秋田県・山形県の古代史

最終更新日:2023年7月13日

 

目次

山形県・秋田県の縄文時代

山形県の古墳時代

秋田県の古墳時代

出羽国の展開

元慶の乱と出羽国府の移転

 

 

山形県・秋田県の縄文時代

縄文の女神 

 山形県の縄文時代を語る上では、全国で5つしかない国宝土偶の一つである「縄文の女神」をまずは挙げるべきでしょう。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土「縄文の女神」(山形県立博物館にて撮影)

 縄文の女神が出土した山形県舟形町の西ノ前遺跡は、中期の集落跡です。平成4年6月8日から10月6日まで発掘調査が行われ、長さ10m以上のいわゆるロングハウスと呼ばれる大型住居跡3棟を含む竪穴住居跡が9棟、フラスコ状土坑60基を含む200基以上の土坑、それに土器捨場などが検出されました。

 縄文時代というと土偶が当たり前に見つかると思っている人もいるようですが、実は土偶はあまり見つからないものなのです。でもこの遺跡では土偶が多く見つかり、その白眉が「縄文の女神」だったのです。頭、胸、腰、両脚と5つに割れた状態で見つかりましたが、展示してあるものを見ればわかる通り、完形に復元できたわけです。

 国宝指定には、附(つけたり)として一緒に見つかった「土偶残欠47箇」も含まれます。その中にも縄文の女神に似ているデザインのものがあります。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土(山形県立博物館にて撮影)

 また、村山市土生田遺跡から出土した土偶も似た形状です。

山形県村山市・土生田遺跡出土(山形県立博物館にて撮影)

 

大湯環状列石

 つづいて、秋田県にて山形県の「縄文の女神」に対抗できるだけのカリスマを探すとなると、土偶ではありませんが、私個人的にはやはり大湯環状列石の「どばんくん」を挙げずにいられません。

秋田県鹿角市・大湯ストーンサークル館にて撮影

 「どばんくん」は、土版と言われる遺物で、何に使ったものなのかは分かっていません。土版という遺物自体は珍しくありませんが、これは子供が数を覚えるための知育玩具説まである大変珍しいデザインのものです。どーもくんではありませんよ。

 大湯環状列石は、秋田県を代表する縄文遺跡で、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」にも登録されています。野中堂環状列石と万座環状列石という2つの環状列石からなる特別史跡です。特別史跡になっている縄文遺跡は、他に三内丸山遺跡と長野県の尖石石器時代遺跡、それに千葉県の加曽利貝塚しかありません。

秋田県鹿角市・大湯環状列石

 環状列石の構築に使用した石は緑色に拘っています。今は黒ずんでしまっていますが、これを造った人たちは色に対する拘りがあったようです。

 ちなみに、大湯環状列石からも見える神奈備型の黒又山という山があります。地元ではクロマンタとも呼ばれています。

大湯環状列石から見る黒又山

 この山は人工ピラミッド説もあるので、「ムー」的な人たちの間では有名なのですが、実際に発掘した方に話を伺ったところ、見つかった遺物は弥生土器だったそうです。「続縄文ではなくて?」と尋ねると、即「弥生!」と返ってきました。

黒又山(本宮神社)登山口

 ただし、縄文人に直接聞いたわけではありませんが、山の形状的には縄文人が好みそうですし、大湯環状列石から近い場所にありますので、縄文時代にも何かがあったのではないかと想像しています。登山道も整備されていますし、頂上へはサクッと登れますよ。

 

伊勢堂岱遺跡

 残念ながら山形県内には世界遺産の縄文遺跡はないのですが(円筒土器文化圏ではないですし、そもそも山形県は「北東北」ではありませんから仲間には入れません)、秋田県にはもう一つあります。北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡です。

