2011年に開始し、2022年以降は開店休業中の私のgooブログですが、gooブログ自体が2025年11月18日にサーヴィスを終了することになりました。
当初は、何千本も書いた記事はそのまま消えていってもよいと思ったのですが、自分で書いておきながら個人的に興味深い記事は、ひとまずこちらにコピペしておくことにしました。
基本的には当時書いた文章の修正はしないので、知識・経験不足からくる奇妙な点もあると思いますが、ご了承ください。
※画像は2025年11月19日以降は表示されませんが、もし時間があれば表示できるように再アップします。
※本記事は、2017年7月16日に投稿した記事です。
2017年6月17日(土)の探訪レポート
当初は肥前の国庁跡を見学した後はすぐに吉野ヶ里遺跡へ向かおうと思っていたのですが、国庁跡近くに見てみたい史跡がいくつかあったため、それらを見学した結果、結構いい時間になってしまいました。
カーナヴィを見ながら吉野ヶ里遺跡へ向かいます。
ところで、このレンタカーのナヴィは、進行方向が常に上になる表示になっているのですが、私は常に北が上になっていないとイヤなのです。
そうじゃないと、土地勘のない場所でいったい自分がどっちの方向へ向かっているか分かりづらいからです(太陽が出ていなければなおさら)。
なので設定を変えようと頑張ったのですが、結局変えることができずそのままです。
次にレンタカーを借りるときは出発時に店員さんに聞いてみようっと。
下道を30分くらい走り、「吉野ヶ里公園西入口」交差点の近くまで来ると、向こうの方に何やら弥生チックな建物が見えます。

いや、しかしそれにしても立派な建物だな・・・
※後で分かったことには、遺跡内でもっとも立派な主祭殿でした
吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里歴史公園になっており、駐車場が複数あるようです。
何しろ初めてなので良く分からないため適当に行くと、公園の正門に一番近い東口駐車場にたどり着きました。
あれ、無料じゃないんだ。
310円徴収されました。
車から降りたら、まずは公園全体の地図を見たいです。
あった。

事前に調べた感じではとても広い公園という印象を持っていましたが、これは確かに広いですね。
とてもじゃないですが全部は廻れないと思いますし、ツアー当日の探訪時間も90分間ですので、とくに重要な場所のみ見ようと思います。
この範囲だな。

南内郭、北内郭、北墳丘墓、それに展示室。
90分ではこれだけになるでしょう。
では行くよ!

吉野ヶ里遺跡があるこの場所は昭和の終わり頃に工業団地を作る計画が持ち上がり、遺跡を調査した後は他の一般的な遺跡と同じように破壊されることになっていました。
ところが、発掘調査をした結果、とんでもなく重要な遺跡であることが分かり、研究者や調査者、そして地元の方々などの努力により破壊を免れることができたのです。
それが決まったのはちょうど時代が昭和から平成になった頃です。
当時はまだバブルですね。
そのせいか、入口周辺の建物はとても豪華です。
入園料を420円支払い、「天の浮橋」で田手川を渡ります。
右手の遠方に立派な建物が見えますね。

さきほど道路から見えた建物でしょうか。

吉野ヶ里遺跡は、さきほどの全体図を見ていただければ分かる通り、単純な表現をすると、東側を田手川によって護られ、北・西・南に環濠を巡らせています。
そして、その中に環濠で囲まれた南内郭と北内郭と呼ばれる区域を持ち、それ以外にも部分的に環濠で仕切っているのです。

まずは最初のゲートへやってきました。

こういう謙虚なコメントは好感が持てますね。

事実、弥生時代でも縄文時代でも、例えば住居跡は平面プランや柱の跡などは分かりますが、その上にどんな建築物が建っていたのかは分からないのです。
ですから、いろいろな原始時代の集落の遺跡を回っていると、それぞれの復元された方々の考えによって建てられていることが分かります。
なので私たちも鵜呑みにはせず、批判的に見ることも大事ですが、その反面、復元に努力された方々の気持ちを推しはかることも大事じゃないかなと思います。
ところで、弥生時代の環濠集落は中近世の城郭と違って、土塁を外側にして空堀を内側に造ります。

ちなみに、弥生時代よりもずっと後の10世紀頃の北東北の防御性集落も同様に土塁が外側なんですよね。
防御の観点からしたら土塁が内側の方が優れていると思いますので、いつの時代か、誰かがそれに気付いたわけです。
環濠の内側には逆茂木が並べられています。

逆茂木が並んでいたのは発掘の成果からも分かっているようですね。

おや、何かがこちらを見ている・・・

鹿だ!

猪もいるぞ!

