続日本紀・要点講座④ 聖武天皇 ~奈良時代を代表する天皇~

最終更新日:2023年7月9日

 

目次

第1章 聖武天皇とは

第2章 聖武天皇の即位

第3章 長屋王の変

第4章 聖武朝廷の人的危機

第5章 藤原広嗣の乱

第6章 相次ぐ遷都

第7章 聖武朝終盤

第8章 国分寺の造営

まとめ

 

 

第1章 聖武天皇とは

聖武(しょうむ)天皇

 第45代天皇

 諱は首(おびと)

 大宝元年(701)生誕

 在位は神亀元年(724)~天平勝宝元年(749)

 天平勝宝8年(756)崩御(享年56)

 

 

第2章 聖武天皇の即位

聖武即位時の叙位

 神亀元年(724)2月4日、元正天皇の譲りを受けて大極殿で即位

 即位の直後には直叙(じきじょ)が恒例となっており、その第一弾として即位とともに叙位が行われた

 - 一品・舎人親王(天武の第6皇子・49歳)の封戸を500戸加増
  ⇒ 引き続き知太政官事
 - 二品・新田部親王(天武の第10皇子で藤原鎌足の外孫)を一品に
 - 従二位・右大臣・長屋王(49歳?)を正二位にして左大臣に
 - 正三位・大納言・多治比池守の封戸を50戸加増
 - 従三位・巨勢邑治(おおじ)、大伴多比人(59歳)・藤原武智麻呂(45歳)・藤原房前(44歳)を正三位に

 

律令の位階制度

 大宝令と養老令には、官位令がある

 官位というのは官職と位階

 官位令によれば、位階に関しては、皇族には一品(いっぽん)から四品(しほん)の品位(ほんい)4階があり、廷臣には以下の30階があった

 正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位 ・・・ 上級貴族
 正四位上、正四位下、従四位上、従四位下 ・・・ 中級貴族
 正五位上、正五位下、従五位上、従五位下 ・・・ 下級貴族
 正六位上、正六位下、従六位上、従六位下
 正七位上、正七位下、従七位上、従七位下
 正八位上、正八位下、従八位上、従八位下
 大初位(そい)上、大初位下、少初位上、少初位下

 五位以上と六位以下では社会的ステータスも収入もかなりの差があり、上級貴族の場合、年俸は現在の価値で億単位のこともあったようだ

 

【余談】現代の叙位と勲等

 京都大学の公式HPによると、令和元年の閣議決定では例えば以下の叙位があった

 野崎一名誉教授 ・・・ 正四位に叙する
 大石純名誉教授 ・・・ 正四位に叙する

 現在でも叙勲があるが、大勲位が最高で、それ以下の勲等と位階との対応は以下の通り

勲一等 = 正三位   勲二等 = 従三位    勲三等 = 正四位
勲四等 = 従四位   勲五等 = 正五位    勲六等 = 従五位
勲七等 = 正六位   勲八等 = 従六位    勲九等 = 正七位
勲十等 = 従七位   勲十一等 = 正八位  勲十二等 = 従八位

 2003年11月3日以降は、数字で表現する方法は行われていない

 現在においても詐称した場合は軽犯罪法第1条15号が適用される(過去には葦原天皇や熊沢天皇などがいたが・・・)

 

2月6日の叙位

 引き続き、2月6日にも叙位があった

 正一位・藤原夫人(宮子)を大夫人(おおきさき)と称する

 ⇒ 3月22日に長屋王の奏言により皇太夫人に改められる

 三品の以下の2名を二品に

 - 田形内親王(天武の娘・夫の六人部王<むとべおう>は長屋王の兄弟?)
 - 吉備内親王(元明の二女・長屋王の妃・39歳?)

 従四位下の以下の3名を従三位に(従四位下から従三位は、4階の特進)

 - 海上(うなかみ)女王(万葉歌から聖武の妃と推測される)
 - 智努女王(長屋王の娘?)
 - 藤原長娥子(ながこ・不比等の二女で長屋王の妾)

 正四位下・山形女王(長屋王の姉妹)を正四位上に

 

「舎人親王外し」か

 前項に記された人びとを見ると長屋王の近親者が目立つ(ほとんど長屋王一族のための叙位)

 その一方で、知太政官事の舎人親王の子が見えない

 ⇒ 長屋王と聖武(というより元正か)との間で「舎人親王外し」が進行していたか?

『律令制の虚実』(村井康彦/著)より転載

 

その他の叙位

 2月22日にも叙位があった(一部抜粋)

 - 正四位下・六人部王(長屋王の兄弟か?)を正四位上に
 - 無位・膳夫(かしわで)王(長屋王の子)を従四位下に
 - 正五位上・葛木王(のちの橘諸兄)を従四位下に
 - 正五位上・大伴宿奈麻呂、多治比広成(県守の弟)、日下部老(佐為王・山上憶良らとともに皇太子時代の聖武の教育係)を従四位下に
 - 従五位下・高橋安麻呂、大野東人を従五位上に
 - 正六位下・石上乙麻呂(麻呂の三男)、藤原豊成(武智麻呂の長男・21歳)を従五位下に

 5月13日には女官である従五位上・薩妙観に河上忌寸(いみき)姓を賜うなど、多くの渡来系官人に姓が贈られた(ほとんどが連<むらじ>姓)

蝦夷による佐伯児屋麻呂の殺害

 神亀元年(724)3月25日に陸奥国から奏上

 海道(多賀城の先、桃生・牡鹿を経て三陸方面に伸びた道)方面の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)で従六位上の佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺害

