続日本紀・要点講座① 文武天皇 ~大宝律令の制定~

最終更新日:2023年7月5日

目次

第1章 文武天皇とは

第2章 大宝律令の制定

第3章 遣唐使の再開と内外の政策

第4章 巨星・藤原不比等

 

 

第1章 文武天皇とは

文武(もんむ)天皇

第42代天皇

諱は珂瑠/軽(かる)

天武天皇12年(683)生誕

在位は文武天皇元年(697)~慶雲4年(707)

藤原宮(奈良県橿原市)で即位し政治を執る(即位時は15歳)

 ⇒ 694年に遷都した藤原宮で初めて即位した天皇

奈良県橿原市・藤原宮大極殿跡

皇后を設けず、藤原宮子を夫人(ぶにん)とする

以下の人びとがサポート

 -持統上皇(文武即位時53歳)
 -忍壁(おさかべ)皇子(天武皇子・年齢不詳)
 -藤原不比等(文武即位時39歳)

慶雲4年(707)6月15日崩御(享年25)

墓は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)で奈良県明日香村の栗原塚穴古墳に治定されているが、同じ明日香村の中尾山古墳が真陵と考えられている

 ⇒ 中尾山古墳は、天皇が葬られた古墳としては最後のもので、これをもって古墳時代が完全に終了する

中尾山古墳の発掘調査(2020年11月22日撮影)

  

文武天皇の主な事績

文武天皇5年(701)3月21日、大宝の元号を制定する(19歳)

 ⇒ これ以降、現代まで元号が途切れず続く

同年、大宝律令の制定

 ⇒ このタイミングで律令国家が完成したと考える

大宝2年(702)、40年ぶりに遣唐使を派遣

九州南部から南島方面の支配を進める

越の国の石船柵(いわふねのき)を修築

 

 

第2章 大宝律令の制定

律令国家への道

608年に遣隋使小野妹子に従い高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らが隋へ

 ⇒ 3名とも渡来系氏族で三国時代の魏皇帝の末裔の可能性がある

旻は632年、玄理と請安は640年に帰国

645年からの孝徳朝では、玄理と旻は国博士となって新しい国づくりに邁進(請安の活躍は知られていないのですでに死去か)

 ⇒ 孝徳政権下では律令を制定した気配はないが、唐へ渡った玄理や旻らが律令を知らないはずがないので、律令に影響を受けて官の制度を作ったり、政策を立案したことは確かだろう

 

律令国家とは何か?

律令および格式(きゃくしき)その他の法に基づき公地公民制を基礎とする

中央集権的国家体制(『角川・第二版 日本史辞典』)

 律・・・刑法
 令・・・行政法
 格・・・律令を修正・補足する法令
 式・・・律令の施行細則

 ⇒ 日本は中国のような完成された律令国家にならないまま、10世紀には破綻して王朝国家へ移行していくが、後世に多大な影響を残した政治体制であるので、日本史を学ぶ人はその内容を知っておく必要がある

 

律令は中国からの移入

律令は法治国家の中国で生まれた

西晋の268年の泰始律令からはじまり、隋の581年に完成した開皇(かいこう)律令が中国でのその後の律令のベースとなる

なお、日本は中国から律令を移入したが、中国での政治運用の重要項目の内、以下の2つは移入しなかった

 科挙制度・・・587年に隋の文帝が開始
 宦官制度・・・春秋時代に採用し、明代末には20万人いたともいわれている

 

近江令

天智朝では近江令(おうみりょう)が制定されたとの説があるが、体系的な法典としての存在を疑う意見が強い

 ⇒ 昔から「近江令」という言葉が伝わっているので、玄理と僧旻以来、我が国では律令の研究が進んでおり、天智朝では一定の成果が出たのではないかと考えられるが、上述した通り体系的な法典ではなかったのだろう

 

飛鳥浄御原令

天武天皇は律令の整備を進め、次代の持統天皇がその意志を継ぎ、藤原宮遷都前に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を完成させた

 ⇒ ただし、この時点ではまだ律は完成していないと考える研究者が多い

 ⇒ 中国では律を重要視したが、日本では令を優先して整備した

持統3年(689)6月に「令一部二十二巻」を諸司へ頒布した

 ⇒ この時点では都はまだ飛鳥浄御原宮(伝飛鳥板蓋宮跡)であったので飛鳥浄御原令と呼ばれる

翌年4月、勤務評定と位階授与を定めた考仕令を部分施行

 

