宮城県の古代史

最終更新日:2023年7月6日

 

宮城県の前期古墳

 古墳時代の始まりの頃、北関東の栃木・茨城県域、南奥の福島県浜通り・中通り、そして仙台平野において、南関東、とくに東京湾東岸地域(千葉県)のものによく似た土器と竪穴住居からなる集落群が出現します。この時代は汎列島的に人の移動が激しい時代でしたが、仙台平野にも南関東からの人の移住があったことが分かります。

 そういった前史のもと、宮城県内でも古墳の築造が始まりますが、県内には弥生墳丘墓はなく、出現期の古墳も見つかっていません。

 


飯野坂古墳群

 宮城県の前期古墳を見渡すと、まず目につくのは、現在残っている古墳だけを見ても、継続して5基の前方後方墳と2基の方墳を築造した飯野坂古墳群の存在です。

現地説明板を撮影

 飯野坂古墳群の前方後方墳の築造順は以下の通りです。

① 観音塚古墳(65m)

観音塚古墳

 

② 宮山古墳(60m)

宮山古墳

 

③ 薬師堂古墳(65m)

薬師堂古墳

 

④ 山居(さんきょ)古墳(65m)

山居古墳

 

⑤ 山居北古墳(40m)

山居北古墳

 現地説明板によると、築造時期はすべて4世紀代に収まるとされていますが、私はもう少し古いのではないかと考えています。ただし、今はまだその証拠を掴めていません。東海系の遺物の確認もできていないため、次回訪れた時は、そういったものの調査もしたいと考えています。

 

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雷神山古墳

 宮城県域の大型前方後円墳としては、4世紀後半には仙台平野に名取市・雷神山古墳(墳丘長168m)や仙台市・遠見塚古墳(同110m)が築造され、さらにそれより北側の大崎平野の江合川流域では、大崎市・青塚古墳(同100m)が築造されます(なお、仙台平野と大崎平野を併せて仙台平野と呼称する場合もありますが、本稿では分けて呼称します)。

 雷神山古墳は、東北地方最大の古墳で、山梨県の甲斐銚子塚古墳(169m)や群馬県の浅間山古墳(171.5m)と並ぶ、4世紀における東国最大級の古墳の一つです。

雷神山古墳

 高さは後円部12m、前方部 6m、3段築成ですべての法面に葺石が認められます。1段目は地山を削って成形し、2・3段目は盛土で構築しています。後円部径と前方部幅が同じタイプの古墳で、このデザインは渋谷向山古墳(現景行天皇陵)と同じで、類型は列島各地にあり、ヤマト王権の影響が非常に強い古墳だと考えられます。大きさやデザインから考えると、被葬者は相当ヤマト王権から優遇されています。

 前述した飯野坂古墳群と雷神山古墳は、それぞれ違う丘陵上にありますが、距離は1㎞ほどしか離れていません。私は、この地は元々、飯野坂古墳群の代々の被葬者が治めていたところ、4世紀後半にいよいよヤマト王権の介入があざとくなってきて、ついにヤマトから任命された人物がこの地を治めることになり、飯野坂古墳群の築造が終焉を迎えたという仮説を考えています。ただし、遺物をきちんと評価しないことには断定はできず、今はまだその段階には達していないため、今後の課題としています。

 

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遠見塚古墳

 前方部の端が道路のため削られていますが、下草が綺麗に刈られていることも多い整備された古墳です。大きさは県内では2番目、東北地方では5番目。葺石・埴輪ともに認められず、周溝の土で墳丘を構築しています。

 主体部は復元長8mの粘土槨が2つ見つかっており、割竹形木棺であったと考えられます。

遠見塚古墳

 雷神山古墳との前後関係は不明で、現段階では、「同じ頃」というに留めます。

 

90
名取大塚山古墳

 雷神山古墳の後、5世紀に入りますが、墳丘長90mの名取大塚山古墳が築造されます。

名取大塚山古墳

 さらに、その次には十石上(じゅっこくがみ)古墳が築造されますが、墳丘長は32mとなってしまいました。墳丘長の大きさだけで一概にその勢力の大きさを推し量ることはできないのですが、同じ時代の他地域の古墳と比較すると、5世紀は列島各地の多くの地域で大型前方後円墳が築造された時代ですので、そういった時代背景にもかかわらず古墳の大きさが小さいということは、その地域がヤマト王権の直轄地のような状態になり、支配者が公務員化してしまった場合か、あるいは経済力が低下してしまった場合のどちらかの可能性があると考えます。仙台平野の場合は、後述する通り、経済的な低下が原因と考えられます。

