大垣城|岐阜県大垣市 ~大垣藩戸田氏10万石の居城~



 今度、関ヶ原の戦いをテーマにして現地講座を企画しようと考えているのですが、泉州・紀州の第126次現地講座(2024年1月19~21日)が終わった翌々日、関ヶ原の下見に行ってきました。

*   *   *

養老鉄道

 大垣駅近くのホテルに止宿しているため、関ヶ原へ向かう前に大垣城を見てこようと思います。

 大垣城は駅南口から近いため普通に歩いて行けるのですが、せっかくなので養老鉄道に一駅だけ乗ります。

 ひとまず、荷物はそのままにして7時にホテルを出発。

 あ、さっそく養老鉄道が大垣駅に入線してくるのが見えましたよ。

 朝早いですが、通勤・通学の人びとが結構乗っています。

 大垣駅。

 建物の隙間から養老鉄道のホームが見えました。

 600系のラビットカラーです。

 ラビットカラーというのは近鉄のカラーリングなのですが、養老鉄道は近鉄の子会社で、この車両は近鉄から譲渡されたものです。

 では、その養老鉄道のホームに行ってみましょう。

 ホームに来ると先ほど駅に向かう時に見えた車両がちょうど出発するところでした。

 揖斐行きの電車で、こっちは7700系といって、昔東急で走っていた車両です。

 地方に来ると、たまに東京でとっくの昔に走らなくなった電車を見ることができて楽しいですね。

 7700系は60年代に造られた車両なのでもう還暦といったところですが、そういう車両が現役でいられるところから日本の車両開発技術の高さが分かると思います。

 ところで、西の空(関ヶ原方面)が不気味な紫色をしているんですよね。

 朝焼けですが、瑞兆という雰囲気ではなく、これはきっと私が本日探訪する関ヶ原方面の天気が崩れる予兆ではないかと思います。

 ちなみにあの2両編成の車両はJR東海道本線の313系です。

 JR東海でよく乗る車両ですが、クロスシートがふかふかですごく座り心地が良いのです。

 私は最近、在来線で4時間とか5時間とか移動することがあるのですが、これに座れると嬉しい。

 こっちは同じく313系の4両編成。

 養老鉄道の桑名行きがそろそろ発車するので乗ります。

 車内はとくに通学の子たちが結構乗っていますよ。

 一駅目の西大垣駅で降り、電車を見送ります。

 一駅だけでしたが、楽しかった。

 あら、改札を閉じられちゃった。

 西大垣駅の駅舎。

 


大垣城

 ここから大垣城までは東へ向かってほとんど一直線です。

 おっと、雨が降り出しましたよ。

 でも傘をさすほどではありません。

 すぐに雨は止みましたが、今日は油断できないです。

 10分ほど歩いて清水口門跡に到着。

 清水口門は城の西側を守る門で、大垣城は東と南に大手門があり、西と北は搦手(裏口)でした。

 もう少しで本丸です。

 清水口門跡から5分ほど歩くと天守が見えました。

 大垣城の始まりについては諸説あるようですが、永禄になった頃(1558年頃)には、稲葉良通(一鉄)や安藤守就とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた氏家直元(卜全)が居城しており、永禄4年(1561)に大規模な改修を行ったようです。

 直元は斎藤氏の家臣でしたが、永禄10年(1567)に良通や守就とともに信長側に付きました。昔、ゲーム「信長の野望」を信長でプレイした時は、西美濃三人衆が全員ゲットできると非常に嬉しかったものです。まあ、3人とも使えるんですよ(偉そう)。

 直元はその後の戦いで活躍しますが、元亀2年(1571)、六角氏との戦いで討ち死にしました。

 直元の死後は、子の直昌が城主となり、その後、目まぐるしく城主が変わります。天正16年(1588)の時点では、一柳直末が城主でしたが、直末は天正18年(1590)3月の小田原城攻めに先立つ山中城の戦いによって討死しました。

