相模の古墳時代史

最終更新日:2023年8月10日

 まずは、古墳編年を見てみましょう。下図は、『武蔵と相模の古墳』(広瀬和雄・池上悟/編)所収の古墳時代前・中期の編年に墳丘長を追記したものです。

 

 実年代に関しては、異論がある場合は適宜説明します。また、古代相模国と現代の神奈川県の領域は少し違って、川崎市は武蔵国ですし、横浜市の大半も武蔵国に入るため、その地域の古墳は含まれていません。

 パッと見て分かると思いますが、それほど大きな前方後円墳がありませんね。

 最大でも長柄桜山の1号墳や2号墳で100mありません。この編年では後期と終末期がありませんが、あとで示す通り、その時期も大型墳は築造されません。比較的大型の古墳に関しては、中期初頭の地頭山古墳で終わりです。

 また、中期になって帆立貝形古墳の築造が見受けられません。これは何故でしょうか。

 では、各時期ごとに見ていくとしましょう。

 

古墳時代前期

 相模の前期古墳を語る上では、海老名市の秋葉山古墳が主役の座として登場します。上図では、前方後方墳の4号墳の築造時期が4世紀初頭になっていますが、前方後円墳の3号墳との築造順は不明です。私は前方後方墳である4号墳の方が少しだけ古いのではないかと考えていますが、「ほぼ同じ頃」としておくと無難で、4号墳と3号墳は、3世半ばまで繰り上がると考えています。

 秋葉山3号墳は、千葉県市原市の神門古墳群と並んで、南関東における初期前方後円墳として史的に重要です。

 秋葉山古墳群については、こちらにまとめてあります。

 神門古墳群については、こちらにまとめてあります。

 

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真土(しんど)大塚山古墳|平塚市

 秋葉山古墳群は相模川左岸ですが、右岸を見てみると、平塚市に真土大塚山古墳がありました。これが非常に重要な古墳で、三角縁神獣鏡が出土した古墳として著名ですが、ほとんどまともな調査がなされないまま完全破壊されました。

椿井大塚山古墳出土・陳是作四神ニ獣鏡のレプリカ(アスピアやましろにて撮影)

 三角縁神獣鏡は、椿井大塚山古墳出土鏡と同范鏡で、他に岡山市備前車塚古墳(前方後方墳・47m)の2面と兵庫県たつの市の権現山51号墳(前方後方墳・42.7m)の1面が知られています。

 真土大塚山古墳は、主体部の詳細はおろか、墳丘の大きさや墳形さえも分からないのです。神奈川県を代表する前期古墳といえますので、非常に残念ですが今更仕方がないですね。墳形に関しては、平塚市博物館によると前方後方墳説を採る研究者が多いです。築造時期は4世紀ですが、出土した遺物に時間差が認められ埋葬時期は複数回であったことが分かっています。

 そして、紛らわしいこととして、この古墳が実際にあった場所から少し離れた場所に「模擬墳丘」があるのです。もしかすると、これを見て本物の古墳だと思う方もいそうですが、近年造られたものです。

真土大塚古墳と誤解されそうな模擬墳丘

 古墳があった場所ではなく、しかも墳形ももちろん推定です。たまに模擬天守がありますが、それの古代版ですね。でも、これだけ立派なものを造ったということは、きっと地元の方々の熱い思いが込められていると思うので、これはこれで大事にしなければならないと思います。

 いっそのこと地目変更で墓地にして(できるのかな?)、どなたかを葬ると最新型の古墳になるので、それを期待したいです。

 

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塚越古墳|平塚市

 他に前方後方墳を探すと、同じく平塚市内に墳丘長48mの塚越古墳があります。

塚越古墳

 相模国内には墳丘が残っている前方後方墳は数えるほどしかありませんので、大変貴重な存在です。

 

 

 

平塚市博物館の展示パネルを撮影

 主体部は粘土槨で、舟形木棺を納めていました。出土遺物はあまりパッとしないようで、碧玉や滑石の管玉、それに鉄製工具が見つかった程度のようです。人骨や朱も見つかったようですが詳しいことは分かりません。単に私が写真を撮り忘れただけかもしれませんが、平塚市博物館には遺物の展示は無かったような気がします。

 

70+
愛甲大塚古墳|厚木市

 塚越古墳と同じ4世紀中頃には、前方後円墳の愛甲大塚古墳が築造されます。現在は前方部はなくなっており、墳丘長は70m以上とされます。

愛甲大塚古墳の後円部

 説明板もなにもないため、本当にこれが古墳なのか躊躇しましたが、おそらくこれが残存している後円部だと思います。モシャ子ちゃんを通り越してジャングル化しているため中には入れません。