 ⇒ さきの上毛野広人の殺害から4年しか経っていない

『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也/編)より転載

 朝廷は4月3日、殉職した児屋麻呂に従五位下を追贈するとともに、7日に以下の人事を発令

 大将軍 ・・・ 式部卿で正四位上・藤原宇合
 副将軍 ・・・ 宮内大輔で従五位上・高橋安麻呂

 14日には坂東(関東)9ヶ国の兵士3万人に乗馬や射術を教習させ、布陣の仕方を訓練し、陸奥の鎮所に物資を運び込んだ

 出羽方面でも蝦夷が騒動を起こし、5月24日、従五位上・小野牛養(うしかい)が鎮狄将軍に任じられ、蝦狄鎮圧を命じられた

 

蝦夷征討の完了

 宇合は11月15日の時点で近江まで戻ってきている

 宇合や牛養らは11月29日に帰京

 ⇒ このときもどのような戦いが展開したかはまったく不明

 ⇒ 陸奥方面が「馬」で出羽方面「牛」というジョークのような人事も怪しい(疑いだすときりがない)が、陸奥と出羽の蝦夷はとりあえず鎮圧された模様

 翌神亀2年(725)正月22日、蝦夷征討に赴いた貴族などに叙位

 - 正四位上・藤原宇合は従三位に
 - 従五位上・大野東人は従四位下に
 - 従五位上・高橋安麻呂は正五位下に

 閏正月4日、陸奥国の蝦夷の捕虜144人を伊予(愛媛県)に、578人を筑紫(福岡県)に、15人を和泉監(大阪府)に移配

 

大嘗祭

 即位した年の神亀元年(724)11月23日には大嘗祭が執り行われた

 1年のうちでもっとも太陽の力が弱まる冬至の日には、大昔から世界各地で太陽復活の祭りが行われてきた

 ⇒ 邪馬台国の卑弥呼も太陽復活の祭りをやっていたか?

 皇極朝(642~645年)のときに、旧暦11月中旬の卯の日に太陽の復活を祈る従来の祭りに豊作を神に感謝する祭りが合わさり、新嘗祭が始まったといわれる

 毎年行なう祭は新嘗祭と呼ばれるが、天皇の代替わりの後に一度限り行う祭りを大嘗祭(おおにへのまつり/だいじょうさい)と呼ぶ

 大嘗祭のためだけに新たに大嘗宮を造営する

 

【余談】令和の大嘗祭

 大嘗祭の中でも中心的な儀式である大嘗宮の儀は、皇居東御苑に造営された大嘗宮にて2019年11月14日(木)~15日(金)に催行

 それに先立って5月13日には、大嘗祭で使う米を収穫する東西2つの地方を決める斎田点定(さいでんてんてい)の儀が行われた

 その際の決定方法は、亀卜(きぼく)を使った占い

 東の悠紀(ゆき)地方には栃木県が選ばれ、斎田は「とちぎの星」が作付けされた高根沢町の田に決定

 西の主基(すき)地方には京都府が選ばれ、斎田は「キヌヒカリ」が作付けされた南丹市の田に決定

 ⇒ 平成の大嘗祭の際に指名された「あきたこまち」はそれ以来有名なブランドとして定着した

 

多賀城築城

 神亀元年(724)、大野東人(おおののあずまびと)が多賀柵(多賀城)を現在の宮城県多賀城市に築城し、陸奥の国府が移された

 それ以前の国府は仙台市太白区郡山の郡山遺跡だった

 多賀柵には鎮守府という軍政機関も置かれ、鎮兵と呼ばれる常備兵も配備された

宮城県多賀城市・多賀城跡

 

続日本紀に築城記事がない多賀城

 多賀柵の築城時期に関しては、『続日本紀』には記述がなく、多賀城跡に残る多賀城碑(日本三古碑の一つ)によって、神亀元年に大野東人によって築城されたことがわかる

多賀城碑が納められている覆屋

 

聖武の仏教への帰依

 神亀2年(725)正月17日、僧600人を宮中に招き、大般若心経を読誦させた

 同年7月17日、各国の国司に対して神社の清掃および寺院での金光明経もしくは最勝王経を読ませる

 神亀3年(726)6月15日、太上天皇が病になり、21日には太上天皇のために僧28人、尼2人を得度させ、7月19日にそれぞれ15人と7人を得度させた

 8月8日は、太上天皇のために釈迦像を建立し、薬師寺で斎会

 神亀4年(727)2月18日、僧600人と尼300人を中宮に招いて、金剛般若経を転読させた

 神亀5年(728)12月28日、金光明経64部計640巻を諸国に配布

 ⇒ 聖武はのちに国分寺を創建することになるが、その兆しがすでに見えている

 

僧義淵

 義淵は法相宗の僧

 ⇒ 日本の法相宗(南都六宗の一つ)は、中国で玄奘(げんじょう)に師事した道昭が660年に帰国後、法興寺(旧飛鳥寺)で広め、現在は薬師寺と興福寺が大本山

 神亀4年(727)12月10日、岡連(おかのむらじ)の姓を賜る

 神亀5年(728)10月20日、卒去

 ⇒ 皇極2年(643)生まれなので享年は86歳

 弟子あるいは門下といわれる僧は、玄昉・行基・隆尊・良弁・道慈・道鏡など錚々たる面々

 