私の住む八王子市の高尾でも猪の目撃情報はよく聞きます。
もし猪を害獣だと思っているのなら、食べてしまえばいいと思うのですが、何で流通しないんでしょうかね?
美味しいのに。
南内郭の前に一本切られている堀の前に来ました。

しかしその前に、展示室を見学してみましょうか。

あー、中は冷房が効いていて涼しい・・・


次に行こうと思っている南内郭。

北内郭はアルファベットの”A”の形をしています。

私は昔の人が着た服に興味がありますが、弥生時代の衣装の展示があります。

左側が一般人が着た貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる服で、麻で作られています。


私はデザインもそうですが、とくに色に興味があるんですよねえ。
現代人の私たちはありとあらゆる色に囲まれて生活していますが、弥生人はいったいどんな色を見て生活していたのでしょうか。
衣装は基本的には白・赤・黒だったようですが、もちろん今ほどではないですが、着物を染めるのでもアクセサリーの類でも、黄色・紫・緑などなど、文字通り色々あったようです。
ちなみに、横浜市のシルク博物館に行くと、各時代の衣装の復元を見ることができて楽しいですよ。
考古展示。

甕棺ですね。



おや、この方は首が無いですね。

弥生時代は米や財物をめぐって組織的な戦いが始まった時代とされています。


なお、吉野ヶ里遺跡は中世の遺跡でもあります。

では、展示室を出ましょう。

南内郭に闖入しますよ。

と、その前に説明板を読んでおきましょう。



説明板に書かれている通り、環濠内のさらに環濠内ということなので、南内郭は特別な区域です。
吉野ヶ里のムラは、この地域のムラを束ねる拠点的なムラでしたので、それらを統べる王が存在しました。
その王や「大人(たいじん)」と呼ばれるムラの幹部級の人、そして彼らの家族が住んでいたのがこの南内郭です。


立派な家は大人の家です。


お宅拝見。

弥生時代の前の縄文時代も同じような竪穴式住居に住んでいたように思えますが、縄文時代はまだ伐採してきた木を加工することはあまりできなかったものの、弥生時代になると木を削る釿(ちょうな)が普及したので、柱や梁をほとんど現代と変わらないように作ることができました。

ちなみに、まだ鉋(かんな)はありませんよ。
4基ある櫓のうち、2基は登れるようになっているので登ってみます。
おー、いい景色だ。
南の方角には、吉野ヶ里のムラを盟主とあおぐムラが点在しており、こうやって標高の高い位置から睥睨していたわけですね。

現在は南南西の方角、約20kmに有明海がありますが、弥生時代はもっと海岸線が内陸にあったはずです。

西側の山地。

これから行く北内郭方面を望みます。

また下へ降りて、お宅拝見の続きです。
今度は王の妻の家ですぞ。


「妻の家」ということは、王は奥さんとは別居だったんでしょうか。
さらに柵で囲まれた区画に入ります。

今度は王の家ですよ。

お邪魔しまーす。

おっと、団らん中に失礼しました。
今日はオフのようでラフな格好をしていますが、首飾りは一般人は身につけることはできず権力者の証であります。
王の家は調度品も良いのです。

この時代の寝床は土間に敷物を敷いて寝るのでなく、低いベッドのようになっていますね。

でもこれはシングルサイズだな。
やっぱり奥さんとは一緒に寝ないのかな。
いや、多分、日本は中世前半までは夫が妻の家に通うのが普通だったので、きっと王がさきほどの妻の家に夜な夜な通っていたのではないでしょうか(勝手な推測でスミマセン)。

では、次は北内郭へ行ってみましょう。

南内郭を出て北内郭を目指します。
ちなみに南内郭の北側の出入口から外に出ましたが、そこは入園者が歩きやすいように作られた出入口で、当時のものではないです。
説明板があります。

おや、環濠に降りれるですと?

中世の城郭が好きな人は堀を見ると降りたくなるんですよね。
ではお言葉に甘えて。

ここは堀の断面がV字ですが、場所によっては台形もあります。
堀底でほくそ笑み、戻ります。
北内郭の西側にある「中のムラ」に来ました。
お、酒造りの家。


中のムラから古墳のような北墳丘墓が見えますが、まずは北内郭を見てからです。

北内郭のゲートの前に来ましたよ。

かなり厳重になっています。


北内郭はこの説明の通り、吉野ヶ里のムラだけでなく、このムラを盟主とあおぐ吉野ヶ里の「クニ」にとっても最もコアなゾーンです。
なので普通の人は出入りすることはできず、警備も特別に厳重なのです。
北内郭の堀は二重で、入口は中近世の城郭のように枡形状を呈していますよ。
郭中に入ると非常に閉鎖された雰囲気を醸し出しており、巨大な祭殿が復元されているのに圧倒されます。