 


長柄桜山古墳群|逗子市・葉山町

 相模国内で、遺跡としての面白さや史的重要性などを鑑みて、秋葉山古墳群と双璧をなすと考える古墳群が長柄桜山古墳群です。

 三浦半島にある長柄桜山古墳群は2基の大型前方後円墳からなります。尾根上に築造されており、その尾根はたまたま逗子市と葉山町の境です。行政的に見るとちょっと面倒くさい存在ですが、そんなことを言ったら古墳が可哀そうだ。

現地説明板を撮影

 少し前までは、古墳というものはそれを築造する経済基盤があったればこそ造られると考えられていました。古墳時代の経済基盤といえば農業という考えがあって、農業生産力の無い場所には大型古墳は造られないと思われていたのです。

 ところが、長柄桜山古墳群の発見はその常識を覆しました。というのは、これらの古墳は海に臨む丘の上に築造され、周辺にはまったく農地を造る余地がないからです。今ではこういうジャンルの古墳は、海浜型と呼ばれます。

 

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長柄桜山1号墳

 長柄桜山古墳はちょっとアクセスがしづらい場所にあり、1号墳の近くにある住宅までバスで行きます。そこから少し住宅街を歩いた後、山に入っていくのですが、まあまあ傾斜が急です。途中、横須賀方面の海が望めます。上掲した現地説明板を見ていただければ行き方が分かると思います。

 2021年6月に訪れた時は絶賛整備中でしたが、今はもうオープンしています。

絶賛整備中(2021年6月) 
 

 

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長柄桜山2号墳

 1号墳から尾根伝いに少し歩いて行くと2号墳に着きます。道は全然大変ではありません。

 
 

 現状では古墳の周囲は木々に覆われているため、海を臨める場所は少ないですが、2号墳では1号墳とは反対側の江の島が望めます。

 問題は降りるときですが、元来た道を戻るのは癪だからといって反対側に降りようとするとヤバいです。以前は麓に逗子市の郷土資料館があったため道は整備されていたのですが、現状はコンディションが悪い場所もあって、久しぶりに死にそうな思いをして下山しました。

 あ、「死にそうな」というのは大袈裟でした。まあまあ大変だっただけで、かすり傷ひとつ負いませんでしたが、若干服が汚れました(ただしこれは2021年6月の探訪時のことですので、今はどうなっているか分かりません)。念のため、山歩きができる人に連れて行ってもらった方がいいと思います。 

 

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小金塚古墳|伊勢原市

 住宅街の中にひっそりと残存する大型円墳です。

 

 

65 湮滅
ホウダイヤマ古墳|厚木市

 素晴らしいロケーションの古墳です。ただし、墳丘は完全に隠滅しています。

 
 

 この辺りに来ると、大山が聖なる山であることが良く分かりますね。

 
 

 

古墳時代中期

 中期は、畿内や吉備・関東地方の群馬県・茨城県・千葉県ではその地方最大の古墳が築造される時期で、大型古墳の時代というイメージがあるかもしれませんが、地域によってはその傾向が伺えない場所もあります。相模もその一つです。相模近隣の諸国でも似た傾向にあるので、周辺の編年図を見てみましょう。まずは、駿河東部と伊豆です。

沼津市文化財センターの展示パネルを撮影

 当該地域でも前期と比べると中期の古墳造営が寂しいことが分かります。

 つづいて山梨県はどうでしょうか。

山梨県立考古博物館の展示パネルを撮影

 山梨県でも同様な傾向にあります。

 武蔵南部を見てみましょう。

『南武蔵の古墳群とその背景を探る』(日本考古学協会/編)より転載

 上の図では北武蔵と上毛野は無視してください。中期には、その初めに82mの帆立貝形古墳・野毛大塚古墳が築造されますが、その後は規模が縮小し、帆立貝形あるいは造出付き円墳が築造されます。

 このように相模周辺の駿河東部・伊豆・甲斐・武蔵南部は、単純に墳丘の大きさだけを見た場合、似た傾向にあることが分かります。

 古墳の築造は各地域で勝手にやってよいものではなく、中央からの統制によって築造されると考古学者は考えています。そして、古墳の大きさは、その被葬者を中央がいかに重要に思っているかの現れであると考えます。

 3世紀半ばに発足したヤマト王権は、列島各地へ影響を及ぼし、4世紀後半までには今の宮城県北部までその版図としました。しかし、版図といっても、そのレベルは大きく2段階に分けることができたと考えます。

