最終更新日:2023年8月2日
目次
古代の八王子
現代の八王子の人びとの先祖は誰か?
現在八王子に住んでいる方々の中には、先祖代々八王子にお住まいの方もおられると思います。では、そういった方々の先祖はどこまで「八王子人」として遡れるのでしょうか。
八王子には旧石器時代から人が住んでいたことが確実ですが、それ以降、縄文時代、弥生時代と長い長い年月を経るなかで、人口が増えたり減ったりしています。
あまり昔から話すと大変なので、北部九州で国が誕生した弥生時代中期以降の話をしますと、弥生時代中期の後半から後期の前葉にかけて、市内はかなり人口が少なくなりました。つまり、この時代より前から住んでいた人の多くは滅亡するか、市外へ引っ越したことになります。
ところで、弥生時代の中期とか後期とか言われても、実年代はいつなんだ?と思う方もおられるでしょう。以下は、国立歴史民俗博物館の考えで、実年代の考え方の一つの例です。
もっと詳しい情報を知りたい方は、本稿は八王子の話ですから、『新八王子市史 通史編Ⅰ 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)に掲載されている編年表を参考にしてください。
※『新八王子市史 通史編Ⅰ 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)より転載
さて、市内が再び賑やかになるのは、後期中葉に入ってからです。
実年代は、国立歴史民俗博物館の考えだと2世紀初頭、『新八王子市史 通史編Ⅰ』ですと、西暦60年くらいのイメージでしょうか。
西暦57年には倭国の王による後漢王朝への遣使が行われ、現在福岡市博物館で見ることができる金印が日本にもたらされています。
人がほとんど住んでいなかった市内各地には、この頃から近隣の人びとが引っ越してきて集落を造ります。しかも、近隣どころでなく、東海の山中式や菊川式土器の文化を持つ人びともはるばるやってきたのです。下の地図の通り、山中式と菊川式は東海地方に出自を持ちますが、天竜川がその境となっています。
※「Yahoo!」地図より加筆転載
これにより八王子盆地はふたたび賑やかになったわけです。
ところで、西からやってきた文化として方形周溝墓という墓がありますが、後期後葉には、市内の石川天野遺跡、富士見町遺跡、中野甲の原遺跡、犬目甲の原遺跡、船田遺跡ではその築造がなされます。横浜の歳勝土遺跡では方形周溝墓の復元が見られますが、こういう感じのお墓です。
こういった方形周溝墓は村人全員が造れたわけではなく、身分の高い人たちのお墓だと言われています。でもこれではまだ「王墓」とは言えず、北部九州で国が誕生して王が君臨してから300年経っても八王子にはまだ王が生まれず、したがって国もまだ造られていなかったわけです。
終末期前半になると、新たな地域からの人びとの流入が始まります。八王子のローカル編年では「神谷原Ⅰ」と編年されている時代です。八王子市の資料の実年代では170年くらいのイメージでしょうか。
この頃から、今度は同じ東海人でも、尾張や伊勢といった伊勢湾岸地域の人だったり、はたまた畿内や北陸の人びとが八王子へやってくるのです。これは八王子だけにみられる現象ではなく、南関東の各地で見られる現象ですから、前代よりもさらに人の動きが列島規模でダイナミックになったことが分かります。
例えば、千葉県市原市の現在市役所がある台地上の集落跡から出土する土器を見ると、その地域にも東海、畿内、北陸の人びとが大勢やってきてかなり活況を呈していたことが分かります。
では、なぜその時期に西の方からの人の流れがさらにダイナミックになったのかと言うと、ちょうどこの時代は中国の史書が述べるところの「倭国乱」の時期にあたることから、西日本で惹起された騒乱状態の影響だと考える研究者が多いです。
畿内や東海の勢力が豊臣秀吉のように軍勢を率いて八王子に攻めてきたわけではなく、騒乱状態との関連性を考えたら、そういう状態から逃れてきた人たちだと考えられますし、また稲作による人口の増加のために新天地に居住域を拡大する必要があったのかもしれません。
ちなみに、弥生時代というと稲作をすぐに思い浮かべると思いますが、市内では弥生時代の水田跡は一つも見つかっていません。米を食べるとしても谷戸田をひっそりと経営しつつ、足りない分は交易によって手に入れていたと思いますし、米以外にも縄文時代以来の山の幸や川の幸が沢山ありますので、米に拘らなくても食べる物には困らなかったのではないかと思います。あまりにも食生活を米に頼りすぎるようになると、反対に凶作の際には食べ物に困るようになります。
宇津木向原遺跡|東京都八王子市
話を戻して、弥生時代終末期の後半には、宇津木向原遺跡・尾崎遺跡の集落が巨大化し、方形周溝墓が5基も造営されます。宇津木向原遺跡は、「方形周溝墓」というネーミングがされた記念すべき遺跡で、現在の八王子ICの場所です。
遺跡は完全に破壊されて何も残っていませんが、宇津木向原遺跡では非常に貴重な青銅鏡が出ており、この集落のトップは王とは言えないとしても大きな力を持っていたことが分かります。
神谷原遺跡|東京都八王子市
神谷原遺跡では、何と方形周溝墓が33基も見つかり、さらに関東では珍しい円形周溝墓も1基見つかっています。神谷原遺跡は湯殿川の北岸の崖の上にあって、南側の眺望が優れています。近くの道路からの眺望はこんな感じ。
遺跡は今は椚田運動場となっています。
変な墳丘のようなものがありますが、古墳ではありませんよ。
運動場南側の崖に近いところがかつての墓域で、テニスコートがあるあたりにはとくに大きな方形周溝墓がありました。そのなかの最も大きな1基を保存しているようですが、その場所には入れません。テニスコートを挟んで覗き見ると藪が見えます。
手元の遺構分布図と見比べると、あの藪のある場所が怪しい。現地には説明板が見当たらないのですが、八王子市はそういうものの設置が他の自治体に比べると弱いです。これだけ学史的に重要でかつ全国的に著名な遺跡を公的に無視している状態は、八王子市民としてとても恥ずかしい。やはり、自治体も大きくなりすぎると細かいところに手が回らなくなるんですかね。
ところで、神谷原遺跡の方形周溝墓のほとんどは神谷原Ⅲ期ですから、古墳時代に入っています。市内の弥生時代終末期の集落は、そのまま古墳時代前期に突入していくことが多いので、弥生時代の後半以降、八王子の近隣だけでなく、東海東部や東海西部、畿内、そして北陸といった列島各地からやってきた人びとが「八王子人」を構成し、ヤマト王権が始まった古墳時代へそのまま突入していったのです。
ということは、この人びとが現代の八王子の人たちの先祖にあたるのでしょうか?
それについては引き続き本文をお読みください。
参考までに市内とその周辺の古墳の分布図をお見せします(大栗川流域は割愛させていただきます)。
※稲用章作成
八王子市における6~7世紀の在地勢力の興亡
古墳時代中期(5世紀)は、巨大古墳の時代ともいわれ、列島各地で大きな前方後円墳を造った時代でしたが、そのような活気あふれる雰囲気とは違い、八王子盆地にはその頃の古墳であると確定しているものは一つもなく、それどころか、ほとんど人が住んでいなかったようです。前期の人たちの子孫がどこへ行ってしまったのかは分かりません。
つまり、5世紀の頃、「八王子人」は一旦断絶した可能性があります。
ところが、6世紀後半くらいからいきなり多くの集落が八王子市内に現れます。それを表にまとめてみました。
表の作成にあたっては、地域を谷地川流域、北浅川・川口川流域、南浅川流域、湯殿川流域に分けました(済みませんが、今回も大栗川流域の旧由木村エリアは省きます)。
上記の表は『新八王子市史 資料編1 原始・古代』をもとに作成しましたが、もちろんこれが当該地域のすべての遺跡ではありません。さらに、当時の集落がすべて遺跡として現れているわけではないので、表に記された住居の数が当時の正確な人口を表すものではありませんが、後期後半になると急に人口が増えたという様子はイメージできると思います。
表の一番左側の列には、「北大谷王(きたおおやのきみ)」、「川口大人(かわぐちのぬし)」、「船田大人(ふなだのぬし)」と書いていますが、これは古墳時代後期から終末期の支配者のことで、私が付けた呼び名です。本当に当時、王や大人と呼ばれたかは分かりません。
表を見ると、湯殿川流域には王も大人もいません。湯殿川流域では、弥生末期から古墳時代初めにかけて、方形周溝墓が数多く造られています。とくに、神谷原遺跡の円形周溝墓を含めて34基というのは、日本中どこへ出しても恥ずかしくないほどの存在感です。普通はこの流れで前期古墳が造られそうなものですが、この地域においては集落が消滅していくのです。
ただし、平塚遺跡では周溝墓の中でも東国ではごく少数派となる円形周溝墓が4基も見つかっているのが注目され、もしかすると、円形周溝墓だと思っているのは古墳時代後期の円墳であるかもしれません。遺物が出ればはっきりするのですが、遺物も主体部も検出されない場合は、見分けるのが困難な場合があります。今のところは円形周溝墓としておきましょう。
さて、上記の表の集落を造営した集団がどこからやってきたのかというと、例えば南浅川流域ですと相模方面からの人の流れもあったようです。
七ッ塚古墳群|東京都日野市
谷地川流域を古墳と絡めて考えた場合、すぐ隣の日野市の七ツ塚遺跡が重要となります。七ツ塚遺跡には七ツ塚古墳群があり、かつては7基以上の古墳があったようですが、現状では5基が残存し、小祠が祀られている1基がもっとも残りが良いです。
説明板に書かれている通り、6~7世紀の群集墳ですが、前期の古墳からしか見つからないはずの銅鏃(銅製の矢じり)が見つかっていることから、もしかすると古墳群の中には前期に遡る古墳があるかもしれません。ただし、今のところは何とも言えません。八王子市内で人口が増え始めた時期の築造ですので、七ツ塚古墳群の造営集団が谷地川を遡って(と言っても普通に歩いて行ける距離ですが)、八王子市内に入ったと考える研究者もいます。
七ツ塚古墳群の造営集団はかなり人口が多かったようで、蘇我馬子や聖徳太子の政権によって多摩川流域の支配権を認められたと推測します。
船田遺跡|東京都八王子市
谷地川流域ではありませんが、南浅川流域にある船田遺跡は、縄文時代から奈良・平安時代にいたる複合遺跡で、弥生時代後期後半の方形周溝墓が1基みつかっています。その方形周溝墓は、長径12mの長方形をしており、周溝の南東隅のみ切れるタイプです。
八王子市内には古墳時代の遺跡は約60あり、その中で人が生活した形跡のある集落遺跡は34ほどありますが、船田遺跡では古墳時代後期の住居跡が195棟見つかっており、八王子市最大の古代集落跡です。後述する船田古墳と同時期の竪穴式住居跡は6群23棟程度で、それらの人びとが「船田大人」の支配下にあった人びとでしょう。
中田遺跡|東京都八王子市
川口川が浅川に合流する地点にほど近い場所にある中田遺跡は、旧石器時代から近世までの複合遺跡で、縄文時代から平安時代までの住居跡は193棟検出され、そのうちの99棟が6~7世紀のものでした。つまり、中田遺跡でも6世紀の頃に人口が急増したのです。
中田遺跡は公園として整備されており、住居跡の柱列表示もあります。例えば、上の写真の住居跡は一辺が9mあり、単純計算で床面積は81㎡もあり、ファミリー向け分譲マンションほどの広さです。高尾幕府(今の私の家)より広い。
八王子市内では、弥生末期に住んでいた人たちがそのままスライドして古墳時代前期まで住んでいたのですが、中期(5世紀)になると集落数が激減します。そしてまた6世紀(後期)になると盛り返してきて、ようやく古墳も造られるようになるのですが、船田遺跡や中田遺跡はまさしく、古墳時代後期の八王子の再興を証明する集落遺跡なのです。
北大谷古墳|東京都八王子市
7世紀前半にはその時代の多摩川流域で最大級の北大谷古墳がいまの大谷町に造られますので、その時代の中田遺跡の人びとは、「北大谷王」の支配下にあったと考えられます。
北大谷古墳は、径39mの円墳です。以前は、円墳か方墳かで揉めていましたが、最近は八王子市も円墳として公表しているため、政権首班の蘇我氏に直接結びつく古墳ではありませんが、「連」系の為政者の支配下にあった古墳と考えられます。
北大谷の被葬者の支配地域は、谷地川流域を本貫として、浅川流域も含まれているでしょう。北大谷の位置は、谷地川流域にくくっていますが、浅川流域にもアクセスが良いのです。そうなると、日野市内の古墳群も彼の支配下となります。
ところで、興味深いこととして、八王子市域には群集墳らしい群集墳がなく、後述する川口の北浅川北岸の古墳たちが辛うじて群集墳といえます。列島各地の群集墳を見ると、平気で数百基もの古墳が密集している古墳群がいくつもありますが、それに比べると八王子は寂しい。府中市や調布市、狛江市というように多摩川下流方向に向かうと、群集墳が展開していますが、しかしそれらも多くて数十基です。
