三重県の古代史

最終更新日:2023年7月25日

 

 三重県は、令制伊賀国と伊勢国を併せた範囲に紀伊国の東側が含まれます。本稿では、紀伊東側には言及せず、伊賀と伊勢の古代史について述べますが、伊賀と伊勢の大きな違いは、伊賀は中央に近く、古くから大和の文化が及びやすかった場所で、一方の伊勢は東海地方に属し、伊勢湾岸文化圏ともいえる尾張と同じ文化圏を形成していたという点が挙げられます。

 

目次

大和と伊賀との距離感

弥生墳丘墓

古墳時代前期

古墳時代中期

伊勢神宮とは

 

 

大和と伊賀との距離感

 伊賀の主要地域は、地図で見ると上野盆地という大きな盆地にすべて収れんされるように見えますが、河川の流れを見ると、北側の木津川本流や柘植川・服部川流域(伊賀市周辺)と南側の名張川流域(名張市周辺)にそれぞれ古代の核があったように思えます。

城之越学習館の展示パネルを撮影

 奈良盆地、つまり中央により近いのは名張市の方で、奈良盆地の後背地といえる奈良県宇陀市と名張市とでは、それぞれの市役所の間隔は直線距離で約18㎞しか離れていません。なお、名張市役所と伊賀市役所の間は直線距離で約14㎞です。

 大和と伊賀との近さを考える上では、大海皇子(天武天皇)が672年に吉野を脱出した際の日本書紀における詳細な記述が参考になります。

 大海皇子の出発は6月24日ですが、早朝ではありません。出発前に段取りを付けるために近臣たちを先遣させており、その中の逢臣志摩(あうのおみしま)が戻ってきて報告を聴いてから出発しています。出発当初、大海は徒歩でしたがすぐに馬を手に入れ、妻の鸕野讃良(うののささら=持統天皇)は、輿に乗せられました。その後、まとまった馬を手に入れてみな乗馬できたような描写になっていますが、輿がある以上、進行速度は遅かったと考えられます。大海皇子一行は、夜になっても進軍を止めず、夜半に国境を越え、伊賀国の隠(なばり)駅家に到着しました。

 隠駅家の場所は分かっていませんが、後の律令国家の駅家と同様なものがあったのでしょう。道はすでにあったわけですから、駅家相当のものがあってもおかしくありません。

 吉野に隠棲していたときの大海皇子の宮は、吉野町の宮滝遺跡の可能性がありますが、そこから大和と伊賀との国境まで直線距離で27㎞あり、そこから更に現代の名張市役所までは7.5㎞あります。実際の行程はそれよりも多くなりますから、45㎞と仮定して、仮に出発を正午、隠駅家到着が翌日2時とすると、14時間かけて45㎞進んだことになります。1時間当たり3㎞ちょっとですが、食事も落ち着いた休憩もありませんから相当きつかったと思います。

 この記述によって、伊賀という場所が大和から徒歩で1日で行くことも可能な場所であることが分かると思います(吉野ではなく桜井から伊賀はさらに近いです)。

 隠では、周囲の人びとに助けを求めましたが、誰も出てきませんでした。大友皇子の母は、伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)で、詳細は不明ですが、伊賀の有力者の娘と思われます。隠は、おそらく彼女の実家の勢力範囲だったのではないでしょうか。そのため、急に大海皇子が現れたのを知った地元の人びとは、当然それに味方することはしないでしょうし、反対に状況が分からない中で、大海皇子らを攻撃することもできません。静観するのが最良だったのでしょう。

 なお、大海皇子一行は、つづいて横川、伊賀駅家を経ますが、これらの比定地も不明です。伊賀の山中に至ったところ、郡司(実際には評司)たちが兵を率いて加勢に現れ、ようやくにして大海皇子の一行は軍隊の体裁が整いました。

 隠では味方がいなかったのに、同じ上野盆地内でも、北側の伊賀では地元有力者が応援に駆け付けたのです。このことから、既述したように、現在の名張市域と伊賀市域でそれぞれ別の勢力があったように思えるのです。

