続日本紀・要点講座② 元明天皇 ~律令国家初の蝦夷征討と平城京遷都~

最終更新日:2023年7月5日

目次

第1章 元明天皇とは

第2章 首皇子即位への布石

第3章 国郡建置と律令国家初の蝦夷征討

第4章 平城京遷都

まとめ

 

 

第1章 元明天皇とは

元明(げんめい)天皇

第43代天皇

諱は阿閇(あえ)/阿陪(あべ)

斉明7年(661)生誕

在位は慶雲4年(707)~和銅8年(715)

霊亀元年(715)に元正に退位後は上皇として君臨

養老5年(721)崩御(享年61)

子は文武・元正以外に吉備内親王がいる(長屋王に嫁ぎ、「長屋王の変」にて自殺)

 

元明天皇の主な事績

足掛け9年の在位中、以下の政治を行った

慶雲4年(707)7月21日 授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)を創設

和銅元年(708)正月11日 武蔵国秩父郡から和銅を献じられ改元し、大赦や高齢者への支援などが行われる

同年3月13日に政府の新体制人事を発表

同年5月11日、和同開珎の鋳造を開始

和銅2年(709)、律令国家初の蝦夷征討

和銅3年(710)3月10日、平城京遷都

和銅5年(712)、古事記完成(『続日本紀』に記載なし)

 

 

第2章 首皇子即位への布石

元明の即位

 慶雲4年(707)6月に文武が崩御した時、文武の子の首(おびと)皇子は7歳で皇太子にもなっていなかった(なれる年齢でもなかった)

天武の以下の諸皇子(文武の叔父たち)が健在で彼らの誰かが皇位に就くことも可能であったが、持統の遺志や藤原家の興隆を目指した不比等の考えもあって、文武の伯母である元明が首が成長するまでの時間稼ぎ(中継ぎ)の自覚をもって即位したと考えられる

 -穂積 ・・・ 第5皇子 母は蘇我赤兄の娘・大蕤娘(おおぬのいらつめ)
 -舎人 ・・・ 第6皇子(このとき32歳) 母は天智天皇の娘・新田部皇女
 -長 ・・・ 第7皇子 母は天智天皇の娘・大江皇女
 -新田部 ・・・ 第10皇子 母は藤原鎌足の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)

 

私兵の創設

元明は即位の4日後に、授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)という官司を新設し、宮中の警護にあたる

大宝律令では同じような役目の五衛府があり、授刀舎人寮は令外官(りょうげのかん)

 ⇒ 笹山晴生氏は首皇子を護る意図で元明や不比等が創始した部署と推定(元明の私兵的役割を担う)

つぎの元正の代になるが、養老6年(722)には、この長官に房前(42歳)が任じられる

 

元明朝新体制

元明は即位の翌年3月には以下の人事を発令

 -左大臣 ・・・ 正二位 石上麻呂(69歳)
 -右大臣 ・・・ 正二位 藤原不比等(51歳)
 -大納言 ・・・ 正三位 大伴安麻呂
 -中納言 ・・・ 正四位上 小野毛野
 -同 ・・・ 従四位上 阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)
 -同 ・・・ 従四位上 中臣意美麻呂(おみまろ)
 -参議 ・・・ 従四位上 下毛野古麻呂(こまろ)

このほか各省や各国の長官も任じられた

 

下毛野古麻呂

参議に任じられた下毛野古麻呂は、このとき式部卿に叙任

古麻呂は下毛野国造家の末裔とされ、本拠地は下野国河内郡(宇都宮市の鬼怒川以西ほか)

下毛野氏の支配領域には、古墳時代後期から終末期(6~7世紀)にかけて、下野型古墳といって広い基壇を設け、埋葬主体を前方部におく独特な古墳が造られた

下野型古墳にして栃木県最大の栃木県壬生町・吾妻古墳

古麻呂は下野薬師寺跡を創建したと伝わる

古麻呂は大宝律令の編纂にも参加している

『公卿補任(くぎょうぶにん)』によると、和銅元年(708)7月10日に、正四位下大将軍に叙せられた(『続日本紀』には記載なし)

和銅2年(709) 12月20日卒去(享年不詳)

下野では古麻呂は郷土の誇りだ(栃木県下野市・しもつけ風土記の丘資料館にて撮影)

 