皇太子の誕生と死

 神亀4年(727)9月29日、光明子との間に待望の男子が誕生

 ⇒ 光明子は実家(故不比等邸)で出産した

 10月5日、聖武は皇太子誕生を祝い、皇太子と同じ日に生まれた者すべてに麻布、真綿、稲を賜った

 ところが、翌神亀5年8月21日の時点では病気になっており、9月13日には僅か2歳で亡くなってしまった

 ⇒ 名前は基(もとい)と言われることがあるが定かではない

 

 

第3章 長屋王の変

突然の事件発生

 神亀6年(729)2月10日、左京の住人である従七位下の漆部君足(ぬりべのきみたり)と無位の中臣宮処東人(なかとみのみやどころのあずまびと)らが「長屋王は密かに左道を学び国家を倒そうとしています」と密告

 聖武はすぐさま、三関(鈴鹿・不破・愛発<あらち>)を閉ざした

 さらに藤原宇合以下の人びとが六衛府の兵士を引率し長屋王の邸を包囲

奈良市・長屋王邸跡

 

舎人親王らによる訊問

 密告の翌日(2月11日)、以下の人びとが長屋王邸へ赴き訊問

 - 一品・舎人親王
 - 一品・新田部親王
 - 従二位・大納言・多治比池守
 - 正三位・中納言・藤原武智麻呂
 - 正五位下・右中弁・小野牛養
 - 外従五位下・少納言・巨勢宿奈麻呂

 

長屋王自殺

 舎人親王らの訊問の翌日(2月12日)、長屋王は自殺

 長屋王の妻・吉備内親王、息子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らも自殺

 その他の者は逮捕して監禁

 さらにその翌日、長屋王らの遺体を生駒山に埋葬

 

長屋王の変の後処理

 2月15日の詔、「長屋王は残忍邪悪な人であったが、ついに道を誤って悪事が現れ、よこしまの果てににわかに法鋼にかかった。悪事の仲間を除去し絶滅しよう」

 2月17日、外従五位下の上毛野宿奈麻呂ら7人が流罪、その他の90人は放免

 2月18日、長屋王の兄弟姉妹と子孫、およびそれらの妾たちはすべて赦免

 2月21日、左京・右京の死罪以下の罪人を赦免、長屋王の事件の為に動員された人民の雑徭を免除

 告発者の漆部君足・中臣宮処東人に外従五位下、封戸30戸、田10町、漆部駒長に従七位下を賜う

 2月26日、長屋王の弟・姉妹と子供たちのうち生存するものには禄を給する

 

長屋王の変後初の叙位と光明子の立后

 3月4日には叙位が行われた(以下、一部抜粋)

 - 正四位上の石川石足・多治比県守・藤原麻呂が従三位に
 - 従四位上・鈴鹿王(長屋王の弟)が正四位上に
 - 従四位下・葛城王(のちの橘諸兄)が正四位下に
 - 従四位下・三原王(舎人親王の二男)が従四位上に
 - 正六位下・坂上大国(田村麻呂の曽祖父)が従五位下に

 8月10日には、光明子が皇后となり、皇族以外の女性が皇后になる前例を作った

 

長屋王の父祖

 父は天武の長子である高市皇子(たけちのみこ)で、壬申の乱の際、天武の子らで唯一軍勢の指揮を任され、縦横の働きをして父の勝利に貢献した

 ⇒ 高市皇子の母は、胸形徳善の娘・尼子郎女(あまごのいらつめ)

 舎人親王は叔父

 

長屋王の変の原因は何か

 変発生時の状況を客観的に見てみる

① 聖武天皇側から見る

 - 変発生の少し前に皇太子がわずか2歳で夭折し、聖武は精神的に落ち込んでいた
 - 長屋王の罪状は呪詛
 - 聖武が長屋王を庇った形跡がない

② 舎人親王側から見る

 - 聖武即位後、長屋王とその一族は厚遇されているが、舎人親王一族は決して厚遇されていない
 - 長屋王を訊問したメンバーの筆頭に舎人親王がいる

③ 藤原四兄弟側から見る

 - 長屋王は神亀元年(724)2月に宮子が大夫人(おおきさき)とされたのを反対して取り消させており、四兄弟からは恨まれている
 - 初めに長屋王邸を包囲したのは宇合
 - 長屋王を訊問したメンバーに武智麻呂がいる
 - 光明子は変発生から半年後の8月10日に皇后となっている

④ その他

 - 聖武は長屋王が自殺した後、慌てたように遺族たちを赦免している
 - 考古学的に見ると、長屋王邸の住居面積は360㎡あり、天皇の住処である内裏正殿に準ずる大きさ(内裏正殿は405㎡)

一般的には、藤原四兄弟が、自分たちの姉妹である光明子を前例を無視して聖武天皇の皇后に据えるためには、長屋王の存在が邪魔だったため、罪を着せて自殺させたという説が良く聴かれる

 

 

第4章 聖武朝廷の人的危機

光明子立后の先例

 天平元年(729)4月3日、呪術によって罪を犯すものを斬刑に処すことが決定

 ⇒ 長屋王の変のこともあり聖武は呪術について神経質になっている

 同日、太政官によって舎人親王が参内した際に、親王の為に官人が座席を降りて敬意を表するには及ばないとの決定が下された

 前回述べた通り、この年の8月10日、藤原光明子が皇后となった

 8月24日には、聖武は「過去には仁徳天皇が葛城磐之媛を皇后としたことがあり、皇族でないものが皇后になることの先例がある」と勅した

 

