続日本紀・要点講座③ 元正天皇 ~積極的な地方再編と辺境の騒乱~

最終更新日:2023年7月5日

目次

第1章 元正天皇とは

第2章 積極的な地方再編

第3章 養老四年

まとめ

 

 

第1章 元正天皇とは

元正(げんしょう)天皇

第44代天皇

 ⇒ 元明天皇との即位順をド忘れした時は、「明」治・大「正」の順と一緒と思い出せばよい

諱は氷高・日高(ひだか)、あるいは新家(にいのみ)

天武9年(680)生誕

在位は霊亀元年(715)~養老8年(724)

聖武に退位後は上皇として君臨

天平20年(748)崩御(享年69)

生涯独身で子はいない

 

元正天皇の主な事績

人民が食糧を得られるように特に配慮

新たな国や郡の建置や按察使の設置など地方行政に積極的でとくに東国を重視

そのかわり、その反発か、蝦夷と隼人の大規模な反乱を招いた

美濃に行幸して温泉を気に入った

日本書紀が完成

 

 

第2章 積極的な地方再編

元正即位の謎

元正は、霊亀元年(715)9月2日に元明から譲位されたが、そのとき首(おびと)皇子は15歳で充分に天皇になることが可能であった(首は前年、立太子している)

 ⇒ なぜ首が即位しなかったのかは謎とされている

元明即位のときと同じく、天武の諸皇子(元正・文武姉弟の叔父たち)が健在で彼らの誰かが皇位に就くことも可能であった

  - 穂積 ・・・ 第5皇子 母は蘇我赤兄の娘・大蕤娘(おおぬのいらつめ)
  - 舎人 ・・・ 第6皇子(このとき40歳) 母は天智天皇の娘・新田部皇女
  - 新田部 ・・・ 第10皇子 母は藤原鎌足の娘(不比等の妹)・五百重娘(いおえのいらつめ)

元明は中継ぎとして即位したが、元正の即位によってさらに中継ぎが続いた

 

農業に強い関心

元正は即位時の詔で、水田だけに頼らず、畑の耕作に力を入れれば干ばつなどの不作にも強いことを伝え、麦を植えるように詔した

 ⇒ 即位して最初の言葉がこういった内容であるので、私は「人民の母」をもって君臨しようとした女性らしい心優しさを感じる

粟作も奨励

霊亀2年(716)2月2日、摂津国の大隅・姫島の2牧を廃止させ、水田へと変更

養老6年(723)7月19日の詔でも全国の国司に雑穀などの栽培を命じ、凶作に備えさせた

雑穀(新潟市文化財センターにて撮影)

 

香河村に郡家を建つ

霊亀元年(715)10月29日、陸奥の蝦夷邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべのきみうそみな)が、「親族が死んで子孫が数人しかおらず、狄徒に侵略されるおそれがあるので、香河村に郡家を設けて編戸に入れと欲しい」と申請し許可された

香河村の場所については判明していない

 ⇒ 邑良志別君宇蘇弥奈という蝦夷の名前を分解すると、「邑良志別君」の「君」は朝廷から賜った姓であり、通常、君の前には地名が付くので、「邑良志別」は「オラシベツ」となり、式内社の遠流志別石(おるしわけいし)神社のある宮城県登米(とめ)市だと考える

715年以前の段階ではまだ栗原郡や登米郡は建置されていない

 ⇒ 登米郡の場合は、「登米」の地名の由来となったと考えられる「遠山(とよま)」村がのちの774年に勃発した「三十八年戦争」の最初の激戦地になっている

また、このとき蝦夷須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)の言上により閇村にも郡家が建てられている

 ⇒ 閇村が後の上閉伊郡・下閉伊郡のどこかだとすると、上述の登米郡よりも奥の地域になるが、その後の延喜式には「閇郡」は現れないため、この時代に一時的に建郡されてその後廃れたか、あるいは権郡(仮の郡)であったと考える

 

出羽国の拡充

元明天皇のときの和銅5年(712)9月23日に出羽郡が出羽国に昇格し、同年10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた

 ⇒ このときの出羽国府の場所は未確定

霊亀2年(716)9月23日、巨勢麻呂が出羽への民の移配を進言

 ⇒ 麻呂は和銅2年(709)の征夷の際の陸奥鎮東将軍で実際に現地の様子を知っているはず

陸奥国の置賜・最上および信濃・上野・越前・越後各国の人民を100戸ずつ出羽国へ附属

翌年2月26日、信濃・上野・越前・越後各国の人民を100戸ずつ出羽の柵戸に配置

養老3年(719)7月9日、東海・東山・北陸の三道の人民200戸を出羽へ移配

 ⇒ こういった政策が在地の人びとに悪影響を及ぼし、後に述べる反乱につながるか

 