良賤身分支配の確立

同年(689)9月には戸令によって戸籍作成を指示(庚寅年籍<こういんねんじゃく>)

庚寅年籍作成の段階で良賤身分支配が確立

ただし、賤身分は奴婢のみで「五色の賤」(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)の体系は未確立

奴婢と良人(良民)の婚姻は認められていたが生まれた子供は奴婢となる(ただし、両親の中途での身分変更の影響などで例外もある)

陵戸を賤身分と規定したのは養老令(孝謙天皇の757年に施行)から

 

大宝元号の制定と大宝律令の制定

大宝元年(701)3月21日、対馬から金が献上されたことにより、大宝の元号を制定

同日、大宝令によって官位の制を改正

同年8月3日、大宝律令が完成

飛鳥浄御原令も大宝律令も現在は残っていないため、それらを復元するときは、現存する養老律令(天平宝字元年<757>施行)を参照しつつ遺跡から出土する木簡も頼りに作業を行う

661年に遣唐使が帰還したあとは、唐との関係が悪化していたこともあり遣唐使の派遣はなく、702年に再開されるが、その時には大宝律令の運用が始まっていた

 ⇒ 702年の遣唐使については後述

 

大宝律令の官制

天武朝の官制 ・・・ 納言のみ

飛鳥浄御原令 ・・・ 太政大臣と左右大臣、納言は大・中・少に三分割(官員令)

下図は養老律令の官制を図化したものだが、大宝律令もほとんど変わらないと考えられる

『詳説 日本史図録 第7版』(山川出版社)より転載

 

 

第3章 遣唐使の再開と内外の政策

文武の時代の東アジア

690年、武則天が唐の皇位を簒奪し周を建国

698年、靺鞨(まつかつ)人の大祚栄が渤海(ぼっかい)を建国

 ⇒ 靺鞨人は沿海州の農耕漁労民族

705年、武則天が退位し再び唐となる

新羅は渤海に圧迫され南へ版図を縮小

文武の在世中は日本は渤海とは国交を樹立していない

紫色が渤海で青色が新羅(Wikipediaより転載)

 

日本と中国のお付き合いの歴史

中国側の記録では、弥生時代後半から3世紀のヤマト王権の発足を経て倭の五王の5世紀まで倭国の王は中国の王朝に朝貢している

 ⇒ 倭国の王は中国皇帝の権威をバックに政治を行った

中国側の記録では、倭の王武が478年に南宋に遣使したのが最後の朝貢(倭の五王の遣使は『日本書紀』には記載がない)

倭国が600年に初めて遣隋使を派遣した際には、隋との対等の立場を取った(この時のことは『日本書紀』には記載がない)

 

遣隋使と遣唐使

遣隋使は618年に隋が滅ぶまで5回ほど実施された(正確な回数は不明)

以降は遣唐使となり、630年、653年、654年、659年と実施され、白村江の戦を迎える

白村江の敗戦のあと、戦後交渉で倭国の役人が唐へ渡っている(遣唐使と呼べないこともないが本来の遣唐使とは趣旨が違う)

 

遣唐使の回数

文武の在位中の702年、遣唐使復活以後、承和5年(838)まで11回ほど実施(合計回数に関しては12回説から20回説まである)

寛平6年(894)、遣唐大使に任じられた菅原道真が中止を建議し、907年には唐自体が滅亡

東京都八王子市・高尾天神社にある日本最大の菅公像

 

文武朝での遣唐使

661年派遣の遣唐使以来、40年ぶりに701年に遣唐使派遣が行われた

粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使に任じ、初めて律令に則り節刀を授けて出発したが、天候に恵まれずなかなか渡海できず

 ⇒ 粟田真人は653年の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修めて帰国したのち、天武・持統に仕え、689年には大宰大弐(だざいのだいに)として太宰府にて海外との折衝経験を積み、大宝律令の編纂にも携わった人物

翌702年6月に改めて出立する

白村江でこじれた唐との関係回復が最大の目的と考えられる

我が国は「日本」の国号制定、藤原京造営、大宝律令の制定などで面目を一新した自負があった

 