北秋田市・伊勢堂岱遺跡

 こちらは4つの環状列石から構成されています。大湯環状列石も非常に景観の素晴らしい場所ですが、こちらもまた素晴らしいです。伊勢堂岱縄文館から遺跡まで歩いて行くときに渡る川には鮭も遡上してくるという自然の優れた場所です。

 石の並べ方は、青森市の小牧野遺跡と同じ、小牧野式配列と呼ばれる方式で、縦向きと横向きの石を交互に配列しています。青森市とは少し離れているわけですが、同じ文化を持っているところが興味深いです。大湯環状列石とは違って、色とりどりの石を使っているのも特徴でしょう。

伊勢堂岱遺跡の小牧野式配列

 伊勢堂岱縄文館では北秋田市内の遺跡から出土した土偶が集結しており、土偶好きの方にはとくにお勧めしたい施設です。

北秋田市・伊勢堂岱縄文館にて撮影

 中央に鎮座ましますのが、伊勢堂岱遺跡から出土した板状土偶です。この遺跡のシンボルですよ。

 それと、秋田県立博物館は旧石器時代や縄文時代の展示が素晴らしいので、ここもまたお勧めです。

秋田県立博物館にて撮影

 個人的には優しい味の味噌ラーメンが食べられる食堂も好きです。

秋田県立博物館内「軽食こまち」にて撮影

 話を戻しますが、秋田・山形では、晩期の土偶にはこのタイプのものが目につきます。

山形県真室川町・釜淵C遺跡出土(複製・山形県立博物館にて撮影)
秋田県湯沢市・鐙田遺跡出土(秋田県立博物館にて撮影)
秋田県湯沢市・鐙田遺跡出土(秋田県立博物館にて撮影)

 上の3つはポーズが一緒で、全体的に似た雰囲気なのですが、髪形が違うんですよね。

 東北の晩期の土偶というと遮光器土偶を思い浮かべると思いますが、遮光器土偶のブームが過ぎたあとにはこういう「結髪土偶」が造られます。土偶は人間、もっというと原則として女性を表しているはずですが、デフォルメが凄いのが普通です。この結髪土偶も当然デフォルメが凄いのですが、そんな中でも当時の女性たちの間で様々な髪形をして楽しむお洒落があったのかなと想像するのも楽しいです。

 土偶は本当に面白いですね。

 

山形県の土器型式

 山形県の土器型式は、下図の説明にあるとおり、おおむね宮城県域や福島県域と同じです。つまり、前期から中期は大木式土器文化圏に入ります。ただし、日本海側の遊佐町周辺は三内丸山遺跡に代表される円筒土器文化も流入しており、中期後半には南の新潟方面の火焔型土器も入ってきています。晩期にはもちろん亀ヶ岡文化に覆われます。

山形県立博物館にて撮影
山形県遊佐町・柴燈林(さいとばやし)遺跡出土の火焔型土器(松山文化伝承館にて撮影)

 

 

山形県の古墳時代

 お隣の宮城県では、4世紀後半までにはほぼ県内全域に古墳文化が浸透し、前方後円墳を始めとする古墳が築造されました(詳しくは、宮城県の古代史のページをご覧ください)。

 それでは、山形県の様相はどうでしょうか。まずは県内の古墳の編年表をご覧ください。

山形県立博物館にて撮影

 宮城県と比べると全体的に寂しい印象がありますが、地域によっては古墳の造営が盛んだった場所があります。それは、図でも分かる通り、内陸の米沢盆地や山形盆地です。

 それに比べると、日本海側の庄内平野はほとんど古墳が築造されていません。この表に記されているのは鶴岡市の菱津古墳のみですが、すでに墳丘がないため形状や大きさは不明で、明治時代に見つかったという5世紀半ば頃の凝灰岩製の組合式石棺が残っているだけです。石棺は現在、鶴岡市の大山小学校の敷地内にある新民館に保存され、年に数回公開されているそうです。しかし、注目すべきこととして、その石棺はどうやら長持形石棺のようですから、5世紀半ばの時点で、一時的にヤマト王権との関係の深い大きな力を持った人物が鶴岡市内を支配していた可能性があります。