そもそも、八王子市では見つかっている古墳の数が、古墳時代の想定される人口と比べて少なくアンバランスだという指摘があります。市内には横穴墓もありますので、それを含めてよくよく考えないとならないでしょう。
群集せずに単独で存在する小さな円墳が市内でいくつか見つかっていますが、7世紀前半はまだ国造支配の時代で、中央集権化はされていません。北大谷の王は、政権から力を認められてはいるものの、完全な支配下には入っておらず、また政権は谷地川や浅川流域の一般人民を直接支配することはできていません。
八王子市域に点々と少数ある小さな古墳の被葬者が、北大谷の王の下にいたそれぞれの村を治める有力者の墓でしょう。
中期には市域だけでなく、多摩川上流域全体で集落が激減しますが、その一方で下流域では順調に集落が営まれます。ところが、八王子市域でも後期になると、ほとんど無人に近いような状況から一転して集落が増加し、終末期には急増します。この急増した集落群を支配していたのが北大谷古墳の被葬者なのです。
八王子域での人口増加が多摩川下流からの住民の自主的な移住として考えた場合、中央の蘇我政権から見ると八王子の勢力は新興勢力に見えたことでしょう。そのため、まずはその代表者(北大谷の被葬者)に従来方式である古墳の築造を認め、自治権を大きく持たせたのではないかと考えます。
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船田古墳|東京都八王子市
船田遺跡では、7世紀後半には船田古墳という円墳が築造されました。直径は、現地説明板では14mとしていますが、『新八王子市史 資料編1 原始・古代』では、12mとしています。
墳丘は古墳発見時にすでに湮滅していましたが、長房団地のなかの「遺跡公園」に地表面表示があります。
墳丘の周りに幅1メートルの周溝が巡っており、石室は4.7×2.7メートルで、既に盗掘されており、副葬品はありませんでした。
主体部は、多摩地域で多い半地下式のもので、「竪穴系横穴式石室」と呼ぶ研究者もいます。半地下式や地下式の石室は多摩地域の終末期古墳の特徴ですから、よく覚えておいてください。石室は、河原石積みで壁面を持ち送りして天井石を設置していたと考えられ、片袖の胴張り構造となっており、片袖の胴張り石室は、現在のところ市内ではここと鹿島古墳のみで確認されています。大きさは、4.9m×2.4mです。
なお、関東地方では片袖式は少数派で、『江戸川の社会史』所収「石室石材が語る古墳時代の交流」(松尾昌彦報告)によると、群馬県には2例、埼玉県には8例、千葉県には3例しかなく、千葉例では市川市の法皇塚古墳が片袖式です。
石室の規模に関して、北大谷古墳や小宮古墳と比較すると、下図のようになります。
※『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)を加筆転載
船田古墳と同時期の古墳時代終末期前半における八王子の首長墓である北大谷古墳が両袖式であるので、船田と鹿島の有力者はその支配下の下、それぞれの地域を統括していた有力者ではないでしょうか。
ただし、多摩川流域の中流・下流域を見ると、船田古墳ぐらいのスペックであれば他に抜きに出るような存在ではなく、数基が群集していてもよいものですが、船田古墳の周辺ではそういった古墳は見つからず、船田古墳は船田丘陵では最高権力者の墓なのです。
狐塚古墳|東京都八王子市
東京都の遺跡地図によると、宇津木向原遺跡の中に狐塚古墳というのがプロットされています。ただし、墳丘は残っていないようです。
『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)によると、直刀や鉄鏃が出たとの伝承があるものの、ほぼ何も分からないようです。
ただ、河原石が多く見つかっているので、河原石積みの横穴式石室であったことが想定されるのみです。
ひよどり山古墳|東京都八王子市
某著名演歌歌手の邸宅にほど近い場所には、ひよどり山古墳がありました。場所をはっきり示すとあまりよくないのですが、この辺です。
東京都の遺跡地図でひよどり山古墳がプロットされている場所は、以前、お掃除の仕事でたまたま通った時に見てみたら家が一軒建つくらいの空き地になっていました。ただし、墳丘はありませんでした。
それが現在はその上に立派なお家が建っています。
『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)によると、昭和32年に甲野勇さんの指導で発掘が行われましたが、墳丘に関しては形状が長方形の可能性を示すだけで大きさなどは書いていないので、すでにその時点で墳丘もかなり破壊されていたのではないでしょうか。
横穴式石室に関しては、河原石の小口積みで、長さ2.7m、奥壁幅1.07mの玄室に0.8mの羨道部が付くだけということなので、かなり小さな古墳だったと考えられます。
そう考えると、やはり現在の遺跡地図で見られるような単独墳ではなく、この辺には群集墳を構成する小さな古墳が他にもあったのかもしれません。北大谷古墳を盟主墳と仰ぐ群集墳が今の小宮公園周辺に存在し、その中の一基が狐塚古墳やひよどり山古墳だと考えることもできると思います。
小宮古墳|東京都八王子市
小宮古墳は昭和56年に土地区画整理事業に伴い発掘されており、古墳はもうありません。『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』にも墳丘は「消滅」と書いてあります。
『新八王子市史 資料編1 原始・古代』に掲載された宇津木台遺跡群の図面と「標高140m地点」という記述をもとに「今昔マップ」の各時期の地形図を見比べた結果、現在マンションが5棟建っている場所の数十メートル西側にあったことが分かりました。
現在その場所は丘がゴッソリ削られて道路になっています。
さて、古墳自体のスペックは、幅1.5mから3mの周溝を伴う、内径19mの円墳で、河原石積みの横穴式石室を内蔵していました。
石室は長さ2.4mの玄室と、長さ2.4mの羨道、それに長さ2.4mで外側に開いた墓前域を備え、墓前域まで含めると全長7.2mの石室となります。玄室は胴張りです。
7.2mの石室は同じ時代の群集墳と同じように考えてはならず、八王子でそれなりに幅を利かせていた有力者の墓だと考えられます。
出土したものは木棺に使用した鉄釘のみですが、関東地方では鉄釘は7世紀中期以降の古墳から出土するため、築造は7世紀第三四半期と考えます。
そうすると、八王子市内最大の北大谷古墳の孫の世代くらいになるでしょう。
被葬者像としては、墓前域が「ハ」の字に開く構造が武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳と同様であり、両古墳の築造時期は小宮古墳と同時期だと考えられるため、どちらかの古墳が飛鳥の王権から多摩川流域全体の支配権あるいは監察権を持たされていた時期に、そのもとで八王子地方を治めた首長で、谷地川水系を本貫とする北大谷の王の系譜を引く人物と想定します。
最後に八王子盆地内の古墳についてまとめた表をご覧ください。被葬者のキャラクター付けはまったくの妄想ですからあまり深く考えないでくださいね。
多摩川流域の古墳時代後期と終末期
前項では八王子市内の集落遺跡や古墳について述べましたが、ここで少し範囲を広げて、多摩川流域の古墳を見てみましょう。ただし、下流域の大田区・世田谷区では、荏原台古墳群という大規模な古墳群が造られ、前期の100m級の大型前方後円墳もあり、それを説明するとかなりの分量になりますので、それはそれで別途詳しく説明するとして、ここでは、狛江市から上流の古墳について述べます。
1.国立市の古墳
くにたち郷土文化館で2004年に開催された「国立の古墳」の展示解説書によると、2004年の時点で国立市には横穴墓を除くと30基の古墳が確認されています。
古墳群としては青柳古墳群と下谷保古墳群があり、青柳古墳群に属する古墳は、名称を付けられていない古墳を含めて16基で、下谷保古墳群は8基です。
これら30基のなかで、本格的な発掘調査が行われた古墳が15基ありますが、もともとの残りが良くないものも多く、発掘したとしても大きさすら良く分からないものもあります。
そして、2004年時点では12基が残存し、消滅した青柳古墳群の四軒在家(しけんざけ)1号墳は移築して保存してあります。
調査の段階ですでに石室上部が失われていたため、復元できた石室は下の方だけです。ここから上の壁面は、持ち送り式に徐々に内側に接近するように積まれ、天井まで到達していたと考えられます。そう考えると、石室内は人が立つと頭がつかえる高さであったと思われます。
なお、四軒在家1号墳の直径は19mで、群集墳としては標準的な大きさでしょう。
国立市内の古墳の築造時期に関しては、現状知られる限りでは、前期・中期の古墳はありません。
後期のものとすると、青柳古墳群の16基の古墳のうち、1号墳と2号墳からは円筒埴輪が採取されており、1段目が長い6世紀後葉のデザインの円筒埴輪なので、この2基は後期後葉(6世紀後葉)の築造と考えて良いでしょう。残りはおそらく7世紀(終末期)の築造だと思います。首長墓といえるような古墳は含まれておらず、国立市内の古墳はすべて、群集墳として考えて良いでしょう。
2.群集墳とは何か
群集墳というのは、その名の通り群集している古墳のことですが、例えば埼玉古墳群のような大型古墳が集まっているものは群集墳とはいいません。正確には、埼玉古墳群の範囲内にも小さな円墳が群集していたのですが、それらはすべて湮滅しているので、あくまでも埼玉古墳群を群集墳としてはイメージしないでください。
群集墳の初現は西日本では5世紀で、東国でも5世紀後半には見られます。
東国の初現期の群集墳は、リーダー的立場のやや大きめの盟主墳(40~50mほどの帆立貝形古墳など)が1基から数基あるほかは基本的にすべて10~20mほどの円墳であり、渡来系の人びとが含まれている場合は方墳の積石塚が含まれまることがあります。
多摩川流域で初現期の群集墳を探すと、大田区や世田谷区、そして狛江市といった下流域に分布しています。大田区と世田谷区といえば、古墳時代前期に宝莱山古墳や亀塚古墳といった100m級の大型古墳を擁する荏原台古墳群が有名ですが、この地域では規模は小さくなってもその後ずっと古墳の造営が続きます。
中期には中央の政策により帆立貝形古墳の導入および運用が始まり、それを受けた荏原台古墳群でも、リーダーは帆立貝形の野毛大塚古墳(82m)を築造します。
狛江市には前期の首長墓級の古墳はありませんが、狛江古墳群では70基ほどの古墳が確認されており、現在残っているのは13基ほどといわれています。
そのなかで5世紀後半頃に築かれた帆立貝形古墳の亀塚古墳(40m)は古墳群のリーダーの墓であり、こういった特徴から狛江古墳群は初現期の群集墳として認められます。
なお、亀塚の次の代には兜塚が築かれ、兜塚は円墳とされていますが、帆立貝形古墳の可能性があります(小さく見積もっても43m)。
狛江市の上流の調布市には、東から国領南、下布田、上布田、下石原、飛田給の古墳群があります。このうち、国領南古墳群は、古墳群といっても見つかった古墳は円墳が1基だけで、方形周溝墓が周辺を含め5基見つかっています。
下布田と上布田は一体の古墳群として考えて良いかも知れず、下石原は群と呼ぶには貧弱で、飛田給は20基以上からなる6~7世紀の古墳群です。
下布田古墳群では平成27年現在、円墳が17基見つかっており、狐塚(下布田6号墳)は、周溝の内径が44mあり、首長墓として十分な大きさを誇っています。
ただし、築造時期は7世紀初頭と言われているため、後に述べる終末期の首長墓の仲間に入れて考察しましょう。
狛江市から下流は、6世紀以降になり大きな古墳が造られなくなっても、大きな古墳の周辺に小さな古墳がポコポコと造られていき、群集度が増していきます。
大きな古墳の近くに造ったそれら群集墳の被葬者たちは、もしかすると、かつての大型古墳の被葬者とは血縁関係はなくても、擬制的な一族として、また精神的な支柱としてかつての「王」と繋がるつもりで、その墓の周辺に自分たちの墓域を形成していったのかもしれません。
3.後期の群集墳
後期になっても前期に隆盛を極めた荏原台古墳群での古墳の造営は続きますが、多摩川流域には大きな変化が訪れます。
現状見る限りでは前期の古墳がゼロで、かつ中期の古墳もあったとしてもごく僅かだった、調布市西部から上流地域にかけて古墳群が出現するのです。
その範囲は、下流は調布市の飛田給古墳群ではないかと考えられ、それより上流の府中市、多摩市、日野市、国立市といった地域に、6世紀の後期群集墳が造られます。
しかし、それら後期群集墳のなかには、卓越した力を持ったリーダーの墓(初現期群集墳の帆立貝形古墳に該当するようなもの)が認められません。既述した国立市内の青柳古墳群や下谷保古墳群がそうですし、日野市にある西平山、平山、七ツ塚、万蔵院台などの古墳群もそうです。リーダーの墓が見当たらないということは、6世紀のおおよそ100年間、それらの古墳群の被葬者は誰の支配を受けていたのでしょうか?