遣唐使の成果

一行は楚州に到着して、現地の役人に対して「日本から来た」と返答

唐も武則天の簒奪により周王朝となっており、一時的に行動が円滑にいかなくなるが、翌703年には洛陽にて武則天と謁見

粟田真人らは白村江の戦いで捕虜になっていた者たちを連れて、翌慶雲元年(704)7月に帰途につき、五島列島福江島(長崎県)に漂着したが無事帰朝を果たす

 ⇒ このときの遣唐使は、中国の都の様子や実際に運用されている律令制を確認しており、帰国後の律令の修正や和同開珎(わどうかいちん)の鋳造などの政策に活かされた

遣唐使が見た中国の都は藤原京と平面プランが異なっていたため、つぎの平城京は中国の都城に忠実に平面プランを造った

 

遣新羅使

遣唐使ほど有名ではないが、遣新羅使というものもあった

倭国と新羅との通好の歴史は不明な部分が多いが、白村江の戦いのあとの668年、高句麗が滅亡し、唐の脅威をもろに被るようになった新羅は倭国とは「対唐」で利害が一致した

日本書紀の記録を見ても天智朝で2度、天武朝で4度、持統朝で3度あり、文武天皇の時には、700・703・704・706年の4度実施され、倭国と新羅はかなり親密に通交していたことが分かる

福岡県福岡市中央区・鴻臚館(筑紫館<つくしのむろつみ>)跡

 

宗像沖ノ島の祭祀

弥生時代から海人(あま)として活躍してきた宗像一族は、4世紀以降、ヤマト王権に協力を始めたようだ

宗像三女神の長女神(田心姫<たごりひめ>)が祀られている沖ノ島には宗像氏の協力によってヤマト王権が半島諸国から手に入れた貴重なものが供えられている

 ⇒ 沖ノ島出土遺物の8万点は国宝に指定され、その一部が宗像大社神宝館に展示してある

天武の后として宗像氏の尼子郎女(あまこのいらつめ)が入り、その子高市皇子が天武・持統朝で活躍したことが宗像とヤマト王権との親密な関係を物語っている

千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館の沖ノ島コーナー

 

道昭

続日本紀では、道昭についての記述にかなりの紙幅を割いている

白雉4年(653)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記で有名な三蔵法師)に師事

道昭は玄奘と同じ部屋での生活を許可され大変可愛がられた

斉明天皇6年(660)頃に帰朝し、日本法相宗の開祖となる

晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った(のちの行基に通じるところがある)

700年に72歳で没し、記録上では初めて火葬された日本人となる

 

築城

文武2年(698)5月25日、太宰府に命じて大野・基城・鞠智(くくち)の三城を修理させた

熊本県山鹿市・鞠智城跡

8月20日、高安城を修理した(翌年の9月15日も修理させている)

文武3年(699)12月4日、三野・稲積の二城を築城

 ⇒ 両城の場所は博多湾岸説と南九州説があり、両者とも地名からのアプローチで遺跡は未発見

 ⇒ 向井一雄氏は高良山の主山塊が「耳納(みのう)山」であることから三野城を高良山城に比定し、稲積城は北部九州の神籠石系山城のいずれかと推測している(南九州の場合は東北と一緒で「城」ではなく「柵」と表記することも根拠の一つとしている)

 ⇒ 一方、中村明蔵氏は、当時日向国から大隅と薩摩を分立させようとしたので、抵抗する隼人に対する城として日向国府に近い児湯郡三納郷と後の大隅国府に近い桑原郡稲積郷とする(699年の時点では唐の脅威には晒されていないことが根拠の一つとしている)

 

北方政策

698年12月21日、石船柵(いわふねのき)を修理させた

石船柵は『日本書紀』では磐舟柵と表記され、648年に前年の渟足柵(ぬたりのき)に続き築造された

 ⇒ 遺跡は見つかっていないが新潟県村上市内にあったと考えられる(渟足柵は新潟市内に推定)

 ⇒ 通常、柵による周辺統治が安定すると評が建てられ内国化されるが、村上市周辺は築城後半世紀たっても王権はしっかり支配できていなかったのだろうか?