 つづいて、もう少し詳しい編年を見てみましょう。

うきたむ風土記の丘考古資料館にて撮影

 最初にお見せした県立博物館に展示されている編年と比べると、終末期の考え方がだいぶ違います。こちらの方が新しい考え方のようなので、こちらを参考にした方が良さそうです。

 では、古墳が多く造られた米沢盆地と山形盆地の築造状況を見てみましょう。

 4世紀後半には、米沢盆地にて山形県の2大古墳ともいうべき、稲荷森古墳と天神森古墳が築造されました。米沢盆地には会津盆地から文化が伝播しやすい傾向にあり、古墳文化も会津方面から流入してきたと言われています。

 南陽市にある稲荷森古墳は、墳丘長96mの大型前方後円墳です。

 

 後円部3段築成で、いかにもヤマトの古墳と言ってよいような外見をしていますが、前方部の長さが34mしかなく、この時期の大型前方後円墳としてはちょっと変わった形状をしています。前方部は段築がないのですが、墳端の方が壇のように造られていて、そこだけ2段築成に見えます。

稲荷森古墳の模型(山形県立博物館にて撮影)

 葺石が施されず、埴輪もありませんが、後円部からは供献されていたと思われる底部穿孔壺が見つかっており、埴輪を並べる前に列島各地で流行した底部穿孔壺による祭祀がこの地域には少し遅れて伝播していたことが分かります。変わっていることとしては、周溝が検出されていないことです。たまに、塚状の物体があっても周溝が見つからないと「周溝がないから古墳ではない」と言い切ってしまう研究者がいますが、そういう頭が固い人はこの古墳をどのように評価するのでしょうか。

 主体部に関しては未調査のため不明ですが、木棺直葬と推測されています。おそらく、周辺の古墳の調査結果からの類推ではないかと思われます。

 また、川西町にある天神森古墳は、墳丘長75.5mの前方後方墳で、前方後方墳とすると東北地方では有数の規模で、東北を代表する前方後方墳である福島県郡山市の大安場1号墳の83mに匹敵する大きさです。東北地方は広いため、あまり関連はありませんが、両古墳は築造時期も近いです。

天神森古墳の模型(山形県立博物館にて撮影)

 天神森古墳も稲荷森古墳と同様、前方部墳端部分が壇のようになっています。

 築造時期に関しては、うきたむ風土記の丘考古資料館の編年を見ると、稲荷森古墳に先行する4世紀中葉頃としています。列島各地の状況を見ると、前方後円墳よりも前方後方墳の方が早く築造されるので、それが当たっているとすると、米沢盆地の場合もそのケースに当てはまることになります。

 下図は米沢盆地の古墳の分布図ですが、各勢力ごとに前方後方墳が構築されているケースが多く、おそらくその勢力の最初の首長墓は前方後方墳であるのではないでしょうか。

うきたむ風土記の丘考古資料館にて撮影

 そういったところも、列島各地の動向と同様です。

 山形県内には大きな群集墳も存在し、米沢市にある戸塚山古墳群は、200基ほどの古墳からなります。標高356mの戸塚山の山頂には、墳丘長54mを誇る5世紀半ばに築造された前方後円墳の139号墳があり、139号墳の築造のあと、山麓までを含めて多くの古墳が造られたのです。

 前方後方墳の天神森古墳の北西側にある下小松古墳群も200基ほどの古墳からなります。その中には20mほどの小型の前方後円墳が16基あり、後期に小型前方後円墳が大量に造られる地域の一類型として興味深いです(そういった場所としては千葉県が有名です)。

 坊主窪1号墳は、円墳からなる坊主窪古墳群の中で唯一の前方後円墳で6世紀初頭の築造です。墳丘長は26.5mしかありませんが、東北地方内陸の前方後円墳としては最北に位置する古墳です。

