ななこしやまこふん 150m 8期 6世紀前半
説明板には墳丘長146mとあるが現在藤岡市は150mとしている
6世紀前半に築造された古墳としては東日本最大級
被葬者は継体天皇与党で緑野屯倉の管掌者か
墳丘北側に「七輿の門・展示室」があり、駐車場とトイレもある
車で訪れる場合は藤岡歴史館か七輿の門・展示室を起点にすると良い
現地説明板
探訪レポート
藤岡歴史館からテクテク歩いていくと、少し地形が下がった場所に森に覆われた墳丘が見えてきます。右側が後円部です。
七輿山古墳は、鮎川と鏑川が合流する地点の河岸段丘上にありますが、藤岡歴史館や皇子塚古墳、それに白石稲荷山古墳などがある場所は上位段丘で、そこから一段下がった中位段丘上に築造されています。ちなみに、伊勢塚古墳は低位段丘上にありますが、その場所ですら水害の危険性は低そうです。
周堀はかなり広い。
ただし、ここから見えているのは二重堀のうちの内側の周堀と中堤です。
※探訪後に知ったのですが、二重堀を確認するには前方部の西側まで行ってみるとよく分かるそうなので、次回行った時に時間があれば見に行こうと思います。
後円部の麓に説明板があって、そこから登って行くのがポピュラーな歩き方です。
そして七輿山古墳を訪れた人が見て必ず驚くのがこの光景。
五百羅漢なのですが、ほとんどすべて首がないのです。
初めて訪れた時は夕方でしかも一人だったので怖かったのですが、『群馬県史 資料編3 原始古代3』によると、五百羅漢は近世の頃に安置され、古老の話によると明治の頃にはすでに首がなかったということです。
初めて見てから気になっていたのですが、図らずも、『群馬県藤岡市 七輿山古墳の測量・GPR調査』(城倉正祥ほか/編)に由来が書いてありました。
それによると、「元三ツ木住人茂木英次氏の報告文より」として、文化5年(1808年)以前から宗永寺の住職が七輿山を仏教信仰の聖地にする大願を立て、五百羅漢像などを墳丘に建立したところ、七輿山を草刈り場・秣場としていた農民たちはそれに反対し、五百羅漢の首を悉くはねて、周堀に捨ててしまいました。それを見た住職は号泣し、「必ず仏罰を与える!」と絶叫、実際に数か月後に赤痢によって村人が多数死に、恐怖した村人は寺に詫びて和解が成立し、五百羅漢の首を鉛で接合して現在の場所に安置したということです。
でも、明治の頃には首はなかったと言いますし、今も首が無いのはなぜでしょうか。地元の方の話によると、子供たちがいたずらで首を落としてしまったということですが、それは昭和の頃の話です。もしかしてここの五百羅漢は数度に渡って首を落とされているのでしょうか。直しても直しても落ちる・・・
うーん、釈然としませんね。気になります。
後円部墳頂に上がってきました。
墳丘長は現在では150mと言われており、6世紀前半の古墳としては、名古屋市熱田区の断夫山古墳と同規模で、両者並んで東日本最大級の古墳といえます。その時期の列島最大の古墳は、継体天皇の真陵といわれる大阪府高槻市の今城塚古墳で、墳丘長は190mです。
なお、この時期の北部九州では、筑紫君磐井が造らせた岩戸山古墳が墳丘長135mを誇り、全時代を通して北部九州では最大の前方後円墳です。磐井も当初は継体天皇と懇意であったと考えられ、七輿山古墳や断夫山古墳の被葬者とともに地方において継体天皇の即位をバックアップした勢力であると考えています。
継体天皇はそれまでの皇統とはほぼ関係なく列島各地の有力者によって擁立された天皇です。継体天皇を支持した七輿山古墳の被葬者は、古墳の規模から考えると相当な力を持った人物であることが容易に分かりますが、その人物は上毛野在地の有力者であると考える研究者がいます。
ただ、緑野屯倉をこの時期に設置し、被葬者がその管掌者を兼ねた場合は、むしろ在地の有力者ではなく、継体天皇によって中央から送り込まれてきたいわゆる貴族層の人物ではないかと考えられ、最近の私はこの線で調査しています。
なお、継体天皇の時期になったらもう日本書紀の干支は信じて良いと考える研究者が多いですが、私は継体・安閑朝においても、何かの事柄が実際に起きた年代を日本書紀の通りとは考えておらず、筑紫君磐井の戦争に関してもそうで、安閑朝における屯倉の設置も、大雑把に継体から安閑にかけての時期と解釈しています。
日本書紀に記された事柄の実年代に関しては、飛鳥時代になってからはようやく信じていいと考えています。
では、ひきつづき七輿山古墳の墳丘を歩いてみましょう。
後期の古墳なので前方部の裾野はかなり広がっており、藤岡歴史館の展示パネルによると、後円部径が85mなのに対し、前方部は幅は115mです。
前方部から後円部を見ます。
大きな古墳の割には、最上段は細尾根のようになっていますね。
ちなみに、肉眼で確認することはできないのですが、前方部は浅間山に向いています。七輿山古墳の築造は地形に制約されているように見えますが、こういうところはきちんと考えられているようです。
最上段から少し下がってみます。
段築は3段築成。葺石が施されていました。
尾根上を歩いている皆さんを下から見上げます。
中堤の法面が綺麗に見えます。
さて、七輿山古墳の被葬者像については既述しました。他の研究者も日本書紀をベースに考えることが多く、多くの研究者がキーとしているのは安閑朝での緑野屯倉(みどののみやけ)の設置です。緑野は現在の緑埜とする説が有力です。
屯倉とは何か
日本書紀の安閑天皇2年(535?)5月9日の条では、以下の26か所の屯倉が設置されたとあります。
