尾ノ崎遺跡|和歌山県御坊市【AICT開催レポート】第113次現地講座「紀氏の奥津城・岩橋千塚古墳群と紀ノ川流域および泉南の古代史」


尾ノ崎遺跡

 2023年11月3日(金)から3日間の行程で開催したAICTの第113次現地講座の3日目は、御坊市内の探訪からスタートです。

 机上で和歌山県内の遺跡を調べていると紀ノ川流域が目立つのですが、現地講座の企画段階で違う河川流域の遺跡も見てみたいと思って調査したところ、日高川流域の御坊市から「何か」を感じました。

 御坊市の遺跡を調べると、以前読んだ『方形周溝墓研究の今』に市内の尾ノ崎遺跡にある方形周溝墓の復元が素晴らしいと書いてあったのを思い出したので探訪地は御坊市で決まりです。

 というわけで、御坊市には初めて来ました。

 当初は歴史民俗資料館からスタートしようと思ったのですが、少し早く着いてしまったので先に尾ノ崎遺跡から見学します。

 遺跡は関西電力の敷地に隣接(というか、敷地内?)にあります。駐車場に着いたのですが、遺跡や公園の表示もないし、すぐ横は関西電力の正門だし、本当にここに停めて良いのか分かりません。

 そのため、少し離れた場所に路駐して向かいます。

 ※註:結果的にはそこの駐車場で良かったようですが、そうであるのなら標識ひとつくらいは立てて欲しいものです。

 公園として整備されてはいますが、だいぶ寂れてしまっています。

 荒れた感じの園路を歩いて行くと、廃屋のような竪穴住居の復元が現れました。

 もしかして残念な遺跡・・・?

 おおーっ!

 素晴らしい!

 これだこれ。

 方形周溝墓の復元です。

 説明板がありますが、滅亡寸前です。

 頑張って解読しましょう。

 すなわちこうです。

 「18基の方形周溝墓のうち、尾ノ崎先端で一群をなしていた17基(1~17号)の造営者は、5家族(造営主体Ⅰ~Ⅴ)で構成された氏族が想定され、各家族の家長の死を契機にして1・2世代から4・5代世代の永きにわたって順次この地に造営されたものと考えられます。
 この氏族は、周溝を共有し合う血縁的家族(造営主体Ⅰ~Ⅲ)を核として、擬制的関係で結ばれた非血縁的家族(造営主体Ⅳ・Ⅴ)からなり、優勢な家族(造営主体Ⅰ)の家長は、氏の長としてこの氏族を統率して、大和朝廷との政治的関係も持っていたと考えられます。」

 方形周溝墓の被葬者像についてこれくらい具体的に説明した説明板はなかなか無いですね。素晴らしいです。

 ※註:後に出てくる説明板に書いてありますが、18基見つかった方形周溝墓のうち、ここには11基が保存されており、下図でいうところの西側の一群の部分です。

 説明板に書いてあった通り、周溝を共有している一群がありますね。

 方形周溝墓の特徴の一つがそれで、例えば北部九州の甕棺墓でも家族は土壙を繋げるケースがあることから、周溝を共有している者同士は血縁関係にあったと推測されています。

 湮滅してしまっていますが、14号は前方後方形をなしており、方形周溝墓と古墳(前方後方墳)の間のような存在です。

 また、図中には各主体部の場所も描かれていますが、この場所は岬の先端であったことで開墾を免れており、方形周溝墓にしては珍しく、墳丘の残りが良く、そのお陰で主体部も見つかっているのです。

 だから被葬者像も具体的に想定できるわけですね。

 8号の前に来ました。

 いいねえ。

 崖っぷちの11号の墳丘はほとんど残っていません。

 9号周溝墓。

 円形に見えるけど方形ですよ。

 すぐ隣は海。

 ここに関西電力の発電所ができるとき、尾ノ崎遺跡は破壊される予定だったのですが、遺跡の貴重さを理解した関西電力が設計変更をしてくれたおかげで残ることになったそうです。

 海の水も綺麗ですよ。

 関西電力の海側の敷地に行くための橋が架かっているため、場所によっては頭をぶつけそうになりますが、こうやって残してくれたのはとてもありがたいことですね。

 この3号も展示に力が入っている。

 これは組合式木棺のイメージで、周囲に石を並べています。

 各周溝墓の主体部について詳しい説明があります。

 同じ場所にそれほど変わらない時期に作っているのに様々な埋葬方式がありますね。

 4号や11号は2基の主体部があったようですが、ここの場合は、基本的に単葬が多いようです。

 方形周溝墓の主体部の数は、一般的には時間が経つにつれて複数人埋葬から単葬に変わってきます。個人の権力が強くなって身分の差がはっきりしてくることの現れでしょう。

 おや、歩く順番が間違っていたようで、最後に詳しい説明板に出くわしました。

 史跡指定はされていないのかなあ?

 方形周溝墓というと弥生時代の墓のイメージが強いですが、説明板に書いてある通り、尾ノ崎遺跡の方形周溝墓は古墳時代前期の築造です。

 弥生時代の集落だった時代は、ここに住んでいた人びとは、製塩や漁労で生計を立てていたようです。

 古墳時代になると墓域になったわけですが、「公開シンポジウム 方形周溝墓から古墳へ」の発表資料集によると、1号の供献ピットから出土した土器類が庄内式新段階から布留式初頭に位置付けられるそうなので、築造開始時期は微妙に弥生末期の3世紀半ばくらいまで遡ります。

 各周溝墓のスペックまでちゃんと書いてある。

 方形周溝墓への熱い思いが伝わってきて良いですね。

 方形周溝墓と言えども、古墳時代の築造のものは古墳とそん色がないような副葬品が納められることがあり、ここでも銅鏡の副葬が認められますが、銅鏡なんて普通の人は持てませんからね。

 列島各地で古墳時代になってからも方形周溝墓を造り続ける地域が散見できますが、その被葬者はムラの有力者ではあっても、古墳を造営するほどの力はない人物です。

 ただし、12号は一辺が16mもあるので、まあまあ大きい部類ですし、既述した前方後方形の14号の全長は19.6mで、本当に古墳までもうちょい!惜しかった!

 一方、古墳といわれるものであっても小形の方墳は見た目は方形周溝墓と変わりなく、学者の間でも方形周溝墓と古墳の違いをどう解釈するかは決まりがなく、他にも「低墳丘墓」というカテゴリーを設けている研究者もいます。

 この辺のニュアンスは古代史をやり始めた人には分かりにくいところなのですが、慣れてくるとそれはそれで学者同士で用語の使い方の統一が取れていないことにイライラしてきたります。

 でもこういうことは考古学全般に言えることですから怒っても仕方がないですね。

 さて、初めに竪穴住居跡を見たときは心配になりましたが、尾ノ崎遺跡は方形周溝墓の復元整備の良さでは国内でもトップクラスだと思います。

 参加者の方々にも喜んでいただけて良かったし、全国のホーケーシューコーバーにぜひ来てほしい。

 では、御坊市歴史民俗資料館へ行きましょう。



 

 

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