普通に考えたらもう少し範囲を広げて、多摩川全域でこの時代の大きな古墳を探せばいいかもしれません。ところが、多摩川流域を全て見てもそういう古墳はないのです。
6世紀は、同じ関東地方でも群馬県・栃木県・茨城県といった北関東では、全国的に見ても大型古墳が異様にたくさん造らる地域として著名です。多摩川流域はそれとはまったく事情が違うので、これは中央の地方に対する政策が地域によって異なっていたと考えた方がいいでしょう。
東京都の周辺で見てみると、より畿内に近い山梨県や神奈川県も後期には大型前方後円墳の築造はないので、6世紀の政府(具体的には継体~欽明政権)は、東京・神奈川・山梨地域と、北関東とでは違う統治方法を導入していたと考えます。
応神に始まるいわゆる河内政権の時代(古墳時代中期)には、多摩川流域にも帆立貝形古墳を導入して間接支配をしましたが、継体~欽明政権では、多摩川地域の直轄化が一気に進行したのではないでしょうか。
日本書紀の安閑紀では、武蔵国造の乱の結果として武蔵国内の4つの屯倉が政府に献上されたことになっていますが、実際に、6世紀に多摩川流域には政府の直轄地である屯倉が多数設定され、かつ都の貴人たちと結びついた部民も多く置かれたのではないかと考えます。
多摩川流域の6世紀の群集墳の被葬者は、屯倉の管掌者とその一族や部民、つまり単に地方の富裕層ではなく、「中央政権と結びついている地方の特別な身分の人たち」の墓でないかと考えます。そして、7世紀の終末期になってもその流れは続くと思いますが、政権は蘇我氏が運営する時代に変わります。
4.多摩川流域の終末期
従来から単純化した話として、7世紀には蘇我氏と仲が良い勢力は方墳を造り、そうじゃない勢力は円墳を造ったと言われてきました。ただし、もう少し厳密にすると、中央では方墳は主として蘇我氏、阿部氏、平群氏が造営し、円墳は物部氏、中臣氏が造営しており、前者は姓(かばね)が臣(おみ)であり、後者は連(むらじ)であることから、姓によって分けていた可能性があります(『終末期古墳と古代国家』所収「前方後円墳の終焉」<白石太一郎/著>)。
多摩川流域の終末期古墳を見てみると、方墳がまったく目立たないことから、政権の首班である蘇我氏とはそれほど懇意ではなかったのでしょう。
古墳時代後期に首長墓が存在しなかった多摩川流域では、終末期には首長墓が復活します。
終末期の首長墓を列挙すると、八王子市には39mの円墳である北大谷古墳、多摩市には八角墳の稲荷塚古墳、府中市には上円下方墳の熊野神社古墳、三鷹市には同じく上円下方墳の天文台構内古墳、そして調布市には、44mの円墳である狐塚古墳(下布田6号墳)といった古墳が挙げられます(仮称「多摩5大首長墓」)。
ただし、終末期と言っても7世紀の100年間という長い時期であり、645年には蘇我政権が倒れたことにより地方政策がまた変わりますから、厳密には前半と後半に分けて考える必要があります。
そうして考えた場合、前半に造られと考えられる古墳が北大谷と稲荷塚、それに狐塚で、後半が熊野神社と天文台です。
終末期になると群集墳に加え、横穴墓も考慮しないとなりません。そしてまた、この横穴墓に葬られた人びとに関しても、いまだはっきりしたことは分かっていないのです。横穴墓も古墳のジャンルに入りますし、横穴墓の基数は群集墳よりはるかに増えることから、こういった特別なお墓に葬られる人々の数が急増したことが分かります。
多摩5大首長墓の被葬者は、横穴墓に葬られた人びとをも管掌していた可能性が高いです。
なお、かつて隆盛を極めた下流域の荏原台古墳群の範囲には終末期の首長墓は見当たらないものの、群集墳や横穴墓は多数造られるため、中央は後期と同じ支配方式を取っていたと考えられます。
5.あきる野市域の問題
ところで、多摩川上流域のあきる野市では50基以上の古墳の存在が知られる瀬戸岡古墳群などの古墳群が見られますが、それらの古墳にはまた別の問題が含まれています。
あきる野市は八王子市の北隣であるため、文化的に近いのかと思われますが、その境界線となっている秋川を挟んで古墳の様相が違うのです。
瀬戸岡古墳群の古墳も、多摩川流域の群集墳によくみられる半地下式です。
瀬戸岡古墳群は古い時代に墳丘がなくなってしまったため、詳しいことは分からないのですが、土を盛って通常の墳丘にしたのではなく、積石塚であったという証言もあります。
研究者によっては瀬戸岡古墳群を古墳とは呼ばないこともありますが、私的には渡来系の人びとの古墳じゃないかと考えています。
昭島市の浄土古墳群も同様ではないでしょうか。
奈良時代になると、高麗郡や新羅郡が建郡されますが、716年の高麗郡建郡の前段階で、神奈川県大磯町の高麗山周辺に進出した高句麗の遺民が北へ向けて北上していたと考えます。
地図上で高麗山の山頂から埼玉県日高市の高麗神社に線を引いてみると、ほとんど振れていない南北の一直線のラインで結ばれていることが分かりますが、瀬戸岡古墳群はほぼのそのライン上にあります。
7世紀前半、八王子市域には既述した新興勢力がすでにいたため、北上した高句麗の遺民たちは、多摩川の支流秋川の北岸へ居住地を設定したのではないでしょうか。
そのため、秋川を挟んで南の八王子市域と北のあきる野市では古墳の様相が違うのではないかと考えます。
なお、あきる野市域では雨間大塚という謎の塚があり、私は古墳だと思っているのですが、築造時期に関してはいまだ確定していません。
雨間大塚は、住民の方の話によると「昔は亀のような形をしていた」ということなので、私は前方後円墳か帆立貝形古墳、あるいは前方後方墳の可能性が高いと考えており、そうすると前期あるいは中期の古墳の可能性が高く、これがはっきりすると、あきる野市の歴史どころか、多摩川流域の古代史が大きく書き換わるかもしれません。
6.八角墳・稲荷塚の謎
話を戻して、北大谷の被葬者は、中央から従来の間接統治方式を認められた独立性の高い人物だったとして、同じころに築造された多摩市の稲荷塚古墳の被葬者像は、これまた謎が多いです。
八角墳は中央では天皇が葬られることもある格式の高いデザインです。
ただし、八角墳に葬られた天皇は、舒明、天智、天武、持統といった主として7世紀後半の人物ですし、奈良県明日香村の中尾山古墳は文武天皇陵の可能性が高い8世紀前半の古墳です。それに引き換え、稲荷塚を始めとして地方でいくつか見つかっている八角墳は、出土遺物から見ると上記の天皇陵より古いものが目立ちます。
もし、地方で最初に造られた形状を中央が採用したという事実があった場合は、それはそれで面白いことになりますが、地方の八角墳(場合によっては八角「様」墳と呼ぶ方がいいかもしれません)と、天皇の八角墳とは分けて考えた方がいいかも知れません。
とりあえず、稲荷塚の形状は抜きにしても、墳丘規模や立派な切石積みの横穴式石室から首長墓として考えていいはずです。そうなると、稲荷塚の被葬者の支配範囲は多摩川支流の大栗川流域となるでしょう。その場合、旧由木村で現八王子市域の日向古墳も含まれます。
なお、既述した通り、由木村は昭和39年に八王子市に合併されましたが、日野市や多摩市とくっつきたかった住民も多くいて、古代からの文化領域を考えると、同じ大栗川流域である多摩市と一緒になるのが自然でした。まあ、古代と現代では事情が違いますが。
7.半地下式の横穴式石室・調布市狐塚古墳
さらに下流を見ると、既述した下布田古墳群のなかに終末期における地域最大の古墳が現れます。
周溝内径44mを誇る狐塚です。
規模としたら北大谷よりもわずかに大きいですが、石室自体は、多摩5大首長墓の他の古墳がすべて切石積みなのに対して、こちらは河原石積みとなっています。
ただし、河原石積みといっても、石室の奥壁のみ切石積みにしているという一風変わった石室です。
切石積みと河原石積みの優劣を考えた場合、やはり技術的観点や手間のかかり具合を考えたら、切石積みの方が贅沢な造りとなるでしょうし、10m台とかの小規模な古墳の石室は河原石積みで造られています。
切石というのは、その名の通り、石を切ったようにきちんと四角く成形するのですが、当時は石を切ることは不可能なので、適当なサイズに割った後に、削った上にひたすら叩いて成形したのです。
江戸時代の近世城郭の石垣も作れそうな技術を古墳時代の人たちは持っていました。
ところで、狐塚の石室は地表下に半地下式で造られています。
横穴式石室なのに地表下にあると言われると、なんで地表下に横から入っていけるのかと不思議に思うかもしれませんが、掘られた周溝にいったん降りて、そこから水平に入口が付いているのを想像してください。
この首長墓としては風変わりな横穴式石室は、『新八王子市史 通史編1 原始・古代』によれば、古墳時代中期初めに朝鮮半島の影響により北部九州で造られた竪穴系横口式石室の系譜をひくものです。
余談ですが、半地下に石室がある例を示すと、群馬県前橋市の大室古墳群にある後(うしろ)二子古墳は、古墳群で3基目の首長墓で、6世紀後半に築造された墳丘長85mの堂々たる前方後円墳ですが、石室の入口への墓道が、2段築成の下段を掘り割って造られています。
石室内に入ると羨道は緩い下り坂になっており、中から外を見ると低い位置にいるのが分かります。
このような石室を造る場合もあったのです。
8.律令国家へ向かう終末期後半
7世紀後半になると、孝徳天皇による新たな政治が始まり、いよいよ我が国の首脳部は中央集権化へ向けて本格的に動き始めます。
その時代にできたとされているのが、府中市の熊野神社古墳と三鷹市の天文台構内古墳ですが、両古墳の築造時期に関してはいまだ揺れていますが、7世紀前半にまでさかのぼることはないでしょう。両古墳とも上円下方墳というこれまた特徴的な形をしており、その墳形も興味深いですが、そういったことは抜きにしても首長墓として相応しい古墳です。
天文台構内古墳は、三鷹市内で唯一の古墳となります。
周囲に群集する古墳がなく、首長墓が単独でポツンとある風景は、終末期になるとたまに見られるようになります。つまり、周りに従える古墳が一切ないのですが、その代わり野川流域の国分寺崖線には、出山横穴墓群などの横穴墓がたくさんあります。
2003年に発行された調布市郷土博物館の「企画展 下布田古墳群の調査」の解説書によれば、三鷹市内には7つの横穴墓群があり、総計63基の横穴墓があります。天文台構内古墳はこういった横穴墓の被葬者たちのリーダーだったのでしょう。
そして、「多摩5大首長墓」の残り一基である熊野神社古墳の話をしたいところですが、この古墳の場合は、武蔵国府が現在の府中市に置かれた理由を含めて考察すると面白いはずです。
古代八王子の中心・川口
八王子市内の古い地名の一つに、「川口」があります。現在でも川口町があり、浅川の支流の川口川が流れています。
承平年間(931~938)に編纂された『和名類聚抄』という書物に、多摩(磨)郡のなかにある10個の郷の一つとして川口郷の名前が出てきます。郷というのは郡の下の行政区画です。細かいことを調べるのは困難ですが、当時の川口郷は現在の八王子市の広範囲を含んでいたと考えて間違いはないと思います。ただし、現在の京王相模原線沿線の地域は、隣の小野郷の管轄だったと考えられます。
余談ですが、その京王相模原線沿線のエリアは、明治22年に市町村制が施行された時に由木村として成立し、比較的最近の昭和39年に八王子市に編入されました。その際には、日野市と一緒になりたい村民も大勢いて、かなり揉めたそうです。また、古代からの時代の流れからすると同じ大栗川流域の多摩市と同一地域です。
さて、話を元に戻して川口のことですが、最初川口郷が成立した時には、『八王子市史』によればその中心は現在の市役所周辺の元本郷町だった可能性があるそうです。八王子市民の方は分かると思いますが、市役所の場所と川口町では少し離れていますね。そのため、もし元本郷町が川口郷の中心だったとすると、なんで「川口」という地名がかつての中心地ではなく、少し離れた今の川口町にひっそりと残ってしまったの?と疑問に思う方もおられると思います。
私は以下のような理由で川口の地名が現在地に残ったのだと推測しています。
現在の川口町のあたりは、川口郷が置かれるより前からかなり栄えていました。「栄えている」という表現が適しているかどうかは別として、古墳時代の最後の方、つまり7世紀の前半には川口町には豪族が住んでいたのです。なぜ川口町に豪族が住んでいたことが分かるのかというと、北浅川と川口川に挟まれた地域にはいくつかの古墳がある(あった)からです。川口町の川口古墳や、隣の楢原町の鹿島古墳などがそうです。それらの古墳の存在から、川口町周辺には豪族が住んでいて、その土地を治めていたことが分かるのです。
しかしそうはいっても、川口町の豪族が八王子地域全体の「王」であったかというとそうではなく、7世紀の頃の八王子地域全体の王は、既述した通り、現在の大谷町周辺にいました(語弊があるかもしれませんが、便宜的に「王」と表記します)。
全長39メートルを誇る多摩地域でも最大規模の北大谷古墳の被葬者(葬られた人)が、八王子地域全体の王です。彼は八王子地域全体だけでなく、多摩川中流域まで影響を及ぼしていたかもしれません。
川口町の豪族は、大谷町の王を盟主とする豪族連合の中の有力なパートナーの一人だったと考えられます。
その後、8世紀初頭までには朝廷は八王子に対する支配を強めるために川口郷を置き、『八王子市史』ではその中心が市役所のあたりにあった可能性を述べているわけです。では、なぜ大谷町でも川口町でも、また他の場所でもなく市役所のあたりに置いたのかというと、それは当時勢力を持っていた北大谷の王や川口ほかの豪族たち、つまり地元の有力者が盤踞しているところには入っていけなかったからであり、小宮や長房などを含めた当時の諸豪族の勢力範囲のちょうど真ん中あたりであったからだと思います。
しかし一つ不思議なのは、浅川南岸からJR中央線までの現在市内の中心となっている地域は、旧石器・縄文・弥生・古墳、そして奈良・平安時代にいたるまで、まったく遺跡が存在しないことです。それはなぜかというと、当該地域は浅川の氾濫原であったので、人が住めなかったからだと思います。ところがそうなると、その氾濫原にある元本郷町に川口郷の中心地が置かれたという説も、なんだか怪しくなってきます。本当に元本郷町は、川口郷の「元」の「本郷」だったのでしょうか?
その後平安時代の後半になって、川口町には「武蔵七党」という武士団のなかの西党・日奉氏の一族がやってきて、地名を取って川口氏と称しました。現在でも川口町内に川口館跡と伝承される場所があります。
そして、それからまた時間が経過して現在にいたるわけですが、その過程でかつては八王子全体近くを表していた広域地名である「川口」は、中世の川口氏の本拠地周辺を示す地名として限定されるにいたり(川口氏の勢力範囲も関係しているでしょう)、川口館周辺の「川口町」と、浅川の支流の「川口川」という名前にその痕跡を残すのみとなったのではないかと考えています。
以下に、少し時代が戻りますが、北浅川北岸の古墳を見てみましょう。
鹿島古墳|東京都八王子市 ~古代楢原の有力者の墓~
中田遺跡から徒歩20分ほどの場所に鹿島神社があり、境内に古墳があるようですが、現況ではそれらしい地膨れ程度のものが見られるだけで、はっきりと古墳と分かるものはありません。
『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)によると、規模は不明、主体部は玄室と羨道に分かれる全長5.3m、最大幅1.5mの河原石積みの横穴式石室で、玄室は片袖となっており胴張りが認められます。
『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)に記された石室規模は、玄室が3.3m×1.24mで、羨道部分が1.7m×0.76mとなり、こちらの方が正確でしょうか。
『新市史』では、築造時期は7世紀中頃としています。
本来であれば出土した遺物を元に年代を決めるのですが、鹿島古墳の場合は遺物の出土がまったくないため、船田古墳の石室との類似性からそう判断しています。
ところで、鹿島古墳の石室の天井石はまったく見つかっていなくて、北大谷古墳も同じなのです。
天井石はかなり大きいので、鹿島古墳や北大谷古墳に数枚あった大きな天井石が1つもみつからないというのはいったいどういうことでしょうか?