石船柵は700年2月19日にも再び修造記事が現れる

 ⇒『日本書紀』682年、陸奥国の蝦夷に冠位を授け、越の蝦夷伊高岐那(いこきな)に評を建てることを認めたという記事は、村上市より南方の可能性があることを前回述べた

 ⇒ ただし、709年以前には出羽柵が山形県庄内地方に造られているので、7世紀後半に新潟県域は内国
化が完了していたものの、石船柵は渤海国に対する備えとして修造された可能性を考えることもできる

新潟県村上市・石船神社境内にある磐船柵跡の石碑

 

陸奥側最北端地域

慶雲4年(707)5月26日、さきの天智天皇2年(663)に行われた「白村江の戦い」で唐軍の捕虜になっていた陸奥国信太郡の壬生五百足(みぶのいおたり)らが解放され帰国し、朝廷から衣類などを賜った

 ⇒ 天智天皇2年(663)時点で、陸奥国の大崎平野に信太郡が存在したということではないが、当時すでにその地域が朝廷の支配下に入っていたことがわかる

 ⇒ 大崎市の名生館官衙遺跡は、6期の変遷が知られるが、最古のⅠ期は7世紀中葉から7世紀末の遺構で、その性格は不明ながら、関東系の土器が多く見つかっているため、その時期にはすでに大崎平野に関東からの移民があったことが分かる

 

隼人と文武の南方政策

隼人は現在の鹿児島県域に住んでいた人びとで、ヤマト王権は薩摩半島の人びとを「阿多の隼人」と呼び、大隅半島の人びとを「大隅の隼人」と呼んでいた

文武天皇が即位した時点では、薩摩地域の支配は完全に行われおらず、当然ながらその先の南島には支配の手は及んでいなかった

文武天皇3年(699)7月19日、多褹(種子島)・夜久(屋久島)・菴美(奄美大島)・度感(徳之島)の人々が朝廷から遣わされた役人に伴われて都へやってきた

 ⇒ 同年8月8日にはこのときの貢物を伊勢大神宮および諸社に奉納している

大宝2年(702)8月1日、文武は反乱を起こした薩摩と多褹を征討し、多褹と夜久に郡を設置し役人を置いた

 ⇒ この時点で日本の支配は屋久島にまで及んだ

同年10月3日、薩摩国の役人が柵の設置を言上し許可された

なお、文武朝のあとには以下のできごとがおきた

 -元明天皇の和同6年(713)、日向国を割いて大隅国を設置すると、大隅隼人の反乱が発生
 -元正天皇の養老4年(720)、隼人が大規模な反乱を起こす

 

隼人の墓制か

古墳時代の日向南部から大隅にかけては、地下式横穴墓がみられる

4~7世紀の薩摩には地下式板石積石室がみられる

薩摩半島の先端辺りには立石土壙墓がみられる

これらの墓はヤマトの墓制とは大きく違うことから、これらが大雑把に隼人としてくくられた人びとの墓であることは確かだろうが、詳しく知るためにはさらに考察が必要と考えている

鹿児島県薩摩川内市・横岡古墳公園にある地下式板石積石室の復元

 

その他の政策

699年正月27日に難波宮へ行幸し、2月22日に藤原宮へ帰還

斉明と天智の墓を造る

大宝2年(702)10月10日、持統上皇(58歳)が三河国へ行幸

慶雲4年(707)2月19日、平城遷都について検討会議が行われる

 ⇒ 文武の崩御はこの年の6月15日だが、続日本紀ではこの年の春の記事が抜け落ちており(故意か?)、昨年から疫病が大流行していることもあり、2月の時点でもしかすると文武には障りがあって、そのために遷都の議論が起きたのではないか?

 

 

第4章 巨星・藤原不比等 

父・鎌足の偉大さ

父・中臣鎌足は天智天皇とともに蘇我政権を倒し、天智朝で活躍

669年、鎌足は56歳で病没

 ⇒ このとき不比等の兄・定恵(じょうえ)はすでに亡く、11歳の不比等が鎌足の後継者となった

鎌足の墓の可能性が高い大阪府高槻市の阿武山古墳

鎌足は亡くなる前日、天智から大織冠(たいしょくかん)・内大臣・藤原の姓を賜った

 ⇒ 大織冠は「冠位二十六階」(664年から685年まで運用)の最高位で、天智朝では上位から6位までは、鎌足以外に叙せられた人物はいない

 ⇒ この事実は藤原氏を超える人臣は存在しないという藤原氏にとっては絶対的な名誉となって後世にまで続いた(現代も続いている?)