和銅の産出と和同開珎の鋳造

和同開珎の読み方は「わどうかいほう」と「わどうかいちん」がある

慶雲5年(708)1月11日、武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が献上され、それを瑞祥として和銅に改元

 ⇒ 日本では鉱物の発見を瑞祥として改元することがあるが、中国では鉱物の出現を祥瑞とする発想はない

同年2月11日、初めて催鋳銭使(さいじゅせんし)を置いた

同年5月11日、和同開珎の銀賤を使用開始

 ⇒ これより前に無文銀銭や富本銭が鋳造されている

 ⇒ 中国の長安からも和同開珎の銀銭が発掘されることがある

同年7月26日、近江国で和同開珎の銅銭を鋳造

同年8月10日、和同開珎の銅銭の使用を開始

翌和銅2年(709)年8月2日には銀銭の通用を停止して銅銭を使うようにした

和同開珎(群馬県みどり市・大間々博物館<コノドント館>にて撮影)

 

 

第3章 国郡建置と律令国家初の蝦夷征討

元明朝の国郡建置 

下表は、和銅元年(708)9月から元明が退位する直前の霊亀元年(715)7月までをまとめたもの

『人物叢書 藤原不比等』(高島正人/著)より転載(和銅6年12月2日の条は武蔵国ではなく陸奥国の誤り)

元明朝では、令制国の建置に関しては、出羽国(越後国から分離)、丹後国(丹波国から分離)、美作国(備前国から分離)、大隅国(日向国から分離)が新たに設置された

 

上野国多胡郡の建郡と多胡碑の建立

和銅4年(711)3月6日、多胡郡を建置し、現地ではそれを記念して多胡碑を建立し、現存している

多胡碑は、群馬県高崎市に所在する「日本三古碑」の一つで、同じく日本三古碑の多賀城碑、那須国造碑とともに日本の古代石碑の頂点に君臨する

同じく高崎市にある山上碑と金井沢碑とともに上野三碑の一つでもある

律令国家から建郡について発令された官符の内容を写したような文面で、上野国の片岡・緑野・甘良の各郡から300戸を割いて多胡郡を建て、その長官には「羊(ひつじ)」という人物が任じられたことが分かる

内容からすると、建立者は多胡郡の初代郡司となった羊であると考えられるが、羊という人物のフルネームや実態については不明(なぜか七輿山古墳の伝承にも登場する)

 ⇒ 石碑を建てること自体、羊が渡来系の人物であったことの証左ではないだろうか

 ⇒ 文面の最後には何の脈略もなく、天武天皇の第5皇子で当時政権のトップであった知太政官事・穂積親王と、彼を助けて政治を行っていた左大臣・石上麻呂、それに右大臣・藤原不比等の名が刻されており、続日本紀の世界をリアルに感じ取ることができる

 ⇒ 彼ら3名の名を刻んだのは羊自身の権威付けのためと、3名に阿る気持ちがあったのだろうと推測する

群馬県高崎市・多胡碑

 

陸奥国内の建郡

和銅6年(713)12月2日に建置された丹取郡は、かつては名取郡のことであるという説があったが、現在では、下図の玉造郡あたりに当初置かれた郡とするのが通説

 ⇒ 『東北の古代遺跡』(進藤秋輝/著)によると、丹取郡の郡寺に伏見廃寺跡があり、それと同時期に建立された寺院として、色麻一の関遺跡と菜切谷廃寺跡があり、色麻一の関遺跡は色麻郡の郡寺、菜切谷廃寺跡は賀美郡の郡寺と考えらることから、丹取郡、色麻郡、賀美郡の3郡は同時期の建置と見られる

霊亀元年(715)5月30日、相模・上総・常陸・上野・下野の富裕な民1000戸を陸奥に移住させたが、1戸20人で計算すると2万人という大規模な移住となる

 ⇒ 上述の関東地方の地名と同じ地名が大崎地方にあるため、記録には残っていないものの丹取郡の建置からそれほど時を経ずして、丹取郡より南側にも複数の郡が建置され、その構成員は関東からの移住者が主であったと考えられる(詳しくは、涌谷町HPのこちらのページを参照)

ところが、伊治城築城ならびに栗原郡の建置は、かなり遅れて神護景雲元年(767)