つづく天候不順

 天平2年(730)は不作

 天平3年(731)は豊作

 天平4年(732)は日照りで凶作

 天平6年(734)4月7日、大地震が発生(9月24日も地震があり余震か)

 天平7年(735)9月30日、新田部親王薨去(享年50歳前後か)

 同年11月14日、舎人親王薨去(享年60歳)

 この年の最後に「穀物の実りが非常に悪かった。夏から冬にかけて全国的に痘瘡を患って若死にするものが多かった」とある

 

政府要人の相次ぐ死

 天平9年(737)4月17日、参議・民部卿・正三位の藤原房前が死去(享年57歳)

 4月19日、大宰府管内の諸国で瘡のできる疫病が流行り人民が多く死亡

 6月10日、散位・従四位下の大宅大国が死去

 6月11日、大宰大弐・従四位下の小野老が死去

 6月18日、散位・従四位下の長田王が死去

 6月23日、中納言・正三位の多治比県守が死去(享年70歳)

 ⇒ 県守は、霊亀3年(717)に遣唐使として唐へ渡り、養老4年(720)の蝦夷征討の際には持節征夷将軍として出陣

 

藤原四兄弟残り全員死亡

 7月5日、散位・従四位下の大野王が死去

 7月13日、参議・兵部卿・従三位の藤原麻呂が死去

 7月17日、散位・従四位下の百済王郎虞が死去

 ⇒ のちに蝦夷征討で活躍しアテルイ軍とも戦った俊哲は郎虞の曾孫

 7月25日、従二位・右大臣・藤原武智麻呂が死去(享年58歳)

 ⇒ 亡くなった日(息を引き取る直前)に正一位・左大臣となった

 8月1日、中宮大夫兼右兵衛率・正四位下の橘左為が死去

 8月5日、参議・式部卿兼太宰帥・正三位の藤原宇合が死去(享年44歳)

 8月20日、三品・水主内親王が死去(天智皇女) 

 

【余談】天然痘

 旱魃の後には疫病が流行ることが多い

 天平9年(737)の最後に「この年の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相次いで死亡するものが数えきれないほどであった。このようなことは近来このかたなかったことである」と特記されており、この疫病は天然痘であったといわれている

 感染力が強く、罹患率・致命率が高い

 治癒しても顔に瘢痕が残る

 1663年、アメリカにおいてインディアンの居住区域で流行があった際は、人口4万人のうち生き残った者は数百人であったという

 WHO(世界保健機関)は1980年5月に天然痘の世界根絶宣言を行い、それ以降、世界全体を見渡しても天然痘患者の発生はない

  

叙位

 閣僚が次々と亡くなったので8月28日に叙位が行われた

 - 従三位・鈴鹿王(長屋王の弟)を知太政官事
 - 従三位・橘諸兄を大納言
  ⇒ 諸兄は臣籍降下して橘姓を名乗っており生母は県犬養三千代
 - 多治比広成(県守の子)を中納言にし従三位
 - 百済王南典(郎虞弟)を従三位
 - 高安王(敏達天皇後裔)を従四位上
 - 白壁王(29歳・のちの光仁天皇)に従四位下
 - 道祖(ふなど)王(新田部皇子の子)に従四位下
 - 正五位上の藤原豊成(武智麻呂長子・35歳)を従四位下
 - 従六位上の藤原乙麻呂(武智麻呂三男)に従五位下
 - 藤原永手(房前次男だが兄鳥養夭折のため嫡男)に従五位下
 - 藤原広嗣(宇合長男)に従五位下

 

聖武の家族

 天平9年(737)12月27日、皇太夫人の宮子が皇后宮へ赴き、僧正の玄昉(げんぼう)を引見し、聖武もその場へ行幸

 宮子はながらく精神的な病に陥っていたため、聖武は生まれた後、37歳のこのときまで一度も母に会ったことがなかった

 玄昉のカウンセリングにより宮子はおだやかで悟りを開いたような境地となり、母子の対面は無事に終わった

 天平10年(738)正月、聖武は21歳の阿倍内親王を立てて皇太子とした(のちの孝謙・称徳)

 ⇒ この時点で、聖武には夫人である県犬養広刀自との間に安積(あさか)親王がおり、11歳になっていたが、まったく無視されていることから、聖武はあくまでも、跡継ぎは光明子の子に拘っていることが分かる

 

長屋王の変・後日譚

 天平10年(738)7月10日、左兵庫少属・従八位下の大伴子虫が、外従五位下・中臣宮処東人を殺害

 二人は政務の間に囲碁をしていたが、長屋王の話に及んだ際に口論となり子虫は東人を斬り殺してしまった

 子虫は長屋王に仕えていた人物

 ⇒ 子虫がこのあと罰せられた記録はない

 続日本紀にはきちんと「東人は長屋王のことを事実を偽って告発した人物」と明記してある

 ⇒ 事件から9年経過しているが、この頃の世間では長屋王は冤罪だったという認識があったことが分かる

 

 

第5章 藤原広嗣の乱

藤原広嗣

 式家藤原宇合の長子

 生年は不詳(宇合は694年生まれ)

 藤原四兄弟らの死去に伴い、天平9年(737)9月に従六位上から従五位下となり、式部少輔を経て、天平10年4月には、大養徳守(やまとのかみ)を兼任

 同年10月30日、大宰大弐の紀男人が卒し、12月4日には後任に高橋安麻呂がなった

 ⇒ 安麻呂は神亀元年(724)の蝦夷征討の際、大将軍となった宇合の副将軍として共に戦っており、宇合派の官人だったといわれる

 このとき広嗣は大宰少弐となり現地に赴任(一般的には左遷人事とされる)

