昼飯大塚古墳|岐阜県大垣市 ~岐阜県最大の前方後円墳~

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昼飯車塚古墳

 勝山から家康の進軍ルートを辿り、西へ向かいます。

 正確にはいったん北側の旧中山道に出たほうがいいと思いますが、古墳を見ながら少しショートカットしたいので現代の道筋を行きます。

 少し歩いて振り返ると勝山が。

 新興住宅地が少し集まった路地に入ると、昼飯(ひるい)車塚公園がありました。

 公園の中には古墳が!

 公園の名の通り、昼飯車塚古墳です。

 一見すると石室に入れそうな感じがするのですが、墳丘の残骸の上に巨石が並んでいるように見えるだけです。

 でもちゃんと説明板がありますし、大垣市の史跡として指定されていますよ。

 終末期古墳で、20mの円墳あるいは方墳ということですが、車塚というネーミングからは前方後円墳を想像してしまいますね。

 石室の石は金生山の石灰岩です。

 なお、昼飯車塚古墳のように児童公園にある古墳は、「児童公園墳(じどうこうえんぷん)」と呼びます。

 

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昼飯大塚古墳

 児童公園墳の昼飯(ひるい)車塚古墳を出て5分くらい歩くと、あの子が現れました。

 昼飯大塚古墳です。

 今日も美しいですね。

 昼飯大塚古墳に来たのは3度目ですが、過去は車で来たのでこうして歩いてくると不思議な感じがします。

 でも、歩いた方が位置をよく理解できるので良いです。

 昼飯大塚古墳は、4世紀末ごろの中期初頭に築造された墳丘長150mを誇る岐阜県最大の前方後円墳です。

 立派な模型が展示してあって、これを見ると分かる通り、3段築成で葺石を施し、各段には円筒埴輪を立て並べた、いかにも前方後円墳!といった美しいフォルムをしています。かなり「ヤマト的」ですね。

 周溝は、墳丘相似形です。ちょうどこの頃から同期の津堂城山古墳のように造出+水辺の祭祀が始まりますが、昼飯大塚ではまだ造出の築造はないようです。

 墳丘は概ね南西を向いており、墳丘のすぐ北側に旧中山道が走ります。

 旧中山道は中世の頃からメイン街道だったと思いますが、日本中の道を探っていると、中・近世の街道は古墳を意識した走り方になっていることが多いため、もしかすると、すでに古墳時代には道があったのかもしれません。

 さ、時刻はすでに9時半を回っていますが、ここで遅めの朝飯を摂ろうと思います。

 私の夢は、昼飯大塚古墳で昼飯を食べることなのですが、そう易々と夢が叶うなんてことはありませんね。

 濃尾勢力のコンビニには、味噌カツのおにぎりが売っていますよ。

 意外とからしが効いていてグッド。

 墳丘は先ほど模型でも確認してもらった通り3段築成なのですが、整備の都合で3段築成で復元されているのは、敷地の一画のみです。

 後円部の東側に周溝を含めて復元されている「復元ゾーン」と呼ばれる場所があるのですが、この部分でのみ3段築成を見ることができます。

 そして、この部分は葺石も復元されており、列島各地の古墳と同じで、一定間隔に大きめの石を縦に並べています。考古学者が築造時の担当範囲と考えているものですね。

 では、墳丘に登ります。

 後円部の墳頂から西側を眺めてみましょう。

 山脈が低くなっている場所が関ヶ原のあたりです。

 その左手の山が南宮山です。

 関ヶ原合戦の時は南宮山の尾根上高所に西軍の毛利秀元(元就の四男・穂井田元清の次男)が布陣し、そこより低い位置から麓にかけては、南(左)から長曾我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊、吉川広家が布陣しました。

 家康が勝山から西に進軍する際、これらの部隊は迎撃せずに動きませんでした。また、合戦が始まった頃には、これらの部隊は家康勢を背後から攻撃することが可能な位置になったのですが、動きませんでした。

 若い頃に読んだ本では、最も好戦的な盛親が動こうとしても、他の部隊が動かなかったため動けなかったと書いてありました。盛親は秀元よりも低い南側の尾根上にいるため、最も優勢な秀元軍が北側から山をかけ下って突撃すれば、それに続いて盛親は戦闘に参加することができたでしょう。

 しかし秀元は動かなかった。秀元が動かなかったのは、北側麓に布陣している吉川広家(元春の三男)がすでに東軍に内通しており、秀元の動きを封じたからだといわれています。