 大海皇子ら一行は、その後も休む間もなく進み続け、明け方に莿萩野(たらの)に着き、ここで吉野を出発以来、初めての食事を兼ねた休憩をします。16時間くらい食事なしで進み続けたようです。

 つかの間の休息の後、再び進みだした一行は、積殖(つむえ)の山口で高市皇子率いる軍勢と合流しました。大海皇子には多くの男子がいましたが、幼い子が多く、唯一長男の高市皇子だけが一軍を率いる将として期待できる子です。積殖の山口では、国道25号線に説明板が立っています。

積殖の山口にある説明板
現在の積殖の山口

 積殖の山口からは加太越えで伊勢へ向かいますが、そのルートは徳川家康が伊賀越えをしたのと同じようなルートになります。古代では、途中鈴鹿関があり、伊賀と伊勢とを結ぶ主要道でした。なお、積殖の山口から現代の亀山市役所までは直線距離で約18㎞です。

 

 

弥生墳丘墓

 伊賀では今のところ弥生墳丘墓らしきものは見当たりません。古墳時代以降、日本の中心になる奈良盆地に近いと言えども、実は奈良盆地内では弥生墳丘墓はほとんど造られていないため、それよりも東にある伊賀には西日本の墳丘墓の文化は及ばなかったようです。ただし、東海地方の文化圏である伊勢では、後期中葉から墳丘墓が出現するそうです(「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達」岩永省三/著)。しかし、その墳丘墓の詳細は不明です。

 伊賀・伊勢における弥生墳丘墓に関しては、私は以上のようにしか把握しておらず頼りない限りですが、もしもっと詳しくご存じの方がいれば、ご教示いただけるとありがたいです。

 なお、弥生時代の方形周溝墓は伊賀・伊勢ともに見つかっています。

 

 

古墳時代前期

 伊賀においては出現期古墳はないようで、古いものでも前期後半の築造です。しかし数・規模ともに特筆すべきものはないようです。

 伊賀を代表する古墳群として、名張市の美旗古墳群が挙げられますが、古墳群の中の首長墓で最初に築造された墳丘長92mの前方後円墳である殿塚古墳は、集成編年では4期とあるので前期末くらいの築造のように思えますが、名張市教育委員会のリーフレットには4世紀末とあり、中期初頭の古墳と認識されているようです。

 一方、伊勢は伊賀に比較すると多くの前期古墳があり、前方後方墳もあります。例えば、松阪市の西山古墳は、墳丘長43.6mの前方後方墳で、4世紀前半の築造です。その比較的近くには、向山古墳や筒野古墳(一志君塚)といった前方後方墳があります。

 おそらく、伊賀には前方後方墳はないと思われ、これを見ても伊賀と伊勢が文化的に異なることが分かるでしょう。

 

 

古墳時代中期

 伊賀・伊勢ともに中期は大型古墳が造られ、古墳造営が活気づいた時期に当たります。

稲用章作成(クリックで拡大します)

 

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石山古墳|伊賀市

 墳丘長121mを誇る三重県で3番目に大きな前方後円墳です。ただし、現状は石山古墳の乗る丘全体を広範囲にわたってフェンスが囲っており、墳丘に入ることはできず、また森の形を見ても古墳だと分かるようにはなっていません。

 昭和23~26年に京都大学によって調査され、出土遺物は京都大学が所有しています。京都大学総合博物館には石山古墳出土の見事な埴輪が並んでいます。

京都大学総合博物館にて撮影

 後円部墳頂には一つの土壙内に、3基の粘土槨が並行して安置されており、西槨・中央槨・東槨と命名され、これらは同時に埋葬されました。

城之越学習館の展示パネルを撮影

 主たる被葬者の中央槨は盗掘を受けており詳細は不明。中央槨と東槨は割竹形木棺。西槨は箱式木棺で、貴重な素環頭大刀が副葬されており、大量の腕輪形石製品が目につきます。腕輪形石製品のレプリカは、地元の城之越学習館に展示されています。

石山古墳出土の石製品のレプリカ(城之越学習館にて撮影)

 写真だと分かりづらいですが、写真右の鍬形石は大型のものです。隣の石釧は普通サイズなのでそれと比較してみましょう。

 