 ⇒ 栗原郡の手前まで来てから栗原郡を建置するまで半世紀も掛かっていることから、この間には越え難い一線が存在したと思われる(新幹線の駅でいえば古川駅まで容易に朝廷の支配下になったが、次のくりこま高原駅はなかなかそうならなかった)

 ⇒ 栗原郡からさらに先に行くのにまた半世紀近く掛かるが、そこにはアテルイの父や祖父あたりの世代の豪族がおり朝廷にとっては抜き難い地域だった

『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也/編)より転載

上図の太平洋側に関しては、神護景雲元年(767)に栗原郡が建置されたころが表現されており、栗原郡までが現代の宮城県で、その北は岩手県になるが、岩手県域南部の胆沢まで日本の領土になるのは9世紀初頭のアテルイ降伏後

 

出羽国の建置と蝦夷の反乱

『日本書紀』によると、天武天皇11年(681)、蝦夷の建議によって最上川の河口付近の庄内地方に仮の郡(権郡)が建置されたが、その地域の政情が安定したため、和銅元年(708)9月28日に正式に出羽郡を建置した

それ以降の動きを蝦夷征討を含めて時系列に述べると以下の通りとなる(蝦夷征討についての詳細は後述)

 - 和銅元年(708)9月28日、越後国出羽郡を建置
 - 和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷を討つために征討軍出陣
 - 同年8月25日、蝦夷征討軍が軍事行動を終えて入朝
 - 同年9月、房前(29歳)が東海道と東山道へ視察に赴く
 - 和銅5年(712)9月23日、出羽国を建置(郡から昇格)
 - 同年10月1日、陸奥国の最上郡(山形市周辺)と置賜郡(おいたみ・おきたま=米沢市周辺)を出羽国に併合

和銅7年(714)10月2日、尾張・上野・信濃・越後などの200戸を出羽の柵戸に移住させたが、1戸を20人で計算すると、4000人規模の移住となる

和銅6年(713)4月3日、日向国を割いて大隅国を建置

 ⇒ 元正天皇の養老4年(720)の大規模な大隅隼人の反乱へつながる

 

律令国家初の蝦夷征討

和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷が、「野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える」ということで、律令国家初の蝦夷征討が行われた

文武天皇のときに遣唐使に節刀が与えられたが、このとき軍事作戦として初めて節刀授与が行われた

節刀を授けられた将軍は戦地においては天皇の代理であり、将兵に対する生殺与奪の権限を持っている

兵が動員された国は、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中など

 

律令国家以前の蝦夷征討

『日本書紀』には、元明朝の蝦夷征討以前に以下のような蝦夷征討記事が見られる

 - 仁徳天皇の時代の上毛野君田道(たぢ)による蝦夷征討

   ⇒ ヤマト王権の東国における最大の協力者である上毛野氏が独自の政策として行ったか?

秋田県鹿角市・猿賀神社に立てられた標柱

 - 舒明天皇9年(637)の上毛野君形名による蝦夷征討

   ⇒ 蘇我政権の東国における最大与党である上毛野氏が政権への協力のため行ったか?

 - 斉明天皇の658年から足掛け3年にわたる阿倍臣の北方遠征

   ⇒ 律令国家が出羽側の支配地位を広げる前段階の作戦行動として評価でき、アイヌとオホーツク人の抗争にアイヌ側を支持し参戦(当時、オホーツク人は奥尻島に拠点を設けており、青苗砂丘遺跡がそれであると考えられる)

北海道奥尻町・青苗砂丘遺跡

 

将軍の任命

以下の将軍を任命

 - 陸奥鎮東将軍 左大弁・巨勢麻呂(こせのまろ)
 - 征越後蝦夷将軍 民部大輔・佐伯石湯(さえきのいわゆ)
 - 副将軍 内蔵頭・紀諸人(きのもろひと)

翌4月16日には陸奥守の上毛野小足(おたり)が没し、7月1日には上毛野安麻呂が陸奥守に任じられた

 ⇒ 小足は昨年3月13日に陸奥守になったばかりだが、上毛野氏が引き続き陸奥守となった

 