 つまり、広家が動かないと秀元は動けない。秀元が動かないと尾根伝いに移動しようと考えている盛親は動けないわけです。また、麓に布陣している正家や恵瓊も広家が留まっていると戦場に直進できません(これらの西軍に備えるために、家康は浅野幸長や池田輝政を布陣させていますが、それについては後述します)。

 戦い終結後、結果的には西軍の総大将に祭り上げられた毛利家の惣領輝元は大きく所領を減らされ、秀元も改易になったのですが、秀元は輝元から長門国豊浦郡と厚狭郡の6万石を分けられ、櫛崎城に居城し長府藩主として存続しました。なお、吉川広家も岩国に3万石をもらいましたが、萩藩の家臣扱いで独立した藩としては認められませんでした。

 関ヶ原の戦いでの広家の動きは、家康にとっては非常に助かったはずですが、広家のその後は不遇に見えます。ただし、岩国領主として現在の岩国の町の礎を築いたのは広家です。

 ところで、盛親の陣地からは関ヶ原の主戦場は見えないため、麓に降りて迂回して攻めようとしても既述した通り、恵瓊や正家が渋滞を起こしているため動けなかったでしょう。個人的には盛親の戦いが見たかった。

 その盛親の陣地から南側に延びる尾根の先端は象鼻山(ぞうびざん)と呼ばれています。

 ここから見てもその名の通り象の鼻のように見えますが、象鼻山には、濃尾で最古級の古墳を含む象鼻山古墳群があります。

 象鼻山古墳群で最古の3号墳は方墳ですが頂部にはなくて、頂部には少し時期が下る前方後方墳の1号墳(墳丘長40.1m)があります。

 象鼻山古墳群にはAICTで2021年10月22日に訪れているのですが、その時は関ヶ原合戦のことは頭に無くて、まさか盛親の陣地が古墳群から尾根伝いで歩いて行ける距離にあるとは思っても見ませんでした。

 ということは、盛親が陣を敷くために登山した際には、もしかしたら象鼻山古墳群の合間を縫って登ったかもしれません。もし、盛親が古墳マニアだったら後に大阪で寺小屋を開いたときにこの時の経験を元に古代濃尾勢力の話をした、なんてことは無いですね。

 今度は、昼飯大塚墳頂から東側を見てみましょう。

 先ほど訪れた勝山が見えます。

 勝山に家康の本陣があった際には、その周りに諸将が布陣したわけですが、その際に昼飯大塚古墳が使われたかは分かりません。地元の古老とかに聴きこみすれば分かるかもしれません。

 ただし、『関ヶ原の役』(旧参謀本部/編纂)に掲載されている布陣の図を見ると、昼飯村の「大塚」に福島正則が布陣しています。

 通常は古墳みたいな小山は最大限に利用するので、もしかすると正則はこの昼飯大塚古墳に登ったのかな?なんて思います。

 もし正則が古墳マニアだったら・・・いや、あの武骨な正則は多分古墳とかは好きじゃないと思いますよ。でも、人は見かけによらないので即断は控えます。

 話を古墳に戻します。

 後円部墳頂には主体部の位置が分かるような表示はないのですが、説明板が設置されています。

 主体部は3基確認されており、一つの墓壙の中に石槨(説明板では竪穴式石室と表記=北棺)と粘土槨(南棺)が併行に並び、棺は木棺で、それに直交する形で木棺(西棺)が直葬されていました。初葬は石槨です。

 前方部から後円部を見ます。

 北側には石灰を掘り出して異様な姿になった山が見えます。

 「岐阜のピラミッド」も見えますね。

 では、墳丘を降りましょう。

 公園敷地内には東屋があるのですが、そこにも説明板があります。

 私の中では最近は群集墳への興味が湧き出ているのですが、この図を見ると北側の山には65基からなる東中尾古墳群や53基からなる西中尾古墳群などがあって非常に気になります。

 今後の課題ですな。

 なお、説明板にも記されている通り、大垣市歴史民俗資料館には昼飯大塚古墳の出土遺物が展示されています。

 前方部墳端近くからくびれ部分を狙います。

 ただしこの角度から見られる復元は、既述した通り最上段と2段目です。この部分には最下段は復元されていません。

 なお、夕方の西陽がさしているときはこんな雰囲気になりますよ。

 

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大塚1号墳

 なお、この日は訪れませんでしたが、近くには大塚1号墳があります。

 位置的には昼飯大塚古墳の陪塚のように見えるのですが、築造時期は時代が下った5世紀後半です。

 説明板の図を見ると方墳ですね。

 それでは、関ヶ原へ向かって再び進軍を開始します。

 

関連楽曲

『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章

この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。

 


 

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