城之越(じょうのこし)遺跡|伊賀市

 ところで、石山古墳の周辺にはこの大型前方後円墳の登場の予兆のような古墳の築造はなく、中期になって突如現れた大型前方後円墳という印象があります。ただし、古墳の造営から少し先行する4世紀後半には、南西方向に直線距離で3㎞強の場所にある城之越遺跡にて、在地の有力者による水辺の祭祀が始まっていますので、石山古墳造営の母体となった勢力は存在した可能性があります。

城之越遺跡

 城之越遺跡では、4世紀後半から5世紀を盛期として「水辺の祭祀」が行われた形跡が見つかっており、近くには当時としては大型の掘立柱建物跡も検出されています。当時の支配者は、こういった湧水が豊富な場所などで水に対するお祀りをして、支配下の農民たちに水を配っていたのですが、それを水分(みくまり)といいます。

 


比自岐神社|伊賀市

 また、城之越遺跡よりも近い場所として、石山古墳が見下ろす比自岐小盆地の東側1㎞強のところにある比自岐神社の存在が気になります。

比自岐神社

 神社の由緒によると、主祭神は比自岐神で、比自岐神は、比自岐別(ひじきわけ)の祖神です。比自岐別という名前からしても4~5世紀に実在した人物であると想定できますが、『令集解』(りょうのしゅうげ)という9世紀に編纂された律令(養老令)の注釈書によると、比自岐別の娘は、垂仁天皇の皇子・円目王(つぶらめおう)に嫁ぎました。

 円目王は記紀には記載がありませんが、垂仁天皇の在位は、4世紀であると考えられるので、こういう伝承や既述した城之越遺跡の存在から、この地に大きな勢力が生まれる素地は十分にあったのではないかと考えられます。しかもその勢力は、早くからヤマト王権の影響下に入っていたのです。

 


大村神社|伊賀市

 さらに言うと、大村神社も気になる存在です。

大村神社

 主祭神は、大村の神と呼ばれ、神社の由緒では、垂仁天皇の子・息速別命(いこはやわけのみこと)のことなので、息速別命は天皇の命によってこの地の支配にやってきた人物の可能性があります。しかし、もしかすると大村の神は、本来は在地の有力者が神格化された存在で、息速別命の支配の結果、息速別命がそれに覆いかぶさってしまったのかもしれません。

 以上の2つの神社の由緒から、4世紀の頃にはかなりヤマト王権の介入を受けており、その結果、石山古墳という大型前方後円墳の築造や後述する美旗古墳群の築造に結びついたという歴史の流れを想定することができます。

 

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御墓山古墳|伊賀市

 読み方は「みはかやま」と「おはかやま」がありますが、私は「みはかやま」と音しています。

 さて、石山古墳の周辺には、それを継承するような大型前方後円墳は築造されません。河川流域でそれを探すと、直線距離で10㎞強の場所に築造された御墓山古墳が、同じ木津川の支流・柘植川流域の古墳として注目されます。

 御墓山古墳の墳丘長は、説明板には180mとありますが、伊賀市教育委員会は188mと公称しています。三重県最大の古墳で、中部・甲信・北陸地方の中でも最大の古墳です。関東地方まで含めようとすると、群馬県に210mの太田天神山古墳がありますから返り討ちに合います。

左側に前方部が隠れています

 古墳の乗っている丘を遠くから眺めると、森のどこまでが墳丘か分かりづらいですが、慣れてくると切れ目が分かってきます。駐車場もないですし、説明板もかなりやられているので、ウェルカム度はあまり高くないですが、地元の方の古墳愛を感じることができます。

前方部側のメインの登り口

 墳丘は2段築成ということですが、当時のデファクトは前方部を2段、後円部を3段に造ることなので、御墓山古墳もその可能性があります。現状見ることができる荒い測量図を見ると、後円部も2段に見えるのですが、3段だったんじゃないかなあ。

 墳丘に登るときに、たくさんの河原石が露出している場所がありますが、それらは葺石です。多くの人たちが昇り降りする場所は土が削れて、中に埋もれている葺石が出てきてしまうのです。

