米沢城跡/上杉神社|山形県米沢市 ~江戸期を通じて上杉氏が城主であった藩都~

よねざわじょうせき/うえすぎじんじゃ
山形県米沢市丸の内1-4-13(上杉神社)
0238-22-3189(上杉神社)
続日本100名城

 

 

 春日山城(新潟県上越市)を居城とする一代の英雄・上杉謙信は、跡継ぎを決めずに49歳で没しました。

 謙信には実子がおらず、養子として北条家から来た氏康七男景虎と一族長尾政景の子である景勝がいました。景勝の母は、謙信の姉・仙洞院ですから、景勝は謙信の甥にあたります。

 謙信の死後、武力闘争(御館の乱)に勝利した景勝が上杉家を継ぎます。景勝は秀吉の元で出世し、五大老に列して豊臣政権の最重要メンバーの一人になりますが、秀吉が薨ずる直前、会津120万石に転封となってしまいました。石高的に見たら大出世ですが、本貫地の越後国を失い、新天地での新たな生活が始まったわけです。米沢には、家老の直江兼続が入部しました。

 さて、本丸には上杉謙信と上杉鷹山(ようざん)を祀る上杉神社が鎮座しています。

上杉神社拝殿

 謙信自身は米沢とはまったく縁がありませんでしたが、江戸時代に上杉氏の本拠地となったため、遺骨も米沢に移されています。

現地説明板を撮影

 甲府の躑躅ヶ崎館跡に信玄を祀る武田神社があるのと似た様相ですが、武田神社は近代になってからの創建で、こちらは城が機能していた頃からあった祠堂(御堂)を明治時代に祠堂のまま神道形式に変えました。

 城の作りとしては完全な平城で、水堀や土塁が残っています。

土塁
水堀

 30分以内に見学するつもりなので、遺構を丹念に見るとか、そういうことはしませんよ。

 米沢城の歴史がよくまとまっている説明板。

 

 ここに書いてある通り、ルーツは長井時広によって造られた館です。鎌倉時代ですから、あくまでも「城」ではなく「館」ですよ。

 長井時広は、鎌倉幕府政所別当の大江広元の次男です。広元は、平泉藤原氏が滅亡した後、成島荘・屋代荘・北条荘・置賜(おきたま)郡から構成される米沢盆地一体(置賜地方)の地頭に補任されました。置賜を父からもらった時広は、地名を取って氏を長井に改めます。

 米沢に館が築かれたはのこのときと言われていますが、時広は大江氏の惣領を継ぎ、その子孫は代々、幕府の重要メンバーとして代を重ねますので、政治活動の拠点は鎌倉です。普通に考えて、当時のセオリー通り、こちらには代官を送り込んで、長井氏は鎌倉においてこの地を遠隔統治していたでしょう。そのため、長井氏は置賜の領主ではありますが、積極的な経営はしていなかったと推測できます。

 南北朝時代の長井家6代広秀は、北朝側として戦いました。東北地方では、南北朝時代緒戦は南朝勢力の力が大きかったものの次第に北朝側勢力がそれをしのぐようになります。長井氏は何とか潰れずに持ちこたえることができていました。

 ところが、南北朝時代がもう少しで終わろうとする康暦2年(天授6年・1380)7月、隣国陸奥の伊達宗遠の家臣・茂庭行朝が置賜に侵攻してきました。そして10月には当主宗遠が直々攻めてきましたが、こういった戦いは、鎌倉府へのあきらかな反抗です。

 鎌倉公方・足利氏満は伊達氏を非難しますが、伊達氏による置賜圧迫は続き、至徳年間(1384~87)には、伊達政宗(独眼竜ではない方)に攻められ、置賜を失います。

 長井氏は列島各地に分散して所領を持っていましたが、広房が逃亡先に決めたのは東京都八王子市です。

 私の家から一番近い城跡である初沢城跡はそのとき長井氏が本拠地に定めた城で、あまり知られていないと思いますが、この時から現在の高尾駅周辺は、長井氏の本拠地として整備が始まったのです。城下町と言ったら大袈裟に聴こえますが、中世における城下町の形成です。

 ・・・八王子について話し出すと途轍もなく脱線すると思うのでやめておきます。

 
 

 さて、米沢城内には上杉謙信の銅像があるため、それを見に行きたい。

 いらっしゃいました。

 

 今回の米沢城跡探訪の最大の目的は、謙信の銅像に再会することでした。

 

 私は信玄ファンですが、謙信も好きです。というか、嫌いな戦国武将は居ないかもしれない。凄い上から目線で言うと、みんなそれぞれ良いところがありますから、特段嫌いになる必要がありません。当然、悪い面もありますが、それはそれ。

 おっと、新しい銅像がある!

 

 正確には新しいというよりかは、25年前に来た時にはなかった銅像です。

 上杉景勝と直江兼続の仲良しコンビです。

 大河ドラマ「天地人」の記念で建立されたのでしょう。

 

 120万石の大大名だった景勝は、関ヶ原の際に西軍に与したことにより、徳川家康によって米沢30万石に極端に減封されました。

 改易にならなかっただけマシといえばマシですが、単純に考えて家臣の4分の3も路頭に迷うことになったわけですから大変なことになったのです。そのとき、米沢は直江兼続がほとんど独立領主のように治めていたため、イメージ的には景勝は生活に困窮して家臣の領地に転がり込んできたようなものです。

 というと、景勝ファンに怒られそうですが、よくもまあその後、二人はうまくいったものだと思います。

 これほどの仲良し主従も珍しいと思います。

 そして、江戸期の上杉家と言えば、「為せば成る」の鷹山ですね。

有名な「為せば成る」が刻まれた石碑も一緒に収めてみた

 要するに「気合と根性」と解釈したらあまりにも皮相でしょうか。

 

 景勝も養子で上杉氏を継ぎましたが、鷹山も日向高鍋藩の秋月氏からの養子です。

 米沢城跡は銅像好きにはたまらない城だ。

 あと、最後に「伊達政宗生誕之地」の標柱を確認したい。

 25年前にはこういうのが立っていたのです。

1998年12月30日撮影

 ところが、走り回っても見当たりません。

 ヤバい、時間が無くなってきた・・・

 おっと、ガイドボランティアらしき女性がいるので聴いてみます。

 教えられた場所に来ましたが・・・あれ、石碑になってる!

 

 既述した通り、14世紀末頃に置賜は伊達家が力で奪ったのですが、その後ずっと伊達氏が治めており、政宗は米沢で生まれました。

 さすがに政宗の銅像を建立するわけにはいかないと思いますが、今見てきたようにビッグネームが並び立つ米沢は凄い場所ですね。

 ちっちゃいので良いので、長井時広の銅像も建ててくれると八王子市民として嬉しいのですが。

 さて、急いでお客様を迎えに行こう。

 



 

 

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