萩原2号墓|徳島県鳴門市【AICT開催レポート】第67/68次現地講座「四国における古墳時代の幕開けを探り後・終末期の横穴式石室の特徴を掴む」


萩原2号墓

 AICTでは、2022年11月22日(火)からと25日(金)からの3日間の行程で四国の現地講座を開催しました。

 
 

 両現地講座は、結果的には細部では異なりましたが、基本的には同じ内容です。

 テーマはタイトル通り、なるべく古い古墳(墳丘墓)をめぐることと、石室にいくつか入ってその特徴を楽しむことです。

 鳴門市の板野古墳群にも古い古墳があるのですが、現状見られる墳墓の中で最も古いのが萩原2号墓です。両日程とも最終日の3日目の最後に訪れました。

 ※註:本ページで使用する写真は両度の際に撮影したものと、それ以前に個人的に訪れたときに撮影したものが混在します。

 萩原2号墓の登り口の前には駐車スペースがありますが、そこへ行くまでの道は狭いです。初めて行ったときは軽だったので通れましたが、現地講座の際にはコンパクトカーのフィットでも難しそうだったので、国道側の交通の邪魔にならない箇所に路駐して歩いて向かいました。

 萩原2号墓は、この山を数分登った場所にあります。

 萩原2号墓は、国指定史跡・鳴門板野古墳群の一基で、直径21mの円丘部に長さ5.6mの突出部が付いており、考えようによっては前方後円形と言っても良い墳丘墓です。大きな特徴と言えば、独特な主体部を持つことと、積石塚であるということでしょう。

 積石塚というのは、墳丘を土で盛るのではなく、河原石や山石などをひたすら積んでいって墳丘を構築した墓です。後期に長野・静岡・山梨・群馬などの東日本各地で見られる積石塚は、渡来系の要素が濃厚なのに引き換え、この時期(3世紀)の場合は、渡来人とは切り離して考えるのが一般的です。

 この時代は列島各地で様々なお墓が造られた時代ですから、たまたま石がふんだんに取れた阿波や讃岐地域の人びとが文化として取り入れたものでしょう。現状では渡来系の要素は認められません。

 では、登りますよ。

 2分ほど登ると、石が積まれている個所が現れました。

 この部分が墳丘のはずですが、正直プランが分かりません。

 石が集まっている個所の一画には、比較的大きめの板石が集まっており、主体部がここにあったぞ的な雰囲気を醸し出していますが、発掘調査の後に単にここに置いただけかもしれません。

 主体部は東西6.5m×南北4.1mの長方形の掘り方の中を石積みで囲み(石槨)、その内側に木で囲んだスペースを作っています(木槨)。これを積石木槨と呼び、木槨の内側には朱が塗られており、その内側には箱形木棺があったと推定されています。

 竪穴系の主体部は、石室と呼べるものと、そうは呼べずに石槨と呼ぶべきものがあります。石槨にはとてもではないですが「部屋」と呼べるほどのスペースがありません。また、多いのは粘土槨で、棺を粘土で被膜したものです。その場合は、粘土の外側にスペースはなく、すぐに墳丘の土が覆いかぶさっています。

 このように、通常「槨」といったら一重なのですが、ここの特徴は石と木の二重構造になっているところです。

 似たような主体部としては、奈良県桜井市のホケノ山古墳が有名で、ホケノ山古墳の主体部の模型が橿博にあります。

 この造り方は奈良においても独特で、ホケノ山古墳は萩原2号墓の影響を受けて造られたと考える研究者もいます。ホケノ山古墳以外の纒向古墳群や周囲の古墳を見ると、吉備や讃岐や阿波などの影響が看取できる古墳がたくさんあるため、この事実がヤマト王権が吉備を中心として結成された政権であると考える根拠の一つになります。

 なお、2世紀までの奈良にはとてもではないですが大勢力に発展する要素はなく、纒向遺跡のある場所にいた在地の勢力が成長して王権になった可能性はゼロに近いです。纒向遺跡の場所は、新たに発足した勢力に対して、「単に場所を提供しただけ」と評価する考えに私も賛同します。

 ちなみに、上のような構造ですと、時間の経過によって木の部分は朽ち果て、上から石や土で押しつぶされ、木棺を含め、木で造られた部分は溶けてなくなります。

 木棺付近からは内行花文鏡の破片が見つかっていますが、説明板に掲載されている写真を見る限りでは、故意に割ったものに見えます。銅鏡は土圧では割れず、叩いて割ろうとしても熱を加えないと割れずにただグニャッとなるだけですので、意図的に割ったものでしょう。

 同様に萩原1号墓からは、破砕された画文帯神獣鏡が出ています。破砕鏡に関しては、北部九州との関係をちゃんと整理しなければならず、まだ私はその作業が終わっていません。

 繰り返しますが、現状ではこんな感じで、墳丘墓という雰囲気はありません。

 既述した通り、萩原2号墓は積石塚ですが、前期の積石塚としては、お隣讃岐の高松市・石清尾山古墳群などが著名ですので、それらについてはまた機会があれば述べるつもりです。

 墳丘から平野部の眺望。

 ヴィジュアル的には面白みのない墳丘墓ですが、既述した通り、史的には非常に大事な墳丘墓ですから皆さんにも頑張って登ってもらいました。

 なお、古代史の本を読んでいると、萩原1号墓の名前がよく登場するのですが、1号墓は南麓の国道側にあった墳丘墓で、道路建設の際に破壊されて今は何も残っていません。

 そういうことも説明板にチラッと書いておいてくれると良いと思うのですが、字数も限られますし、省かれても仕方が無いかもしれません。



 

 

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