 このように意外とたくさんの群集墳があることも山形県の特徴と言えるでしょう。ところが、上掲の表を見ても分かる通り、終末期(7世紀)に入った頃、突如として古墳の造営が止みます。しかし、終末期後半になると、米沢盆地内でまたいきなり造墓活動が活発化するのです。何を思ったのか、古墳文化人が再び押し寄せてきたわけです。そしてこの造墓集団が、8世紀初頭に出羽国の一部に編入される置賜郡の住民の祖となると考えられます。

 阿久津2号墳は、7世紀後半に築造され、7世紀末に追葬が行われた径22mの円墳です。

阿久津2号墳

 横穴式石室は、羨道と玄室からなる一般的なプランで、全長は4.9mです。ただし、羨道入り口部分には、ハの字に開く前庭部が設けられています。

阿久津2号墳の横穴式石室

 なお、岩手県や青森県では、7世紀以降は末期古墳が活発に造られます。末期古墳は、エミシの古墳ですが、山形県内では確実に末期古墳と分かる例はないようです。ただし、庄内平野には調査されていない謎の小円墳群がいくつかありますので、それらが末期古墳である可能性が残されています。

 

 

秋田県の古墳時代

 それでは、秋田県の古墳時代を見てみましょう。では、まずは古墳編年を・・・と言いたいところですが、秋田県には、古墳はほとんどないのです。現在、秋田県で唯一墳丘が残っている古墳と言われているのが、鹿角市の三光塚古墳です。

秋田県鹿角市・三光塚古墳

 ただし、詳細が分かりません。秋田県内には末期古墳は多いと聞きますが、三光塚古墳は末期古墳として見るには、少し大きいように見えます。秋田県の古墳に関しては、今のところ私はこれ以上語ることはできません。無念。

 ちなみに、大湯ストーンサークルから車ならすぐの場所にありますが、さすがにクラツーで案内したことはありませんでした。ただし、AICTでは行っていますよ。大湯ストーンサークルを訪れる人は多いと思いますが、この古墳を見に来る人はかなりのマニアです。

 

 

出羽国の展開

越後国内に出羽郡が置かれる

 令制出羽国の範囲は、大雑把に言って今の山形県・秋田県です。でも、歴史的に見ると、元々は越国(こしのくに)の延長線上の一部でした。

 越国が成立した時期は不明ですが、越国が三分割されて越前・越中・越後になったのは、持統6年(692)からさほど遡らない時期です。越後国が発足した際は、沼垂郡と石船郡の2郡だけで、それが大宝2年(702)に越中国から四郡(頸城・魚沼・古志・蒲原)を譲り受け、越後国の体裁が整いました。

新潟県立歴史博物館にて撮影

 645年の大化改新以降、政府は東北地方の新たに支配を行う場所に城柵を置き、支配が安定した後に郡(評)にするという政策を取りました。『日本書紀』によると、大化3年(647)に渟足柵(ぬたりのき=新潟市内に比定)、翌大化4年(648)に磐舟柵(いわふねのき=村上市内に比定)を設置し、さらに斉明天皇4年(658)には、都岐沙羅柵(つきさらのき)を設置しました。

 この3つはどれも遺跡が見つかっておらず、都岐沙羅柵に至っては大体の場所すら研究者の間で考えが一致していません。ただし、日本書紀によれば、この年から足掛け3年、阿倍比羅夫が日本海側を北海道まで遠征しているので、このプロジェクトと関連して造営された城柵であると思われます。磐舟柵よりもさらに先で、水軍の拠点になりそうな地形を山形県域で探すと、庄内地方の最上川河口(今の酒田市)に都岐沙羅柵が置かれたのではないかと思います。

 なお、日本書紀の書きっぷりを見ると、比羅夫の北海道遠征は、1回の遠征の記事が重複して記載されてしまったように見えるので、本当に3年間に渡って行われたかどうかは分かりません。