 ⇒ 式家の人びとを追い落とす策謀の一環と考える研究者がいる

 

大宰府

 大宰府の四等官制は以下の通り

 長官 ・・・ 大宰帥(だざいのそち)
 長官補佐 ・・・ 大宰権帥(だざいのごんのそち)
 次官(すけ) ・・・ 大弐(だいに)・少弐(しょうに)
 三等官(じょう) ・・・ 大監・少監
 四等官(さかん) ・・・ 大典・少典

大宰府政庁跡

 

石上乙麻呂の流刑

 天平11年(739)3月28日、石上乙麻呂(左大臣麻呂の三男)が女官の久米若売(くめのわかめ)を犯したという罪で、乙麻呂は土佐へ、若売は下総に流された

 乙麻呂の姉妹は宇合の妻

 若売は、宇合の未亡人

 ⇒ 広嗣の大宰少弐への左遷とともに、宇合派に対する謀略か?

 

広嗣挙兵

 天平12年(740)8月29日、広嗣が聖武に対して上表

 そこには時の政治の得失が指摘され、それが天地の災異の原因になっていると陳べられ、玄昉と下道真備(しもつみちのまきび=のちの吉備真備)の罷免を要求

 ⇒ 聖武の政治のまずさと任命責任を追及しているわけなので、聖武からすると自身への個人攻撃と認識しただろう

 広嗣は君側の奸を力で除くつもりで、9月3日に挙兵

 それを知った聖武は以下の人事を発令

 - 大将軍・従四位上・大野東人
 - 副将軍・従五位上・紀飯麻呂(きのいいまろ)
 - 軍監・軍曹は各4名

 東海・東山・山陰・山陽・南海から1万7000人を徴発

 

さらなる朝廷の対応

 9月4日、聖武は隼人24人を召して位階を授けて広嗣討伐に向かわせた

 ⇒ 広嗣も隼人を動員することが予想できたので、地元の隼人たちを内応させるための処置であろう

 9月5日、従五位上・佐伯常人と従五位下の阿倍虫麻呂を増援

 9月21日、長門に滞在中の遣新羅使の中でも討伐に採用できるものがいれば任用

 

戦いの推移

 前線の大野東人からの報告によると、官軍の先鋒は九州に上陸し、登美・板櫃・京都の三鎮を制圧して営兵1767人を捕虜とした

 9月22日、勅使佐伯常人・阿倍虫麻呂 が隼人24人と兵4000人を率いて渡海し、板櫃鎮へ到着

 一方の広嗣は、大隅・薩摩・筑前・豊後から徴発した兵5000人を率い、大宰府から鞍手道を進軍し、板櫃川で官軍と対峙

 広嗣弟の綱手は筑後・肥前の兵5000人を率い豊後国から進軍し、多胡古麻呂も田河道を進軍し会戦
地へ向かったが官軍に阻まれたようで両軍は到着できず

『検証 平城京の政変と内乱』(遠山美都男/著)より転載

 

板櫃川の戦い

 官軍側の隼人が広嗣側の隼人に投降を呼びかけた結果、広嗣側の隼人は戦意を喪失

 佐伯常人が陣頭で広嗣に呼びかけると広嗣が現れ、下馬・拝礼したうえで「朝廷に歯向かうつもりはなく、玄昉と真備を除いて欲しいだけだ」と叫ぶ

 それに対して常人は、「兵を発して押し寄せてきたのはなぜか」と正論を言い、広嗣は返答できず自陣に逃げ帰る

 広嗣勢はその後の戦いで敗北し潰走

 

広嗣の処刑

 敗走した広嗣は船で新羅へ逃れようとしたが、耽羅嶋(済州島)の近くまで来たところで船が進まなくなり、風向きが変り九州へ押し戻されそうになった

 広嗣は海神に対して、「自分は大忠臣である。神霊はなぜ私を見捨てようとするのか。神よ風波を静めたまえ」と祈り駅鈴を海に投じたが、風波は収まらず知駕島に戻されてしまった

 10月23日、知駕島に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕縛

 11月1日、大野東人は広嗣と綱手を肥前国松浦郡において斬首

 ⇒ こういった反乱事件の場合は、将軍は現地で敵将を処分して良いものとされている

 翌天平13年(741)正月22日、残りの者の処分が決定し、死罪26人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人

 

 

第6章 相次ぐ遷都

関東への行幸

 天平12年(740)10月26日、聖武は九州にいる大野東人に対して「思うところあって今月末からしばらくの間、関東へ行こうと思うが驚いたり怪しんだりしないように」と勅する

 10月29日、伊勢へ向けて行幸開始

 その後、伊賀を経て伊勢・美濃へ

『天平の都と大仏建立 紫香楽宮と甲賀寺 改訂版』(甲賀市教育委員会/編)より転載

 

恭仁京の造営開始

 12月6日、右大臣・橘諸兄を山背国相楽郡恭仁(くに)郷(京都府木津川市)へ向かわせ、それを追うように近江を行幸

 12月15日、聖武は恭仁宮に行幸し、都の造営を開始(太上天皇と皇后は遅れて到着)

 ⇒ この地は橘諸兄の本拠地

 