前方部墳端付近から後円部方向を見る

 墳丘に登るとその大きさに満足することでしょう。後円部墳頂が大きく抉れているのは、盗掘の跡です。後円部から前方部へ向かって左側のくびれ辺りには造出が見られます。反対側にはないので、確認してみましょう。

造出を下から見上げる

 発掘調査はされていませんが、表採された埴輪があります。それをもとに5世紀前半の築造というかなりアバウトな年代が設定されているわけですが、もっと遺物が見つかればさらに年代を絞り込むことができるでしょう。

 興味深いのは大彦の墓との伝承があることです。もし大彦が実在の人物だったとしても全然時代が合わないのですが、伊賀をめぐっていると阿倍氏の影が見え隠れするのです。阿倍氏は大彦の系譜上の子孫です。ですから、実際の被葬者は大彦を高祖としていた阿倍氏関係の人物ではないかと思います。阿倍氏に断定することは無いかもしれませんが、阿倍氏だった場合は、稲荷山鉄剣のオワケ臣と同祖になり面白いです。関東にも阿倍氏は繫茂しています。

 築造年代が大雑把すぎるのが難点ですが、5世紀前半頃の伊賀の古墳を眺めると、やはり美旗古墳群の存在が気になります。つづいて、美旗古墳群について見てみたいと思います。

 

92
殿塚古墳|名張市

 石山古墳の築造と同じ頃、その南西側では美旗古墳群の築造が始まります。上述した石山古墳・城之越遺跡・比自岐神社・大村神社、そして少し離れている御墓山古墳は、木津川本流域の勢力としてまとめることができます。美旗古墳群は、分水界のギリギリラインでの築造もありますが、名張川流域勢力です(稲用作成地図と睨めっこしてください)。

 既述した通り、美旗古墳群築造の端緒となった殿塚古墳は中期初頭の築造とされます。この地域も石山古墳の場合と同様、これまで大型古墳が無かった地域にいきなり92mの大型前方後円墳が築造されたのです。石山古墳と殿塚古墳との距離は約5㎞です。

城之越学習館の展示パネルを撮影

 発掘調査がされていないため詳細は不明ですが、台地の北端に位置し、周囲には周溝がめぐります。

 

23
ワキ塚1号墳

 殿塚古墳の北西側に3基の古墳があり(陪塚とする考えもあります)、その中のワキ塚1号墳は一辺23mの方墳で、埴輪や葺石を備え、発掘調査の結果、短甲や衝角付冑、それに石製品が出土しています。遺物は、城之越学習館に展示してあります。

 短甲は、長方板革綴短甲(ちょうほういたかわとじたんこう)という中期前半に見られるものです。

城之越学習館にて撮影

 その名の通り、長方形の鉄板を鋲ではなく、革紐で綴じているタイプです。上の写真を見ても鋲が打っていないのが分かると思います。

 首の部分を守る頸甲(あかべよろい)も綺麗な状態で出ているのは貴重です。

 なお、こういった甲冑はオーダーメイドと考えらえています。学習館の方の説明によると、一般的な短甲よりもちょっと大きめに造られており、これを着ていた人は大柄な人物だったのではないかということです。

 衝角付冑は、三角板革綴衝角付冑で、これは衝角付冑の中では初期モデルで、4世紀末頃から造られ始めています。

城之越学習館にて撮影

 こういった甲冑は在地で製造するものではなく、ヤマト王権から下賜されたものと考えるのが一般的です。しかも誰でも持てるものではないため、ワキ塚1号墳の被葬者はヤマト王権が褒賞するに値する働きをした人物であると考えられます。

 時期的には、ちょうど倭国は朝鮮半島へ軍事介入をしている時期ですから(好太王碑文による)、半島で武勇を発揮した人が被葬者かもしれません。

 23mの方墳からこのような遺物が出ているわけですから、単純に考えて、殿塚古墳にはもっと凄い遺物が眠っていそうです。

 

100
女良塚古墳

 殿塚古墳の次は、帆立貝形の女良(じょろう)塚古墳が築造されました。築造時期は5世紀前半です。

三重県名張市・女良塚古墳

 女良塚古墳は現在はフェンスで囲まれており、墳丘内に立ち入ることはできません。上の写真は南方から撮影したものですが、大きな森の中に墳丘が隠れていて、前方部が手前側になります。

