恒川官衙遺跡の次は飯田市考古博物館を訪れましたが、ひとまずレポートを割愛して次の探訪地について述べます。
74.5
飯沼天神塚(雲彩寺)古墳
充実した展示の飯田市考古博物館につづいて、雲彩寺古墳へ行きます。
雲彩寺古墳へ行くには、その名の通り雲彩寺を目指せばよいはずですが、良くわからず丘を登ってしまいました。
あ、でもちょうど古墳を見下ろせます。
対向車が来たらアウトな細い道ですが、皆で一瞬で写真撮影。
雲彩寺の場所は分かったので、国道沿いにあると思われるお寺の入口を探します。
入口は見えたけど到達難易度が高い!
あそこまでどうやって行くんだ?
仕方がないので近くに路駐して歩いて向かいます。
近づくと駐車場もちゃんとあります。
駐車場に来てみるとここへの入り口が分かるのですが、初めて来た人は到達できないかもしれない。
立派な山門がありますよ。
元々は飯田城で使われていた門なんですね。
古墳の説明板もあります。
随分と細長い石室ですね。
両袖式の玄室の平面形が崩れているのは後世の崩落でしょう。
13mもある長い石室ですが、ここの面白いところは本来の石室入口が塞がれているのに、玄室の奥壁が破壊されていて、そこから入れるところです。
古墳自体は、6世紀前半に築造された74.5mの前方後円墳で、飯田古墳群の中では本日の最初に訪れた高岡1号墳と並んで最大級になります。
両者の築造時期はともに6世紀前半ですから、いわゆる首長墓系列を考えると、それぞれ別系の王の墓であったと考えることもできるかもしれません。ただし、この辺は私もまだ十分に考察ができてないのでそれ以上のことは言えません。
では、石室を見学したいと思うので、お寺の呼び鈴を鳴らします。
奥様がとても丁寧に対応してくださり、資料までくださいました。
石室の場所を案内してくださり、あとはご自由にご覧くださいとのことでしたのでさっそく石室を見学させていただきます。
墳丘の土を削って行って、玄室の奥壁まで到達したら今度はその奥壁を取っ払ってしまったわけですね。
裏口からごめんください。
玄門が見えました。
説明板の図で見た通り、玄室の奥から見て右側の石がかなり張り出しています。
天井石も崩落しかかってずれているので、後世に崩壊してしまったようです。
玄門から見える羨道はやたら天井が低くて幅が狭いです。
なんだこれ!
関東地方で6世紀初頭に構築された初期の横穴式石室を探した場合、群馬県前橋市にある大室古墳群の前二子山古墳や総社古墳群の王山古墳、そして安中市の簗瀬二子塚古墳が著名です。それらの共通する特徴は、雲彩寺古墳のように石室が細長いことです。
それら3基のうち実際に入ったことがあるのは前二子山古墳だけですが、細くても普通に歩けます。ところが、王山古墳は墳丘地表面に石室の幅が石で表示されているのですが、異様なほど狭く、平面的なイメージとしては雲彩寺古墳に似ていると思います。
王山古墳は、前方後円墳ですが積石塚の要素が濃厚で、被葬者は渡来系と推測できます。飯田古墳群でも中期後半以降に大型古墳が築造される契機になったのは、馬の生産を担った渡来系の人びとの入部によると考えられ、何か関連がありそうな気がして面白いです。
ただ、雲彩寺古墳石室の特徴は、異様に羨道の天井が低いところですね。
低いし狭いしで、私は奥まで行く気にはなりませんが、こんな状態だと遺体を玄室まで運ぶのは難儀したんじゃないでしょうか。もちろん、棺に入れた状態で運ぶことはできないと思います(なお、基本的には古墳時代の棺は木棺でも石棺でも、最初から石室内に設置していたケースが多かったのではないかと思います)。
後ろを振り返ると本来は奥壁がある場所が開いていて変な感じがします。
しかし面白いものが見られて良かった!
墳丘は檀家さんのお墓だから登らなくてもいいですね。
なお、雲彩寺は白雉山と号する曹洞宗の寺で、寺伝によると白雉年間(650~54年)に開創されたとします。
雲彩寺さん、どうもありがとうございました。
ここでも古墳愛を感じることができました。
そろそろ11時になりますので、次の箇所を見たらランチにしようと思います。
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