恭仁京

 天平13年(741)正月1日、聖武が恭仁宮で朝賀

 3月24日、国分寺造営の詔

 ⇒ 国分寺に関しては次回述べる

 閏3月15日、平城京にいる五位以上の官人に対して今月中に恭仁京へ引っ越すように命令

 翌天平14年(742)正月1日、朝賀が行われたが大極殿は未完成

 正月5日、大宰府を廃止

 ⇒ 翌年12月に筑紫に鎮西府が置かれ、天平17年(745)6月に復活

 

紫香楽宮と頻繁に行き来

 天平14年(742)8月11日、「朕は近江国紫香楽村に行幸しようと思う」と述べ、都の造営を開始

 8月27日、近江国甲賀郡紫香楽村(滋賀県甲賀市)に行幸

 9月4日、恭仁京へ帰還

 10月12日、塩焼王(新田部親王の子)らが拘禁され流罪に

 ⇒ 塩焼王の妻は聖武の皇女(不破内親王)

 12月29日、紫香楽宮に行幸

 翌天平15年(743)正月2日、恭仁京へ帰還

 正月3日、大極殿に出御

 4月3日、紫香楽宮に行幸

 4月16日、恭仁宮へ帰還

 7月26日、紫香楽宮へ行幸

 

紫香楽宮にて大仏造立開始

 10月15日、盧舎那仏の金銅像一体の造営を発願(「廬舎那仏造営の詔)

 10月19日、紫香楽京に甲賀寺の地を開き、行基集団が協力

 11月2日、恭仁宮へ帰還

 12月26日、平城宮の大極殿を恭仁宮へ移築する工事が終了したが、紫香楽宮を造るため、恭仁宮のこれ以上の造営はしないことに決定

 

難波宮

 天平16年(744)2月20日、恭仁宮の高御座と大楯を難波宮(大阪府大阪市中央区)に運んだ

 2月26日、難波宮を皇都と定めた

難波宮跡

 

結局、平城京へ戻る

 11月13日、甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた

 ⇒ 甲賀寺跡は国史跡名を「紫香楽宮跡 内裏野地区」といい紛らわしい

 翌天平17年(745)正月1日、紫香楽宮は新京と呼ばれ都とされた

 4月15日、流罪となっていた塩焼王を許して京に入ることを許可

 5月11日、平城京へ戻った

 ⇒ 甲賀寺で造立が始まった盧舎那

 仏は、結局、東大寺盧舎那仏像(「奈良の大仏」)として完成を見ることになる

 

 

第7章 聖武朝終盤

班田収授法

 聖武朝以前の7世紀後半には、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が定められ、以下の種類の班田が公民らに給されていた

 原則的に田租を納める必要がある

 - 口分田 ・・・ 人民
 - 位田・品伝 ・・・ 五位以上の官人(貴族)や品位を持つもの(皇族)で一代限り
 - 職田 ・・・ 大納言以上の太政官人や地方官人(田租はない)
 - 功田・賜田 ・・・ 功績があった者で平安時代には田租はなくなった

 ⇒ この時代の列島各地は、国造による支配から律令国家による支配(郡の前身にあたる評を設置)に切り替わっていく段階

 

墾田永年私財法

 養老7年(723)4月17日、三世一身法(さんぜいっしんのほう)により、許可のもとに開墾した土地は、3代までの私有化が認められた

 天平15年(743)5月27日、墾田永年私財法(こんでんえいでんしざいのほう)が定められ、許可のもとに開墾した土地の永久的な私財化が認められた

 これにより、中央の貴族や寺社はきそって土地の開墾を始め、また、有力農民も同様に土地の開墾をし、自分たちの土地を増やしていった

 ⇒ 荘園制の始まりと言われる

 

【余談】荘園制の展開

 9世紀になると、許可を得ずに開墾して私有地化することが横行し、各国の国司は見つけ次第それを収公して公領(国有地)にしていた

 墾田よりも公領の方が取れる税、つまり国司自身の収入も多い

 それに対して、農民たちは墾田を諸院諸宮王臣家と呼ばれる中央の貴族(国司よりも位が高い)に寄進して荘園とし、領主となってもらい、自分たちは現地の管理者として実権を握るようにした

 中央の貴族は国司よりも位が高いので、墾田が不法のものであっても国司は文句を言えなくなり収公される心配がなくなる

 有力農民にとっても中央の貴族にとっても旨みがあるので流行

 

廬舎那仏造営の詔

 天平15年(743)10月15日、聖武は紫香楽宮にて盧舎那仏の金銅像一体の造営を発願(廬舎那仏造営の詔)

 同年10月19日、紫香楽京に甲賀寺の地を開いたが、それには行基集団が協力

 ⇒ 聖武は天平12年(740)2月、難波へ行ったが、その途中、河内国の知識寺(柏原市大平寺2丁目に寺跡がある)の廬舎那仏を拝し、そのときの感動がこの造仏のきっかけになっとされる

 ⇒ 知識寺は平安時代も存続していたが、応徳3年(1086)の落雷で建物が倒壊して6丈の観音像が破壊され、以後は荒廃し、鎌倉時代に源頼朝の命によって観音寺(曹洞宗寺院として現存)に統合されたと伝えられている

 都が奈良に戻るとともに現在地で造立された

 天平勝宝4年(752)4月9日に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われた

 ⇒ 大仏造立には、銅499t、錫8.5t、金400㎏、水銀2.5tが使用された

 

天平の大地震

 天平17年(745)4月27日、この日、一晩中地震があり、三昼夜続いた

 美濃国では国衙の櫓、館、正倉、仏寺の堂や塔、人民の家が被害を受け、少しでも触れると忽ち倒壊した

 ⇒ このときの地震は美濃が震源であったと推定され、マグニチュード7.9との試算がされている

 余震は、5月1日から10日までの毎日、16日、18日

 5月の最後に「この月の地震の多発は異常であって、度々地面に亀裂が生じ、そこから泉水が湧出した」と特記

 余震はさらに続き、7月17日、7月18日、8月29日、9月2日

 翌年になっても、正月14日、29日、30日、6月5日、9月13日、閏9月13日(これは記載ミス?)