 郡の建置の前に城柵を造営するというセオリーからすると、渟足柵と沼垂郡がセット、磐舟柵と石船郡がセットになります。その2郡が建置された時期は分かりませんが、斉明天皇4年(658)の比羅夫の遠征より前だと考えます(正確に言うと、郡という名称は701年以降に使われ、この時代はまだ評です)。

 『日本書紀』によると、天武天皇11年(681)4月22日、越の蝦夷・伊高岐那(いこきな)らが俘虜70戸をもって一郡を建てることを申請して許されています。その場所に関しては、上述の都岐沙羅柵との関連で、酒田市周辺、後に正式に発足する出羽郡の前段階の行政区画ではないかと考えます。つまりは、正式な郡ではなく、権郡(仮の郡)なわけです。東北地方では法的に郡としての要件を満たさない仮の郡という特殊な行政区画が置かれることがあります。

 その後、『続日本紀』によると、元明天皇の和銅元年(708)9月28日に正式に出羽郡を建置しました。このとき、出羽郡は越後国の最北端の郡でした。

『古代東北統治の拠点・多賀城』(進藤秋輝/著)より転載

 

律令国家初の蝦夷征討と出羽国の建置

 郡を設置したということは、その周辺の支配が安定したと政府が判断したということなのですが、その翌年にはエミシが反乱を企てたとして、3月5日に陸奥・越後の蝦夷を討つための征討軍が出陣しました。

 将軍は、陸奥鎮東将軍・左大弁・巨勢麻呂(こせのまろ)、 征越後蝦夷将軍・民部大輔・佐伯石湯(さえきのいわゆ)、 副将軍・内蔵頭・紀諸人(きのもろひと)です。征討軍が陸奥と出羽(このときはまだ越後)の二手に分かれて侵攻するのはこの当時の基本パターンです。巨勢麻呂には副将軍が明記されていませんが、普通に考えればいたはずです。

 征討軍が現地でどのような戦いをしたのかはまったく記録がなく一切不明ですが、同年8月25日には軍事行動を終えて都に戻ってきました。この時はまだ平城宮は造っている最中で、諸将は藤原宮から出陣し、藤原宮に戻ってきたのです。

奈良県橿原市・藤原宮跡

 一般的な説明としては、出羽郡を建置したことによって支配下に置かれた現地のエミシの不満が爆発して反乱に至り、それを政府が鎮圧したという話がなされます。しかし、私は違う可能性を考えています。

 このときの蝦夷征討は、律令国家として初の蝦夷征討ですが、私はデモンストレーションを兼ねた軍事演習のような軍事行動ではなかったかと思っているのです。律令国家としては、軍隊を動かす法律はできたものの、実際に運用してテストしてみないと、いきなりぶっつけ本番でやったら慌てるかもしれません。今後、新羅などの外国と戦う可能性もありますから、予行練習は必要です。その頃、平城宮の造営が急ピッチで進められており、正直、普通に戦争するだけの予算は割きたくないはずです。遷都を前にして、元明天皇、ひいては藤原不比等の威信はこの軍事行動によって高まったはずです。

 同年9月には、29歳の房前が東海道と東山道へ視察に赴き、翌和銅5年(712)9月23日には、出羽郡を出羽国に昇格させ、つづいて10月1日には、陸奥国の最上郡(山形市周辺)と置賜郡(おいたむ/おきたま=米沢市周辺)を出羽国に併合させ、出羽国の体裁を整えました。

 しかし、この時の出羽国府(出羽柵)の場所は判明しておらず、それらしい候補になる遺跡もありません。状況的には、庄内平野のどこかに置かれたと思われますが、分かりません。酒田市には城輪柵跡という遺跡がありますが、これはもっと後の時代の遺跡ですので後述します。