作戦行動と戦果

安麻呂の陸奥守叙任と同日、諸国に命じて兵器を出羽柵に運ばせた

 ⇒ この時点で出羽柵が存在したことが分かり、その場所は庄内地方だと思われる

 ⇒ 征越後蝦夷将軍佐伯石湯以下の日本海側の討伐軍は、おそらく庄内平野からさらに北上して現在の秋田県域に侵攻した可能性がある

7月13日には、越前・越中・越後・佐渡の船100艘を征狄所に送らせた

 ⇒ 石湯への支援

8月25日、石湯と諸人が征討を終えて帰還し入朝し、二人は元明に招かれ手厚い恩寵を与えられた

一方、東山道方面を進んで陸奥に入った陸奥鎮東将軍巨勢麻呂の帰還記事がないが、麻呂は2年後に正四位下から正四位上に一階上がっている

 

元明朝の蝦夷征討の意義

征討前年の出羽郡建置によって現地に派遣された官吏と現地住民(蝦夷)とのあいだで軋轢が生じ、それが騒乱に発展したことは十分考えられる

ただし、朝廷軍を派遣する必要があったかどうかは検討する余地がある

そのため、元明の権力を誇示する意図が第一に考えられるが、平城京遷都の直前、不比等与党の力を見せつける一大デモンストレーションであった可能性もある

また、日本は律令の整備を進めて、戦争をする法律も完成したことから、将来に備え実際にそれを運用してみる必要もあるため、そのテスト的な意味もあったと考える

 

 

第4章 平城京遷都

平城京遷都

和銅元年(708)2月15日、平城京遷都の詔を発布

 ⇒ 「衆議忍び難く詩情は深切である」とあり、元明は主体的ではない

和銅3年(710)3月10日、藤原京から平城京へ遷都

 ⇒ 「藤原京」という言葉は近代の学術用語で、『日本書紀』によると当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれていた

桓武天皇が延暦3年(784)に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)へ遷都するまで、7代、足掛け75年間、日本の都となる

 ⇒ この時代を奈良時代と呼ぶ

和銅4年(711)9月の条には、「諸国の役民、造都に労して奔亡なお多し。禁ずといえども止まず」とあることから遷都後も工事は続いており、しかも労働条件で過酷なため逃亡する者が多かったことが分かる

 

大極殿の完成は遷都5年後

大極殿の完成は遷都から5年後の和銅8年(715)

平城京遷都の際、藤原京には石上麻呂が残った

 ⇒ 不比等は上司である麻呂を新たな都での政治運営から外したが、これより2年前に20歳を迎えた宇合は、時期は不明だが麻呂の娘と婚姻している

平城宮大極殿

 

寺院の移転

藤原京からは例えば以下の寺院が移転

 - 法興寺(飛鳥寺) ・・・ 移転後は元興寺
 - 大官大寺 ・・・ 移転後は大安寺
 - 厩坂寺(うまやさかでら) ・・・ 移転後は興福寺
 - 薬師寺 ・・・ ただし、移転後も藤原京の伽藍も維持していたらしい

すべての寺院が移ったわけではなく、法興寺・大官大寺・薬師寺と並んで「飛鳥の四大寺」の1つであった川原寺(かわはらでら=現・弘福寺<ぐふくじ>)は残った

奈良県明日香村・川原寺跡

 

平城京の造営と古墳の破壊

和銅2年(709)10月11日、工事中に古墳が発見された場合は、発(あば)いたまま放置せず、埋め戻して死者の霊を祭るように勅された

 ⇒ 発くこと自体を禁止していないのが面白い

平城京造営の際に多くの古墳が破壊されたことが判明しており(あちこちで埴輪片が見つかる)、例えば、現在100m級の大型円墳に見える市庭(いちにわ)古墳は、元々は墳丘長253mの超大型前方後円墳古墳だった

奈良市・市庭古墳

 

元々あった道を基準とした造営

藤原京もそうだが、平城京も元々あった道路を基準線としている

 ⇒ 中国の都城や長岡京・平安京では元々の道路は無視

『日本古代の国家と都城』(狩野久/著)より転載

 

平城京の構造

中国と違い、城壁で囲むことはしなかった(形ばかりの羅城門)

 ⇒ このため京域をはっきりさせることが難しい

発掘調査によれば、大内裏は東側に張り出し部分があり、そこに東院や東宮があっ
た可能性がある

 ⇒ 林睦郎氏は、元々不比等の別邸か関係寺院があった土地に平城京を誘致したとする

 