 なお、5世紀後半には、岩手県奥州市(胆江<たんこう>地方)に角塚古墳(同45m)が築造されますが、これは時代的にも上述の古墳たちとは違いますし、地理的にもまったく孤立して築造された物なので、別途述べようと考えています。基本的には、太平洋側においては、ヤマト王権の古墳文化が及んだ範囲は、江合川流域までと考えられます。

稲用章作成

 

古墳時代後・終末期

 前項で述べた通り、仙台平野では5世紀に古墳規模の縮小化が進みました。そして、6世紀後半に国造が設置されたときは、その北限は阿武隈川流域となり、仙台平野の阿武隈川流域以外の多くの地域は、国造設置地域の範囲外となってしまいました。

『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』所収「城柵の設置と新たな蝦夷支配」(永田英明/著)より転載

 私は国造の設置は継体天皇の時であると考えているので、つまりは、継体朝が支配できた範囲には、仙台平野や大崎平野は含まれていないと考えます。なぜ、国造が設置されなかったかというと、考古学的に見ると6世紀には当該地方の竪穴住居跡がかなり少ないため、物理的に人口が減少して、地方の王が君臨するための社会基盤がそもそもなくなってしまったからだと考えられます。

 興味深いのは、アイヌ語地名でとくに多い「ナイ」が付く地名の分布の南限が仙台あたりであることです。ここでいうアイヌ語地名というのは、アイヌが付けたものではなく、「アイヌの先祖」が付けたものです。アイヌというのはアイヌ文化を担った人びとのことを指しますが、アイヌ文化は中世以降の文化ですから、古代の場合は「アイヌの先祖」とした方が正しいです。

 一見、人口が希薄になったと見える6世紀の頃、北東北からアイヌの先祖が南下して、平地式建物を作り居住し、そのときに地名を付けたと考えられます。ただし、アイヌは文字を持ちませんから、その地名の伝承はアイヌの先祖と古墳文化人との直接的なコミュニケーションによってのみ伝承されますので、アイヌの先祖が北方に去るまでの間に、両者が混在して住んでいた時代があることが分かります。

 

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法領塚古墳

 7世紀になると仙台平野の人口は再び増えます。結果的に国造の設置はありませんでしたが、国家の影響力は再び浸透しており、当地方を治めた首長の墓として7世紀前半に法領塚古墳が築造されます(位置は上図の遠見塚古墳の北西側1㎞の距離です)。

法領塚古墳

 法領塚古墳は横穴式石室を備えた円墳で、現在は墳丘がかなり削られていますが、発掘調査によって、元々は径55mであったことが分かっており、円墳としては雷神山古墳の隣にある小塚古墳と並んで宮城県最大級です。

 古墳は聖ウルスラ学院の構内にあり、平日であれば事前に学校に連絡しておけば横穴式石室を含めて見学することができます。横穴式石室も東北地方最大級で、現在残っているのは玄室のみですが、玄室だけでも奥行きが5.7mあり、元々は10m以上はあったはずです。

法領塚古墳の石室

 これだけの古墳が築造されたということは、それだけの人的・経済的基盤があったということになりますが、法領塚古墳の築造より少し前の6世紀末から7世紀中葉にかけて、のちに初代陸奥国府ができる郡山遺跡に集落が形成されます。これが法領塚古墳の築造基盤でしょう。

 

仙台平野の開発と印波国造

 郡山遺跡の集落を作った人びとは、土器を見ると千葉県の印旛沼周辺からやってきたことが分かります。印波国造などが仙台平野の開発に活躍したのではないでしょうか。また、郡山遺跡に隣接している南小泉遺跡でも、6世紀末葉から7世紀初頭に掘られたと考えられる大溝が見つかっており、日本書紀には一切記述がありませんが、改新政府が城柵を造営して東北経略を推し進めるより前の蘇我氏が政権を運営していた時代には、すでに国家の政策として、北東北への進出を企てていたことが分かります。

 千葉県の印旛沼近くには龍角寺古墳群がありますが、そこには7世紀前半に造られた国内最大級の方墳である岩屋古墳があり、印波国造の墓の可能性があります。

千葉県栄町・岩屋古墳(8月27日の現地講座で訪れます

 印波国造が、当時政権首班であった蘇我氏の古墳をも上回るほどの巨大な方墳を築造できた理由は、蘇我政権の仙台平野への進出に積極的に協力したことに対する褒賞であった可能性を私は考えています。