 なお、置賜郡にも城柵が置かれていたことが推定されています。『日本書紀』の持統天皇3年(689)1月3日、務大肆・陸奥国優キ(山+耆)曇郡の城養蝦夷(きこうのえみし)の脂利古(しりこ)の子・麻呂(まろ)と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許されたという記事があります。城養蝦夷とは、字面の通り城柵によって生活費を保証されている蝦夷ですので、この当時、置賜郡に城柵が設置されていたことが想定されるわけです(小さい郡の場合は、郡内に城柵が無いこともありますが、置賜郡は広域なので、郡内に城柵があったと考えます)。

 ただし、それに該当する遺跡は見つかっていません。なお、脂利古は務大肆(むのたいし)という位階を冠されていますが、これは天武天皇14年(685)に制定された冠位四十八階のなかの31階目で、脂利古は蝦夷であっても国家の官人に連なっていた人物であることが分かります。

 郡や国といった「入れ物」を造ったら、そこに入れる「人間」を送り込みます。これを柵戸(さくこ)と言います。出羽の柵戸には、和銅7年(714)10月2日、尾張・上野・信濃・越後などの200戸を移住させ、その後、養老3年(719)までの間に、合計800戸送り込んでいます。1戸25人で計算した場合は、2万人もの大人数です。

 なお、出羽では、一部地域を除いて一時的に7世紀中葉以降の住居跡がほとんど見られなくなります。そしてその後の8世紀初頭に移民政策が行われたことから、これ以降に人口が復活した地域の人びとは、このときの柵戸の子孫でしょう。

 

出羽から北海道、そして沿海州との繋がり

 養老2年(718)8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷87人が1000頭の馬を貢納して位を授かりました。87人という数と言い、1000頭という馬の数といい、とても大規模な貢納で、彼らが実際に平城宮までやってきたとしたら物凄いイヴェントです。渡嶋というのは北海道南部のことを指します。

 養老4年(720)正月23日、渡島の津軽の津司(つのつかさ)である諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨(まつかつ)国(渤海国のことでしょう)に遣わして、その風俗を視察させました。渡嶋が北海道だとすると、渡島の津軽の津司の意味が通じなくなりますが、ともかく、津司という正式な役職があったかは分かりません。ただ、鞍男は諸君という君姓を持っているため、日本政府に繋がる北方の有力者の一人でした。

 698年には沿海州で渤海国が建ちましたが、日本との間にはまだ国交はありませんでした。そのため、日本としては国同士の付き合いを始める前に、北方情勢に詳しい諸君鞍男らを派遣して様子を見たと考えるのが素直でしょう。なお、この7年後の神亀4年(727)には、初めて渤海使が漂着の結果でしたが出羽国にやってきており、その後日本と渤海国は仲良くなります。

酒田市立資料館にて撮影

 

陸奥の2度の反乱事件と出羽の対応

 養老4年(720)9月28日、陸奥国が「蝦夷が反乱して、按察使・正五位下上毛野広人(かみつけののひろひと)を殺害した」と言上し、早速翌日、征討メンバーが発表されました。

  - 持節征夷将軍 ・・・ 播磨按察使・正四位下の多治比縣守
  - 副将軍 ・・・ 左京亮・従五位下の下毛野石代
   他に軍監二人、軍曹二人
  - 持節鎮狄将軍 ・・・ 従五位上の阿倍駿河
   他に軍監二人、軍曹二人

 この事件は陸奥側で発生していますが、例によって軍を二つに分けて、出羽方面にも軍勢を向かわせています。持節征夷将軍が陸奥方面に、持節鎮狄将軍が出羽方面に向かったのです。戦術上、出羽方面にも軍勢を向かわせるわけで、出羽方面には敵がいなかったかもしれず、翌年の多治比家主の言上からすると、出羽方面の蝦夷はむしろ朝廷に協力的で、彼らを併せた軍勢で、陸奥の蝦夷を側面から攻撃したのかもしれません。