藤原京と平城京の比較

藤原京の規模は東西5.3km×南北5.3km

平城京の規模は東西4.3㎞×南北4.7㎞

『古代の都市と条里』(条里制・古代都市研究会/編)より転載

 

平城京の人口構成

人口の正確な記録はないが、6~7万人、多くても10万人

それ以外に外から来た人々が一時的に滞在

人口内訳は以下の通りで、一般人は少ない

 - 五位以上の貴族層(以下、その家族を含む) ・・・ 1200人
 - 六位以下の長上官層 ・・・ 6000人
 - 番上官(地方の有力者の子弟が兵衛<ひょうえ>として勤務) ・・・ 3万

 - 全国から集められて労働に従事する一般人 ・・・ 2万人 
 - 僧侶 ・・・ 数千人

 ⇒ 役人は本籍地を元の場所に残したままの者が多かった

 ⇒ 全国から多くの人びとが集まったため、我が国初の「日本語」という共通語ができたとされる

 

奈良時代の政治

持統天皇から奈良時代にかけては皇親政治と呼ばれる政治体制が敷かれた

天武の時代、高市皇子は太政大臣として政務を見た

刑部親王、ついで穂積親王は知太政官事(ちだじょうかんじ)として政務を見た

 ⇒ 大宝律令制定後は皇族が太政大臣に叙せられることはなくなり、そのかわり知太政官事が置かれた

知太政官事と上皇との継投で政治を見るのが皇親政治

『律令制の虚実』(村井康彦/著)より転載

 

【コラム】日本人とイエネコ

日本人が犬を飼育した歴史は長く、縄文時代から家族の一員として大事にされてきた

一方、猫(イエネコ)は、奈良時代から貴族のペットとして飼われ始めたといわれていたが、2007年に兵庫県姫路市の見野古墳群で猫のような動物の足跡がついた7世紀の須恵器を発見

姫路市・見野6号墳出土須恵器のレプリカ(見野の郷交流館にて撮影)

2008年には、壱岐のカラカミ遺跡から十数点の猫の骨らしきものが見つかり、約2100年前のものと判明

長崎県壱岐市・カラカミ遺跡

 

 

まとめ

文武のあとはその子首(のちの聖武天皇)が継ぐはずだったが、幼年の首を残して文武が崩御

文武の跡を継いだ元明は、中継ぎ天皇としての役割を果たした

元明朝で特筆される事績は平城京遷都だが、それには不比等の意向が多分に含まれている可能性がある

また律令国家として初めて国家権力を動員して蝦夷を征討した史実も忘れてはならない

 

続日本紀要点講座③ 元正天皇

  

参考文献

『日本の女帝』 上田正昭/著 講談社 1973
『藤原不比等』 上田正昭/著 朝日新聞社 1986
『続日本紀 現代語訳 上』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『続日本紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『日本古代の国家と都城』 狩野久/著 東京大学出版会 1990
『日本書紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1992
『蝦夷と古代国家』 関口明/著 吉川弘文館 1992
『長屋王家木簡と奈良朝政治史』 大山誠一/著 吉川弘文館 1993
『クマソの虚構と実像』 中村明蔵/著 丸山学芸図書 1995
『熊襲と隼人』 井上辰雄/著 ニュートンプレス 1997
『新装版 人物叢書 藤原不比等』 高島正人/著 吉川弘文館 1997
『日本の誕生』 吉田孝/著 岩波書店 1997
『古代東北と王権』 中路正恒/著 講談社 2001
『古代国家と東北』 熊田亮介/著 吉川弘文館 2003
『歴代天皇・年号事典』 米田雄介/編 吉川弘文館 2003
『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 笹山晴生/著 講談社 2004
『律令制の虚実』 村井康彦/著 講談社 2005
『飛鳥の宮と藤原京』 林部均/著 吉川弘文館 2008
『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 渡辺晃宏/著 講談社 2009
『東北の古代遺跡』 進藤秋輝/著 高志書院 2010
『シリーズ日本古代史④ 平城京の時代』 坂上康俊/著 岩波書店 2011
『隼人の古代史』 中村明蔵/著 平凡社 2011
『なるほど!「藤原京」100のなぞ』 橿原市ほか/編 柳原出版 2012
『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』 熊谷公男/編 吉川弘文館 2015
『古代の都市と条里』 条里制・古代都市研究会/編 吉川弘文館 2015

 

 

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