・筑紫 穂波(ほなみ)、鎌
・豊国 藤崎、桑原、肝等、大拔、我鹿(あか)
・火国 春日部
・播磨国 越部、牛鹿
・備後国 後城、多禰、来履、葉稚、河音
・婀娜(あな)国 胆殖、胆年部
※婀娜国は備後国の一部だが書き分けられている
・阿波国 春日部
・紀国 経湍(ふせ)、河辺
・丹波国 蘇斯岐
・近江国 葦浦
・尾張国 間敷、入鹿
・上毛野国 緑野
・駿河国 稚贄
この大量の屯倉の設置記事に至る時代の流れを見てみましょう。まずは、継体天皇21年(527?)から翌年にかけて行われたと記される磐井戦争のあと、敗北した磐井の子の葛子が糟屋の屯倉を献じました。
そして、安閑天皇元年(534?)には、「武蔵国造の乱」が起き、朝廷の力によって勝利して国造の位を得た使主は、そのお礼として横渟・橘花・多氷・倉樔の4つの屯倉を朝廷に献じています。
そのほか、安閑朝は屯倉設置記事のオンパレードですが、武蔵国造の乱の翌年の上記26か所の設置記事はかなり大きな事件といえます。ただし、26か所の屯倉設置は継体朝から安閑朝にかけて行われたことをこの日の条にまとめて記した可能性もあります。
継体天皇にとっては、ライバルであった磐井を倒したことは非常に大きく、国造制の成立時期は研究者によって考えが違うのですが、対新羅政策を推し進めるため(磐井を打倒するため)に造った制度と見る研究者や、磐井打倒後の新たな政策として造った制度と考える研究者が多いです。安閑朝に屯倉設置記事が多いということは、屯倉制が確立した時期は国造制とほぼ同じであったと考えられ、国造制と屯倉制は継体・安閑朝の二大重要政策と言えます。
ところで、屯倉とは何でしょうか。官家や三宅と表記することもあります。一般的には「朝廷の直轄地」と表現されることが多く、私もそのように捉えています。具体的に何が存在したのかというと、一定の領域とそこを統治するための役場的建物、そして役人や地域住民、倉庫や港湾施設、工房、田畑など場所によって違いはあるものの、こういったものが含まれていたと考えます。
一方の国造制は、地方の有力者を「国造」という地方長官に任命して治めさせる制度で、国造に任命された人物はもともとはその地で大型の古墳を造営していたような地元で力を持っている家系の者で、国造に任命されたことによって独立性は低下してしまったものの、朝廷による保証が手厚くなりました。
このように継体・安閑朝では、直轄と地方自治の両面から列島支配を進めて行き、6世紀以降に列島各地で作られた大型古墳の被葬者は、こういった国家の政策に大きく関与した人物である可能性が極めて高いです。
なお、若狭徹さんは、七輿山古墳の被葬者についてさらに突っ込んだ見解を示しており、「武蔵国造の乱」に登場する上毛野君小熊であるとしています。
非常にエキサイティングな推定ですが、本当のことを言うと、考古学的に見た場合はまだ七輿山古墳の築造時期は大雑把に6世紀ということは言えるものの、あまり狭い範囲に絞れていないのです。その理由は、主体部が2018年のレーダー探査によって見つかってはいるものの発掘調査がなされていないことが挙げられます。
日本書紀と絡めて本格的な話をするためには、主体部の調査が必要だということは、多くの人びとが考えていることでしょう。
七輿山古墳の名前の由来
ところで、七輿山古墳というのは変わった名前ですね。その名前の由来は、面白いことに多胡碑のページで説明した「羊」という実在の人物の伝説から来ています。藤岡市のHPに記された内容を元に述べます。
羊は多胡郡の初代郡司でしたが、彼は八束の小脛という神童が引く天馬に乗って毎日奈良の朝廷に通っていました。物凄い通勤距離です。小脛は身体に白羽が生えていましたが、ある日羊は、いたずらで昼寝中の小脛の白羽を抜いてしまったため、神通力を失った小脛は天馬を操ることができなくなってしまい、羊は朝廷に出勤できなくなりました。
羊の欠勤が続いたことに怒った朝廷は、羊が謀叛を企てているとして討伐軍を派遣。八束城を追われた羊一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊の女房ら7人が自害して、それぞれ輿に乗せて葬ったことにより「七輿山」と言う名称が付いたと伝わっています。
ということなのですが、実際には、落合というのは川が落ち合う場所に良く付けられる地名なので、こういった地名伝承は、日本書紀に記載されているものから始まって大概が当てにならないものです。ただし、七つの輿というのは興味深いです。あるいは輿というものに執着せず、「ななこし」という音の方が大事かもしれませんが、今後も留意して行こうと思います。
関連施設
藤岡歴史館には、七輿山古墳から見つかった埴輪が展示してあります。
この円筒埴輪は突帯が7本あり、突帯の数がその被葬者の身分を示しているのが事実であれば、東国においては相当な高位の人物となります。
私が被葬者が畿内から送り込まれてきた貴族層であると考える根拠の一つになっています。
こちらは朝顔形埴輪で下の部分は欠落しています。
周辺のスポット
参考資料
● 現地説明板
●『群馬県史 資料編3 原始・古代3』(群馬県史編さん委員会/編・1981)P.418~ 「付図8」として墳丘図を掲載
●『群馬の古墳物語 下巻』(右島和夫/著・2018) P.108~
● 「全国遺跡報告総覧」内『群馬県藤岡市 七輿山古墳の測量・GPR調査』(城倉正祥ほか/編)