 なお、持節(じせつ)というのは、天皇から節刀を授かっていることを表しており、それを持っているということは戦場では天皇の代理であり、部下に対する生殺与奪の権限を持つことになります。戦場においては、この二人の将軍には絶対服従なのです。

 ともかく、事件発生から約7か月後の養老5年(721)4月9日、多治比県守・阿倍駿河らが帰還しましたが、今回も現地での戦いの内容については一切記録がなく分かりません。しかし、ちょっとタイミングが遅いものの、翌養老6年(722)4月16日には、蝦夷や隼人を征討した将軍以下の官人と征討に功績のあった蝦夷や通訳の者に勲位を授けていますし、その年の9月17日には、出羽国司・正六位上の多治比家主が蝦夷ら52人に褒賞するように言上しています。上述したように蝦夷のなかでも、朝廷側について戦った者がいたのでしょう。

 聖武天皇が即位した直後の神亀元年(724)3月25日、陸奥の海道の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)の佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺害しました。前回の事件から4年しか経っておらず、陸奥の情勢は不穏なままだったのです。

 朝廷は、大将軍・藤原宇合(ふじわらのうまかい)と副将軍・高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)を現地に派兵しましたが、このときの将軍名がやけにシンプルで、かつ陸奥方面と出羽方面の両方に向かわせたわけでもないようです。

 

出羽柵の大幅な北進

 少し時間が経ちますが、天平5年(733)には出羽柵を秋田村高清水岡(秋田市)へ移転しました。現在見られる秋田城跡がそれです。当初の出羽柵が庄内地方にあったとすると、一気に100㎞くらいの北進になります。この当時、陸奥の国府は多賀城でしたから、陸奥と出羽で、緯度を見るとかなりバランスが悪くなってしまいました。大丈夫なのかな?と心配になります。

秋田市・出羽柵(秋田城跡)

 天平9年(737)には、陸奥と出羽の間の直通路を開削することを企てます。このとき、和我君計安塁(わがのきみけあるい)が多賀城に協力していますが、和我君という姓からして計安塁は和賀郡の蝦夷だと考えられます。そうすると、いまだ服従していない奥州市よりも北に位置するため、計安塁の懐柔は出羽方面から行われたと考えられます。現代でも岩手県北上市側と秋田県横手市側は交流がありますし、昔から人の行き来が多かったと考えられます。

 

 

元慶の乱と出羽国府の移転

元慶の乱

 日本列島はしょっちゅう大地震に見舞われますが、9世紀の出羽も何度も大地震の被害を受けています。天長7年(830)の出羽国大地震では、秋田城や四天王寺などが倒壊し、嘉祥3年(850)の出羽国庄内大地震はマグニチュード7規模の大地震で、国府に被害をもたらしました。有名な貞観11年(869)の大地震の2年後には、鳥海山(山形県と秋田県の境)が噴火し、周囲に甚大な被害をもたらしています。

 貞観18年(876)11月29日には27歳の清和天皇が陽成天皇に譲位しましたが、清和天皇は自らの譲位によって国家の復興を願ったといわれています。

 このように、当時の出羽は災害によりかなり疲弊していたことが想像できるのですが、そんなときに発生したのが古代出羽最大の反乱と言われる元慶の乱(がんぎょうのらん)です。

 元慶2年(878)3月15日、秋田城司の苛政に耐えきれなくなった秋田城下12村(上津野<かづの>、火内、榲淵<すぎぶち>、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀<あねたち>、方上、焼岡)の夷俘(いふ)が秋田城を急襲、秋田城司良岑近(よしみねのちかし)と出羽守藤原興世は逃亡しました。

『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』所収「元慶の乱と北方蝦夷集団」(熊谷公男/著)より転載

 上記の地名には今でも使っている地名も多いです。上津野は鹿角市、火内は比内地鶏の大館市、野代は能代市ですね。

秋田県鹿角市と言えば、大湯ストーンサークルが有名

 9世紀の法律では、出羽国には例兵(常備軍)として1650名を置くことが定められていましたが、元慶の乱が発生した時点では一人も置かれていませんでした。これは出羽では兵を置かなくてもよい平穏な時代が続いていたわけではなく、律令制度が機能していなかったからでしょう。

