茂原古墳群|栃木県宇都宮市 ~前方後方墳を継起的に3基築造~

 


鈴木源之丞の墓|栃木県宇都宮市

 東谷笹塚古墳を訪れることができたので、本日の目標は達成できました。

 ただし、来た道を戻って雀宮駅に向かっても面白くないので、帰りは一つ小山駅側の石橋駅から乗って帰ろうと思います。

 石橋駅に向かう途中には、上手い具合にこれまた以前から気になっていた茂原古墳群があります。前方後方墳が3基連続して築造されたエリアで、下毛野の古墳時代前期を考える上で重要な古墳たちです。

 北の方に鳥居が見えます。

 地図で確認すると、高尾神社です。

 高尾に住んでいる身からすると気になりますが、ちょっと遠い。

 さっきは田川を右岸から左岸に渡りましたが、今度は左岸から右岸に渡ります。

 そういえば、今日は田川流域がテーマになっています。田川は渡良瀬川水系の川ではなく、鬼怒川の支流です。そのため、昨日訪れた下野型古墳がフィーバーしたエリアとは別水系ということになります。

 お昼になりましたが、予想通り食べる所はありません。

 まあ、グミもありますからもう少し我慢です。

 おや、あれは何だ?

 道路の又の部分にあるのでお地蔵さんか道標か何かでしょうか?

 説明板かと思ったら歌詞でした。

 読んで分かりました。源之丞という人の墓で、江戸期の義民ですね。

 先日、千葉県酒々井町と佐倉市を歩きましたが、あちらでは惣五郎という義民が有名ですし、列島各地を歩いているとたまに義民の話に遭遇します。ただし、源之丞の場合は、「一揆」とあることから、村のリーダーとして単身直訴に赴いたわけではなく、一揆を率いたようです。

 このように代官の悪政を思わせる話が残る一方で、民に慕われた領主や代官の話が伝わる場所もあります。一般農民は生まれる場所や支配者を選べないわけで、「領主ガチャ」でハズレを引いた人もいたわけです。

 この周辺は鈴木姓の方々が多いようなので、ご子孫の方もいらっしゃるのでしょう。

 


高尾神社|栃木県宇都宮市

 鈴木源之丞の墓に隣接して神社があります。

 拝殿の扁額を見るとここも高尾神社です。

 気になりますが、由緒書きの掲示はありません。

 

 ※註:帰宅後に「高靇神社 ~宇都宮市に多いわけ~」(柏村祐司/著)を読みました。それによると、高尾と表記される神社は、高靇神(たかおかみ)を祀る高靇神社と同じということでした。

 栃木県内には高靇神社が95社ありますが、そのうちの45社が宇都宮市内にあり、まさにこの日歩いた場所は高靇神社の高濃度信仰圏だったのです。

 高龗神は、雨乞いなどの水関係の神様で、その関連で農耕の神様ともされますが、鬼怒川・田川流域は、水害が非常に多かった場所で、その反面、日照りが続くと小河川がすぐに渇水するという場所だそうです。

 そのようなことから高靇神が選ばれて祀られたということですが、その時期に関しては不明です。該書では修験者の活動が媒介したと考察しており、そうだとすると、市内の高靇神社の中には中世まで遡る神社もあるかもしれません。

 

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五領山古墳|栃木県宇都宮市

 さらに西へ向かいます。

 遠くにそれほど高くない河岸段丘(宝木段丘)の崖が見えていますが、段丘上には多くの古墳が展開しています。

 そういえば、今日の朝訪れた雀宮牛塚古墳も宝木段丘の上にありました。今歩いている沖積地には古墳は無いようです。

 ただし、後で出現すると思いますが、古代の東山道はここより少し南の場所で段丘から沖積地に降りています。そして、田川を渡って、東谷古墳群の方に向かっているようです。古墳時代と律令時代は時期が違いますが、律令時代に造った官道も大型古墳を意識しているのは間違いないです。

 さきほど訪れた高尾神社を振り返ります。

 宝木段丘上に上がりました。

 畑が広がっています。

 この辺りには、権現山北遺跡があり、古墳時代前期から後期にかけての集落跡が見つかっています。

 ここから茂原古墳群を目指して南下します。

 あ、なんか墳丘みたいなのがある。

 間違いなく古墳でしょう。

 でも、GoogleMap上にはプロットされておらず、ちょっとわかりません。

 可愛い古墳です。

 円墳か方墳か。

 東側の道路に降りて見上げると、帆立貝形古墳の土が流れたような形状に見えます。

 ※註:帰宅後に調べたら、五領山古墳という18mの円墳でした。ただし、墳丘の測量調査のみで発掘調査はされておらず、時期を特定できる遺物も表採されていないようで、築造時期は分かりません。

 

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茂原権現山古墳|栃木県宇都宮市

 さあ、いよいよ前方後方墳ゾーンに入りますよ。

 茂原権現山古墳は、五領山古墳のすぐ南側にありました。

 最初は道路から見えたのが墳丘の側面かと思ったのですが、登ってみると途中に前方部の墳端が現れ、向こうの方に後方部墳頂の祠が見えました。

 前方部墳端を振り返ります。

 この辺りの古墳は茂原古墳群といい、既述した通り、3基の前方後方墳が築造されています。

 築造順は、大日塚古墳(35.8m)、愛宕塚古墳(50m)、そしてこの権現山古墳(63m)です。

 権現山古墳の築造時期は、4世紀後半で、栃木県内の同時期の前方後方墳としては、那須の那珂川右岸には大田原市の上侍塚古墳(114m)があり、渡良瀬川水系の巴波(うずま)川右岸には栃木市の山王寺大桝塚古墳(96m)があり、それぞれの流域の王墓であると考えられますが、それらに被葬者と並んで、権現山古墳の被葬者は田川流域に君臨していました。

 その3基の古墳の大きさを見ると、4世紀後半時点では、田川流域勢力は那珂川勢力と巴波川勢力に劣っていますが、つぎの5世紀半ばには、先ほど訪れた東谷笹塚古墳や少し上流にはなりますが、塚山古墳が築かれ、栃木県内における田川流域勢力の一人勝ちが現出されることになります。

 

35.8
茂原大日塚古墳|栃木県宇都宮市

 つづいて、茂原大日塚古墳へ向かいます。

 これも古墳じゃないか?