 なお近年、宮城県では、初期の城柵と同じように周囲を区画溝と材木塀で囲んだ特殊な囲郭(いかく)集落と呼ばれる遺跡が見つかっており、柵の仲間と見られます。囲郭集落は、竪穴住居が主体で役所のような大型の建物跡が見つかりませんが、関東系の土器が見つかることが多いため、関東からの移民が居住していたことが分かります。熊谷公男氏は、倭王権の出先機関である郡山遺跡の政治的支配のもとで計画的に造られた施設としています。

 現代においても仙台は東北地方を代表する都市ですが、元々仙台周辺は大集落化のポテンシャルが非常に高い地域で、弥生時代にはバリバリ水田を作っていますし、遠見塚古墳と同時期にもその近くに大規模な集落跡がありました。6世紀の一時期に人口が減少したのは気候の寒冷化が原因の一つだと思われますが、その地域が再び本来の力を発揮しだしたのです。

 

飛鳥時代の城柵設置

 645年に蘇我政権が倒れ、日本が律令国家への道を歩み始めると、この地域にも新たな変化が訪れます。

 古代の東北地方には城柵(じょうさく)と呼ばれる特殊な役所が造られました。いまだ日本の統治が及んでいない地域に新たに進出した際には、まずは城柵を造り、そこに柵戸(さくこ)と呼ばれる移民を送り込み、支配が安定したのち評(8世紀以降は郡)を設置し、完全に内国化していきました。

 その城柵の初期のものは、日本書紀にも記載されている新潟県に作られた渟足柵(ぬたりのき=647年造営)と磐舟柵(いわふねのき=648年造営)です(新潟県の北部地域は、この時代には東北地方の一部として見做されていました)。これらと同時期にも太平洋側に城柵が造られたはずですが、日本書紀にはその記述はありません。ただし、考古学的には仙台市太白区の郡山遺跡が城柵とされています。

郡山遺跡

 郡山遺跡は、法領塚古墳から南に約3㎞の地点です。

 既述した通り、6世紀末には集落跡が形成されはじめ、7世紀中葉には第Ⅰ期官衙と呼ばれているものが造営されました(第Ⅱ期官衙は、後述する通り初代の陸奥国府跡です)。

 郡山中学校の校舎にピロティがあり、寺院東方建物群の遺構が見学できます。ただし、事前に仙台市教育委員会に連絡しておく必要があり、学芸員の方の仕事の都合があえば、丁寧な説明をしていただけます。

郡山遺跡・郡山中学校内ピロティ

 大化改新以降、日本列島を五畿七道に大まかに分割して、その中を約60の「国」という行政区画に分ける作業が一段落したのは天武天皇のときというのが通説です。東北地方のことをよく「みちのく」と呼びますが、陸奥国は、当初は「道奥」と表記して、「みちのおく」と呼ばれました。

 各国には今でいう県庁にあたる国府を設置しましたが、陸奥国の場合は、郡山遺跡の第Ⅱ期官衙跡が最初の陸奥国府跡で、その造営時期は7世紀末頃です。

 それではここで、律令国家の北方への進出がこのあとどのように進んでいくのか、あらかじめ述べてしまいます。下図は、東北地方の郡図です(718年に建置され数年後に廃止された石背・石城国も示されています)。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」066 古代東北当地の拠点 多賀城』(進藤秋輝/著)より転載

 太平洋側のみを説明しますと、645年の大化改新直後は、この図で言えば宮城郡辺りの支配を始めたばかりでした。713年頃には玉造・長岡・小田・遠田・桃生郡のラインまで支配が及びます。栗原郡を建置するには時間が掛かり、763年です。磐井郡から北が岩手県で、海側の気仙郡は宮城県ですが、そこに行くまでも時間が掛かり、坂上田村麻呂がアテルイを降して、胆沢・江刺(胆江地方)を手に入れたのが802年。和我・稗縫・斯波の建郡が811年。岩手郡の建置は記録になく、はっきりしません。

 このように朝廷が北東北を支配下に収めるには相当な時間が掛かっており、その間には何度も戦争が起きて、たくさんの人びとが死んでいます。以降、この歴史を語ろうと思いますが、平安時代初頭のアテルイの話は岩手県の話ですので、その手前までを述べる予定です。

 

 

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