 墳丘長は100mを誇り、帆立貝形としては、宮崎県西都市の女挟穂塚古墳(176.3m)、奈良県河合町の乙女塚古墳(130m)、群馬県太田市の女体山古墳(106m)につづいて、全国で4番目の規模になるのではないかと考えられます。

城之越学習館の展示パネルを撮影

 古墳は生き物ではないので性別はありませんが、女性が葬られている伝承があるのか、名称に「女」が付くものがあり、面白いことに帆立形古墳は大きいものから4基、すべて「女」が付くのです。その名称に反して、発掘調査が行われた帆立貝形古墳の出土遺物を見ると、武器や甲冑が多く見つかる傾向があり、武人的様相が濃厚ですからこのギャップは面白いです。

 名張市美旗市民センター歴史資料館には、女良塚古墳の後円部墳頂で見つかった家形埴輪片を元に2つの家形埴輪が復元されて展示してあります。

名張市美旗市民センター歴史資料館にて撮影

 首長墓系列という言葉あまり好きではないのですが、殿塚古墳の次の代の首長が女良塚古墳に埋葬されたと考えられます。通常は、次代の古墳が帆立貝形古墳になった場合は、その勢力の力がダウンしたと考える研究者が多いのですが、その考えで行くと、形状は帆立貝形になったものの墳丘長はむしろアップしていますから、これをどう考えればいいのか悩むと思います。

 私は一般的に言われている通り、帆立貝形の被葬者は武人的性格の人物だと考えており、既述したワキ塚1号墳の被葬者の伝統を引き継ぎ、5世紀前半のこの地の首長は、傑出した武人であったのではないかと想像します。100mの墳丘長は伊達ではありません。

  

111
宝塚1号墳|松阪市

 ここで伊勢の状況を見てみましょう。既述した通り、伊勢は伊賀と違って前期古墳がそれなりに築造されています。中期になっても各地で古墳の造営が盛んですが、伊賀と比べると大きさが小さいのです。伊勢最大の古墳はこの宝塚1号墳ですが、111mです。これ以上の大きさの古墳がないのです。

 

 宝塚1号墳は5世紀初頭の築造です。

 公園として整備されており、駐車場もちゃんとあります。墳丘に登ると、コンディションが良ければ伊勢湾を望むことができます。

 

 この古墳を有名にさせたのは、造出から日本最大の舟形埴輪が見つかったことです。ほぼ完形であったこともラッキーでしたが、他の舟形埴輪と違うのは、船の上にいろいろなものが置かれていることです。刀、儀仗が2本、そして王の場所を示す傘です。本物は、「松阪市文化財センター はにわ館」で見ることができますよ。

松阪市文化財センター はにわ館にて撮影

 写真だと伝わらないのですが、実物は結構大きくて驚くと思います。

 実際に発掘調査に携わった方から聴いたのですが、他に木製や布製のものも飾ってあったのではないかと囁かれています。確かに私たちがいつも見る埴輪は土製品ですが、何も土だけで造るという決まりはなく、手に入るもので様々に飾り立てた可能性もあるのです。有機物は溶けてしまって形跡を残さない場合がほとんどです。

 現地では造出部分に模造品の埴輪を並べて往時の様子がイメージできるようになっています。

 


 

90
能褒野王塚古墳|亀山市

 中期初頭の4世紀末には、北勢でも大型前方後円墳が現れます。亀山市の能褒野王塚古墳です。亀山市や鈴鹿市周辺は日本武尊伝承が豊富で面白い場所なのですが、能褒野王塚古墳は、宮内庁により日本武尊の墓に治定されています。したがって、墳丘に立ち入ることはできません。

 

 宮内庁が治定しているのにもかかわらず、現地に設置した亀山市の説明板がイカしています。「近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったと見られる」とハッキリ書いているのです。



 