藤原の姓はのちに不比等の家系以外が称することはできなくなった

 ⇒ これも不比等の後裔が他の中臣氏よりランクが上であることの根拠となった

 

兄・定恵の影響

兄・定恵は643年生まれなので、不比等より16歳年上

不比等が誕生した時、定恵は唐に留学中であった

665年9月に定恵が帰朝して、初めて兄弟が対面

 ⇒ 定恵は23歳、不比等は7歳

ところが、定恵は同年12月に病没

 ⇒ 兄弟が触れ合った時間は短かったが、少年不比等にとっては定恵は偉大な兄に思えたであろうし、物理的に教わったことは少なかったとしても、精神的な影響は大きかったのではないか

 

不比等の母

南北朝時代に編纂された系図集『尊卑分脈』には、不比等の母は「車持国子君之女、与志古娘(よしこのいらつめ)也」とある

車持氏は天皇の乗物の挙行(くるまもち)に奉仕する職掌の人びとで、上毛野氏の一族とされていた

上毛野氏は現在の群馬県の豪族だが、擬制的血縁関係のため、不比等の母が群馬県出身ということではないだろう

群馬の語源は「くるま」

『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する車持皇子という人物が出てくるか、不比等がモデルといわれている

 ⇒『竹取物語』は平安時代初期に成立

 

不比等の野望を結果で見る

39歳の時、娘の宮子を文武の夫人(ぶにん)とすることに成功し、天皇の外戚(がいせき)となる

 ⇒ 文武は皇后を置かず宮子が正室

不比等の死後、4年経って目論見通り孫の聖武が即位

さらにそれから5年後には、娘の光明子が史上初めて皇族以外で皇后となった

聖武と光明子の子が皇位に就けば、藤原氏の権力はさらに高まる

 ⇒ この目論見は子が夭折し挫折

不比等は藤原氏を「ナンバー3以下とは隔絶した距離にあるナンバー2」の地位に押し上げ、実質的に国家権力を握ることに成功

不比等の野望系図

 

中臣氏の主流から外れる

671年に以下の議政官が発表(高島正人氏はこれを「近江令」によるものとする)

 -太政大臣 大友皇子
 -左大臣 蘇我赤兄(そがのあかえ)
 -右大臣 中臣金(なかとみのかね)
 -御史大夫 蘇我果安(そがのはたやす)・巨勢人(こせのひと)・紀大人(きのうし)

 ⇒鎌足の内大臣叙任につづくこの人事により、中臣氏が大臣の位に就けることが確定したが、このとき不比等はまだ13歳のため官途にも就いておらず、鎌足の後継者は鎌足の従兄弟・金であることを世間に印象付けた

 

天武と不比等

若い不比等は天智には可愛がられたと考えられるが、671年に天智が亡くなると13歳の不比等は後ろ盾がなくなった

壬申の乱の際、右大臣・中臣金は弘文天皇(大友皇子)の中心メンバーで、不比等を養育した田辺史一族の小隅は官軍の別将として大海人の田中足麻呂の軍勢を壊滅させた

不比等にとっては天武の即位は不利であり、事実、天武朝での不比等の活躍はまったく知られていない

 ⇒ ただし、不比等の姉・氷上娘(ひがみのいらつめ)と五百重娘(いおえのいらつめ)は天武に嫁いでいるため、天武にとって義弟である不比等は無下にはできない存在であっただろう

 

官人デビューと結婚

『日本書紀』に記述はないが、天武天皇2年(673)の官人出身法により、他の貴族の子らと同じく、大舎人(おおとねり)として宮殿に出仕したのが官人デビューであろう

 ⇒ 鎌足の子だということで特別扱いをされた形跡はない

おそらく、20歳を迎えたころに縁談の話があったと考えられ、蘇我娼子(そがのしょうし)を嫁に迎えた

 

不比等の妻・蘇我娼子

妻・娼子の兄・蘇我安麻呂は、天武が病床の天智を見舞ったおり、天武に対して注意を促した人物で、ある意味、天武の命の恩人

安麻呂の父連子は664年に亡くなっているので、娼子が不比等に嫁した時点では、安麻呂が蘇我氏のトップにいた

681年、23歳の時、長男武智麻呂(むちまろ)誕生

682年、24歳の時、次男房前(ふささき)誕生

同年、天武天皇の夫人である姉の氷上娘が薨去し、宮廷内での後ろ盾を一人失う

房前誕生から間もなくして、娼子が病没したが、武智麻呂と房前の存在が、蘇我氏との「鎹(かすがい)」となる

 