江戸時代や明治時代に好事家によって持ち去られてしまったのでしょうか。
いや、天井は天井石で塞ぐという常識を疑ってみる必要があるかもしれませんよ。
鹿島北古墳|東京都八王子市 ~辛うじて墳丘が残存~
小さな日枝神社があります。
鳥居の先に墳丘らしきものが見えますよ。
これでしょう。
鹿島北古墳です。
わずかながらも墳丘が残っていて良かった。
ただし、この古墳についての詳細は、さきほどの鹿島古墳以上に分かりません。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)には、直径約3m、高さ約0.7mの地膨れが残っていると記されていますが、元々の大きさは不明で、地元では付近に存在した古墳を合祀したという話が伝わっているそうです。
主体部についても一切分かりません。
でも、八王子市もこれは古墳として認めています。
境内には主祭神として日枝社があります。
その隣にはは御嶽社もあります。
さきほど、地形を確認しようとしていてまだ見ていないので、境内の外に出てみましょう。
地形が落ちた先には楢原小学校がありました。
なるほど、こういう地形は現地に来ると良くわかりますね。
鹿島古墳も鹿島北古墳も北浅川の段丘の縁に並んでいるわけです。
現地を見るまでは漠然と川口川流域の古墳だと思っていましたが、さきほど話した通り、川口川は再度きちんと調べないと駄目です。
段丘のすぐ下には水の流れがあります。
※帰宅後、地図で調べてみたらこの流れは浅川の支流で名前も分からず暗渠部分も多いのですが、北浅川と南浅川が合流した直後の鶴巻橋の付近でこの流れは浅川に合流しているようです。
古墳のある段丘を見上げます。
この段丘の上の縁の部分に鹿島古墳や鹿島北古墳が築造されているわけですね。
一本松古墳|東京都八王子市 ~これを見た人は誰が古墳だと気づくだろうか~
一本松古墳は鹿島北古墳の400mほど西側です。
鹿島古墳、鹿島北古墳、それに一本松古墳以外にも、何基か古墳はあったのだろうと想像します。
地元では、いくつかの古墳の霊を鹿島北古墳に合祀したという言い伝えがあるそうなので、湮滅してしまった古墳が数基あったのでしょう。
八王子市は群集墳がない場所と言われていますが、この周辺は群集墳として認めて良いと考えます。
ただし、列島各地でたまに見られるような数百基もあるあからさまな群集墳とは趣が違います。
一本松古墳もさきほどの鹿島北古墳と同様、詳細は不明です。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)によると、復元すると径10m前後になり、残っているのは墳丘の東側だそうです。
この次は川口古墳ですが、ここから900mくらいの距離があり、別エリアという雰囲気があります。
鹿島古墳、鹿島北古墳、そしてこの一本松古墳と、湮滅してしまった数基はあったであろう古墳を一くくりの古墳群として考えていいと思います。
そしてそれらの築造時期は、古墳時代後期になりますから、群集墳として認めてよいでしょう。
実態がほとんど分からないのにこんなことを言うのは怒られそうですが、以上のことから、私は八王子市にも群集墳は存在したと結論します。
最近思うのは、石室だけ見つかった場合、研究者は元々は墳丘があったが削平されたと決めつけることが多いですが、墳丘がなくて石室だけのものもあったのではないかと考えます。
実際、全長が1mくらいの小さな石室だけが見つかることもあるのです。
もし仮に、石室のみの墓も構成要素として見た場合は、それを古墳群と呼んでよいのでしょうか。
古代の墓制はもしかしたら私たちの想像の斜め上を行くバラエティさがあったのかもしれませんよ。
川口古墳|東京都八王子市 ~楢原勢力と拮抗した川口勢力の有力者の墓か~
つぎの川口古墳は一本松古墳から900mくらい離れていますが、確か川口古墳も湮滅していたと思います。
いったん秋川街道に出て、楢原町の交差点で私の家の方向へ向かっている高尾街道を横断、「東京都遺跡地図」にプロットされている場所の近くに来ましたが、普通の民家のようです。
民家の敷地内を道路から積極的に覗き込むとかなりの不審者なのでチラ見しますが、結局これも不審者ですね。
段丘の下へ続く坂道を少し下って坂上を見上げます。
この辺のはずなんですがねえ。
まあ、ここは湮滅していることを知っているので、現況の確認だけでOKとしましょう。
『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)によると、川口古墳の石室は、河原石積みの横穴式石室で、大きさは4.3m×1mほどで、玄室と羨道の区別のない無袖型式の長方形、奥壁から2.7mの範囲の床面には扁平な河原石が敷き詰められており、これが玄室としてのスペースであると考えられます。
昭和31年に発掘調査がなされ、玄室スペースの南端部で鉄鏃10本と刀子4点が出ています。
鉄鏃は単なる鉄製の矢じりですが、これが便利なことに編年が確立されているので、それによって6世紀末葉から7世紀初頭の築造と推定でき、市内では鵯山古墳と同時期とされます。
またその時期より少し後の鉄鏃も出ているため、7世紀前半代に追葬が行われたと想定されています。
ところで、私の推定では、さきほのど一本松古墳のあたりまでは、楢原古墳群と通称してよいような群集墳が展開しており、少し間をおいて、この川口古墳からまた別のグループの古墳群になるのではないかと思います。
川口古墳があったと思われる場所のすぐ東には「松枝小学校西」の交差点があり、面白いのはそこが現在でも楢原町と川口町の境界になっているんですよね。
この境界線は、実はもう1300年くらい前にはあったのかもしれませんよ。
八王子市№30遺跡|東京都八王子市 ~墳丘は残っていないがもしかしてこれは天井石か~
この辺が東京都遺跡地図に「八王子市№30遺跡」として掲載されている場所です。
東京都はその遺跡を「古墳」としていますが、情報はまったくありません。
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)には、項目としては存在しますが、古墳については何も書いていません。
古墳があったと思われる場所に建つ民家の庭を何気なく見たら、石が好きな方がお住いのようで、道路に面した側には横穴式石室の天井石のようなものが置いてあります。
気になる・・・
調井古墳|東京都八王子市 ~四半世紀前にはまだ墳丘はあったようだ~
この辺のはずです。
やっぱり段丘の上だと思うんですがねえ・・・
『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)には、墳丘は「残存」とありますが、該書が書かれたのは四半世紀前で、現在の地図で確認してみても、該書が指し示す場所にはガッツリと民家が建っています。
おそらく墳丘は湮滅したものと思われます。
ただし、気になるのは古墳のある場所について該書には「丘陵斜面」とあることです。
斜面と呼べるような場所は確かにありますが・・・
横穴墓かと思った!
中世の八王子
中世への始動と横山義孝
古代末期から中世初期にかけて東京都八王子市をはじめ神奈川県北西部や山梨県東部の一部を支配していたのは、武蔵七党のひとつである横山党です。
横山党の中心氏族は、その名の通り横山氏で、横山氏は近江(滋賀県)の小野氏の流れといわれています。小野氏の一族には、遣隋使小野妹子(おののいもこ)や、冥界で閻魔大王の補佐をしていたという伝説を持つ小野篁(おののたかむら)、歌人小野小町(おののこまち)などがおり、敏達天皇の後裔とされています。
『群書類従』によると、小野妹子の6代あとに篁がおり、さらにその8代あとに義孝という人物がいます。その義孝が、長保6年(1004)に武蔵国横山荘(東京都八王子市)に住し、地名を取って横山と称したのが、横山氏の始まりだといい、後述する通り、八王子市内には義孝を祭神とする横山神社があります。
小野牧と小野諸興
武蔵国には古来から牧場(とくに馬牧)が多く存在しました。由比牧・小川牧・石川牧・立野牧・秩父牧・小野牧などです。このうち小野牧の史料上での初見は、承平元年(931)11月7日付け太政官符です(『日本紀略』)。それによると、朝廷は、小野牧を陽成上皇の私牧から勅使牧(ちょくしまき=皇室の馬を育てる)に変更し、散位・小野諸興(おののもろおき)を別当(長官)にし、毎年40疋の貢馬をさせることにしました(『政事要略』)。
『日野市史 史料集 古代・中世編』が指摘している通り、武蔵における勅使牧が貢ぐ馬の数は、由比・小川・石川の三牧合計で30ないし60疋、立野牧が20疋であるので、小野牧はそれらの牧の倍の規模を持っていたことが分かります。
その範囲については、遺跡が見つからないこともあって現在まで定説がなく、該書では、日野市南部から多摩市・稲城市にかけてと推測しており、『八王子市史 下巻』では、湯殿川流域の小比企町・館町説、または町田市の鶴見川上流の鶴川・小野路付近説を有力としています。
当然、貢馬は選りすぐった馬が選ばれますから、その数の何十倍かの数の馬を飼っていたはずなので、そうすると馬の数は凄い数になります。例えば、武蔵野つれづれによると、信濃国諸牧場で飼われていた馬の数は貢馬の20倍であるので、それを小野牧に当てはめると800疋という数になります。
このように、多摩丘陵には大きな牧場があったのですが、現代の人が想像するような広大な一つの敷地を柵で囲っているようなものではなく、私は舌状台地の先端のように3方向が谷の部分を利用し、地続きの部分に堀や柵などを設けたものと推測し、広範囲にわたって点的に存在したものだと考えています。
小野牧の別当(長官)の小野諸興は、その名字からして「小野」という地に住していた人物であると考えられます。小野の場所については、府中市本宿の小野神社周辺という説と、多摩市一ノ宮の小野神社周辺という説がありますが、小野牧が多摩川右岸だとすると、後者の地が小野氏の本拠地であると考えます。
時代的に見ると、この諸興は横山党の祖・義孝の父か祖父の世代に当たります。史料上存在が確実な諸興が、系譜上に現れる義孝と繋がればよいのですが、『群書類従』の小野系図には諸興の名はなく、両者の系譜関係は不明です。
では一体、諸興とは何者なのでしょうか。それを突き止めることは困難ですが、少なくとも、諸興より数代前(少なくとも父の代)から武蔵国に住んでいて、国衙の在庁官人(ざいちょうかんじん=国衙に勤める役人)であると同時に、散位(さんに=位階は持っているが朝廷の職に携わっていない人)といわれていることから中央との関わりも持っていた人物であると考えます。都に顔のきく武蔵国の在地の有力者というわけで。横山義孝とどのような血縁関係にあったのかは何とも言えませんが、「興」を通字とする一族が確認できるため、横山義孝とは別の流れの人びとであったと考えられます。
諸興が都に顔のきく武蔵国の在地の有力者と考える理由としては、天慶2年(939)6月に押領使(おうりょうし)に任命されているからです(『本朝世紀』)。通常押領使は、武力を有した在地の有力者が任命されます。もし諸興の代に下向してきたとなると、押領使に任命されるほどの力を有していたはずは無さそうです。同時代の下野の押領使・藤原秀郷を見てもわかるとおり、父祖の代からの力が必要であると思われます。このとき諸興は武蔵権介でもありました(「権」が付くのは仮の官ですが、武蔵国のナンバーツー的存在です)。
またもうひとつの理由として、諸興の弟永興の都での大胆な行動が挙げられます(『新八王子市史 通史編2 中世』では永興は諸興の子としています)。天慶元年(938)、朝廷に馬を納めるために永興が諸興の代理として上京しましたが、永興は駒牽の儀(こまひきのぎ)という大事な儀式を「身の障り」と称して欠席しているのです。もし永興に中央の人間の感覚があるとすれば、名誉のためには這ってでも儀式に出席するはずです。永興は朝廷の権威を軽視しているように思えます。それは、武蔵国で強大な軍事力を持っていることを背景としての行動とも受け取れます。
諸興の名は、天慶2年(939)6月以降、史料上には現れなくなります。また、小野牧という固有名も、その2ヶ月後を最後にして、史料上にはみられなくなります。この年の11月21日には、平将門が常陸国府を襲撃するという、それまで国家反逆のグレーゾーンにいた将門がついに一線を越えてしまう事件が起きます(平将門の乱)。朝廷は将門やその他の関東の危険な人物の活動を抑止する目的で諸興らを押領使に任命したわけですが、平将門の乱に際して諸興がどのような活躍をしたのかは不明です。
⇒ 平将門の乱に関してはこちらで述べています
なお、諸興の本拠地と思われる多摩市の小野神社はセオリツヒメを祀っていますが、過去にアラハバキを祀っていた形跡があります。多摩の有力者小野諸興とアラハバキとはどのような関係にあったのか興味深いです。
横山党の展開
既述した通り、諸興との系譜関係は不明なものの世代的には諸興の子か孫の世代に当たる義孝は、11世紀初頭に小野郷から横山荘(東京都八王子市)に進出して横山を苗字とします。横山党の発祥です。この時代は武士の発生の時期で、武蔵国内では、地元の有力者同士が地縁によって結びつき、「党」と呼ばれるグループを結成しだしていた頃で、武蔵におけるそれらのことを武蔵七党と呼びます。
八王子に発祥した横山党は、その後勢力を拡大し、相模(神奈川県)や甲斐(山梨県)へも進出します。義孝の子・時資は、西武蔵の幹線道である山の根の道を北上した埼玉県美里町周辺で独立し、武蔵七党・猪俣党を発祥させました。
義孝の嫡男は資隆で、その子経兼は、前九年合戦(1051~62)にて源頼義のもと先陣を務め、戦勝後は、安倍貞任の首懸役に任じられました。当時は儀式の一つとして、切り取った敵大将の首を屋外に晒すのですが、その際に、八寸釘を額に打ち付けて固定します。資隆はこの名誉ある儀式の責任者になったのです。武士のこういう振る舞いを見るとまるで首狩り族のように思えますが、武士にとっては、殺した敵から祟られないためにも必要かつ重要な儀式なのです。
⇒ 前九年合戦についてはこちらで述べています
経兼は、後三年合戦(1083~87)の際に源義家の命令に従わず成敗された多胡高経の首を懸けました。このように横山氏は河内源氏の有力な手下になっていたことが分かります。
横山氏は鎌倉幕府内では御家人として存続しましたが、建保元年(1213)の「和田合戦」で、姻戚関係にあった和田氏を一族を挙げて援護した結果大打撃を蒙ってしまい、ついに武蔵国南部域においては復活することはできませんでした。ただしさらにこの後、八王子の横山氏(小野氏)の後裔は、奥州和賀郡(岩手県北上市)の領主・和賀氏や稗貫郡(岩手県花巻市)の領主・稗貫氏などを輩出することになり、彼らは戦国領主として地域を治めました。
八幡八雲神社
八幡八雲神社は、八王子の市街地にあり、その名の通り、八幡神社と八雲神社という二つの神社が合わさっています。現地由緒書きによると、八幡神社は延長2年(924)、武蔵守隆泰が国司のとき、この地に石清水八幡を祀ったといいます。
ちなみに、石清水八幡は、貞観元年(859)に宇佐神宮を勧請し、鎌倉の鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)に、石清水八幡を勧請しました。河内源氏の源頼義が前九年合戦から帰還して、河内源氏の本拠地である大阪府羽曳野市に石清水八幡を勧請して壺井八幡宮を創建したのは、鶴岡八幡宮の翌年です。延長2年(924)というとそれらの著名な神社よりも早いのです。