でも現在、北内郭の建物は修復作業中らしく足場が組まれている建物もあります。
主祭殿は3階建てになっており(正確には高床式の2階建てか?)、当時こんな立派な建物が本当に建っていたのかなあと疑問に思う人もいるようですが、きっとこういう建物があったのでしょう!
ではお邪魔しまーす。
おっとスミマセン、会議中でしたか。

今ちょうど、吉野ヶ里のクニの王や各ムラのリーダーたちが集まって重要な会議をしているところでした。
中央に南面しているのが王です。
そして王から見て右側に居流れているのが、各ムラから集まってきたそのムラの代表者と従者たち。
3列目には会議の後の打上げで演奏をするミュージシャンが座っています。
左手の赤い服を着ている人たちが、このムラの中での幹部級の人たち。

赤い服の人たちは男女交互に座っていますが、夫婦とか兄妹とかではなく、この頃は女性もリーダーになれたことを表現しています。
たまたま男女がペアのように並んでいるだけです。
ちなみに、仮にここが邪馬台国だったとすると、今の説明は少し違ってきますね。
すなわち、王は卑弥呼の弟となり、右手の人たちは伊都国や奴国などから集まってきた各国の王たちで、左手の人たちが邪馬台国の直轄地内のリーダーたちという説明になります。
果たして真実はどちらかな?
さて、それはそうとして本日の議題なんですが、王の前に稲穂が置かれていますよね。
つまり稲の実り具合を見て、刈り取りの日取りを決定するための会議が行われているわけです。
一応、「俗」の世界である王たちが話し合って決めるわけですが、判断に迷う場合やもっと確証が欲しい場合はこの上の階にて、「聖」の世界にいる巫女(ふじょ。シャーマン)が決断を下してくれるのです。
では、上の階へ行きましょう。

北面して神に祈りをささげているのが巫女です。
この方が卑弥呼かどうか。
それについては本人にご確認ください。

巫女は神がかりするわけですが、それを聴いて俗世の人たちとの通訳に当たるのが審神者(さにわ)と呼ばれる人です。
巫女の右手にいる「従者」と説明書きされているのが審神者でしょうか。
そして左手には琴を弾いている人がいますが、交霊するときは琴の音色を流します。
審神者が琴を弾くこともあります。
この巫女・審神者・演奏者の3名のキャストは1800年経った現代も変わらず、霊能者の方はよくご存知かと思います。

では、稲刈りの日取りが無事に決まったようなので、私も安心して主祭殿を後にしますよ。
ちなみに、この図を見てください。

建物を作る際には現代でも方位を気にしますよね。
縄文時代にはすでに信仰の面から方位というのは気にされていました。
ここ北内郭の独特な”A”のような平面プランの主軸に線を引くと、ちょうど冬至の日入と夏至の日出を結ぶラインになるのです。
そしてもう一点、主祭殿とこれから訪れる北墳丘墓の主軸を結ぶラインを南へ辿って行くと、ちょうど雲仙岳にぶつかるわけです。
北内郭を造る上では、こういったことを計算した上で造っているわけですね。
さて、先ほど主祭殿の議場でいみじくも「吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だったら」という仮の話をしました。
邪馬台国の場所はいまだに決着しておらず、世の中的には奈良纒向に持って行くようなマスコミ報道とか国家お抱えの学者さんとかの解説がありますが、国家は何を企んでいるか分かりませんし、奈良に決めるのは個人的には早計ではないかと思っています。
吉野ヶ里が邪馬台国であるという説はこの遺跡の凄さが露わになった30年近く前からあるのですが、その根拠の一つがこの北内郭の独特な構造です。
邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」に叙せられ、つまり中国の魏という国家の傘下となったわけですが、そうであれば邪馬台国はかなり中国チックなクニ(あるいは都市)であったと考えられるわけです。
北内郭の平面プランは中国の城郭と同じように、角の部分に櫓を設置するための出っ張りを設けたり、直線部分にも膨らみを設けてそこに櫓を設けたりして非常に似ていることから中国チックですね。
でも、こんな平面プランの環濠集落なんてどこにでもあるんじゃないの?と思われるかもしれませんが、実は吉野ヶ里を中心とした佐賀平野に濃厚で、他の地域にはほとんど無いのです。
こういったことが、吉野ヶ里が邪馬台国であったというときの根拠の一つとなっていますので、どうぞご参考までに。
※この続きの北墳丘墓に関しては、新たに稿を起こしました。こちらを参照ください。