不比等の後妻・縣犬養三千代

はじめ敏達天皇後裔・美努王(みぬおう)に嫁す

『日本書紀』での系譜は、敏達-難波皇子-栗隈王-美努王

栗隈王(くりくまのおおきみ)は壬申の乱の際、筑紫大宰として大友皇子の派兵命令を拒否

美努王との間に以下の子を儲ける

 -橘諸兄(たちばなのもろえ) ・・・ 「奈良麻呂の乱」の奈良麻呂の父
 -橘佐為(たちばなのさい)
 -牟漏女王(むろのおおきみ) ・・・ 房前に嫁す

時期は未詳だが、三千代は美努王と別れ、不比等の後妻となる

不比等との間には光明子を儲け、光明子はのちに聖武天皇に嫁す

 ⇒ 縣犬養氏自体の力は小さいが、三千代が持っていた皇族との人脈は有効だっただろう

 

遅い出世

686年に天武が崩御したが、草壁皇子は即位せず、持統が称制を敷く(不比等28歳)

689年、判事となり位は直広肆(じきこうし)

 ⇒ 直広肆は、冠位四十八階(685年制定)の位の一つで大宝令でいうところの従五位下相当(従五位下は最下層貴族)

 ⇒ 持統のもと、ようやく従五位下相当になったわけだが、31歳という年齢を考えると父の功績の割には出世が遅い

 

庇護者・持統

不比等は持統に重用されたはずだが、『日本書紀』にはその内容は具体的には表れない

 ⇒ 持統は天智の娘なので、持統にとっては不比等は父を助けた功臣の子として、夫・天武とは違う目線で不比等を見ていたであろう

 ⇒ おそらく、持統は少年時代の不比等を知っているはずなので不比等の利発さは知っていただろう

 ⇒ 持統とすると、662年生まれの息子・草壁皇子(不比等の3歳下)の将来のことを考え、草壁皇子が即位したのちは彼のために働いてくれる重要な人物であることを期待し、早くから目を掛けていた可能性が高い

 

文武朝での不比等

文武朝での不比等の事績を見ると以下の通り

文武元年(697)8月、宮子が入内(不比等39歳)

文武2年(698)8月、藤原を称するのは不比等の家系のみに限定される

大宝元年(701)3月、正三位大納言となる(43歳)

同年12月、宮子が首皇子(のちの聖武天皇)を出産

慶雲元年(704)、食封800戸を給される(46歳)

慶雲4年(707)、文武は詔して不比等および鎌足の功績に言及し、食封5000戸を下賜(不比等は辞退し2000石のみを拝領)(49歳)

和銅元年(708)<文武崩御後>、右大臣となる(左大臣は石上麻呂)(50歳)

 ⇒ 官人としてのスタートは遅かったが持統および文武のもとで確実に出世を重ねる

 

持統と不比等の「万世一系」案出

草壁皇子を失った持統は孫の文武天皇を即位させ、以後はずっとその子孫に天皇位を継承させたいと考えた

いわゆる、「万世一系」は天武の遺志でもあったであろうし、持統の子への強い思いから出た発想でもあり、知略のある不比等はそれに協力した

その結果、万世一系の根拠となる「ツール『日本書紀』」が完成

 ⇒ とくに神話の部分がそうなのだが、これに関しては「日本書紀講座」で解説

不比等は持統の思いに沿いつつ、それと同時に藤原氏の権力向上を画策し成功

 

不比等と平城京遷都

文武天皇が崩御する直前の慶雲4年(707)2月19日、平城遷都について検討会議が行われる

次代の元明天皇の和銅3年(710)3月10日、平城京遷都

 ⇒ 平城京遷都に関しても不比等の強い影響が看守できる

 

続日本紀・要点講座② 元明天皇

 

参考文献

『古代の日本9 研究資料』 岡崎敬・平野邦雄/編 1974
『角川・第二版 日本史辞典』 角川書店 1977
『新装版人物叢書 持統天皇』 直木孝次郎/著 吉川弘文館 1985
『律令国家と賤民』 神野清一/著 吉川弘文館 1986
『藤原不比等』 上田正昭/著 朝日新聞社 1986
『続日本紀 現代語訳 上』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『日本書紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1992
『熊襲と隼人』 井上辰雄/著 ニュートンプレス 1997
『新装版 人物叢書 藤原不比等』 高島正人/著 吉川弘文館 1997
『隼人の古代史』 中村明蔵/著 平凡社 2001
『歴代天皇年号事典』 米田雄介/編 吉川弘文館 2003
『天孫降臨の夢』 大山誠一/著 日本放送出版協会 2009
『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 渡辺晃宏/著 講談社 2009
『よみがえる古代山城』 向井一雄/著 吉川弘文館 2017
『詳説日本史図録 第7版』 山川出版社 2017

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