伊勢神宮

伊勢神宮とは

 伊勢神宮は、有名な神社です。古代史好きの人からすると、出雲大社と並んで古代へのロマンを駆り立てる神社の双璧との認識があると思います。

 一般的に伊勢神宮と言った場合は、内宮(ないくう)と外宮(げくう)と通称される2か所の神社をイメージすると思いますが、正確には内宮と外宮のほか、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社を併せた125社の総称のことです(伊勢神宮公式サイトによる)。

 内宮は正式には皇大神宮(こうたいじんぐう)といい、外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)といいます。両宮は同格ではなく、皇大神宮が格上で、伊勢神宮の中心となります。さすがに125社をすべてめぐろうとする人は相当信心深い方か、かなりの神社マニアくらいで、内宮と外宮をお参りすることにより伊勢神宮にお参りしたと考えることが一般的です。両宮は直線距離で約4㎞ほど離れていて、歩いていけないことは無いですが、一般的な参拝客は車かバスかあるいはレンタサイクルを利用して移動します。

 参拝の順序は、外宮が先で内宮が後というのが習わしになっています。わざとこの逆でめぐるのも古代史好きとしては良い拘りだと思いますが、「郷に入れば郷に従え」が良いでしょう。

 なお、某旅行会社のあるコースの行程では、外宮を参拝した際は、別宮の多賀宮・土宮・風宮を参拝し、内宮を参拝する前にその徒歩圏にある猿田彦神社を参拝し、別宮の荒祭宮と風日祈宮を参拝したのちに内宮を参拝します。博物館や斎宮跡などの遺跡は一つも訪れず、その代わりに景勝地などに行きますが、古代史ファンではない一般観光客向けの伊勢神宮のツアーとしてはこの程度がちょうどよいでしょう。

別宮・多賀宮
別宮・土宮
別宮・風宮

 なお、現在は神宮と称される神社は日本中に沢山ありますが、単に「神宮」と呼んだ場合は、伊勢神宮のことを指します。伊勢神宮は、神宮のなかの神宮なのです。

 

外宮とは何か

 まずは外宮から紹介しますが、神社のことは、その神社が述べている公式の見解を紹介するのが一番だと思いますので、伊勢神宮の公式サイトから外宮についての紹介文を転載します。

 「伊勢市の中心部、高倉山を背にして鎮まります豊受大神宮は、豊受大御神をお祀りしています。豊受大御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神であり、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。鳥居をくぐり、玉砂利を踏みしめて緑につつまれた参道を歩くと清々しい気持ちに満ちあふれます。」

 この文章の中で、「豊受大御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神」というのがポイントです。その根拠を探していくと、古代丹後との関りが見えてきます。

 

外宮と古代丹後との関り

 丹後の現地講座では、丹後一宮の籠(この)神社を参拝します。籠神社宮司の海部氏の先祖はニニギ(神武天皇のひいおじいちゃん)の兄弟ですから、建国神話(天孫降臨)と絡めても興味深い神社ですが、それはそれとして、その摂社に真名井神社があります。

 

 真名井神社とか真名井と呼ばれる井戸は列島各地にありますが、ここの真名井神社は、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮と言われています。つまり、元伊勢です。ただし、その根拠は記紀に記されているのではなく、史料上の初見は平安時代です。

 記紀のリリースより1世紀近く後の延暦23年(804)にリリースされた「止由気宮儀式帳」によると、雄略天皇22年、天皇の夢枕に天照大神(あまてらすおおみかみ)が立って、丹波国比治の真名井に祀られている「ト由気太神」(「ト」は、草冠に寺)を自身の食事を供する担当として招けと告げました。

 それにより、伊勢神宮外宮に豊受大御神が祀られるようになったとされているのですが、籠神社摂社の真名井神社は、上述の「ト由気太神」の候補地の一つで、そこであることは確定はしていません。

 平安時代に記された史料ですから「後だしジャンケン」の可能性はあるものの、雄略天皇の時代(5世紀後半)というところが意外とリアリティで信ぴょう性がありそうです。その時期は、ヤマトにおいても三輪山での祭祀が本格的になることが考古学的に判明している時期で、現在の私たちがイメージするような神社の原型ができ始めた時期だと考えています。

