丹後の古代史(1)丹後の弥生墳丘墓

最終更新日:2023年8月24日

 

 AICTでは、2023年4月21日出発と8月18日出発で丹後の現地講座を開催しました。また、今後は、9月5日出発で現地講座が催行決定になっています(9月5日はまだ残席があります)。

 現地講座に参加された方には復習用として、これから参加する方やご自身で行って見ようと思っている方は予習用として、そしてもちろん、古代丹後に興味がある方にもその面白さを楽しんでいただくために、古代の丹後について簡単に述べます。

 ※暦年代の記載に関しては、古めに記述している印象があるかもしれませんが、国立歴史民俗博物館の暦年代を参照しています。異論はあると思いますがご了承ください。

 


日吉ヶ丘・明石墳墓群|京都府与謝野町

 門脇禎二の活動などで「古代丹後王国」という言葉はだいぶ定着した感があります。実際に、王国と呼んでよいほどに丹後が繁栄したことは、その豊富な遺跡や遺物からも納得できます。王墓の発達は列島各地と比べて早い方ですし、4世紀以降には、「日本海三大古墳」あるいは「丹後三大古墳」と呼ばれる蛭子山古墳(145m)、網野銚子山古墳(198m)、神明山古墳(190m)という超大型前方後円墳が造られ、全国的に見ても大型の古墳が築造された地域として著名です。

 古代丹後王国のルーツを墳墓からたどると、弥生時代中期中葉新段階(早く見積もった場合は紀元前3世紀)には、方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)と呼ばれる独特な墳丘墓が造られます。京丹後市立丹後古代の里資料館の展示解説によると、これまで7遺跡から14例見つかっています。方形貼石墓は、丹後半島を東限として、西は出雲まで日本海側に広く分布し、丹後では与謝野町・日吉ヶ丘遺跡(後述)が最古で、大分離れた島根県出雲市の中野美保遺跡2号墓も同じくらい古いため、2か所で同時多発的に似たものが発生した可能性があります。

 この時代は、畿内や東海・関東などの列島各地で方形周溝墓が造られますが、それとの大きな違いはその名称の通り、貼石が施されていることです。方形周溝墓には石は貼りません。しかし、違いはそれだけでなく、通常、数メートルから大きくても十数メートル四方である方形周溝墓に対して、それよりも大きな墳丘規模のものが存在するのです。

 蛭子山古墳のすぐ北側には、国史跡・日吉ヶ丘・明石墳墓群があります。その中で最大のもの(なぜか、正式名称が分からず、「日吉ヶ丘遺跡の方形貼石墓」と呼ばれる)は、長辺32m×短辺20mあり、全国的に見ても卓越しています。

与謝野町立古墳公園・はにわ学習館にて撮影

 同じ貼石をする墓としては、出雲を中心にした四隅突出型墳丘墓が有名ですが、その中でも著名な西谷墳墓群が造られたのはもっと後の時代です。日吉ヶ丘の方形貼石墓と同時代のものを探すと、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が中期前半~中頃でやや古いですが近いです。北墳丘墓の大きさは40m×27mですから、大きさを比較した場合は、北墳丘墓の方が上です。

佐賀県吉野ヶ里町・吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓

 ただし、北墳丘墓との大きな違いは、北墳丘墓では14人の埋葬が認められているのに対し、日吉ヶ丘遺跡の方形貼石墓では、ただ一人の人物のために構築された墓である点が違います。周囲には貼石をしない方形周溝墓を従えるように構築されていることもあり、それを王墓として見ることも可能かもしれませんが、研究者によって見解が分かれると思います。私は個人的には王墓でも良いと思います。 

 参考 ⇒ 京都新聞公式サイト「遺跡編(52)日吉ケ丘遺跡(京都府与謝野町)」

 日吉ヶ丘遺跡の現地は、築造当時の状態に復元されているわけではなく、草ぼうぼうの可能性があって入り込むこともできないかもしれませんが、どのような場所であるのかを見るだけでも価値があると思うので、機会があれば探訪したいです。

 


三坂神社墳墓群|京都府京丹後市

 北近畿には、弥生時代前期から方形台状墓という伝統的な墓制があり、弥生時代後期(紀元1世紀末以降)には方形貼石墓は造られなくなり、方形台状墓の築造が続きます。方形台状墓は、丘を方形に削り出し、階段状にすることによって複数の墓を造ります。