 ⇒ 廬舎那仏の造営がどの程度進んでいたかは分からないが、地震により倒壊した可能性が高い

 ⇒ 平城宮の宮門に首都の証である大楯を立てたのは天平17年6月14日

 

日本初の黄金の産出と貢進

 大仏の造営は続いていたものの、表面に塗る金については当時は国産せず、輸入して手に入れる必要があった

 ところが、天平21年(749)2月22日、陸奥守・百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)が小田郡で産出した黄金900両(約13㎏)を貢上した

 ⇒ 天平15年(743)10月15日の廬舎那仏造営の詔が発せられた時点で、黄金産出の情報は手に入れていたのではないか?

 4月1日には聖武は黄金産出を大仏に報告

 百済王敬福は、天然痘の流行で亡くなった郎虞の子で、敬福の孫には蝦夷との戦いで活躍した俊哲がいる

 敬福は、天平15年(743) 6月30日に陸奥守となる

 天平18年(746)4月1日には上総守に転任するが、9月14日には陸奥守に戻るという不自然な人事があった

 ⇒ 上総国が常陸国や上野国とともに親王任国になったのは天長3年(826)9月6日

 

大宰府の復活

 天平17年(745)6月5日、大宰府復活

 - 大宰大弐 ・・・ 従四位下・石川加美
 - 大宰少弐 ・・・ 従五位下・多治比牛養、外従五位下・大伴三中

 広嗣の乱のあとの天平14年(742)正月に大宰府は廃止されたが、翌天平15年12月に鎮西府を設置し、加美は鎮西府将軍として鎮西府の長官を務めていた

 

玄昉の没落

 天平17年(745)11月2日、玄昉を築紫の観世音寺の造営にあてた(左遷人事)

 ⇒ この頃の政権首班は橘諸兄(この年62歳)だが、のちに諸兄を蹴落とすことになる藤原仲麻呂(この年40歳)の権勢が上昇してきた時期にあたる

 11月17日、玄昉の封戸と財物を没収

 天平18年(746)6月18日、玄昉死去

 ⇒ 亡くなった当時から広嗣の祟りと言われている

 なお、玄昉と同じく広嗣に糾弾された過去を持つ吉備真備も仲麻呂に敵視され、天平勝宝2年(750)に筑前守に左遷となり、その後も苦難の人生を歩むが、最後に一発逆転の人生劇を演じる(次回述べる)

 

元正上皇の崩御

 天平20年(748)4月21日、太上天皇(元正)が崩御

 享年69歳

 足掛け25年間、上皇として君臨した

    

行基遷化

 668年、河内国大島郡に生まれる

 682年、大官大寺で出家(15歳)

 691年、受戒(24歳)、704年まで厳しい山岳修行に励む

 ⇒ この間、唐の玄奘三蔵の許で修行した道昭(629~700)に学ぶ

 704年、自宅を寺院に改造(37歳)

 ⇒ しばらくの間は私度僧として活動したが教線を拡大

 ⇒ 政府から弾圧され続け、聖武も当初は敵視していたが、やがて理解される

 743年、廬舎那仏像造営の勧進の任を与えられる(76歳)

 745年、僧官の最高位である大僧正(だいそうじょう)となる(78歳)

 749年2月2日、入滅(82歳)

 

聖武の譲位

天平感宝元年(749)7月2日、聖武は阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位

 ⇒ 聖武は1月14日に行基を師として出家しており、実質的には出家した日が退位と考えることもできる

この年は4月14日に天平から天平感宝(初の4文字元号)に改元し、7月2日に天平勝宝に改元している

 ⇒ 1年で2度の改元は他に例がない

 

孝謙朝初期の政権主要メンバー

 左大臣 正一位・橘諸兄

 右大臣 従二位・藤原豊成(武智麻呂の長男)

 大納言 従二位・巨勢奈弖麻呂

 正三位・藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)

 中納言 従三位・石上乙麻呂

 従三位・紀麻呂

 正四位上・多治比広足

 参議 正四位下・大伴兄麻呂

 従四位上・橘奈良麻呂(諸兄の子)

 従四位下・藤原真楯(房前の三男)

 従四位下・藤原清河(房前の四男)

 従四位下・石川年足(蘇我氏嫡流)

 

晩成の人・巨勢奈弖麻呂(なてまろ)

 巨勢氏の氏上(うじのかみ=トップ)となった人物

 672年の壬申の乱では、父・比等が大友皇子側として戦い流罪このとき3歳だった奈弖麻呂のその後は不詳

 神亀6年(729)の長屋王の変後の叙位では外従五位下に叙せられたがこのときすでに60歳

 天平9年(737)8月23日には造仏像司長官に任ぜられる

 ⇒ この年の3月3日、聖武は各国ごとに釈迦仏一体と脇侍菩薩二体を造り、大般若経の書写を命じている

 天平11年(739)、参議に任じられ70歳にして公卿となる

 天平15年(743)、中納言に昇り翌々年には太政官のナンバー2となる

 天平21年(749)、従二位・大納言となる

 天平勝宝4年(752)の大仏開眼時には東宮留守官を務める

 天平勝宝5年(753)3月30日薨去(享年84歳)