 ただし、この話は天照大神の指示ですから、まずはこの天照大神という神様のルーツをしっかりと見極めないと、この話の真偽を確定することはできません。天照大神については後述します。

 それはそれとして、興味深いこととして、丹後半島にいた神が伊勢に招かれたという伝承が面白いです。

 丹後には200m近くある超大型古墳が2基築造されたほか、大型の古墳があり、遺物を見てもヤマト王権から優遇されていたことが分かるのですが、威勢が良いのは5世紀前半までで、5世紀後半には力が衰えています。雄略天皇は吉備と葛城をぶっ潰した天皇ですが、丹後の力も同様に削いでいるようです。

 雄略天皇の丹後勢力の削減政策と、その地にいた神を伊勢へ移動させているという話は何か関連がありそうです。

 

天照大神とは

 では、天照大神とはなんでしょうか。まずは、天照大神が祀られている皇大神宮(伊勢神宮内宮)について、こちらも伊勢神宮の公式サイトから紹介文を転載します。

 「およそ2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まります皇大神宮は皇室の御祖先であり、我々国民から総氏神のように崇められる天照大御神をお祀りしています。内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。」

 

 ポイントは、ルーツとしては第11代垂仁天皇の御代に創建されたということと、天照大御神(一般的には天照大神と表記)が皇室の御先祖であるという点です。そして、日本国民は古来より天皇家の末端に連なるとされていますから、天照大神が我々国民から総氏神のように崇められているという表現も当たっています。

 垂仁天皇の御代が2000年ほど前というのは、日本書紀に記載されている干支を機械的に西暦に変換した場合はそうなります。しかし、垂仁天皇が実在の天皇であった場合、古代史を研究する人たちは4世紀くらいの天皇であったと考えるのが一般的です。

 そうだとすると、4世紀の頃から五十鈴川のほとりに天照大神が祀られていたのでしょうか。それはあり得ません。ただし、五十鈴川のほとりに、皇大神宮のルーツとなる信仰が存在した可能性はあります。この辺は考古学的に証拠を見つけなければなりませんが、まだ私自身の調査が進んでいません。

 信仰は心の問題ですから、私は神社が述べる由緒はそのまま素直に信じて良いと考えています。しかしその一方で、歴史学の見地からはきちんと史料による検証が必要だと考えており、信仰とは別の次元で歴史を考えます。

 天照大神については様々な研究があります。日本人は実在した人物を神に祀るのが好きな人たちですが、私は天照大神に関しては、実在の人物ではなく、世界中どこにでもいる「太陽神」であるという理解を持っています。原型となるものは、弥生時代以前からあったと思いますが、それを具体的にアマテラスという名前で呼ぶことにしたのは、それほど古い話ではありません。

 強いてアマテラスのモデルになった人がいたと考えた場合は、持統天皇を挙げます。持統天皇は、孫の文武天皇を天皇にして、その後もその系統が天皇を継ぐという万世一系を願った人でした。アマテラスも孫のニニギを天孫降臨させました。子ではなく孫が天皇家の祖となる設定なのです。この辺に類似性を感じます。

 天照大神は、伊勢神宮の公式サイトの紹介分からも分かるように、国家の最高神というイメージがあると思いますが、4世紀末から5世紀初頭の頃、「好太王碑」に記されている通り、倭国は高句麗と戦って大負けしました。その際、自国の弱さを痛感し、かなりの危機感を持ったはずです。溝口睦子氏によれば、それを機に敵国の神話を導入し、国家の最高神を設定しました。それが、高皇産霊(タカミムスヒ)です。日本の神話に北方アジア系の神話が多分に含まれているのはこのときの作業の結果です。

 最高神を設定するとともに神話を創りました。神話によって挙国一致体制を作り、国家的危機を乗り越えようとしたのです。その時代は、現代人からすると古代のことですからショボそうなイメージがあるかもしれませんが、明治天皇を神として君臨させて国難を乗り越えようとした明治維新のような時代の雰囲気があったのかもしれません。

 冷静に日本書紀を読むと、天照大神より高皇産霊の記述の方が芯がしっかりしており、高皇産霊が中心であった神話が先にあって、日本書紀が完成する時期に近いころに天照大神を造り、それを最高神にすり替えた形跡が見て取れます。編集作業が少し雑でボロが見えるのです。