『新編武蔵風土記稿』所収の横山党略系図によると、小野篁の8代孫に従四位武蔵守隆義という人物がいて、彼は後述の横山神社の祭神である小野義孝の父です。 この隆義は、説明板がいうところの隆泰のことでしょうか。
一方、八雲神社は、延喜16年(916)、大伴妙行が深沢山(のちの八王子城)の頂上に奉斉して、天正年間(1573~92)に北条氏照が八王子城を築城してから氏神としたといいます。 そして八王子城が落城した際、城兵が御神体をもって川口村黒沢に隠れ密かに崇敬していたといいます。 その御神体はのちに洪水で流されたのですが、農民がそれを拾い、八幡神社と棟を並べて祀ったというのが、この八雲神社の由緒です。
八雲神社の祭神はスサノオで、神仏習合時には、スサノオの本地仏は牛頭天王とされました。牛頭天王の8人の王子の信仰がある場所には八王子という地名が付いていることがあります。
『新編武蔵風土記稿』には、八雲神社は八幡神社の相殿として記され、江戸時代にはこの地である元横山村に加え、八王子十五宿の新町・横山宿・馬乗宿・八日市宿・寺町・横町・本宿の鎮守でもありました。
横山神社と横山党根拠地
八幡八雲神社の境内神社として、小野義孝を祀った横山神社があります。建保年間(1213~19)の創立とされます。
東京都はこの場所を指定旧跡としていますが、その名前が良くて、「横山党根拠地」です。ちなみに、『日本城郭大系』には「横山党館」として載っています。横山党根拠地というと、まるで「党本部」がここにあったようですが、そういう意味ではなく、横山氏の祖である義孝の居館があったという言い伝えがあるだけです。
地形的には、約500メートル北側に浅川が流れていて、館の周辺はおおむね平坦な地であり、要害性ありません。現在は辺りは完全に市街地化されており、遺構は残っていません。
八幡八雲神社があるこの周辺、すなわち八王子駅北口と浅川に挟まれた地域は市内の中心地ですが、不思議なことに、東京都遺跡地図を見ると、原始・古代・中世前期の遺跡が一つもないのです。江戸時代から開発が進んでいたため、遺跡があったとしても知らないうちにすでに破壊されたか、現在の市街地の下に埋まっているかもしれませんが、それにしても最近の開発でも一つも見つからないというは不思議です。
『多摩文化19号』所収「横山党の居館について」(清水成夫/著)によれば、甲州街道のバイパス工事の際に、この辺りを掘ってみたところまったく遺跡は見つからず、しかも場所によっては50cmも掘ると砂利が出て来たそうです。
そう考えると、浅川の氾濫源で人が住める地域ではなかったと考えて良いと思うので、この場所に小野義孝の居館があったという説は信じられません。どのような経緯で小野義孝を祀る神社が創建されたのかは分かりませんが、私は横山党の根拠地は、滝山城のある加住丘陵の方ではなかったかと考えています。
横山という地名の元地と横山党の本当の根拠地
横山という地名は、市民の方々はよく知っている通り、八王子駅の北口に横山町と元横山町があります。実は戦国時代の頃までは八王子駅北口辺りは横山村という一つの村だったのです。それが江戸時代になって町づくりをしたときに、現在の国道20号線、つまり甲州街道の沿線にいわゆる「八王子横山十五宿」を作りました。
このとき、八王子城下から横山・八日市・八幡の3宿が、いわゆる「宿越(しゅくごえ)」してきたといいますが、八王子城下にも横山宿があったということで、ややこしいです。八王子城下にあった宿は、元々は滝山城下にありました。
甲州街道の沿道部分に十五宿の一つ・横山宿が作られ、沿道から離れた北側部分が元横山村という名前になり、反対の南側、これまた十五宿の一つである寺町の向こう側が新横山村と呼ばれるようになりました。近代の地名と対応させると、下記の通りになります。
戦国期 江戸期 近代
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横山村 → 元横山村 → 元横山町
横山宿ほか十五宿の一部 → 横山町ほか
新横山村 → 万町・台町ほか
なお、新横山村は当初は御所水村の範囲まで含み、御所水村は宝永4年(1707)に分立しました。
以上述べたように、戦国時代の頃にはすでに八王子駅北口辺りに横山村が存在したため、横山という地名は元々ここであったと思われ、横山党の根拠地と言われているのもそのせいだと思います。
ところが、横山という地名は、滝山城の城下にもあり、後述する通り、滝山城が横山城と呼ばれていたという記録もあるのです。滝山城が機能していた戦国時代後期には、現在の左入町交差点の西側辺りが横山と呼ばれていました。それが、八王子城築城の際に、八王子城下に移っているのです。
横山というと、万葉集には「多摩の横山」と歌われており、その場合は多摩丘陵のことを指すと考えて良いでしょう。ただ、加住丘陵も今の風景からビルなどの建物をすべて取っ払って南側から見ると、立派な「横山」なのです。ですから、加住丘陵のあたりに横山という地名がついてもおかしくありません。例えば、八王子駅北口デッキから北を見るとビルの谷間に南加住丘陵の森が少しだけ見えますが、建物が無ければ「横山」が展開しているのです。
横山党の分布範囲を見ると、八王子を起点にして多摩川を下って行く方面と南の相模方面への二つの流れが見えますが、八王子駅北口が考古学的に見て武士の本拠地に相応しくない事実を考えると、横山党の本拠地は加住丘陵の辺りにあったと考えても良いのではないしょうか。
滝山城の名前の由来
『大石氏の研究』(P.12)が引く阿伎留神社の旧記によると、滝山城は元々は横山城と呼ばれ、横山氏代々の居城だったといいます。
⇒ 滝山城に関してはこちらで述べています
同記によれば、永禄元年(1558)に氏照が居住し、横山城と呼ばれていたのを「湍山城」と改名したとあります。この「湍」という字は、「タン」、「セン」と音し、白川静の『字通』(P.1058)によれば、2000年近く前の中国の漢字字典である「説文解字」に「疾き瀬なり」とあります。
阿伎留神社旧記をどの辺まで信用して良いか分かりませんが、滝山城は元々湍山城と書いたとすると、元々は「たんやま」と発音したのか、「湍」は水がたぎっている意味ですから、「たぎやま」と音した可能性があり、それが「たきやま」となり「滝山」の字に変わったのかもしれません。現在の丹木町という住所は、「たん」と呼ばれていた頃の名残かも知れないですし、「たぎ」から「たんぎ」になったのかもしれません。宗像三女神のタギツヒメは、「湍津姫命」と表記されることもありますが、この女神も水がたぎっている様子から名付けられたとの説があります。「瀧」という集落も元は「湍」から来ているのでしょう。
しかし、もし横山氏の本拠地が滝山城近辺にあったとしても、平安末期から鎌倉初期の段階で、山の上に居館を設けることは考えられません。
なお、阿伎留神社旧記によれば、応永29年の兵乱以後は、二宮に居た大石遠江入道が居城したと言います。大石遠江入道とは、山内上杉家のもとで伊豆守護代を務めた法名「道守」のことだと考えられ、その後武蔵守護代も務めています。遠江家の居城は二宮ではありません。応永29年の兵乱というのは、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に関連するかもしれませんが、よく分かりません。この部分の記述の意味に関しては判断を保留します。
大義寺
歴史的に見て八王子駅北口が町になり始めたのは、元横山町2丁目の大義寺が創建された南北朝時代です。大義寺の創建は、南北朝時代に入った頃の延元元年(1336)で、当初は大元寺と呼ばれました。『新編武蔵風土記稿』によると大義寺は龍華山と号し、現在の西寺方町にある宝生寺の末で、八幡神社(現在の八幡八雲神社)の別当寺です。
大義寺のある場所は八王子市街地創設のまさに中心地といえる場所で、大義寺の西南の十字路を通る南北の道は、中世の頃は古川越道(こかわごえみち)と言って、相模方面と川越を結ぶ幹線道路で、西へ向かう道は八王子道といって、八王子城へ向かう道でした。
大義寺は新義真言宗のお寺で、住職の話によると、当時の「偉いお坊さん」が教線を拡大して行ったということで、実際に古川越道を北上した宇津木町には、大義寺創建より後の14世紀後半に創建された同宗派の龍光寺があり、さらに北上して「平の渡し」で多摩川を渡り昭島市に入ると、市内でも屈指の古寺である阿弥陀寺があります(ルート上の八王子市平町にも真義真言宗大蔵院がありますが、こちらは江戸期の創建です)。
妙薬寺と横山塔
八王子北口の市街地には、横山氏を偲ぶものがもう一つ残っています。それは妙薬寺の境内にあります。妙薬寺は医王山聖天院と号す真言宗の寺院で、本尊は大日如来です。
境内には薬師堂があり、薬師堂は文和4年(1355)の開山で、妙薬寺は当初は明徳2年(1391)に薬師堂の別当寺として建てられました。
妙薬寺の境内には、横山塔と呼ばれる一基の宝篋印塔があります。
永禄3年(1560)に造立されたということですが、この供養塔については詳しいことは分かりません。そのため、今はこうして単に紹介するに留めます。なお、年号に関しては、永和3年(1377)説もあります。
中世八王子を語る上でのキーマンたち
前項で述べた、横山党の滅亡のあと、八王子を所領したのは、鎌倉幕府政所別当・大江広元です。ただし、広元の本拠地になったわけではなく、列島各地にある大江氏の所領の一部という位置づけです。大江氏の流れの長井氏が初沢城などの高尾周辺を中心に治めていますので、あとで初沢城の説明とともに述べます。
長井氏は上杉氏に滅ぼされ、その後は大石氏が八王子周辺を治めます。これもまた、後北条氏によって吸収され、今度は滝山城主・北条氏照によって支配され、天正18年(1590)の北条氏滅亡の後は、徳川家康の代官・大久保長安が入部するという流れです。
中世の八王子を知る上では、武蔵七党の横山氏 → 長井氏 → 大石氏 → 北条氏照という流れを覚えておくと良いです。
初沢城跡
永正元年(1504)、武蔵立河原(東京都立川市)で、扇谷上杉氏と山内上杉氏との間で合戦が起きました。そのとき山内上杉房能が発智六郎右衛門尉に感状(特に合戦で目立った働きをした場合に発せられる書状)を与えており、そこに「武州椚田要害攻落候刻、云々」と記されており、その攻め落とされた「椚田要害」が初沢城ではないかという説があります。ちなみに当時は文書にはあまり「○×城」という書き方はせず、文書に書かれる時は「○×要害」と書かれることが多いです。
初沢城跡は発掘調査をしていないので、考古学的に確かめることはできませんが、現在の椚田という地名とジャストな位置には城跡は無く、中世の頃の椚田という土地がもっと広範囲を指した場合、椚田要害は、初沢城か、同じ八王子市内の片倉城か、かつて館町にあったかもしれない城跡のどれかであると思われます。私は、椚田要害は初沢城であると考えています。
初沢城跡は、高尾駅南口から10分くらい歩いたところにある「みころも霊堂」を目標に行くとたどりつけます。みころも霊堂は産業殉職者の慰霊堂で、2009年3月23日には、天皇・皇后両陛下が行幸しました。その後、皇太子殿下(今上天皇陛下)も行幸しています。
そのように、皇族からも大事にされているみころも霊堂の横にある標高294メートルの初沢山が初沢城跡です。比高は110メートルほどで、だいたい15分くらい歩けば山頂に到着できます。
まずはみころも霊堂の敷地から高尾天神社へ登る石段を登ってみましょう。この石段は98段あるので、一気に登るのは結構大変です。登りきると、下からチラチラ見えていた菅原道真の銅像と対面できます。
この4.85メートルもある菅原道真銅像は、渡辺長男の製作で、渡辺長男は彫刻家の朝倉文夫の実兄であり、旧多摩聖跡記念館にある明治天皇騎馬像を造った人です。菅原道真銅像は、地元の人びとからは「菅公さん」と言われ親しまれており、菅原道真は、高尾駅南口のグルメシティの中にある高尾名店街のマスコットキャラクターにもなっています。
菅原道真銅像は、大正10年に建設計画が起こり昭和5年に完成しましたが、昭和8年に開催された「万国婦人子供博覧会」で展示されたものの、その後行き場所が無く、浅川小学校の校庭に転がされていました。それがようやく昭和12年になって現在の場所に置かれるようになったのです。渡辺長男の執念の作品なので、見ていると魂を揺さぶられるかもしれませんよ。
その菅公さんの左手は一段高くなっており、初沢城の郭の跡です。
菅公さんの置かれている場所ももしかすると郭であったかもしれませんが、確実なことは言えません。ただその先の高尾天神社の境内は、郭跡だと考えている研究者もいるようですが、私は郭であったような感じがしません。というのも左手(山の北側斜面)の削られた方が不自然だからで、元々は傾斜地だったのを神社建設のために削ったように見えます。
ただし、もしかすると現在の高尾天神社の境内ほどは広くなかったものの、帯郭のような郭があった可能性はあるかもしれません。
山道の左手は一段高くなっており、さきほど菅公さんの左手の郭の続きになっています。道から外れて、その郭を直登してみましょう。
郭跡はやや平坦になっており、初沢城跡で一番広い平坦面です。失礼ながら、菅公さんを背後から見下ろすことができます。
郭の下には帯郭がまわっているように見えますが、堀跡だった可能性があります。
・・・と、こういう文章と写真の説明では全然分からないですよね。
それでは、一番広い郭を後にして、主郭である頂上を目指しましょう。
前面が傾斜のきつい登り坂になっていて、右手に道が分かれているところに来ました。傾斜のきつい登り坂は郭の法面です。ここを登ると結構大変なので、右手の道を選びます。そうするとなだらかな登り道なので楽です。
登っていくと小規模な郭の背後に出ます。さらに登ると、もう一つ小規模な郭の背後に出ます。
いよいよ主郭へと登る斜面に到達しました。ここからは足場が悪くなり、岩が露出しているところを登ることになります。滑りやすいので注意が必要です。
足場の悪いゾーンを登り切ると、左手に道がついています。正面を直登しても構わないのですが、結構きついので、左手の道を選びます。すると主郭の南側の少し低い部分に到達します。山の尾根ですね。
ここの南側は堀切で尾根を切断しており、現在は土橋状になっています。
土橋を越えた先の主郭は、南北30~40メートル・東西5~10メートルくらいの小規模な平坦面です。
主郭には標柱が建っています。主郭は南西方向の眺望が開けています。遠くの丹沢山系の山並みまで綺麗に写る写真が撮りたければ、晴れていて空気が澄んだ日の午前が良いでしょう。
主郭の下には小規模な腰郭もあります。
あとは小さい郭とか竪堀とかもありますが、真冬でも藪化しているので見るのは難しいでしょう。
なお、山頂部は大戦中に軍の防空施設が置かれたそうなので、それによる地形改変も行われているのでそれと見分けを付けるのは難しいかもしれません。昔は主郭の近くの郭に神社があったそうですが、現在は鳥居もなく、石段のみが山の中にひっそりと存在しています。
さて、だいたい初沢城跡の見どころは以上なのですが、初沢城は本格的な戦国時代に突入する前の室町時代の古風な山城の雰囲気が濃厚に残っている面白い城跡です。
初沢城の城主は誰か?