高麗郡の建置

霊亀2年(716)5月16日、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7か国の高麗人1799人を武蔵国へ移住させ、高麗郡を建置

 ⇒ 武蔵国最後の21番目の郡である新羅郡(現在の新座市周辺)は天平宝字2年(758)に建置

 ⇒ 旧高句麗人の関東への配置は、単に辺境に追いやることが目的でなく、鉱物資源の発見や馬の繁殖を期待され、対蝦夷政策の一翼を担うことも考慮されていたものと考える

養老元年(717)11月8日、高麗・百済の士卒が本国の戦乱にあって帰服

埼玉県日高市・高麗神社

 

石上麻呂の死去

養老元年(717)3月3日、左大臣で正二位の石上麻呂が薨去(享年78歳)

 ⇒ 朝廷の最長老で平城遷都の際は藤原京の留守を預かった

 ⇒ 右大臣以上が亡くなった場合、天皇は3日間政務を見ない

式部卿・正三位の長屋王と左大弁・従四位上の多治比三宅麻呂を弔問させ、麻呂には従一位が贈られた

太政官の誄(しのびごと)、五位以上の官人の誄、六位以下の官人の誄が行われ、太政官の誄は右少弁・従五位上の上毛野広人が担当

 

美濃への行幸

養老元年(717)8月7日、多治比広足を美濃国不破へ遣わし、行宮の造営をさせた

 - 9月11日、元正は美濃国へ向けて出発
 - 12日、近江国にて琵琶湖を観た
   ⇒ 山陰道の伯耆以東、山陽道の備後以東、南海道の讃岐以東の諸国司らが参上
 - 18日、美濃に到着
   ⇒ 東海道の相模以西、東山道の信濃以西、北陸道の越中以西の諸国司らが参上
 - 20日、当耆郡(たきのこおり)に行幸し、多度山(たどやま)の美泉で手や体を洗う
 - 27日、帰途につき翌日平城京に帰還

 

美濃への行幸の結果

美濃への行幸の際に体を洗った多度山の美泉の効能が素晴らしく、養老に改元し、大赦を行う

80歳以上の官人の位階を一階進める

100歳以上、90歳以上、80歳以上の人に絁(あしぎぬ)などを授与

すべての官人に物を授与(女官を含めることをとくに明記している)

12月22日、立春の明け方に水を汲み都に運ばせて醴酒(あまざけ)を作ることにした

翌養老2年(718)2月7日、美濃の醴泉へ再度行幸

 

新たな国を建置

養老2年(718)5月2日、以下の国を設置

 - 能登国 ・・・ 越前国の羽咋(はくい)・能登・鳳至(ふし)・珠洲(すず)の各郡
 - 安房国 ・・・ 上総国の平郡・安房・朝夷・長狭の各郡
 - 石城(いわき)国 ・・・ 陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・亘理、常陸国の菊多の各郡
 - 石背(いわしろ)国 ・・・ 陸奥国の白河・石背・会津・安積・信夫の各郡(常陸国の多珂郡の210戸を分け菊多郡とし石背国に附属)

養老3年(719)7月21日、石城国に初めて駅家を10か所設置

養老5年(721)6月26日、信濃国を分けて諏訪国を建置

 ⇒ 積極的に東国政策を推し進めていたことが分かる

 

藤原四兄弟の現況

養老3年(719)正月13日の叙位

 - 武智麻呂(40歳) ・・・ 正四位下
   ⇒ 716年5月の時点で近江守(近江にて辣腕を振い、子の仲麻呂の頃には南家の私領のようになっていく)

 - 房前(39歳) ・・・ 従四位上
   ⇒ 717年武智麻呂より先に参議となっている

 - 馬養(宇合)(26歳) ・・・ 正五位上

 - 麻呂(25歳) ・・・ 記載なし

 

按察使の設置

養老3年(719)7月13日、按察使(あぜち)を初めて設置

2~4国を担当し国司の行政を監察する(以下、例)

 安房・上総・下総 ・・・ 藤原宇合
 相模・上野・下野 ・・・ 多治比縣守(武蔵守、正四位下)