 あれが大日塚ですね。

 なんかフェンスで囲まれています。

 南側には茂原愛宕塚の墳丘が見えます。

 大日塚には厳めしい「国有地」の看板が掲げられていますよ。

 大日塚古墳の墳丘にはかつては祠が祀られており、木製の鳥居もあって参道もあったとのことですが、現在では見る影もありません。古墳の名前からして大日如来が祀られていたとすれば、鳥居があるのは奇妙かもしれませんが、神仏混交はむしろ自然な状態です。

 墳丘長35.8mの大日塚古墳は、既述した通り、茂原古墳群の前方後方墳の中で最初に築かれた古墳です。ただし、最初と言っても出現期古墳ではなく、おそらく3世紀末から4世紀初頭の築造だと思われ、那須で駒形大塚古墳が築造されたのと同じ頃でしょう。

 茂原古墳群がある宝木段丘上には、弥生後期の二軒屋式土器の標式遺跡である二軒屋遺跡(宇都宮市の塚山古墳群の南東台地上)があり、弥生後期の集落跡がたくさん見つかっており、古墳時代になると五領式土器の集落跡が多く形成されます。

 ところが、古墳時代初頭の五領式土器は、二軒屋式土器とは文化的に繋がらず、この地域は弥生時代後期に繫栄していたのにも関わらず、古墳時代初頭に外部勢力が入ってきて集落を形成した状況が考えられます。両方の土器が出土する遺跡もあります。

 大日塚古墳は、昭和55年に行った墳丘測量調査を皮切りに、昭和58年から昭和60年にかけて発掘調査が行われています。主体部も開けていますが、攪乱が多く調査は難しかったようです。

 主体部の掘り方は墳丘主軸と並行で、上面は長さ3.6m・幅2.4m、底面は長さ3.4m・幅2mで、深さは発掘時の地表面から70㎝でした。掘り方底面では鏡と朱を確認し、箱式木棺が安置されていたと推定されています。

 周溝は墳丘南側で確認されていますが、全周はしていなかったようです。

 周溝内からは複数のS字甕が見つかっていることから、濃尾勢力の影がチラつくわけですが、このあと訪れる茂原愛宕塚古墳でも見つかっており、先ほど通過した権現山北遺跡でもS字甕の口縁部分が表採されています。

 群馬県の利根川流域には古墳時代初頭に濃尾勢力が入ってきて集落および古墳を造っていますが、香取海から田川を遡ったこの地にも濃尾勢力が入ってきているのです。

 

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茂原愛宕塚古墳|栃木県宇都宮市

 それでは、さきほどから墳丘が見えている茂原愛宕塚古墳に行きます。

 後方部側に来ましたが、この古墳は素敵な佇まいだ。

 真横から見ても美しい。 

 西側には円墳のような土ぶくれがあります。

 愛宕塚古墳の墳丘すぐ西側の造出を造るような位置にも土ぶくれがあります。

 もちろんこの時期に造出はないのですが、本来であれば周溝を造る場所が反対に膨らんでいるというのは不思議です。後世の改変でしょうか。

 では、墳丘に登ります。

 くびれ部分から後方部を見ます。

 後方部墳頂には石製の小祠が安置されており、古墳の名前からすると愛宕神だと思いますが、ぶっ壊れていて痛々しい状況です。

 後方部から前方部を見ます。

 良い古墳ですねえ。

 茂原古墳群にしては珍しく説明板があります。

 

 説明板では築造時期は4世紀後半から5世紀中期とありますが、これは古い編年観に基づいており、現在では4世紀前葉から中葉の築造と考えられています。

 前方後方墳としては、ひとつ前の大日塚古墳の35.8mより少し大きくなって50mとなっています(説明板では47m)。

 後方部から鏡と管玉が出土したと記載されていることから主体部を開けていることが分かりますが、愛宕塚古墳は昭和52年に発掘調査が行われました。

 墳丘は南を向いた南北方向の軸で造られていますが、それと並行して後方部墳頂に東辺8.6m・西辺8.2m・南片3.1m・北辺3.8mの隅丸長方形の墓壙が掘られ、割竹形木棺を安置した形跡が見つかっています。

 木棺の形跡は全長7.4m、幅は北側で1.1m、南側で1.3mで、通常は広い方が頭位になるため、もしかすると頭位は南だったかもしれません。木棺は粘土で被膜されていたようです。

 副葬品は、径7.2㎝の小さな銅鏡、黒漆塗りの竪櫛、玉類、刀子などです。竪櫛は植物性なので本来は溶けてなくなりますが、黒漆で仕上げられていたため、漆のみ残っていました。

 墳丘盛土内からは、S字甕が複数出土しています。

 壺形土器も見つかっていますが、この時代の下毛野ではまだ埴輪は並べません。

 説明板の図では前方部墳端の南側にも古墳があるように見えます。

 とにかく、この辺は古墳が沢山あったのでしょう。

 もしかしてこれも?

 ではつづいて、上三川町方面へ向かいます。

(つづく?)

 

参考資料

・『茂原古墳群』 宇都宮市教育委員会/編 1990年

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