 出羽国は秋田川(現在の雄物川)南岸に秋田営を置き反撃の拠点としました。ところが、陸奥国と出羽国の連合軍5000名は反乱軍に大敗し、陸奥押領使(おうりょうし)藤原梶長は陸奥国へ逃亡してしまいます。これにより、政府軍は戦意を喪失しました。

 しかし、ここに官軍にとって救世主が現れます。藤原保則(825~895)です。

 出羽権守に任じられた左中弁(さちゅうべん)藤原保則が、6月中旬に現地に到着しましたが、この時点で出羽国軍は戦力にならず、陸奥国軍は逃亡済み。そして援軍の上野国軍と下野国軍もまだ完全には揃っていませんでした。反乱軍には津軽・渡嶋の蝦夷も味方しており、この時点で政府に味方する出羽北部の村は添河<そえかわ>・覇別<はべつ>・助川の3つだけでした。

 このようなどう考えても不利な状況から保則の活躍が始まります。保則は政府に味方する俘囚や徴兵した現地の良民(戸籍に登録されている一般人)など少数の兵を率い、奇襲攻撃を敢行し着々と戦果を挙げます。

 8月には、呼び戻した陸奥国軍200名と上野国および下野国からの援軍それぞれ800名の合計1800名の兵力で反乱軍に大勝利、これによって反乱軍の士気は急激に下がりました。

 さらに、8月29日には陸奥国から陸奥介坂上好蔭(さかのうえのよしかげ=田村麻呂の曾孫)率いる2000の兵が秋田営に到着しました。

 そして、9月25日には、反乱軍の説得工作を行っていた鎮守府将軍小野春風(おののはるかぜ)が470の兵を率いて秋田営の北に到着。実は、この春風の説得工作が非常に功を奏したと言われているのです。春風は幼いころ「夷地」に住み「夷語」を操ることができたため、自ら敵方の村々を訪問して、説得をして回ったのです。春風の人柄が良かったこともあると思いますが、これによって反乱軍の結束は乱れ瓦解しました。

 翌元慶3年(879)3月5日、政府は反乱終結と判断しました。

 乱後、秋田城は保則の手により再建され、出羽国司次官である介が受領官に格上げされると共に、秋田城常駐となり軍事機能も強化されました。これは後に秋田城介と呼ばれるようになります。ちなみに、戦国武将も律令時代の官職名を名乗ることが多いですが、織田信長の嫡男・信忠は秋田城介を名乗っています。

 

前線へ物資の供給をする東国

 元慶の乱だけでなく、戦争になったときは各種物資が必要になります。とくに、征夷の際には、福島県域や関東地方で各種物資を生産して供給するケースが多いです。例えば、茨城県古河市の川戸台遺跡は、平安時代の製鉄遺跡で、操業時期は9世紀中頃から後半が中心ですので、時代的には元慶の乱の頃と合致します。

茨城県古河市・川戸台遺跡(現地にはこの遺跡に関する説明板はなく目で見られるものも何一つない)

 官営の工場であったと目されており、鉄鍋などを造っていました。律令では兵士が携行する武器やその他の備品も細かく規定されていて、自前で用意して持っていくものが多く、調理用の鍋も自前で持っていくべき物だったのですが、そういう決まりは建前上の話で、実際には官給する場合もあったようです。ここで大量生産していた鍋は一人調理用のもので、現代人も持っていると便利そうな品です。

  

平安時代の出羽国府

 『日本三代実録』仁和3年(887)5月20日条には、出羽国府は「出羽郡井口地」と記されていますが、その場所は、酒田市の城輪柵がある場所とする見解が有力です。

山形県酒田市・城輪柵跡

 

 

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