヨーロッパの国ぐにの支配下に置かれるようになり、強国であった清(中国)でさえ、1840年に始まったアヘン戦争でイギリスの軍門に下った。清の屈伏は、当時の日本の知識人たちを「次にやられるのは我々かもしれない」と震撼させたであろう。

 幕末維新について書かれた本は、ペリー来航から始まることが多いが、もちろん日本はそれ以前から外国からの接触を受けていた。しかし、1854年に幕府はアメリカ合衆国との間に日本に不利な日米和親条約を結んだこともあり、ペリーの来航・再来航は、当時の人たちにとっては相当インパクトのある事件であったことは間違いない。そのインパクトを受けた人びとが幕末維新に活躍するわけだが、彼らの1853年当時の年齢を列挙してみる。

・孝明天皇 1831年生まれ、23歳
・徳川慶喜 1837年生まれ、17歳
・松平容保 1836年生まれ、18歳
・勝海舟 1823年生まれ、31歳
・坂本龍馬 1835年生まれ(新暦では1836年)、19歳
・西郷隆盛 1827年生まれ(新暦では1828年)、27歳
・木戸孝允 1833年生まれ、21歳
・吉田松陰 1830年生まれ、24歳
・佐久間象山 1811年生まれ、43歳
・榎本武揚 1836年生まれ、18歳
・土方歳三 1835年生まれ、19歳
・中島三郎助 1821年生まれ、33歳
・松岡磐吉 1841年生まれ、13歳
・沢太郎左衛門 1834年生まれ、20歳

 上記以外にも著名な人物は沢山いるが、やはり若い人が多い。若いころに強烈な経験をすると、その後の人生に大きな影響を及ぼす。幕末維新で活躍した人たちが軒並み若い人たちであったことも頷ける。

 清国はその後、アロー戦争(第二次アヘン戦争)を経て、1860年にはイギリス・フランスと北京条約を結び、同年にはロシアとの間にも同条約を締結し、凋落が止まらなくなる。なお、これによってロシアは沿海州の海岸部に不凍港であるウラジオストク港を築造し、日本にとっても大きな脅威となった。

 このようななか、幕府はどのような手を打ったのであろうか。

 例えば、ペリー来航のあと、安政2年(1855)にいわゆる「長崎海軍伝習所」をオープンさせ、幕府海軍の強化を目論んだ。日本は鎖国中でもオランダとは付き合いがあったため、幕臣や各藩から選抜された生徒たちがオランダ人教官から蘭学や航海術を学び、造船も行った。長崎海軍伝習所は3期(3箇年)に渡り運営された。勝海舟は全期在学している。

 函館戦争で戦った人びとも学んでおり、第一期生には、中島三郎助(函館奉行並<以降カッコ内は函館政権での役職>)、第二期生としては、榎本武揚(総裁)や松岡磐吉(蟠竜艦長)、最後の第三期生には、沢太郎左衛門(開陽艦長・開拓奉行)がいる。

開陽艦長・沢太郎左衛門(開陽丸記念館にて撮影)

 

事件の羅列

 このあとの事件について、あまり面白くない書き方だが、教科書のように時系列で羅列してみる。

 日米和親条約は、幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが勅許を得ないまま(天皇の許可を得ないまま)結んでおり、これに不満を持つものも多かったが、井伊直弼らはそれら不平分子に対して、安政6年(1859)に弾圧を行った(安政の大獄)。

 安政の大獄では、吉田松陰や橋本左内らが斬られ、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)らが謹慎処分となっている。

 その翌年、井伊直弼は桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。

江戸城・外桜田門

 文久2年(1862)8月21日には、生麦村(現在の横浜市鶴見区)にて薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇したイギリス人を薩摩藩士が殺傷し(生麦事件)、翌文久3年(1863)7月には、薩摩藩とイギリスとの間で戦争が勃発した(薩英戦争)。

 元治元年(1864)7月19日、長州藩が会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦が行われ(禁門の変/蛤御門の変)、7月23日には、朝廷から長州藩追討令が出され、24日には慶喜が西国21藩に出兵を命じた。薩摩藩もこれに乗じて、長州藩を攻撃した(第一次長州征伐)。

 このような経緯から薩摩と長州は仇敵の間柄だったが、各藩の利害を超えて「日本国」として大きな見地で物事を見ることを坂本龍馬らから勧められた両藩は一転して同盟を組む(薩長同盟)。

 薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允が会見する前の時点では、優勢な薩摩に対して、長州の軍事力はかなり低下していたが、海外から武器を買おうにも幕府の奉行所がある長崎では貿易ができない状態になっていたため、長州は薩摩名義で武器を買ってくれることを同盟の条件とした。

 こうなると、薩長同盟を推し進めた龍馬のビジネス力が役に立った。龍馬は亀山社中という交易会社を経営しており、武器の購入はお手の物だ。というか儲け話である。龍馬はイギリスのグラバー商会から長州のために薩摩名義で武器を購入した。元込めミニエール銃4000挺、ゲーベル銃3000挺、アームストロング砲15門である。これによって長州藩の軍事力は国内でもトップクラスに戻った。

立会川の坂本龍馬は今は特殊詐欺防止に活躍している

 このようなことが行われていることを知らない慶喜は、慶応2年(1866)に再度長州征伐を命じたが、薩摩藩はそれに応じず、他の藩からの反応も鈍かった(第二次長州征伐)。

 第二次長州征伐の最中の7月20日、将軍家茂が大坂城で薨去した。これを理由にして慶喜は長州と休戦。12月5日には、慶喜が第15代将軍となる。なお、慶喜は歴代の将軍で唯一、在位中に江戸城に入らなかった将軍である。

 薩長主導の倒幕運動が活発化する中、将軍慶喜は慶応3年(1867)10月14日に大政返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許された(大政奉還)。しかし、朝廷は政治機構も整っていないし、日本国の統治をおこなうことは不可能なため、朝廷も日常の政務については、今まで通り慶喜に任せると言って来た。慶喜は将軍ではなくなったが、結局のところ政権を維持したままになった。


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