大隅遺跡|山形県朝日町 ~岩宿の発見よりも前に旧石器が見つかっていた遺跡~

おおすみいせき
山形県朝日町和合
駐車場なし

 

 

 武田信安公の霊廟を出てから途中休憩を挟みつつ、30分して大隅遺跡に着到しました。

 一段上がった場所に、朝日町の赤い標柱が見えます。 

 

 大隅遺跡は、有名な「岩宿の発見」よりも前に旧石器が見つかっていた場所なのです。

 

 ではなぜ、岩宿よりも前に見つかっていたのに「大隅の発見」にならなかったのでしょうか。

 いいねえ、こういう手書きのイラストマップ。

 

 リンゴの絵が多くあしらわれており、さっき寄った道の駅も「りんごの森」という名前でした。リンゴのことはあまり知りませんが、和合は無袋で栽培した「ふじ」の発祥の地なんですね。

 イラストマップには大隅遺跡の場所も書かれていますが、その横には、大隅遺跡の説明板もあります。

 

 よく知られていることですが、戦前・戦中までは、日本には旧石器時代に人は住んでいなかったと思われていたのが、戦後まもなく、群馬県桐生在住の在野の考古学者である相澤忠洋さんが、現在のみどり市岩宿の切通で旧石器を見つけ、それを知った明治大学の杉原荘介・芹沢長介らが忠洋さんとともに発掘調査をして、旧石器を見つけて学会から認められました。

 明治大学が発掘調査をして旧石器を見つけた日は、昭和24年9月11日で、場所は岩宿遺跡A地点です。

群馬県みどり市・岩宿遺跡A地点(切通の左手側)

 これに先立って、忠洋さんが切通で最初の旧石器を見つけたのは、昭和21年の秋と言われています。忠洋さんは日時は不明で誰かも不明ですが、そのことを当時の著名な学者に話したところ、頭から否定されてしまい、芹沢長介に出会うまでの間は、一人で悶々としていたようです。

 では、「大隅の発見」ですが、説明板に書いてある通り、昭和11年に旧石器は見つかっていましたが、発表されたのが昭和24年なのです。もし、戦前に発表していてきちんと認められていれば、この地が旧石器時代発見の地になったわけですが、当時認めてもらうのは難しかったかもしれません。

 岩宿の場合も、忠洋さんがたまたま知り合った芹沢長介は、当時はまだ力のない学生ではありましたが、日本の古い時代を積極的に探究しており、彼の先輩である杉原荘介もまだ助教授でしたが、きちんと大学として発掘をしてくれました。

 忠洋さんは、汽車賃が捻出できないため、自転車で東京と往復していましたが(片道100㎞)、中央の先進的な研究者と知り合えたのが良かったと思います(のちに忠洋さんが明大を恨むことになったのはお互いにとって不幸なことでしたが)。

 一方、山形県のこの場所では、中央から遠いという地理的なハンデがあったのは確かで、昭和24年に「縄紋」に論文が掲載されてもそれを読んだ人は少なかったようで、その情報は中央の研究者にまで届かなかったようです。

 というようなドラマがこの地にはあり、そういう記念すべき場所にいま私たちはいます。

 目で見られる何かがないと感動出来ない感度の鈍い人は、こういう場所に来ても面白くないかもしれませんが、当時の人間ドラマを含めて様々なことに想像を巡らせて脳内で楽しむことができる人にとっては、こういう場所に来るのも遺跡めぐりの醍醐味であると思っています。

 ところで、橋の方を見ると、赤い説明板が見えますので確認しに行ってみましょう。

 橋の説明板でした。

 

 今いる場所は旧道なのですが、説明板によるとここに架かる旧明鏡橋は、土木遺産に指定されています。このジャンルは良くわかりませんがなんか凄い。

 

 アーチ橋なので、それを見るには離れた場所に行かないとなりませんが、ちょっとそうしている時間はありません。

 最上川の上流方向。

 

 最上川きれいですね。

 あちらが新道の方の明鏡橋。

 

 それでは、次は同じ旧石器時代でも、さらに古い中期旧石器時代の13万年前の富山遺跡に行きますよ。

 

 

 

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