 単純化して説明すると、その一つは直轄地です。奈良盆地や大阪平野、京都盆地などは早くから直轄化できていた場所であると考えます。もう一つは、間接支配地です。江戸時代で言うところの外様大名的な扱いを受ける地域です。

 間接支配地には、国主(くにぬし)と呼ぶ在地の有力者が自立しており(実際に国主と呼ばれたかどうかを史料上で確認することはできず、この呼び方は私の考え)、王権はその地域の住民に直接命じたり、税を取ったりできず、統治はすべては国主に委ねられています。王権は国主の力が必要な時は、彼らにお願いして手伝ってもらうという形態をとっていたと考えます。これは、戦国時代における、戦国大名と国衆の関係に似ていると考えます。

 私の仮説では、大型前方後円墳の被葬者は、中央から派遣されてその地の支配を命じられた王族か、あるいは在地の国主です。

 相模や駿河東部・伊豆・甲斐・武蔵南部では、4世紀までは地に国主が割拠していたのが、応神天皇以降の施策によってヤマト王権の直轄地になり、それによってその地の有力者はいわばヤマト王権の地方公務員となったと考えます。地方公務員化した場合は、大きな古墳は造らないと考えています。

 ただし、この説に関しては今後も検証が必要なので、今のところは仮説に留めているのです。

 

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地頭山古墳|厚木市

 本来であれば道路建設のために破壊される運命にありましたが、道路は古墳の下にトンネルとして構築しました。全国を見渡すとこういうケースはたまにありますが、そのとき地頭山古墳は史跡指定がされていなかったのです。それにもかかわらず保存をしたというのは、地元民の熱意もそうですが、自治体や開発業者みんなの気持ちの表れで、賞賛すべきことだと思います。なお、未だ史跡指定はされていないようです。

 
 

 

古墳時代後期・終末期

『総研大文化科学研究第7号』所収「6・7世紀における相模地域の動態」(柏木善治/著)より転載

 

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二子塚古墳|秦野市

 編年図の師長の列を見ると、図上で唯一の前方後円墳が二子塚古墳です。現在のところ、秦野市で見つかった前方後円墳はこの二子塚古墳のみです。

 

 写真で分かる通り綺麗になっていますが、団地の一画の崖の上にあり、周辺はフェンスで囲まれており墳丘内に立ち入ることはできません。

 

 説明板には、主体部は未発掘とありますが、はだの歴史博物館のパネル展示を見ると、説明板を設置した後に主体部を発掘調査したことが分かります。貴重な遺物としては、銀装圭頭大刀が出土していますが、はだの歴史博物館では展示していません。秦野市にとっては唯一の前方後円墳ということもあり、古墳も遺物も「箱入り娘」のように大事にされているのですね。

はだの歴史博物館のパネル展示を撮影
はだの歴史博物館のパネル展示を撮影

 


桜土手古墳群|秦野市

 6C末から7Cまで築造され、8C初まで追葬が行われた古墳群で、35基の円墳が見つかっています。それらのうち、古墳公園内に6基、日産車体内に5基、島津製作所内に1基が保存され、公園内には、古墳群最大の1号墳(28m)が移築復元されています。

 

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桜土手1号墳 移築復元

 

 横穴式石室は南側に開口しています。

 

 相模の横穴式石室は、切石積みは少数派で、首長墓級と考えられる1号墳もほとんど自然石で積んだような側壁になっており、持ち送りで構築しています。奥壁の鏡石は手が込んでいます。

 

 一見するとこの復元は何だろう?と思うでしょう。

 

 1号墳は盛土する際に内部にも石積みをしているのです。その内部の石積みを表しているわけですが、こういう構築方法は大変珍しい。こんなに丁寧に石を積んでも、最終的には盛土の中になってしまうので外からは見えなくなります。

 以下、詳しいことは不明ですが、公園内の円墳群を紹介します。

 

14.5
桜土手26号墳

 径14.5mの円墳です。

 

 

15.6
桜土手28号墳

 径15.6mの円墳です。

 

 

15.6
桜土手29号墳

 径15.6mの円墳で、葺石が施されていたようです。

 

 

22.8
桜土手30号墳

 径22.8mの円墳です。

 

11.2
桜土手31号墳

 径11.2mの円墳です。

 

 

14.5
桜土手32号墳

 径14.5mの円墳です。

 

 こう見ていくと、1号墳は径28mとはいえ、他者よりも優位な古墳であることが分かると思います。

 

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