初沢城の城主については、武蔵七党の一つ横山党の一族椚田氏が拠ったという説と、鎌倉幕府政所別当・大江広元の子孫の長井氏が拠ったという説があります。
まず椚田氏については、その時代が中世初期になってしまい、鎌倉時代に山城を取り立てるというのはあまり考えられないので、椚田氏がこのあたりを治めていたころは、椚田氏は平地の居館に住み、まだ初沢城は築造していなかったのではないかと思います。
そしてつぎの長井氏ですが、初沢城はこの長井氏が築いた城だと考えて良いでしょう。
長井氏は初沢城跡近くの高乗寺の開基ともされており、高尾近辺には長井氏あるいは同系統の大江一族の伝承がいくつか残っています。
横山一族が滅亡して大江広元が横山荘(八王子市内)を所領したのは、800年前の建暦3年(1213)です。その広元の次男時広が出羽国長井荘(山形県米沢市・長井市周辺)の地頭職となり、長井氏を称しました。
長井荘の長井氏は、伊達氏によって長井荘を奪われてしまったのですが、その時期は、古くからの説である応永9年(1402)説と、『関東中心足利時代之研究』の応永20年(1413)説、それに『山形県史』の康暦2年(1380)説があります。
初沢(このあたりの地名)の高乗寺は寺伝では草創は応永元年(1394)とされているので、初沢には元々長井氏の代官が住んでおり、14世紀の終わりごろ、長井氏が伊達氏によって所領を奪われ、初沢に逃れてきて高乗寺を開基し、初沢城を築城したと考えるのが素直だと思います。
長井氏の最盛期
それから約半世紀後の15世紀半ば頃の当主は広房といって、扇谷上杉持朝の娘を嫁にもらっています。その頃の関東地方は簡単に言うと利根川(現在の古利根川)を挟んで西側は上杉氏の勢力範囲で、東側は古河公方足利氏の勢力範囲でした。
その上杉氏のなかでも扇谷上杉氏と山内上杉氏が二大勢力であり、二大勢力と言われるものの、山内家の方が断然勢力がありました。
そのような力関係のもと、扇谷上杉持朝は上杉陣営で頭角を現し、扇谷家を発展させた武将として知られています。
上杉陣営の有力者を義父に持つ広房は、山内上杉氏の家宰(筆頭家臣)の子であった長尾景春が主家に対して起こした叛乱である「長尾景春の乱」では、当初景春に付き、その後山内上杉側に付いています。
広房は扇谷上杉氏の家宰である太田道灌からの書状に「長井殿」と殿付きで記され、長井氏は室町時代における関東大名層という高い家格に位置付けられていました。
しかしその長井氏も広房のころを全盛期として、両上杉氏が対立を始めたあおりを受け、その後滅亡への道をたどります。
長井氏の滅亡
広房の子の広直は、「長尾景春の乱」からの縁で山内上杉氏に従っており、椚田城(初沢城に比定)は山内上杉勢力の最南端に位置していました。
そこに扇谷上杉氏を支援する伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が南から攻めてきたのです。永正元年(1504)のことでした。
永正元年(1504)9月、扇谷上杉朝良の要請を受けた駿河の大名今川氏親は、叔父伊勢宗瑞を出陣させ、宗瑞は15日には武蔵国稲毛郷に着陣、5日後には氏親も合流、27日には立河原(立川市内の多摩川の河原)で山内上杉顕定と合戦となり、顕定は敗走しました。椚田要害に拠る長井広直はその直後、今度は扇谷家のメンバーとして名前を連ねていることから扇谷家配下に出戻りしたと考えてよいでしょう。
しかし山内家は素早く反攻を開始します。そしてその最初のターゲットとされたのが離反した広直の籠る椚田要害でした。裏切り者は捨て置けないのです。山内家の猛攻により11月には椚田要害は落城し、城主広直以下20余名は自刃して果てました。ここに大江広元を祖に持つ名家長井氏は滅亡してしまったのです。
その後、椚田には山内上杉顕定の宿老(重臣)大石道俊が入ります。このとき大石氏は一気に溝郷(相模原市上溝)まで版図を拡げたため、領域のバランスを考えたためか椚田に本拠地を移したものと考えられます。ということは裏を返せば上溝あたりまでは元々長井氏の版図であったのでしょうか。『多摩のあゆみ 143号』所収「鎌倉・室町期の長井氏と横山荘」によると、溝郷よりも先の座間郷にある常福寺の開基は大鏡寺殿大海道光居士で、道光はすなわち長井道広なわけで、14世紀末には長井氏は座間郷まで領していたことが分かります。なお、上溝にある秀珍山寳光寺の寺伝では天文年間に道俊が開基したとされていますが、以上の政治情勢を考えると永正年間のことかもしれません。
永正6年(1509)8月、宗瑞は初めて今川家の命ではない独自の軍事行動を起こし扇谷家を攻撃、ついに戦国大名へ向けてのいわば「独立宣言」をします。今川家から見ると叛乱で、黒田基樹先生もそう表現しています。宗瑞は翌永正7年(1510)5月頃には椚田要害を落とし、城を追われた大石道俊は由井城(浄福寺城といわれる)に本拠を移しました。それと同じ頃、宗瑞に味方した吉里一族が津久井山に籠っています。この津久井山が津久井城かどうかは分かりませんが可能性は高いでしょう。吉里一族については「長尾景春の乱」で景春に味方した吉里宮内左衛門尉の一族と思われ、現在の新潟県魚沼市に地名が残っています。のちに津久井城主として有名となる内藤氏はまだ史料に現れません。
さて、永正7年に伊勢宗瑞によって攻め落とされたところまでは「椚田城」は史料に現れるのですが、問題はその後です。
初沢城は後北条氏によって使用されたのか?
私は当初、宗瑞によって攻められた後、初沢城は廃城になったと考えていたのですが、2013年11月9日に、前川實さん(『決戦!八王子城 直江兼継の見た名城の最期と北条氏照』などいくつかの本を書いている地元の研究家)の「中世「初沢城」の構造と役割 北条氏の軍用道路「おだわら道」の要所」という講演を聞いたところ、その考えが変わりました。
前川さんが若いころ、現在の紅葉台団地ができる前は、そこには二つの小さな丘があって、その頂部からは麓を走る「おだわら道」を監視できたということです。
そのため、初沢城の城域は現在確認されているよりも広く、紅葉台団地まで含まれる可能性が高いです。
それと、現在の実践学園グラウンドがある場所は、長井氏の居館があったところである可能性が高く、その先端が御嶽神社になります。
つまり、初沢城の城域は、北東から南西にかけては1.2キロメートルに及ぶので、初沢城はかなり大きな城ということになります。
初沢川の谷を挟んだ西側の高乗寺の裏山も城跡であるらしいので、さらに金比羅山砦も含めて、この初沢城を中心とした城郭群は、後北条氏によって計画的に造られた大規模な城郭群である可能性があります。
また、初沢城跡を何十年にもわたって丹念に歩いた前川さんの調査によれば、異常なほどに郭と考えられる削平地が多くあり、前川さんは後北条氏による工事の結果と考えています。
やはり初沢城は後北条氏の時代にも使われていたのではないでしょうか。
ただし、後北条氏時代に初沢城が使用されていたことに関しては疑問点もあります。
というのは、天正18年(1590)の八王子城攻めのときに、豊臣勢は高乗寺に禁制を出しており、初沢の地に駐屯しているのです。
駐屯しているということは、豊臣勢はこの地を占領したということになりますが、初沢城やその近辺の城塞群において戦闘があったという記録がまったく残っていないのです。
もしかすると、後北条氏は豊臣との戦いは今までの地方の戦とは比べ物にならない規模の大戦(おおいくさ)になることを見越しており、多摩地域の拠点城であった八王子城に近辺の兵力をすべて結集したのかもしれません。
八王子城周辺の他の小さな城はすべて捨てて八王子城に結集したという想定です。
そうだとすると、初沢城では戦闘は行われず、戦闘の記録がないことも頷けます。
以上、初沢城周辺の「一大城郭群」についての研究はまだ始めたばかりですので、研究が進みましたらまたその都度公開していこうと思います。
熊野神社
八王子市内の片倉城の築城や広園寺の開基は、大江師親という人物によるものというのが通説です。師親は長井氏と同族であっても毛利家の系統であり、毛利家は安芸(広島県)に行ってしまい、師親(元春)は南北朝時代に中国や九州で活躍しています。その師親がなぜ遠い武蔵にやってきて片倉城を築いたり、広園寺を開基したのか?
これは私は後世の付会ではないかと、一蹴するつもりでいたのですが、『生きている八王子地方の歴史』によると、広園寺のある「山田」という地名は、安芸の毛利家の本拠地と同じ名前であり、師親が安芸から持ってきたというのです。
それは本当でしょうか?
それとも、偶然両所とも「山田」なのでしょうか?