 

 

第8章 国分寺の造営

八幡神の登場

 養老3年(719)、日向・大隅の隼人が反乱を起こし、翌年、八幡神は「我行きて降伏すべし」と託宣

 八幡神を神輿に遷した八幡神軍は隼人を撃破

 天平3年(731)正月27日、八幡宮は官幣に預かる

 ⇒ ここまでの話は、神社の由緒にあって『続日本紀』には記述がない

 天平9年(737)4月1日、八幡(やわた)の神は伊勢・大神・筑紫住吉・香椎とともに新羅無礼の奉告を受けた(八幡の『続日本紀』での初見)

 ⇒ この年の2月15日に遣新羅使が帰朝し、新羅が我が国の言うことを聴かなかったことを聖武に奏上し、聖武は官人45名を集めて意見を聴いている

 

国分寺造営の詔と八幡宮

 天平13年(741)3月24日、聖武は恭仁京にて国分寺造営の詔を発する

 ただしその後、『続日本紀』には国分寺に関する記事がほとんど出てこず、この後の各地の国分寺の歴史に関しては、考古学方面からの研究が進んでいる

 天平13年(741)閏3月24日、「八幡神宮」に秘錦冠(ひごんのかんむり=新羅の宮廷製の錦を用いた冠)一つ、金泥で書いた最勝王経と法華経を各一揃、得度者10人、封戸から出させた馬5匹を献上し、三重塔一基を造営させた

 ⇒ 八幡宮(のちの宇佐八幡)は、国分寺と同様な待遇を受けたことになる

 

国分寺造営のきっかけ

 728年に夭折した長男の菩提を弔うために金鍾山寺(きんしょうさんじ)を建立

 金鍾山寺はのちに総国分寺(東大寺)となり良弁(ろうべん)が別当に就任

 ⇒ 良弁(689~773)は義淵に師事した法華宗の僧

総国分寺・東大寺

 741年の国分寺造営の詔が発せられ、全国で僧寺と尼寺の造営が開始されたが、造営費用は地方で負担したこともあり、スムーズには進まなかった模様

 詔によると、国分寺は「国家鎮護の寺」

 

仏のパワーで国を護る

 676年、天武天皇は諸国に遣いし、金光明経、仁王経を説かせた

 ⇒ この年、遣新羅使の大友連国麻呂が新羅から帰っている

 680年、金光明経を宮中と諸寺で説かせはじめた

 686年、宮中で100人の僧に金光明経を読誦させた

 692年、持統天皇は京師や畿内で金光明経を講説させた

 694年、金光明経100部を諸国に送り毎年一度供養することにした

 696年、金光明経を読ませるために毎年大晦日に10人得度させるようにした

 ⇒ 新羅でもこの当時、四天王寺を建立し唐の侵攻に備えた

国分寺の本名

 国分僧寺の本名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」

 国分尼寺の本名は、「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」

 ⇒ 金光明最勝王経・法華経・仁王経の3つが当時最強のお経とされていた

 

国分僧寺と尼寺の配置

 僧寺と尼寺は、歩いてすぐに行ける距離にあることが多い

 

国分寺の立地条件

 詔では国分寺は「国の華」とされ、「好所」に造るように示されている

 好所と言うのは、四神相応(しじんそうおう)の地

 北 ・・・ 玄武 = 黒 = 丘
 東 ・・・ 青龍 = 青 = 川
 南 ・・・ 朱雀 = 赤 = 湿地帯
 西 ・・・ 白虎 = 白 = 道

 国府に近いことと人の多さが適度な場所というのも条件

 

伽藍配置の例

 僧寺には七重塔が建立された(一部の国では五重塔だったとの説がある)

 武蔵国分寺の場合は高さ60m

 『続日本後記』承和12年(845)3月の条によると、武蔵国男衾郡の前大領・壬生吉志福正が承和2年(835)に雷によって焼失した塔の再建を申請し許可されており、発掘の結果実際に再建されたことが分かっている

 

 

まとめ

 14歳で皇太子となり、24歳で周囲の期待を背負って即位した聖武は、即位後の行幸も多く、意欲的な様子が伺える

 仏教を篤く信仰していた

 27歳のとき、待望の長男が誕生するが翌年に夭折してしまい、精神的なダメージを受けた

 29歳のとき、長屋王の変が勃発

 変の後、夫人の光明子が皇族以外で初めて皇后となった

 長屋王の変のあと、旱魃による凶作や大地震、天然痘の流行などが起こる

 天然痘の流行により藤原四兄弟をはじめとして政府の要人の多数が亡くなる

 それによる緊急的な人事も影響してか、大宰府にて藤原広嗣が挙兵したが鎮圧された

 広嗣の乱の収拾直後、聖武は5年間ほどの間、造宮を繰り返し転々とした

 聖武は遷都を繰り返しているさ中、廬舎那仏像の造立と国分寺造営を命ずる

 その直後、天平の大地震と言われる災害が発生し、聖武はさらなる精神的ダメージをくらう

 廬舎那仏増は運よく(?)国内から産金があったため無事に完成したが、この事業は国分寺の造営とともに民衆に大変な負荷をかけていた仏教への傾倒を深めた聖武はついに出家し、主上(天皇)の座を放り投げるようにして孝謙に譲位

 この頃から八幡神の力がクローズアップされるようになる

 

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