 三坂神社墳墓群は、丹後半島最大の平地である中郡盆地の南端に近い丘陵の上に盆地を見下ろすように築造された台状墓群です。「方形」と呼べるほど裾の部分を整えていませんので、単に台状墓と呼ぶことが多いようです。

 階段状に6基の台状墓が造られ、それぞれ複数の主体部を持ちますが、最上段の3号墓には、14基の主体部があり、肥後弘幸氏は、その中の最古の第10主体部(組合せ式木棺墓)を最初の王墓としています(『シリーズ「遺跡を学ぶ」108 北近畿の弥生王墓 大風呂南墳墓』<肥後弘幸/著>)。

現地説明板を撮影

 台状墓のサイズを決めるのは難しいですが、3号墓の平坦面の大きさは南北14.5m×東西15mです。木棺墓が12基、土器棺墓が2基あります。

三坂神社墳墓群の現況

 三坂神社3号墓の第10主体部や左坂墳墓群(北近畿最大の墳墓群で148基の埋葬主体がある)からは、素環頭大刀(そかんとうたち)という中国で作られた鉄刀が見つかっており、これは全国的に見ても珍しいものです。この時代の丹後の墳墓の特徴は、青いガラスの勾玉・管玉・小玉がたくさん出土することで、それらは被葬者の首や腕や胸を飾ったものです。集落遺跡の函石浜遺跡からは中国新王朝の貨泉(かせん)が出土しており、これらの状況証拠から、丹後の王たちは大陸とのネットワークを持っていたことが分かります。

  


大風呂南墳墓|京都府与謝野町

 弥生時代後期後半(2世紀)に築造された方形台状墓で、阿蘇海を見下ろす丘陵上に造られています。大風呂南墳墓といった場合は、隣り合った1号墓と2号墓を併せた呼び名で、大風呂南墳墓群と呼んだ場合は、近くにある3号墓から10号墓までの8基の方形台状墓を含めます。

 1号墓は東西27m×南北17m、2号墓は東西16m×南北12~14mに復元されています。見つかっているだけでも、1号墓、2号墓それぞれ5基の主体部があります。

 探訪時期が悪かったのか、訪れた時はただの藪でした。

 

 1号墓の巨大な第1主体部では、弥生時代後期後半としては最大級の長辺4.3m×短辺1.3mの刳抜式船底状木棺の痕跡がありました。副葬品は非常に豪華で、中でもカリガラス製のスカイブルーのガラス釧が有名です。同様の成分および形状のものは、中国南部とベトナム北部の漢代の遺跡から見つかっているそうです。ふるさとミュージアム丹後にはレプリカが展示してあります。

ふるさとミュージアム丹後にて撮影

 なお、弥生時代のガラス釧は、全国で4つしか見つかっておらず、いずれも弥生時代後期後葉前後のものです。

 ところで、2世紀は、吉備の楯築墳丘墓や出雲の西谷墳墓群が造られた時期です。墳墓の大きさを基準とした場合、吉備と出雲が日本の二大勢力でした。もちろん北部九州の諸勢力も、大きな墳墓は見つかっていないものの大陸に近いというのは大きなアドバンテージですから、相変わらず大きな力を持っていたと考えられます。そんな時代に、丹後でも一つの政治勢力が誕生しており、日本海側では越前でも小羽山30号墓が築造され、王の発生が見られます。そろそろ邪馬台国の時代が近くなったこの頃、列島各地では次の時代への準備が確実に進行していました。

 

39×36
赤坂今井墳墓|京都府京丹後市

 弥生時代の実年代に関しては、現在は研究者でかなり考え方に隔たりがあるため、確実なことは言えませんが、楯築墳丘墓や西谷墳墓群と同かやや遅れて、丹波勢力もそれらに負けない規模の墳丘墓を築造しました。それが赤坂今井墳丘墓です。

 道路側から見上げると墳丘墓であることが分かりづらいですが、立派な説明板が設定してるためこの上に墳丘墓があることが分かります。

 
 

 墳丘に登ることができますが、目に見える何かがあるわけではありません。

 

 墳頂からの眺望。タイミングが良ければ、京都丹後鉄道が見られます。

 
 

 現在の地図で見ると、なんでこんな辺鄙な場所に「王墓」を作ったのだろうかと思いますが、この場所は当時から幹線道路であったと思われます。そして、おそらくですが、ここから北側がいよいよ丹波王国の本貫地になります。そのため、赤坂今井墳丘墓は、丹波王国の内部と外部を分ける境界の場所に築造され、道行く人びとにその威容を示して、王国の境界であることを知らしめる意味があったのではないかと考えます。

 

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