そして、『東京都神社名鑑』によると、我が家の近所の氷川神社と熊野神社が、師親の勧請あるいは創建との伝承があるのです。もちろん片倉城にある住吉神社も師親の勧請といわれています。片倉城や広園寺や各神社の師親伝承が意味するものは、いったい何なのでしょうか。
毛利家は戦国時代に中国地方を統一する大大名になりましたが、もし師親伝承が後世の付会だと考えるにしても、八王子の人々が故意に八王子と毛利家を結び付ける理由が見つかりません。八王子の人々は毛利家と結び付けて何のメリットがあるのでしょうか。明治以降、八王子の有力者は、長州閥と関係があったのでしょうか。
高尾駅北口を出て甲州街道を東に行くと熊野神社があります。熊野神社の西側には南浅川の支流の初沢川が流れていますが、現在は暗渠となっています。
熊野神社の社地は、街道よりも一段高くなっています。
祭神は素邪那岐命(いざなみのみこと<表記は由緒書きの通り>)。由緒来書きによると、熊野神社の創建の由来には二つの説があります。
一つ目は、時代は分からないのですが、諸国行脚の老夫婦がこの地に紀州熊野本宮大社を奉斎したというものです。
二つ目は、片倉城主毛利備中守師親が応安年間(1368~75)に創建したというものです。
そして天正元年(1573)には、北条陸奥守氏照が再建しています。
さて、ここで毛利師親の名前が出てきました。
古代末期頃、横山荘(八王子市)は、武蔵七党の横山党の横山氏が領主だったのですが、横山氏は建暦3年(1213)の和田義盛の乱で和田氏に加担し滅亡し、その年のうちに、横山荘は鎌倉幕府の政所(まんどころ)別当(長官)を務めた大江広元のものとなりました。
広元の四男の季光は、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を所領し、毛利を氏としました。
季光は、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の地頭職にもなり、子孫がその地に土着して師親に至るのですが、師親は南北朝時代に中国・九州地方で活躍しているのにもかかわらず、なぜか八王子市内に伝承が多く残っているのです。
中国・九州地方を転戦していた師親が果たして八王子にやってきたということはあるのでしょうか。南北朝時代の武将は意外と日本全国を飛び回ったりしていたので、師親の八王子来住の可能性もゼロではないと思いますが、可能性は低いと考えます。
なお、中国地方の大大名になった毛利元就は師親の子孫です。
ところで、境内には境内神社として他にもいくつかの神様が祀られています。例えばこちらには6柱の神が並んで祀られています。
右から天満宮、山王様、上の稲荷宮、抱蒼神、八阪宮、お杓文字様です。民俗マニアには、抱蒼神(疱瘡神)やお杓文字様(おしゃもじさま)は堪らないのではないでしょうか。
こういう地元密着の面白い話が書いてある神社って好感が持てますね。
境内神社は他に二つあります。一つ目が神武天皇を祭る神社で、二つ目が、「下の稲荷宮」です(前述の上の稲荷宮と対応していますが、上と下の意味は分かりません)。
境内には、縁結びの木があります。
根元がカシとケヤキの相生の木で、かなり立派な木です。由緒書きによると、この木にまつわる次のようなラブストーリーがあるのです。
16世紀の終わりごろ、八王子領主北条氏照の家臣篠村左近之助に安寧姫という美しい姫がいて、氏照は安寧姫のことを大変可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつも側に置いていた。宴ではよく獅子舞が演じられ、そのなかに一際上手に笛を吹く狭間の郷士の息子という若者がいた。氏照も笛の名手であったので、その若者をよく宴に呼んで笛を楽しんでいた。安寧姫も宴に侍っていたから、必然的に安寧姫とその若者とは顔を合わせることが多くなり、いつしか二人は恋仲になってしまった。そしてこの木の下で密かに逢瀬を重ねていたという。その後二人がどうなったのかは、誰も知らない。
お話は以上なのですが、氏照はこの二人を夫婦にしたのでしょうか、それとも嫉妬のため手打ちにしてしまったのでしょうか。現在、この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を二つ置くと願いが叶うそうですので、こういったポジティヴな言い伝えが残っているということは、二人は一緒に成れたのではないかと想像します。もし、手打ちにされていたら祟りの話になっていると思います。
ところで、熊野神社のすぐ東側には中世のころは鎌倉街道が走っており、南浅川の渡河地点でもあるので、熊野神社は戦略上重要な位置にあります。熊野神社は町の小さな神社といった佇まいなのですが、以上のような内容から何か重要な神社に思えて仕方ありません。
廿里古戦場跡|東京都八王子市
高尾駅北口から徒歩数分のところに廿里(とどり)古戦場があります。この場所は、鎌倉への距離が十里で、秩父へも十里であるので、それで廿(二十の意味)里と名付けられたという説があります。また、関和彦氏は、高尾から京王線で20分くらいの聖蹟桜ヶ丘駅近くの落川遺跡(日野市と多摩市にまたがる)から「和銅七年(714)十一月二日 鳥取部直六手縄」と刻まれた紡錘車が出土したことから、この地には鳥取部の人たちが居住していたのではないかと考えており、廿里という地名は、鳥取部から来ている可能性を提示しています。
なお、鳥取部(とりとりべ)というは、鳥を捕まえたり飼育したりすることを役目とする朝廷の職のことであり、またその職に就いている人たちのことです。
奈良時代以前にあった職なのでそういう昔からこの土地は天皇家と関わりがあったのでしょうか。
ロマンを感じますね。
高尾駅から来て少し坂を登った場所(進行方向左手)に八王子市教育委員会が設置した「廿里古戦場」の説明板が立っています。
説明板を読みますと、以下のような内容が書いてあります。
「永禄12年(1569)、甲斐(山梨県)の武田信玄は、小田原の北条氏康を討つべ甲府を出陣し、碓氷峠を越え関東に出て、北関東の諸城を攻撃しつつ、滝山城と多摩川を挟んで対岸の拝島(昭島市)まで侵攻した。一方、郡内の岩殿城主小山田信茂も信玄の別働隊として小仏峠を越えて現在の高尾地域に侵攻してきた。滝山城主北条氏照は、正面の信玄の本隊への対応もしながら、西から攻め寄せた小山田軍に対抗させるべく、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らを急派した。そして10月1日、ここ廿里で北条と武田の戦いが繰り広げられた。」
説明板の裏の山は、現在多摩森林科学園になっており、珍しい桜が植えられているということで、桜の季節は大変賑わいます。その森林科学園のある山とこれから訪れる白山神社の山一帯が、古戦場と言われています。
説明板から高尾駅の方を見ます。
右手に金比羅砦のあった金比羅山があって、重なってしまって分かりづらいのですが、その奥の山が初沢城があった初沢山です。中央右手に金色のお堂の「みころも霊堂」が見えていますが、初沢城跡にはその近くから登って行きます。
廿里の合戦については、次項でまた続きを述べます。
白山神社|東京都八王子市
白山神社を訪ねてみましょう。
石段を数十段上がると、拝殿があります。
本殿はここより先の山の上にあります。拝殿の横には5分くらいで本殿に着くと書いてありますが、実際にその程度で到着します。
鬱蒼と生い茂る木々の間の細い道を上がっていくと、ところどころに祠があります。山岳信仰っぽくて良い感じですね。登り坂は途中石段になっているところもありますが、足場はあまり良くありません。
先ほどの説明通り5~6分登ると少し広い平坦地が現れ、白山神社の本殿が建っています。
廿里の合戦の際、小仏峠を越えて進出した小山田勢はこの近辺に砦を築いて、北条勢を待ち構えました。
『東京都神社名鑑』によると、白山神社は享禄3年(1454)に加賀一の宮を勧請し、明応7年(1498)2月再建、天文22年(1553)に滝山城主大石左衛門尉綱周が社殿を造営したということなので、廿里合戦の際には、すでに神社はあったわけです(後述する通り、上記の来歴を証明する棟札がかつて存在しました)。
境内からはわずかに木々の間からみころも霊堂が見えます。
この平坦地は、南側が今まで登ってきた斜面になり、やや緩い感じですが、西と東はかなりの急崖になっていて、攻め手が登ってくるのは不可能です。そして北側ですが、実はこの本殿がある場所は山の最高所ではなくて、本殿の後ろ(北側)に回ると、さらにもう一段上まで行けるようになっているのです。
そこには小祠があります。
ここが最高所です。標高は246.7メートルを数え、拝殿のあった場所からの比高は60~70メートルくらいです。以前、考古学者の十菱駿武さんの講演を聞いたときに、この山には遺構があると言っていました。この最高所から東側の尾根伝いに少し進んで行くと、堀切があるようなのです。しかし、未だ未確認の体たらくです。
白山神社は、『新編武蔵風土記稿』によると、かつて文永12年(1275)4月8日阿闍梨禅仁の銘がある本地仏十一面観音の板碑があり、また享禄3年(1454)・明応7年(1498)・ 天文22年(1553)造営の棟札が存在したと言います。
また、『八王子市史 下巻』によると室町末期の薬師如来の板碑が現存するそうです。白山神社はかなり歴史の古い神社であることが分かりますね。
さて、廿里の合戦の結末ですが、北条氏照の派遣した横地監物らの軍勢は、敢闘虚しく小山田勢の攻撃の前に敗れ去りました。北条軍は、金指平左衛門や野村源兵衛らが討ち死にしたと伝わっています。
浅川金刀比羅宮(金毘羅山砦跡)
金比羅山砦は、その名の通り金比羅山にあります。金比羅山と言うのは、浅川金刀比羅宮がある山で、京王線の高尾駅のホームから高尾山口方向に向かって線路のすぐ左側にある山です。
南側の高乗寺の参道から見た金比羅山砦はこちらです。
私は「金比羅山砦」と呼んでいますが、手元にある考古学者の十菱駿武さんの資料を良く見ると、 「金比羅砦」と、「山」を抜いて書かれています。
金比羅山は標高256メートルで、比高はだいたい70メートルくらいです。山の南側は、三和団地という住宅街があり、斜面が削られています。行き方としては、高尾駅南口を出てから浅川中学校の脇の高乗寺参道入り口をまず目指しましょう。参道入り口から少し歩くとT字路があり、右折すると登り坂になっており、三和団地があります。
三和団地は急峻な金比羅山の斜面にあるので、坂を登るのが慣れていない人はこの坂を登るだけでバテると思います。三和団地にお住まいの方はきっと心肺機能が強化されているのではないかと想像できます。
坂の途中の3つ目の角を右折し、さらに坂を登っていくと、ようやく浅川金刀比羅宮の下に着きます。
そしてさらに階段を上っていき、山の斜面を登っていくと、やっと鳥居が現れます。鳥居をくぐると、また石段です。石段を登りきると、ようやく社殿が見えます。
境内は狭いので一杯に引いて写真を撮ってもこんな感じになってしまいます。
浅川金刀比羅宮の創建年代は不明ですが、北側の元参道には安政2年(1855)銘の石燈篭があるようです(未確認)。
金比羅山砦は、十菱駿武さんが1992年に竪堀を発見し、「金比羅砦」として公表し、砦と言われるようになりました。十菱さんは、廿里合戦のあった永禄12年(1569)から八王子城築城までの間に初沢城を修築したと考えており、その折金比羅山にも八王子城の支城網の一つとして築砦されたと考えています。
なおこの場所は、東京都教育委員会の東京都遺跡地図には「金比羅山」という遺跡名で載っていますが、同じく東京都教育委員会発行の『東京都の中世城館』では、「当該地には数箇所に竪堀状の地形が存在しているけれども、林業や戦時中の軍需施設に伴うものである可能性も否定できず、現状では城郭遺構との判断は保留する」としています。
初沢城から見た場合は、地理的には初沢城を攻める場合の向城として利用することはできないので
(この山を向城にすると南浅川によって背水の陣になってしまう)、初沢城からするとこの山を敵に取られる心配はありません。
八王子城から見た場合は、南浅川の対岸になってしまうので、この位置まで支城網に取り入れる必要はないように思えます。
なんか軍事的観点からすると微妙な感じですが、高尾の戦国時代を考える上では、一度は見ておく必要があるでしょうね。
八王子城跡への登城口
八王子城跡へは、土・日・祝は高尾駅北口から城の入口までバスが出ていますが、それ以外の日は同じく高尾駅北口から中央高速のガード下の「霊園前」バス停に止まるバスに乗って、そこから歩いて行けば15分くらいで城の入口まで行けます。
「霊園前」バス停のすぐ北側の八王子城跡入口交差点からは、西に向かってまっすぐな道が延びていますが、八王子城攻めの際は、前田利家を大将として、真田昌幸や松平康貞らがここを通過しています。
以下、八王子城での戦いについては、八王子城研究で著名な高尾在住の前川實さんが著した『決戦!八王子城』によって述べます。
天正18年(1590)6月22日の22時過ぎ、四谷(八王子市四谷町)に本陣を構えていた利家ら大手攻撃軍は物々しく進軍を開始しました。現在の高尾街道沿いを南西に向かったのです。そして途中、濃霧のため一時行軍を停止しましたが、翌23日になったころ、現在の「石神坂」バス停辺りにあった大城戸で北条軍との戦いの火ぶたが切って落とされました。
1時間ほどの激闘の末、大城戸を破った利家らは、横山宿や南北八日市宿を放火しながら突き進み、砦化されていた現在の梶原八幡宮からの反撃をはねのけ、ちょうど「霊園前」バス停辺りにあった中宿大手門に攻撃を仕掛けたのです。
この道の南側には道に並行して城山川が流れ、また北側にもやはり道に並行して小さな流れがあるので、それらが天然の水堀となり、ここから先を細い通路状にしています。
土・日・祝のみのバスで城まで行く場合、終点の一つ手前の「八王子霊園南門」バス停で降りることをお薦めします。というのは、このバス停以降、見どころが発生するからです。
バス停前の道路のすぐ西側は、食い違いになっていますが、こういう道路の作りは全国の城下町でよく見られる光景で、わざと道を屈曲させることによって、攻めてきた敵の勢いを減じることができ、足の止まった敵に対して集中砲火を浴びせることができます。
上の写真でも道に対する面が少し高くなっているのが分かりますが、その高まりは土塁の跡で、横地堤と呼ばれ、現在は宗関寺の境内となっています。