 

皇大神宮の創建

 実は古代史マニアの間では有名な話ですが、皇大神宮の創建年は、史料で確認することができるのです。続日本紀にちゃんと書いてあります。すなわち、文武2年(698)12月29日条に、「多気大神宮を渡会郡に遷す」とあるのがそれです。

 伊勢神宮は、おそらくこのことには言及しないと思いますが、史料上ではこの日が皇大神宮、つまりは伊勢神宮の創建記念日です。

 筑紫申真氏は、多気大神宮とは、皇大神宮の別宮の瀧原宮のこととします。内宮から直線距離で29㎞も離れた山の中にある「遥宮(はるかのみや)」と呼ばれる瀧原宮は、伊勢神宮の公式サイトでは、「元伊勢とも伝えられる」と記されていますが、「伊勢国風土記」の逸文には、倭姫が船に乗って渡会の上河に上り、瀧原神宮を定めたとあります。また同サイトには、「御船倉(みふねくら)を有するなど他の別宮と異なる点が多々あります」と特記しており、事実、内宮、外宮に次ぐ格式を誇っており、その社域は広大で、内宮や外宮に匹敵します。ただの神社ではないですね。

 天照大神を奉じた倭姫が各地をめぐって最終的に皇大神宮にたどり着いたという話は、日本書紀の垂仁紀には詳しく述べられておらず、そこでは倭姫命が大神が鎮座する地を求めて、「菟田筱幡(うだのささはた)から近江国に入り、東のかた美濃へ廻り、伊勢国に至る」とあるだけです。ただし、後世にはそのルートは具体的になり、延暦23(804)に皇太神宮の宮司・大中臣真継(おおなかとみのまつぐ)らが神祇官に提出した解文(げぶみ=報告書)である「皇大神宮儀式帳」によると、三輪山の麓にあったと思われる美和乃御諸原宮を出て、13か所に立ち寄り、最終的に今の皇大神宮にたどり着いています。ただし、その中に瀧原神宮はありません。

 では、この瀧原神宮が遷座する前の皇大神宮の場所にはどのような神様が祀られていたのでしょうか。五十鈴川や宮川流域の地方では、持統紀によると、伊勢大神が祀られていたことが分かります。伊勢大神は太陽神ではなく、あらゆる自然現象を神格化したものです。外宮もそうですし、列島各地には風や雷などを祀っている神社は多いですが、そういった自然のものから太陽だけを抜き取ったのがアマテラスのルーツです。そして、そのアマテラスが現在のように天皇の先祖神として人格を与えられたのは、天武天皇あるいは持統天皇の時代と考えられます。

 天照大神を祀る皇大神宮が7世紀後半の創建だとすると、既述した雄略天皇の御代に外宮が創建されたという話は時代が合いません。

 神社の歴史を調べると、得てしてこういう結果になりますが、こういうこんがらがった歴史を紐解いて、自分なりの古代史を描くのが、古代史を楽しむ醍醐味と言えるでしょう。

 なお、余談ですが、社殿の千木の形状や鰹木の数の奇数・偶数で祭神が男か女か分かるという話がありますが、それは俗説で、そんなルールは存在しません。鰹木は平安時代には、大社は8本、中社は6本、小社は4本というふうに決まっていたのですが、その後その決まりはグダグダになり、例えば現在の皇大神宮は10本、豊受大神宮は9本です。

 ※上述の皇大神宮が瀧原宮の遷宮によって生まれたという説とは別に、瀧原宮は豊受大神宮の元になったという研究もあります。今はまとめている時間がないため、また後日整理して記述します。

 

参考文献

上記の内容は意が尽くしきれていませんので、きちんと理解したい方には以下の書籍がおすすめです。

・『アマテラスの誕生』 筑紫申真/著 2002年(原著は1962年)
・『アマテラスの誕生』 溝口睦子/著 2009年
・『伊勢神宮と出雲大社』 新谷尚紀/著 2009年
・『伊勢神宮の謎を解く』 武澤秀一/著 2011年

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