7月19日には、按察使の典(さかん=補佐役)を任命

養老5年(721)6月10日、太政官の奏上により、按察使を正五位の官に准ずることとし、俸禄を2倍とする

 ⇒ このとき元正は、「朕の手足であり人民の父母であるものは按察使だけである」と言っている

 

茨城と常城を廃止

養老3年(719)12月15日、備後国安那郡の茨城(いばらき)と葦田郡の常城(つねき)を廃止

 ⇒ 両城とも古代山城

常城の場所については、脇阪光彦氏が、亀ヶ岳の山頂から西尾根(七ツ池)を囲む地域を比定しているが、遺構は見つかっていない

茨城については不詳

 

 

第3章 養老四年

多事多難な養老4年

養老4年(720)は元正の治世の中でも大きな出来事が頻発した年

 - 隼人の反乱
 - 日本書紀の完成
 - 不比等の死
 - 蝦夷の反乱

 

隼人の反乱が発生

養老4年(720)2月29日、隼人が叛乱を起こし大隅守陽侯麻呂(やこのまろ)を殺害したことを大宰府が奏言

 ⇒『新撰姓氏録』によると、陽侯氏は隋の煬帝の子孫・達率楊候阿子王(だちそちやうこうあしおう)の末裔を称する渡来系氏族

3月4日、隼人征討のメンバー発表

 - 征隼人持節大将軍 ・・・ 中納言・正四位下の大伴旅人(おおとものたびと)
 - 副将軍 ・・・ 授刀助・従五位下の笠御室
 - 同 ・・・ 民部少輔・従五位下の巨勢真人

西鉄・太宰府観光列車「旅人」(太宰府駅にて撮影)

 

隼人の反乱の結末は不明

6月17日、元正は詔して戦地にいる旅人らを慰問

7月21日、旅人から船頭にいたるまで身分に応じて物を賜った

8月12日、副将軍以下は現地での戦いを続けさせ、旅人を入京させる

 ⇒ 総大将を帰京させるのは普通あり得ないが、8月3日に不比等が薨去したことと関係があるだろう

 ⇒ 旅人は10月23日、長屋王とともに不比等邸へ赴き、詔を伝え、不比等は太政大臣・正一位を追贈された

11月8日、南嶋の人232人に位階を与えた

3年後の養老7年(723)4月8日、大宰府からの言上により隼人征討の負担と凶作に苦しむ日向・大隅・薩摩の租税を3年間免除

5月17日、大隅・薩摩の隼人624人が朝貢

5月20日、隼人に宴を賜い、隼人は歌舞を奏し34人の酋長に位と禄を賜った

 

日本書紀完成

養老4年(720)5月21日、舎人親王が責任者として編纂を進めていた『日本書紀』が完成

 ⇒ この時の記事では『日本紀』というタイトルになっており、30巻+系図1巻で構成されている(系図1巻は現在伝わっていない)

 

不比等の死

養老4年(720)3月12日、不比等に授刀資人30人を加えた

8月1日、不比等が病気になり大赦が行われる

2日、不比等のため読経

3日、薨去

10月23日、長屋王と大伴旅人が不比等邸へ赴き、詔を伝え、不比等は太政大臣・正一位を追贈された

 ⇒ 石上麻呂は従一位が追贈されていたが、不比等は死してようやく先輩の麻呂を超える位階となった

翌年5月19日には、不比等の妻である正三位の県犬養三千代が出家入道

 

皇親政治

舎人親王(45歳)は不比等が亡くなった翌日、知太政官事となり、新田部親王は知五衛および授刀舎人事に任じられた

 ⇒ 実質的には、上皇あるいは知太政官事が政権のトップに立ち、知太政官事は皇族が任じられる

 ⇒ のちに政権トップは太政大臣が務めるが(ただし臨時職で通常は左大臣がトップ)、これは家臣でもなれる

舎人親王はの翌年の養老5年(721年)に右大臣に任ぜられた長屋王とともに皇親政権を構成

振り返ると、和銅8年(715)7月27日に穂積親王が亡くなってから知太政官事は空席だったが、9月2日に元明が元正に譲位して上皇となり、皇親政治を行っていた

『律令制の虚実』(村井康彦/著)より転載

 

按察使・上毛野広人殺害

養老4年(720)9月28日、陸奥国が「蝦夷が反乱して、按察使・正五位下上毛野広人(かみつけののひろひと)を殺害した」と言上

翌日、征討メンバー発表

 - 持節征夷将軍 ・・・ 播磨按察使・正四位下の多治比縣守
 - 副将軍 ・・・ 左京亮・従五位下の下毛野石代
   他に軍監二人、軍曹二人
 - 持節鎮狄将軍 ・・・ 従五位上の阿倍駿河
   他に軍監二人、軍曹二人