 直末につづいて伊藤盛景が城主となり、ついで慶長4年(1599)に盛景が死ぬと子の盛正が継ぎ、慶長5年の関ヶ原合戦を迎えることとなります。盛正は西軍に味方し、8月には石田三成が西軍の諸将を率いて入城しています。なお、最初の天守は一柳氏あるいは伊藤氏のときに造られたと言われています。

 この銅像は誰でしょうか。

 戸田氏鉄(うじかね)です。

 マイナー武将、と言ったら失礼ですが、多分余り知られていない人だと思います。

 関ヶ原合戦では、当時大垣城主だった伊藤盛正は西軍に与して没落し、江戸時代の初めもこれまた目まぐるしく城主が変わり、寛永12年(1635)に、摂津国尼崎藩から戸田氏鉄が10万石で入部すると、ようやく藩主を勤める家が安定して、幕末まで続きました。

 その藩祖の銅像が建てられているわけですね。

 なお、戸田氏は三河の武士で、氏鉄の父・一西(かずあき)の代から家康に仕えており、家康にとっては信頼のおける古くからの家臣でした。

 今日は時間があるので、最初は天守の開館時間の9時過ぎに来ようかと思ったのですが、本日火曜日は定休日だということが分かったため、天守内の見学は諦めました。

 大垣城は関ヶ原の現地講座の際に訪れる予定ですので、天守はその時に登りましょう。ちなみに、大垣城は、日本城郭協会選定「続日本100名城」に含まれています。

 この天守は、昭和34年に再建されたものですが、元和6年(1620)に築造された天守は、惜しくも昭和20年の空襲で焼失してしまったのです。残っていれば「現存天守」でしたから非常に残念ですが、再建天守は、オリジナルに忠実に造られているようです。

 関ヶ原合戦に関係する説明板もあります。

 先ほども少し話したとおり、慶長5年(1600)8月に石田三成は、家康を迎え撃つべく小西行長や島津義弘らの諸将と共に大垣城に入城しましたが、9月14日の夜に赤坂にいた家康が「大坂城を攻める」との情報を敢えて流出させ、大垣城を無視して西に向かう気配を見せると、それを中途で迎撃すべく急遽城を出て、雨に打たれながら関ヶ原方面に急行しました。

 三成は、出陣の際に福原長堯(ながたか)をトップとして、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統、相良頼房、秋月種長、高橋元種以下7500名を守備兵として置きましたが、関ヶ原合戦の当日である9月15日の早朝に東軍の水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信らの攻撃を受けました。

 翌16日夜には相良頼房、秋月種長、高橋元種ら九州の諸将が東軍と密約し、18日に彼らは熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統を軍議の名目で呼び出して殺害。残る福原長堯は、その後も本丸に籠って戦いを継続しましたが、23日、ついに降伏し、大垣城は開城しました。

 さて、私も家康や三成を追って関ヶ原へ出張ろうと思いますが、その前に「クインテッサホテル大垣」に戻って荷物を取ってこなければなりません。

 旅が日常のような私は、なるべくホテル代を安く上げるため、最近では5000円未満の宿を予約するようにしています。

 しかし、大垣では見つからず、このホテルにしました。素泊まりで予算は少しオーヴァーしましたが、とても綺麗で快適なホテルでしたよ。

 

 ただし、ホテルで仕事をすることもある私は、電気が煌々と明るい部屋を好むため、こういうムーディーな部屋はあまり好きではありません。

 たまにありますが、ホテルの都合で部屋がツインにアップグレードされました。

 

 大浴場はありませんが、バスタブはビジネスホテルにしては広かったので、久しぶりにお湯を張って浸かりました。私は付けませんでしたが、朝食も2000円で食べられるようです。

 駅から歩いて5分くらいで、飲食店は大垣駅周辺に飲み屋を中心としていくつかあり、駅からホテルに来る間に裏道を通ればローソンがあります。

 大浴場は必要なく、ムーディーな部屋が嫌でない方にはお勧めできるホテルです。

 

関連楽曲

『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章

この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。

 

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