曹洞宗・宗関寺は朝遊山と号し、『八王子市史 下巻』(P.1429~30)によると、永禄7年(1564)に下恩方の心源院6世・卜山舜悦(歴代の住職の中でも傑僧として知られる)が開山となり、北条氏照が開基となって建立されたといいますが、八王子市ホームページ内「八王子市の名前の由来」によると、宗関寺には次のような記録が残っているといいます。
「延喜13年(913)の秋、京都から妙行(みょうこう)という学僧がこの地にやってきて、深沢山(後の八王子城)の山頂で修行をしていたところ、牛頭天王が8人の童子を引き連れて現れたので、さらに修業を積んだ妙行は、延喜16年(916)に深沢山を天王峰とし、周囲の8つの峰を八王峰と呼び、それぞれに祠を建て、牛頭天王と八王子を祀る八王子信仰を始めたという。そしてその翌年、深沢山のふもとに一寺を建立し、それが宗関寺の元になった寺とされる。
それからしばらく経った天慶2年(939)には、妙行はその功績により朱雀天皇から「華厳菩薩」の称号を贈られ、寺名も「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改め、深沢山にある八王子神社の神宮寺となった。
その寺が数百年の時を経て、荒廃していたのを氏照が永禄7年に中山勘解由家範に命じて堂宇を建立させ、2年後の永禄9年に心源院の卜山舜悦を開山として曹洞宗寺院として再建させ、当初は現在地より西に500mほど行った、現在の氏照墓地近辺にあったのが明治25年に現在地に移ったという。」
さて、宗関寺が新たに開基された頃、氏照はまだ20代半ばの青年武将です(氏照の生年に関しては確定されていませんが、天文9~11年<1540~42>の生まれとされます)。
北条氏は永禄6年には三田谷(現在の青梅市)周辺に勢力を張っていた三田綱秀を滅ぼし、その地域は氏照の支配下となっており、翌年の正月8日には、下総国府台(千葉県市川市)にて、房総の覇者・里見義弘と第二次国府台合戦を戦っています。
第二次国府台合戦では氏照も大いに活躍し、氏照の御馬廻衆・小田野源太左衛門尉周定らは氏照から感状が与えられました(「佐野家蔵文書」永禄7年2月28日付け「北条氏照感状写」ほか)。
氏照はこの頃には、大石氏の婿養子になったときから住んでいた浄福寺城を出て、滝山城に移っているので、新たな領域支配の一環として宗関寺を開基したのでしょう。宗関寺の場所より西側は、根小屋地区と呼ばれ、国史跡の範囲に含まれており、八王子城が機能していた頃は家臣団の屋敷地でした。
では、八王子城攻めの続きを述べます。
中宿大手門を突破した利家らは、ここにあった横地堤大木戸にて北条勢と激戦となりましたが、やがてここも突破して根小屋地区になだれ込みました。
そして午前3時頃には、管理事務所の東側にあったとされる近藤出羽守助実が守る山下曲輪へ攻めかかりました。山下曲輪への攻撃は3時くらいだということなので、高尾街道の「石神坂」バス停付近で戦いが始まってから、約2.5km進むのに3時間も掛かっています。
天下にその名を轟かせている利家・昌幸らが率いる「プロ」の兵士たちに対して、合戦経験で劣る農民主体の北条勢はかなり敢闘したと思います。
よく「八王子城は1日で落城した」と言われているので、呆気なく落ちたと思っている人もいるかもしれませんが、上方軍はかなり苦戦したのです。しかし、結局は上方軍はプロ集団なので、臨機応変に策を練り、武将たちも指揮が上手であり、何よりも数の上でも有利だったので、最終的には「1日で落城」ということになってしまったのです。
(八王子城の戦いの続きは後日追記予定)
北条氏照及び家臣墓
宗関寺の前を過ぎると、右手に「氏照氏照の墓」の標識が現れます。
その道から山へ向かい、階段を3分ほど上ると、頂部に墓域が現れます。
正面中央が、氏照の供養塔です。
氏照重臣・中山勘解由家範は、八王子城の戦いの際に奮戦して討死してしまいましたが、その武勇が称賛され、孫・信治は水戸藩の家老職となり、氏照の100回忌追善法要の際にこの供養塔を建てました。
供養塔の裏には氏照の戒名「青霄院殿透岳宗閑大居士」が刻まれており、向かって右側に「本室宗無居士」と刻まれている墓は家範の墓、左側の「中山道軒居士」と刻まれている墓は、信治の墓です。
また、氏照の供養塔と信治の墓に挟まれた五輪塔は、これも落城の際に討死した金子三郎左衛門家重の墓といわれています。
なお、氏照の墓は同時に自刃した兄・氏政の墓とともに小田原にあります。
墓域は、移転前の宗関寺の観音堂跡(あるいは墓域跡)ということですが、墓石や自然石のようなものが散乱しており、少し荒れている感じがします。
その中に、一際目立つ宝篋印塔があります。
その宝篋印塔は、八王子城跡ボランティアガイドの会によると、先ほど出てきた、宗関寺の元の寺を開いた妙行(華厳菩薩)の墓だとされているようですが、平安時代中期に宝篋印塔はまだ作られていないはずです。そのため、もし妙行の墓だとしたら、中世になってから改めて建立された墓ということになります。
武蔵の北条氏照領と甲斐の武田氏領(郡内小山田氏領)を結ぶルートはどこだったのか?
『多摩のあゆみ 四十号』所収「瀧山城と八王子城 ―移転についての諸問題を中心に―」によると、元亀元年(1570)ごろ、北条氏康は岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)にいた江戸衆の大身(身分の高い家臣)富永弥四郎に対して、大須賀信濃守を大至急、由井八日市へ向かわせろと命じています。
同書では、由井八日市というのは現在の八王子市諏訪町から叶谷町のあたりの地域を指すとありますが、なんとその地域に甲斐の武田氏の兵が侵入し、蠢動を繰り返しているというのです。
それまでは甲軍(甲斐の軍勢)が武蔵に侵攻する際には、現在の上野原町と檜原村との境にある浅間峠を越えて来ましたが、その先には北条の城である檜原城が待ち構えており、檜原城を落とさなければ甲軍は由井八日市まで進攻できません。
しかもそのルートは檜原街道であり、由井八日市へ進む道ではなく、由井八日市は案下道(現在の陣馬街道)沿いの地域です。
ということは、このとき甲軍は、案下道を通って侵入してきたと考えるのが素直で、そうなると旧藤野町と八王子市の境である和田峠を越えてきたことになります。
しかしここで不思議なのは、和田峠から由井八日市までの間には浄福寺城があったはずなのに、甲軍は浄福寺城の真下を通って由井八日市まで侵攻していることです。
また、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの大侵攻作戦に伴う、郡内小山田信茂の東進の際は、和田峠よりもさらに南の小仏峠が使われました。
このルートも北条氏はノーマークで、滝山城の北条氏照は、急きょ部下を迎撃に向かわせ、現在の八王子市廿里町で激戦が繰り広げられました。
上記の武田氏の攻撃は、甲武(および武相)の国境警備も管轄の内である北条氏照にとっては衝撃的だったと思われ、それがそののちの八王子城築城の理由の一つになっていると考えられます。
八王子城の位置は、和田峠を越えてくる敵と小仏峠を越えてくる敵の両者に対応できる絶妙な位置にあります。
また、和田峠を見下ろす南側の山は陣馬山と呼ばれていますが、本来は「陣場山」という字があてられ、武田軍が布陣した場所であるという伝承があります(ただし、『東京都の中世城館』では、陣馬山では遺構は確認できないとしています)。
「瀧山城と八王子城」によると、和田峠下の旧家に、北条氏支配の頃、山頂に関所があってその家の先祖は関所の役人をしていたという伝承が残っています。
そして小仏峠を見下ろす南側の山は小仏城山と呼ばれていますが、こちらも『東京都の中世城館』では山頂の平場について遺構かどうか検討を要するとあります。
さらに陣馬山と小仏城山の間の景信山は、氏照家臣の横地景信が守備したという伝承がありますが、遺構はなく、堂所山にも氏照が鐘撞堂を置いたとの伝承があります(『東京都の中世城館』)。
上記の話から、北から和田峠(陣馬山)・堂所山・景信山・小仏峠(小仏城山)の順に並ぶ北条氏と武田氏との国境の要地には、上記の永禄12年や元亀元年ごろの甲軍の度重なる侵攻が教訓となり、八王子城の築城よりも前に国境警備のために砦を築いたと考えて良いと思います。
そしてさらに、小仏峠を突破した甲軍が南浅川の右岸(南岸)に進路を取った場合を想定して、かつて長井氏の居城であった初沢城を改修し、防衛ラインを強化したものと考えられます。
小仏城山などの国境の砦は兵の数が少なく、砦も堅固でないため、優勢なる敵兵力を長時間抑止することはできないので、早期に敵兵を発見し、のろしを使った通信手段で後方の初沢城や八王子城に迅速な対応を促すことが役目であったのでしょう。
あと、甲州方面から武蔵へ入るルートとしては、上記以外にも多摩川上流から小河内峠(奥多摩町と檜原村の境)を越えるルートや、西原峠(才原峠=上野原町と檜原村の境)を越えるルートもありましたが(『五日市町史』)、その二つのルートはともに檜原城で防衛できます。
さて、いくつかの国境越えのルートを紹介しましたが、上述のルートはいずれも大軍が侵攻するには不適当なルートで、冒頭で述べた由井八日市の武田氏の蠢動も含め、武田側からは郡内の小山田氏の兵が1000人程度で侵攻してくるのが通常のケースであったと考えられます(上野原の加藤氏が先兵となっていたのでしょう)。
近世以降の八王子
高尾駅北口の町づくりの礎となった設楽杢左衛門の南浅川治水工事
古代の頃の高尾駅北口は、南浅川の氾濫原なので、おそらく人は住んでいなかったと思いますが、領域的には『和名類聚抄』の川口郷の範囲になります。
中世のころは現在「初沢城跡」と呼ばれている城が「椚田城」と呼ばれており、このあたりは椚田という地名だったようです。ただし、椚田は広域地名なので、ピンポイントでこの地域がどう呼ばれていたかは分かりません。
室町時代の頃になると、南浅川の河岸ということで、川原村と呼ばれていたよう、ようやくその頃から人が住み始めたようです。
当時の南浅川は現在の流路と違いました。
現在は両界橋の南の方から北流して、白山神社の麓にぶつかるとそこから東流していますが、当時は両界橋のあたりから東流し、高尾駅のすぐ前あたりを流れていたそうです。つまり現在の国道20号線(甲州街道)のやや南に沿った線が南浅川の流路だったわけですね。その頃は、この地に甲州街道はありません。
『八王子のむら』(古文書を探る会/編)によると、天正6年(1578)に、案内・狭間・初沢・原・川原・三田の6村が合併し椚田村になりました。
慶長年間(1596~1615)には、椚田村が上と下に分かれ、この辺りは上椚田村となり、さらに上椚田村は領域が広かったため、案内・川原ノ宿・原宿に分かれました。この辺りは川原ノ宿で、現在も上宿・中宿・下宿という町内会があります。
さて、その頃の川原ノ宿は、南浅川がたびたび氾濫するので、非常に住むのに不安定な地域でした。そのため、地元の設楽杢左衛門(したらもくざえもん)という人物が、万治年間(1658~61)頃、私財をなげうって7年とも20年ともいわれる期間をかけて、現在の流路に変更させたのです。もしかすると、川原ノ宿が発生したのは、杢左衛門の治水工事のあとかも知れません。
杢左衛門の先祖は、元々今川家臣でしたが、武田側に付き、武田氏滅亡後は北条に仕官し、その北条も滅亡してしまったのでこの地に土着しました。杢左衛門の治水工事が現在のこの地区の繁栄の基礎になっているのですが、先日図書館で調べてみても、杢左衛門について書かれた資料は見つかりませんでした。そのため詳しいことは分からないのです(おおよその話はフリーペーパー「高尾界隈」第24号に書かれていたのを先日偶然発見しました)。
治水工事のあとに南浅川沿いに植えた「さいかち」の木は、数百本植えたなかの1本が残っているらしく、また、旧河道には千体地蔵があります。
JR高尾駅
高尾山は世界で一番登山客が多い山だそうです。何とその数年間260万人!
その高尾山に登るには京王線の高尾山口から行くと近いのですが、わざと高尾駅で下車して20分くらい余計に歩く人もいます。高尾山だけでなく、高尾駅は周囲の山へ向かう拠点的な駅になっているのですが、高尾駅北口の駅舎は歴史的建造物なのです。
高尾駅は明治34年(1901)、甲武鉄道の「浅川駅」として開業しました。この辺は当時は浅川村と言いましたが、昭和2年(1927)に浅川町となり、昭和34年(1959)年、八王子市に編入されました。
そしてその2年後に浅川駅も「高尾駅」に改称されました。
現在の駅舎は「関東の駅100選」にも選ばれているのですが、昭和2年(1927)の大正天皇の大葬時に造られた新宿御苑仮停車場の建材を利用して建てられた総檜造りの建物です。
現在高尾駅は大規模な改修の計画が進んでいるので、もしかするとあと何年かのうちに現在の駅舎はなくなりますので、高尾にお越しの際には今のうちにじっくりと見ておいてください。なお、新たな駅舎ができる際には、別の場所に移築保存がなされるということを聴いています。
なお、駅を出て直進すると甲州街道の交差点に出ますが、その角にひっそりと小さな神社があります。山王社です。
由緒書きによると、この神社は江戸時代の寛政年間(1789~1801)頃からあるそうで、もともとは助七という村人が山に薪を取りに行ったときに猿の死骸を拾ってきてそれを祭ったのが始まりです。それ以来4月の初申の日を祭日と定め、現在でも毎年祭りが行われているそうです。
参考資料
・『八王子市史 下巻』 八王子市史編さん委員会/編
・『多摩のあゆみ 143号』所収「戦国時代の椚田長井氏」 黒田基樹/著
・『東京都の中世城館』 東京都教育委員会/編
・『八王子探訪シリーズ1 武蔵陵とその周辺』 地域生活文化研究所
・『東京都神社名鑑 下巻』 東京都神社庁
・『高尾・浅川の歴史遺産 十菱駿武氏講演資料』 十菱駿武
・『多摩のあゆみ 143号』所収「戦国時代の椚田長井氏」 黒田基樹/著
・『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』 多摩地区所在古墳確認調査団/編 1995
・『特別展 多摩の古墳』 八王子市郷土資料館/編 2009
・『新八王子市史 資料編1 原始・古代』 八王子市市史編集委員会/編 2013
・『新八王子市史 通史編Ⅰ 原始・古代』 八王子市市史編集委員会/編
・『江戸川の社会史』(松戸市立博物館/編) 2005
・『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁/著