 ⇒ 広人殺害の報を受けてからあまりにも迅速な発表であるため、蝦夷が反乱することを予期していたか、反乱するように仕向けた可能性がある

 

上毛野広人とは

既述した通り、養老元年(717)3月3日に石上麻呂が薨去した際には太政官の誄を担当

養老元年(717)4月26日、大倭守に任じられた

養老4年(720)正月11日には、正五位下に叙せられた

9月28日、殺害される

 ⇒ 上毛野氏は歴史的に見ても陸奥との関りが深く、広人以降も陸奥の行政に関わる

 

征夷の内容とその後の東北政策

事件発生から約7か月後の養老5年(721)4月9日、多治比県守・阿倍駿河らが帰還

 ⇒ 現地での戦いの内容については記載がなく不明

養老5年(721)8月19日、陸奥国按察使が出羽国を管轄

養老6年(722)4月16日、蝦夷や隼人を征討した将軍以下の官人と征討に功績のあった蝦夷や通訳の者に勲位を授けた

 

北方政策

少し遡るが、養老2年(718)8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷87人が1000頭の馬を貢納して位を授かった

 ⇒ 1000頭という数はとてつもないので俄かには信じがたいが、いずれにせよ都の人が驚くような相当な数の馬が納められたのだろう

養老4年(720)正月23日、渡島の津軽の津司(つのつかさ)である諸君鞍男(もろきみのくらお)ら6人を靺鞨(まつかつ)国(中国東北部から沿海州の地域に居た複数の民族)に遣わして、その風俗を視察させた

養老6年(722)閏4月25日、太政官からの奏上により、陸奥で農耕と養蚕を奨励し、乗馬と弓を習わせ、また中央に出仕している陸奥の人びとを帰国させ、かつ陸奥の鎮所に穀物を献上した者には外従五位下の位を与えることにした

 ⇒ 外従五位下というのは「外位(げい)」で、地方在住の人びとが叙せられ最高でも外正五位上

8月29日、諸国の国司に命じ、柵戸とすべきもの1000人を選ばせ、陸奥の鎮所に配置させた

養老7年(723)2月13日、常陸国那賀郡の大領・外正七位の宇治部荒山が私有の籾3000石を陸奥の鎮所に献じ、外従五位下を授けられた

9月17日、出羽国司・正六位上の多治比家主が蝦夷ら52人に褒賞するように言上

 ⇒ 蝦夷のなかにも朝廷側について戦ったものがいたことが分かる

 

元明上皇崩御と自身の譲位

養老5年(721)5月3日、元明上皇が病気になった

10月13日、右大臣・従二位の長屋王と参議・従三位の藤原房前を召して詔した

2月7日、太上天皇崩御(享年61歳)

長屋王と武智麻呂が葬儀の御装束のことをとりおこない、従三位の大伴旅人が御陵造営の責任者となった

元明の遺詔により簡素な葬儀

神亀元年(724)2月4日、45歳の元正は24歳の聖武に譲位

元正はその後、上皇として君臨し、天平20年(748)まで存命

 

 

まとめ

元明から元正に譲位した段階で、首はすでに15歳になっており、天皇に即位できたのにもかかわらずしなかった

元正は、地方政策を積極的に行ったが、その反動か、隼人と蝦夷がほぼ同時期に大規模な反乱を起こした

元正の詔は民を思う気持ちが他の天皇よりも強くでている印象を受ける(もちろん額面通りに受け取ることはできないが、女性ならではの心遣いが含まれていると考えてもいいのではないだろうか)

元正は満を持して、24歳の首に位を譲り、2代続いた中継ぎが終わる

 

参考文献

『日本の女帝』 上田正昭/著 講談社 1973
『藤原不比等』 上田正昭/著 朝日新聞社 1986
『続日本紀 現代語訳 上』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『続日本紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『熊襲と隼人』 井上辰雄/著 ニュートンプレス 1997
『新装版 人物叢書 藤原不比等』 高島正人/著 吉川弘文館 1997
『隼人の古代史』 中村明蔵/著 平凡社 2011
『古代国家と東北』 熊田亮介/著 吉川弘文館 2003
『歴代天皇・年号事典』 米田雄介/編 吉川弘文館 2003
『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』 熊谷公男/編 吉川弘文館 2015

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